タグ別アーカイブ: 沖縄

姫路の黄そば‐1983‐

月に2、3回は、「ささき整形外科クリニック デイケアセンター 」の現場監理に現地へ向かいます。

車で行く場合と電車で行く場合がありますが、どちらも片道2時間ちょっと掛かります。

電車で行った場合は、JR姫路駅で乗り換え。

阪神百貨店のフードパークにも出店している「えきそば」。

在来線下り店のほうが大きいですが、上り線にある売店横でも食べれます。


和風だしに中華麺を入れる姫路名物です。

まねき食品のWebサイトには、戦後の混乱期、昭和24年から「えきそば」は販売していたそうです。

統制品ゆえ手に入り難かった小麦粉を使わない麺を、試行錯誤のうえ作り上げたとありました。

てんぷらえきそば420円です。

小麦粉にかんすいを加えた中華麺ですが、濃いめの和風だしにあっていました。

先月の大雪の際、JRが乱れていたので姫路でバスに乗り換えました。

駅の北側には姫路城を望む大通りがあります。

その大通りに直行する形で、商店街の入口が見えたので行ってみました。

人出もあり、混み過ぎずでいい感じです。

「立ち喰いうどん・そば」の暖簾をみつけたので入ってみました。

「かき揚げそば」を頼むと、「普通のそばと、黄そば、どっちにしましょう!」と。

「えきそば」だけでなく、中華麺が一般的にも浸透しているようです。

「えきそとそば」まで食べれるとは、なかなか面白い食文化です。

雰囲気でいえば、沖縄のソーキそばに近いでしょうか。

沖縄を訪れたのは2017年の2月。

丁度6年前ですが、沖縄はそれまで日本で唯一、訪れたことの無い都道府県でした。

また行きたいなあと思い出します。

「えきそば」は阪神百貨店のフードパークで食べれますが、「姫路の黄そば」は現地でしか食べれません。

そこがB級グルメのいいところだと思うのです。

『建築家・守谷昌紀TV』 ■

■6月16日 『ESSE-online』「おいでよ House」掲載

■ 『ESSE-online』にコラム連載

10月11日「テレワーク時代の間取り」
9月18日「冷蔵庫の位置」
6月18日「シンボルツリー」
6月5日「擁壁のある土地」
4月11日「リビング学習」
2月27日「照明計画」
2月14日「屋根裏部屋」
2月1日「アウトドアリビング」
1月4日「土間収納」

■11月28日『homify』の特集記事に「回遊できる家<リノベーション>」掲載
■11月17日『homify』の特集記事に「下町のコンクリートCUBE」掲載

メディア掲載情報

心へ放火‐1685‐

 4月8日に東急リバブルから『Sumikata』が発行されたと書きました。

 タワーマンションに住むクライアントへ届いたそうで、「ご活躍、心よりうれしく思います」とメールがありました。

 また、「滋賀の家」のクライアントからはこんなコメントも。

 青空に映える素敵な建物ってよく見たら(笑)

