7回忌

 先週の土曜日、久し振りに母の郷里に帰りました。祖父の7回忌だったのです。香川県満濃町は、瀬戸大橋を渡れば車で30分ほど。

 祖父母4人はみな本当に元気でした。6年前に初めて祖父を亡くします。87歳でした。

 祖父は、7人兄弟の次男に生まれます。比較的大きな農家でしたが、14、5歳の頃、弁護士を目指して東京へ。書生しながら勉強し、東京の大学に進みます。

 これからは何をするにも学が必要と考えていました。昭和5年頃の事、日本は戦争への道をひた走っていました。

 在学中に第二次世界大戦が勃発。中国大陸に出兵されますが、なんとか生還。戦後は通産省で働き、マッカーサー率いるGHQと、政府の橋渡しの仕事をしました。しかし過労もあり、結核を患います。療養の為、故郷に戻る事になったのが、昭和30年。祖父37歳、、長女の母が5歳、叔父3歳の事でした。

 結核の為、最終的に肺を一つ切除することになります。その前後10年間は、働く事が出来ませんでした。祖母は子供2人を育てるのに懸命に働らき、随分苦労をしたようです。

 やっと体調が戻りはじめた祖父は、電気屋を始めます。都会で使った便利な家電を、重労働に苦しむ農村の女性へと考えたのです。

 その理想を実現する為、起こした会社は”生活改善社”。金毘羅さんに通じる参道に今もあります。

 祖父の生い立ちについては、何となく知っていました。

 しかし、10年も働けなかった事、肺を失った理由が結核だった事、それによって、祖母、母、叔父は働きづめだった事は、初めて知りました。90歳になる亡き祖父の妹が、教えてくれたのです。

  祖父は今、讃岐富士を望む墓地に眠ります。孝行したい時に親はなし。祖父母も同じでしょう。十分孝行できたかと聞かれれば、やはり首をかしげざるえません。

 しかし祖父なら”そんな事を悔やむより、り、一生懸命働き、真面目に生きなさい”と声を掛けてくれると思います。

 そんなことを想う、秋晴れの7回忌でした。

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