お国自慢

 今週末は三連休するつもりもあり、バタバタとしています。今日は事務所のある平野について、今までにまとめたものを載せてみます。

 平野区は大阪市の南東端に位置します。

 平野(ひらの)と言う地名は、征夷大将軍、坂上田村麻呂の次男、坂上広野(ひろの)が初めて開墾にあたり、それが転じたという説が有力で、8世紀、平安時代にはその呼び名が見られます。

 15世紀、戦国時代には、坂上広野の子孫である末吉家を中心とした、平野氏七名家(しちみょうけ)と呼ばれる豪商達が周囲に堀を巡らせます。堺と共に自治都市として栄え、後に平野郷と呼ばれるようになるのです。

 遡って6世紀後半の飛鳥時代。聖徳太子は「平野の野中の地に小宇を建立して薬師如来の像を安置された」と平野郷の中心にある全興寺(せんこうじ)は伝えています。http://www.senkouji.net/
この記述により、大阪に初めて出来た集落は、平野だとも考えられているのです。

 広野の後、開墾した荘園は藤原氏を通じて平等院に寄贈されました。その500年後、16世紀には信長のものとなります。

 信長と親交のあった、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、「堺より一里から一里半のところに、城の如く竹をもって囲んだ美しき村がある。名を平野という。ここに大いに富める人が居住している」と残しています。その後は秀吉と強く結びつき、許可を得た朱印船による貿易で大きな富を得るのです。

 フロイスは、「この町に羽柴(秀吉)は使者を遣わせて、己が位置を大坂の商業と繁栄のために移住することを求めた」と書いています。現在の中央区東平町は以前の東区と天王寺区にまたがり、北平野町と南平野町という地名でした。同じく平野町もその名残と言われています。

 ところが17世紀初め、大坂夏の陣で平野郷は一転、家康方につきます。家康の陣もこの地に構えられました。そうして生き残った平野郷は、江戸時代には東を流れる平野川が京橋とを結び、さらに発展を遂げて行くのです。

 歴史をたどって行くと、大阪の発展に大きく関与していたことが解ります。

 では、何故平野は古くから栄えたのか。下の画像を見ると分かり易くなります。

 こちらのサイトから。http://homepage1.nifty.com/bambooclub/naniwa/oocean1.htm

 古墳時代は主に5、6世紀ですが、大阪市の大部分は湖でした。

 8世紀にはすでに、上町台地の先端にあった難波京と奈良の平城京を結ぶ、交通の要所だったのです。

 天然の良港だった堺や住吉と奈良を結ぶ経路にもあたり、後には高野山への分岐点にもなります。

 大阪平野(へいや)の変遷はこちら

 しかし時代と共に、淀川と大和川が運ぶ土砂で、河内湖はどんどん小さくなります。そして江戸時代には、大雨の度に氾濫を繰り返すのです。

それを改善する為、1704年に完成したのが大和川付け替え工事で、今の大阪の原型が出来上がりました。

 しかしその後は、大和川が運ぶ土砂で、天然の良好であった、住吉や堺は底が浅くなって行きます。経済の主役は大坂に移り「天下の台所」と呼ばれるようになるのです。

 街の盛衰は土地によるものが非常に大きいと言えます。この他にも、堀江、道頓堀など、大阪の進展を知る上で面白い話も色々ありますが、今回はこの辺りで。