 とても茶目っ気のある方なのです。

 撮影の日は雲一つない快晴でした。

 左に見えるのは、元山城だったこの地を守るための土塁。

 その上に咲く老桜が満開でした。

 夕景も最高の条件で撮ることができました。

 夕焼けのご褒美付きです。

 元料理人のご主人もキッチンに立って下さり、遅くまで料理と会話を楽しませて貰ったのです。

 人の成長を心から喜べることは、自分の成長を促することになるのだと思います。

 反対の言い方をすれば、それだけ難しいこととも言えます。

 しかしクライアントだけは、私が何か少しでも結果を残せば本当に心から喜んでくれるのです。

 なかなか外出がままならないこの時期。

 この日記を読んでくれる人へ、私が出来ることは何だろうと考えました。
 
 そうだ、美しい!(と思う)写真をUPしよう。

 2018年5月の池原、2015年8月の鶴岡。2015年1月の富士山

 2017年5月の不老ふ死温泉、2015年9月の吉野ケ里、2018年1月の蔵王

 2014年5月の四万十川、2012年8月のブリオンヴェガ墓地、2019年10月の香港

 2015年5月の札幌、2014年9月の敦賀、2017年2月の郡上

 2011年5月の阿蘇、2012年8月のフィレンツェ、2017年2月の沖縄

 2012年8月のサグラダファミリア、2016年8月のセイナッツァロ村役場、2002年1月のアンコールワット

 1995年5月のロンシャン礼拝堂、2011年11月のファンズワース邸、2011年11月の落水荘

 2012年8月のヴェネツィア、2011年11月のタイムズスクエア、2002年2月のホーチミン

 1995年5月ロンシャン礼拝堂から、2019年9月の香港まで。

 24歳から49歳の間、日本と世界を旅する中で、「美しい!」だったり、「凄い!」だったり、私が心動かされた風景ばかりです。

 日記の最上部のヘッダーにランダムで表示するようにしました。

 体験と体感こそが私の財産です。「この騒動が収まったら出掛けてみたい」と思って貰えたら私の試みは成功。

 放火は重罪ですが、心への放火は無罪のはずです。

 ずっと先にでも、小さな灯台さえあれば人は荒波の中でも航海を続けられるのです。

■■■4月8日『Sumikata』東急リバブル発行に
巻頭インタビューが掲載されました

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

【News】

■2月13日 『Best of Houzz』「中庭のある無垢な珪藻土の家」が受賞
■2月3日 『Houzzの特集記事』「阿倍野の長屋」が取り上げられました
■12月3日 『Houzzユーザーが選んだ人気写真:キッチン編』「中庭のある無垢な珪藻土の家」が5位に選出
■9月30日発売『suumoリフォーム 実例&会社が見つかる本 関西版』「回遊できる家」掲載
■7月21日BS朝日『大改造!!劇的ビフォーアフター』「住之江の元長屋」再放送
「トレジャーキッズたかどの保育園」
地域情報サイトに掲載されました

