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小トリップ日本一、近鉄特急‐1452‐

 日曜日の朝6時半、「さあ出掛けようか」と娘を起こすと、「頭と喉が痛いからやめとく」と。

 妻、長男が風邪気味で、2人で鳥羽へ行くことにしていたのですが、体調不良なら仕方ありません。

 予約した席をキャンセルしました。

 しかし、8時頃に起きて来たあと、それ程辛そうでもなく……

 で、結局10時からの出発となりました。

 鳥羽までは、上本町から近鉄特急で2時間。

 近鉄電車は、JRを除けば路線の長さ日本一です。

 地下鉄に乗っている間に、スマホであたふたと再度予約しました。

 便利と言えば便利な世の中になりました。

 奈良盆地を横切り、伊賀上野、三重の高原地帯を抜ける景色は、小旅行と呼ぶにぴったりです。

 途中、沈下橋がありました。

 四万十川まで行かずとも見れることに、軽い感動を覚えます。

 「鳥羽水族館」は鳥羽駅から歩いて7分程。

 ミキモト真珠島を越えたところにあります。

 キャッチフレーズは「飼育種類数 日本一」。

 確かに種類は凄いものがありました。

 研究室のような雰囲気も、最近はやりのモダン系とは対照的。

 私は好感がもてます。

 ただ、「詰め込み過ぎ感」は正直否めませんが。

 人魚と間違われたと言われるジュゴン。

 胸ビレの感じが、手のようにも見えます。

 日本で飼育されているのはここだけです。

 ラッコブームは、この館から火がついたはず。

 セイウチ笑(ショー)は、なかなかに笑わせてもらいました。

 触らせてくれるのですが「思っている以上に臭いので、しっかり手を洗って下さい」と飼育員。

 笑いをとっていたのですが、若干可哀想かなとも。

 出発が遅くなったので、現地滞在は約3時間。

 帰りの電車は、ビスタカーの2階席を取りました。

 近鉄特急は帰りが混むので、予約しておく方が無難です。

 電車での行き帰りが合計5時間。

 どちらかと言えば、こちらがメインなのです。

 「車は本が読めないので、電車なら出掛けてもいい」というのが娘の意見。

 持ってきた本、4冊を全て読了しました。

 ときどき近鉄特急に乗るのですが、電車マニアでなくとも、なかなか個性的な車両が多いと分かります。

 私たちが乗ってきた「伊勢志摩ライナー」の他に、「さくらライナー」、観光特急「しまかぜ」という、豪華特急もあるようです。

 プロ野球のオーナー企業は、ひと時代前なら、鉄道会社が大多数でした。

 しかし、IT企業が増えてきたことに時代の流れを感じます。

 映画監督の井筒和幸さんがそれらを指して「虚業」としたことに、堀江貴文さんが反論したという記事を読みました。

 「ITを虚業と馬鹿にするな」という意見はもっともです。しかし、実体験は全てに勝るという思いもあります。

 長男が、スマホのゲームから離れられないという現実をみて、危機感も覚えるのです。

 機器が高性能になり、表現も多彩になっていきます。適度な困難と、適度な達成感を配置してあったとするなら、電車旅の方が面白いと納得させるのはかなり困難です。

 時間がある時、あの手、この手で誘いますが、年をおうごとに、難しくなっていくことを実感します。

 昼寝が気持ちよかった。車窓からの景色が良かった。駅弁が美味しかった。思った以上にセイウチは臭かった。

 何でも良いので、出掛けてみたいと思える情景を思い浮かべさせられるか。

 子供と私の知恵比べは続くのです。

 「ことりっぷ」は、 働く女性たちが週末に行く、2泊3日の小さな旅を提案するガイドブックです。

 我が家は日帰りなので、小トリップといったところか。

 近鉄特急を勝手に小トリップ日本一に認定します。

女の仕事

 連休の後半は梅田での建築家展へ。

 翌7日は茨城県のつくばへ打合せに行っていました。

 バタバタと日常に戻って行くのですが、もう少し伊勢志摩の話を。

 連休前半、羽で海女さんの実演ショーを見ました。この日は気温20℃、水温14℃。

 それでも3日前からウェットスーツを着ていないと説明がありました。

 この海女と言う仕事。何故女性なのだろうと思っていました。理由はいくつかあるようです。

 1つは、女性の方が皮下脂肪が厚く、寒さに強いから。これは想像できます。

 その他、沖での漁は漁獲も多いが、危険が伴う。それで、沿岸部の潜水漁業は女性の仕事になったとありました。

 また夫婦で働く夫婦船も多く、その際は漕ぎ手が男の仕事だったのです。船と言えば、エンジン付きをイメージしますが、漕ぎ出すとなるとこれは重労働です。

 現在は、男海女(海士)が増えているとのこと。ウェットスーツの着用が認められたり、経済的不況なども影響しているようです。

 ドイツ帝国の礎を築いたビスマルク。鉄血宰相の名で知られますが以下の言葉を残します。

 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

 歴史は時代の積み重ね。その時代が変われば歴史も変わります。

 男らしい、女らしいも時代によって変わるのです。

神宮式年遷宮、お伊勢参り

 友人がエクシブをとってくれました。

 宣伝の写真みたいになっていますが。

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 朝、海沿いをジョギングしていると、あちこちから煙が上がっていました。

