巨匠はささやく‐1101‐

 火曜の秋分の日は、谷町四丁目の「大阪歴史博物館」へ。

 村野藤吾「やわらかな建築とインテリア」特別展が10月13日(祝・月)までで、気になっていました。

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 没後30年を記念しての展覧会ですが、93歳で亡くなる直前まで働いた、伝説の巨匠の生涯作品数は300。

 想像を絶する仕事振りです。

 旧そうごう大阪店(’35)、ホワイティ梅田上にある梅田換気塔(’63)、宝塚市庁舎(’80)、グランドプリンスホテル京都(’86年)と、関西に多くの作品を残しています。

 その、デビュー作が1928年、阿倍野区にある 南大阪教会塔屋 と知りました。

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 地下鉄文の里駅からすぐ。高さは4階建て程度。すっかり街と一体となっています。

 初めて訪れたのですが、良くメンテナンスされているのが見てとれます。こういった仕上げは温かみがある一方、汚れやすいのです。

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 エントランスで声を掛けると、内部見学も大丈夫。「研究の為の撮影は構いませんが、掲載は遠慮頂けますか」とのことでした。

 明日が葬儀のようで、教会の方がパイプオルガンの練習をしていました。荘厳な音色の中、この空間に身をおく興奮から、徐々に落ち着きを取り戻して行きました。

 高い位置のトップライトから壁に差す光は、この上なく美しく、優しく曲面の壁を照らします。

 太陽を横切る雲のせいで、明暗がめまぐるしく変わり、それを見ているだけでも飽きません。

 やはり建築は光なのだと、巨匠がささやいるようです。


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 オルガンの手を止め、その方が言うには、塔屋が村野のデビュー作で、礼拝堂が最後の仕事とのこと。

 事務所の資料では、最後は確認は出来ませんでしたが、そんな事はどうでも良いこと。この教会を愛しているのが、ひしひしと伝わってきました。

 展示会にあった村野の言葉です。

実をいえば、私は住宅の設計は苦手である。だからたくさんやったことはないが、それならやらないかといえば、そうでもないと思う。(中略)

ほめられたり、傑作をつくるなど思いもよらぬことだとしても、せめて先方に気に入ってもらいせすればやれやれである。それくらい住宅設計はむずかしいものであると思う。

だが住宅の設計というものは、あるときはお互いに身近なとこまで立ち入って話し合わないとできかねるところがあるので、われわれとしては職能を通じて双方が深く知り合い、また知ってもらうことになって非常に親しくなるということは、人減としてこれほどの喜びはないと思う。

これは建築家のみに許された幸福だと思う。だから万一失敗でもしようものならとりかえしのつかないことになるので、私などはたんに職業意識だけでは、やれない気になって慎重になるのである。

 「建築家十話 村野藤吾全集 全一巻」

 庁舎やホテルは失敗しても良いはずもありませんが、この言葉をみて勇気が湧いてきます。

 職業意識だけでやっているのではありません。

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 天王寺エリアにも村野の作品は多くありました。ハルカスの前にあった近鉄百貨店もそうでした。

 難波の大阪歌舞伎座も解体が決まっています。

 大阪を基盤にした村野。残された建物から、受け継げる精神も多くあるはずです。暫く、村野行脚を続けてみたいと思っています。