■2017年11月27日ギャラクシーブックスから出版『建築家と家を建てる、という決断』守谷昌紀がamazon <民家・住宅論>で1位になりました

メディア掲載情報

◇一級建築士事務所 アトリエ m◇
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

戦争と沖縄‐1357‐

終戦から72年。

戦争を、20代、30代で体験した祖父母は、すでに4人とも亡くなってしまいました。

終戦時に8歳だった人が現在80歳。戦争体験を聞く機会は、この10年でほぼ無くなってしまいます。

2月11日12日と初めて沖縄を訪れましたが、戦争についてはやはり素通りできないと思っていました。

那覇の目貫通りは国際通り。

夕方だけなのか、歩行者天国になっていました。

ある交差点では、ストリートパフォーマンスをしている若者がいます。

平和な日曜午後の風景です。

後ろに見えるのは安売りのドン・キホーテ。

この建物は安藤忠雄の設計で、もとの名は「フェスティバル」だったと思います。

今はベージュのペンキが塗られ、打ち放しの見る影もありません。しかしそれも時代の流れです。

ここに書くのはあくまで私の歴史観、戦争観です。

2ヶ所だけですが、沖縄戦の痕跡を訪ねてきました。

旧海軍司令部豪は那覇市街を見下ろす、小高い山にあります。

アメリカ軍の砲撃に耐えるため、山をくり抜いて作られた地下陣地でした。

450mあったうちの300mが公開されていました。

ここは司令官室。

漆喰が施されています。

ここは下士官兵員室。

スリット状に影が見える部分に、元は木の支柱がありました。

下士官は、立錐の余地なく立ったまま眠ったそうです。

ツルハシの跡が生々しく残るこの空間で、立ったまま眠り、戦に勝てる訳などありません。

そして幕僚室。

壁に残るのは幕僚が手榴弾で自決した際、飛び散った破片の跡です。

生々しく残るその跡を、正直、真正面から見ることは出来ませんでした。

責任は自決してとる。

その場にいればそれが正しいと私も思ったかもしれませんが、どんなことがあっても生きてこそです。

それを分からなくするのが戦争でしょうか。

もう1ヶ所は糸数アブチラガマ

那覇から南東へ10km程いった小高い丘の中腹にあります。

先の戦争で、沖縄への上陸は本島中部、読谷村(よみたんそん)あたりから開始されました。

アメリカ軍は徐々に南下してきたため、本島南部は最終の激戦地となりました。

「ガマ」とは沖縄方言で、洞窟やくぼみを指します。

「アブ」は深い、「チラ」は崖をさします。深い、深い、とても暗い洞窟でした。

以前は撮影を許可していたそうですが、現在はガマの手前まで。やはりネット社会は難しとのことでした。

内部には照明はなく、懐中電灯を手に1時間程かけて案内をしてくれます。

この糸数アブチラガマは、もとは集落の非難指定豪だったのが、陣地豪となり、病院の分室となりました。

病院分室となってからは、ひめゆり学徒もこの地に配備され、負傷兵の治療にあたります。

トイレなどないので、糞尿を一斗缶に入れ、夜の間にガマの外へ捨てに行くのも彼女達の仕事だったそうです。

衛生状態が悪いので、負傷兵の手や足が切断されたものも、彼女たちが外部へ捨てにいきました。

人はそんな悲惨な日常にも慣れてしまうそうで、高校生くらいのひめゆり学徒も「これ○○さんの足だから、重くてかなわないね」とような会話を交わすようになっていったのです。

人が人でなくなる。それが戦争なのではないでしょうか、とガイドの方が言っていました。

最終的に軍からの撤退命令がでると、歩けない負傷兵と地元の人だけがここに残りました。

アメリカ軍は入り口からガソリンを流し込み、火を放ちましたが、湿気が多い為全体へは広がらなかったそうです。

それでも、ガマ内の天井は黒く焦げ、爆発したドラム缶の一部が、濡れた紙のように天井にへばりついていました。

それはこの出口からすぐそこで起こったこと。地元の方の何人かが、そこで命を落としたのです。

本土決戦に備える時間稼ぎのために「沖縄は捨て石にされた」と糸数アブチラガマのwebサイトにはあります。

更にこうあります。

 沖縄戦で、日本兵6万6千人、沖縄出身兵2万8千人、米兵1万2干人、一般住民9万4千人が亡くなりました。

 当時の沖縄県の人口は約50万人でしたから、沖縄県民の4人に1人が亡くなったことになります

日本で唯一、地上戦を経験した沖縄。

アメリカ軍、日本軍、沖縄県民が入り乱れた、終戦間際は地獄絵図だったといいます。

スパイを疑われ、殺された県民もいたとのことでした。

沖縄戦で亡くなった日本軍の中で、沖縄の次に多かった出身地は、北海道だそうです。

ガイドの方が「内地という言葉があるとおり、やはり沖縄、北海道など、地方の貧しい人達の多くが命を落としたのかもしれません」と言っておられました。

大阪に住んでいて、「内地」という言葉を使うことはありません。

その音には、ある種の不公平感が含まれていることを、私達は認識しなければなりません。

サトウキビ畑の中にぽっかりと空いた、糸数アブチラガマ。

案内の途中で「いちど全て懐中電灯を消してみましょうか」と言う場面がありました。

多くの負傷兵が見捨てられ、出入口をアメリカ軍に塞がれ、火を放たれ、真っ暗闇のなかで沢山の人が亡くなっていきました。

日本の終戦は8月15日ですが、このガマでの終戦は8月22日。それまでここに立てこもっていたのですが、アメリカ軍に収容され、負傷兵も数名が命をとりとめました。

身動きできない真っ暗闇の中で聞こえるのは、わずかに残る負傷兵のうめき声と、自らの傷口をウジが食う音だけだそうです。

そんな断末魔の世界を、なぜ多くの市民が経験しなければならなかったのか。

作家・司馬遼太郎は青年期にこの戦争を経験しました。

18歳で学徒動員されますが、栃木県の地で終戦を迎えます。

召集を受け、一旦は死さえ覚悟した若き日の司馬遼太郎は、戦争が劣勢になってくると理不尽な場面にでくわします。

本土決戦を前にした日本の軍部は、命をかけて国民を守るどころか、最終的に自らの保身を優先するような命令を下すのです。

そのとき彼は「日本人というのは、こんな国民だったのか。いやそうではかったはずだ。戦国時代は、江戸時代は、せめて明治時代以前はそうではなかった・・・・・・」と憤ります。