 流石漁師の街ですが、煙をみるのも久しぶりです。煙が上がらないの見て、民の貧困を嘆いた詩がありました。

 火が生きる証なのだと、理解できます。

 昨日はまず、みえ子供の城へ。

 私としては、海の博物館へ行きたい気持ちもありますが、子供の要望にも応えなければと。

 丁度イベントがあったようで、屋台も出ていました。

 わたがしが100円。

 一応満足してくれたので、伊勢神宮へ。鎮座2000年、日本最高位の神社です。

 この秋には、20年に一度の神宮式年遷宮を迎えることもあり、凄い人出でした。

 急がば回れの法則で、2km地点までたどり着きました。しかしここまで。車を妻に託し、子供と徒歩で目指すことに。

 秋に備え、着々と準備が進んでいるのが解ります。

 木造建築の粋を集めた美しさは、巨匠ブルーノ・タウトも絶賛しました。

 彼は、桂離宮、飛騨高山の建築も称賛しており、日本人以上に日本の建築を愛した建築家です。

 時代が時代なら、一生に一度のお伊勢参り。

 社殿は撮影不可で、現在もその神秘性は保たれています。

 木々の隙間から見える屋根が光を受け、黄金のように輝いていました。刺激の多すぎる時代が果たして幸せなのかどうか。

尾張と伊勢志摩をめぐる-伊勢志摩編-

 月曜日の続きです。

 12/16(土)の夕方、豊田市美術館を出ると、伊勢湾自動車道で湾口部の西端、四日市まで一気に横切ります。

 そこから東名阪、伊勢自動車道と乗り継いで、賢島に着いたのは7:00pm過ぎ。

 志摩地方は紀伊半島の東端にあたり、山地が埋没して出来たリアス式海岸は、天然の良港を形成します。真珠、牡蠣の養殖は有名なところ。

 宿はプラムリゾート賢島。英虞湾を見下ろす丘に建ちます。

 南欧をイメージした空間はまるで異国のようで、良いホテルでした。私達の部屋は中庭を囲む2階で、海も望めました。

 チェックアウトが11:00amというのは、子供連れには嬉しいところ。

 日曜日は、宿から車で5分くらいの志摩マリンランドへ。マンボウを見れるのが売りのようです。

 干潟を復元しているエリアでは、ムツゴロウがこの距離で見れます。

 しかし一番興味を惹いたのが、化石の販売コーナー。

 5億年前の三葉虫の化石と6千万年前の恐竜の歯を2つ買って¥3,500。買っておいてなんですが、売ってもいいのでしょうか。

 そのあとは、伊勢まで海沿いのドライブウェイを走り、今回の最終目的地”海の博物館”に到着。

 設計は内藤廣。展示物が豊富、復元模型もどこかコミカルで、暖かな感じの楽しい博物館でした。

 内部は集成材を使った木造の大空間です。

 過酷な程ローコストだったとは設計者の弁。

 コストを突き詰めた結果が、船のを逆さまにしたような空間であることは偶然では無いような気がします。

 文化財収蔵庫。こちらは同じような構造を鉄筋コンクリート造で実現しています。

 薄暗い感じが船の棺のようでもあり、凄みさえ感じました。

 こうして愛知と三重をめぐる旅は終わりました。自分の住む街を出ると同じ日本でも様々な違いに気付きます。言葉、味付け、街の雰囲気などなど。

 名古屋では、城に対する強いこだわりを感じました。とにかく、城をモチーフにした建物が多いのです。

 極めつけは国道沿いのこの店舗。かに料理の店なのです。世が世なら、どう見てもお殿様しか住めないようなシロモノ・・・・・・

島の昔

 先日、義父の還暦のお祝いに三重県の伊勢志摩の湾内に浮かぶ離れ小島のホテルに宿泊しました。

 伊勢志摩は、太平洋に突き出した紀伊半島の一番東に張り出した位置にあり、複雑なリアス式の海岸線に直接海流があたるため、イセエビでも有名なように、海産物が大変豊富です。私達のホテルも、期待通りの食事で、海の幸を充分に満喫できました。

 島に渡る時に疑問が浮かびました。渡船が出る本州側の村は小さな集落で、見渡しても大きな集落は有りませんでした。島のほうは南北、東西とも1キロに満たない小さな島にも係らず、狭い平地に所狭しと、ホテル、旅館、民家が軒を連ねています。ホテルの方に疑問をぶつけてみると、すぐに納得できました。

 この小島には昔、遊郭があったそうです。海産物が豊富で、天然の要害としても優れているこの地域ではその財産を守るため、漁師が自衛のために武器を持ち、組織をつくり水軍や海賊になって行きました。

 瀬戸内海の村上水軍、熊野灘の水軍と共に、このあたりの九鬼水軍は有名で、織田信長が天下統一を目指し、大阪の石山本願寺を大阪湾から攻める際も、九鬼水軍の力に寄るところが大きかったと言います。

 戦国時代の蒸し暑い夏の夕暮れ。狭い小道を髭をたくわえた海賊が、コソコソと目当ての店に急いでいる姿を夢想していると、なんだか楽しい気分になってきました。