それから日本が少しでも良くなればと、戦国時代、江戸、幕末の志士を描くことになるのです。

戦争に導いた人達をリーダーとよんで良いのか分かりません。

それでも、国にしろ、組織にしろ、リーダーの判断は、多くの人達に良くも悪くも影響を与えます。

アブチラガマでは、指令室になる予定だったところは、ガマの奥深くで、敵の侵入を防ぐため様々な工夫がされていました。

一方、地元住民があてがわれたスペースは、出口からすぐのところ。

一番奥が駄目、入り口側が良い、というような単純な問題ではありませんが、覚悟と愛情のないリーダーは組織を不幸にします。

ガイドの方の言葉にトゲや恨みは感じませんでした。

しかし、現実に捨て石にされたという事実と記憶が変わることはありません。

美しく、やはり痛い、はじめての沖縄だったのです。

沖縄の旅<後編>‐1353‐

 2月12日(日)沖縄2日目です。

 予報は曇りでしたが、概ね晴れてくれました。

 恩納村のホテルをあとにし、海岸沿いの国道58号線を北上します。

 1時間弱で名護市役所に到着。

 1981年、象設計集団の作品で、日本建築学会作品賞を受賞しています。

 建物まわりには整列されたグリッド状の回廊がめぐらされ、樹々が建物を覆います。

 象設計集団はバナキュラー(土着的)な建築設計で知られ、この名護市庁舎も、沖縄の民家を手本としました。

 その木漏れ日は、極めて優しいのです。

 背面に回ると全く違った表情を見せてくれます。

 強い日差しと相まってか、イスラム圏の建築を思わせます。

 各柱、梁の交点にシーサーが鎮座しています。

 その全てのシーサーは、ひとつとして同じものがありません。

 建築を覆う樹々のなかから、小鳥のさえずりが聞こえてきます。

 建築と自然。相反するものが、廃墟でなく融合している。

 日本の市庁舎の中で、最も美しいものかもしれません。

 名護をあとにし、今度は東海岸を目指します。

 平安座島(へんざじま)の海中道路。

 子供達は海の中を走ると期待していましたが、もちろんそれは無理。

 しかし、海と道が近く運転していても爽快です。

 さらに橋を渡り、浜比嘉島にも立ち寄ってきました。

 近くの港をのぞくと本物の海人に初遭遇。

 昔ながらの民家ばかりではありませんが、それでも沖縄の風土を受け継いだ民家が数多く残っています。

 石敢當(いしがんどう)と読むそうですが、交差点などにおく魔除けだそうです。

 街中でもかなりの頻度で見ました。

 空家問題は、全国的なものですが、沖縄の空家は深く樹々に覆われたものが沢山ありました。

 北海道にも沢山の空家がありましたが、ここまでになるには、かなりの時間がかかるでしょう。

 駐車場に停まっていた車のホイールがちょっと変な感じでした。

 近くでみてみると、錆びきっているものにカバーが付けられていました。

 沖縄は太陽も、潮風も、全てが強く、それらは人工物にダメージを与えるでしょう。

 日本の自然は、欧米の自然に比べると「強い」と言えます。

 高温多湿で、放っておけば空き地は草木が生えてきますが、これはどこでも起こることではありません。

 その日本の中で、沖縄は最も自然の強い地域です。

 沖縄での台風を体験したことはありませんが、その厳しく美しい自然が、建築の形態を受け継がせるのではないかと思うのです。

 一番心に残ったのは、やはり自然の美しさでした。

 人は自然を消費する罪深い生き物です。さらに私の仕事は、人工物を創ることです。

 沖縄の建築にみた、畏敬であったり、敬意を込めた物創りをしたいと思います。

 青い空、澄んだ海、濃い緑のガジュマル、深紅のハイビスカス、赤瓦に白い漆喰。

 初めての沖縄は、思った以上に刺激の多いものでした。

 今度は泳げる季節に来てみたいと思います。

<目指せ、家族で47都道府県制覇>
43/47 【】はまだ

北海道

【青森】 【岩手】 【宮城】 【秋田】  山形 福島

茨城 栃木 群馬 埼玉 千葉 東京 神奈川

新潟県 富山 石川 福井 山梨 長野 岐阜 静岡 愛知

三重 滋賀 京都 大阪 兵庫 奈良 和歌山

鳥取 島根 岡山 広島 山口

徳島 香川 愛媛 高知

福岡 佐賀 長崎 熊本 大分 宮崎 鹿児島

沖縄

沖縄の旅<前編>‐1352‐

 「家族で47都道府県制覇の旅」は昨秋の佐賀長崎以来です。

 家族揃って日本をめぐるのが目的ですが、私が行ったことのない県が1つだけ残っていました。

 それが沖縄です。

 青い空に、赤瓦の屋根。

 そこに鎮座するシーサー。

 全てが初めて目にするものです。

 2月10日(土)10:00amに初めて沖縄に足を踏み入れました。

 私にとって最後の日本です。

 車を借り、那覇市内に向かいました。

 まずは昼食ということで、住宅街にある「す~まぬめ」という沖縄そばの店へ。

 この日の那覇は最高気温が14℃。

 地元の人は寒い寒いといいますが、大阪の朝は3℃。私にとっては十分南国です。

 強い日差しに対して、深い軒がかかっていました。

 もう少し天気が良ければ外で食べたかったところですが、娘が風邪気味で、残念ながら屋内の席に。

 ソーキそば700円、沖縄そば600円、じゅうしい150円(沖縄のかやくごはん)。

 日本で最も古い肉食文化を持つ沖縄ですから、豚、牛とも本当に美味しかったのですが、麺類がこれほど美味しいとは驚きました。

 かつおと豚骨の合わせ出汁とのこと。

子供は正直なもの。

付け合わせのヨモギは無理でしたが、あっと言う間に平らげてしまいました。

 土地の物を食べると、多くのことが分かります。

 その足で、世界遺産の首里城へ。

 首里城は戦争で全て消失しており、初めに再建されたのがこの守礼門です。

 全ての再建が終わり、2000年に世界遺産に登録されました。

 沖縄の文化は、風土、食、衣服をみてもあきらかに独特のものです。

 中でも建築に大きな影響を与えるのは、台風を含むその厳しい自然環境でしょう。

 首里城南西にある、金城町石畳道。

 戦禍を逃れ、500年前から残るものだそうです。

 現在の沖縄では、住宅の多くが鉄筋コンクリートで作られています。その比率は驚く程でした。

 現代の住宅が、重くて頑丈からかい離して行く中、その厳しい自然が逆方向に建築を導いているのです。

 那覇から浦添市の港川にある「外人住宅街」にも立ち寄ってきました。

 戦後すぐに、米軍用に建てられた住宅ですが、1972年の本土復帰とともに、民間の手に渡っていきました。

 コンクリートブロックで出来た住宅のようですが、軒が極めて薄く、非常に軽快な印象です。

 何よりカラフルが似合う街でした。

 宿泊は西海岸にある恩納村のホテル。

 夕食は近くのライブのある居酒屋へ行きました。

 沖縄の1日目は、オリオンビールとともに更けていったのです。

 この旅の相棒は、黄色のビートル。

 飛行機は鮮やかな黄緑。

 外人住宅街には赤いものも。

 日本最南端ですから、自然が美しいのは分かっていましたが、想像を上回る美しさ、カラフルさでした。

 しかしただ手放しで喜んでもよいのだろうかという気持ちもあります。

 もちろんそれは、沖縄を戦争と切り離して語ることはできないからです。

 それは回をあらためて書こうと思っています。

 南北、東西ともに3000kmあるこの国を、隈なくとまでは言わないまでも、一回りするのに46年掛かりました。

 一足先に私が47都道府県を制覇しましたが、多少感慨深いものもあります。

 今、思うのは本当に美しい国だなということです。

 2日目はまた木曜にUPします。

<目指せ、家族で47都道府県制覇>
43/47 【】はまだ

北海道

【青森】 【岩手】 【宮城】 【秋田】  山形 福島

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新潟県 富山 石川 福井 山梨 長野 岐阜 静岡 愛知

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