大男たちの挽歌

今回は特定の人へ向けた番外編です。

今週日曜日の早朝、用があって実家に寄りました。ポストから新聞を取り出し、食卓の上に置くと、スポーツ新聞の一面に「三沢死す」の文字。

プロレス団体、ノアの社長で、トップレスラーでもある三沢光晴が試合中に亡くなったのです。

小学生の頃からプロレス好きで、金曜8時と土曜7時が待ち遠しかったものです。中学生から25、6歳の頃までは、ずっとプロレス雑誌も買っていました。

プロレスというジャンルは、アラを探せばいくらでも出てきます。ルールもあって無いようなもの。その分、解釈も自由で、楽しもうと思えばいくらでも楽しめるのです。

プロレスファンへ良くある質問に「どうせ八百長なんやろ?」があります。それにはこう応えていました。「プロレスは対戦相手との真剣勝負ではなく、観客との真剣勝負なんだ」と。自分、相手の体を痛めつけ、観客に喜んで貰う究極のサービス業(行?)なのです。

昨今の格闘技ブームもあって、プロレス人気は急落しています。三沢率いるノアもテレビ番組が打ち切られたばかり。いま一時の三沢への評価は別にして、集客力の落ちたプロレスに対するメディアの評価は冷たいものです。

そういう私も、随分前からほぼ見なくなりました。私が好きだった昭和のプロレスは、雑誌から得る限られた情報で、あれこれ想像する楽しみがありました。

猪木、藤波、長州、タイガーマスク、ハンセン、ホーガン、前田、高田、船木、天龍、川田、ベイダー、ゴッチ、テーズ、レイス、フレーアー、へニング、スヌーカー……

それぞれの選手に、それぞれのストーリーがあったのです。仮にそれが虚像であったとしても。

誰も望んでいませんが、三沢は命を掛けていた事を証明してしまいました。思えば、大好きだったレスラーの多くが、若くしてこの世を去りました。

ブルーザー・ブロディー、アンドレ・ザ・ジャイアント、テリー・ゴーディー、C・バンバンビガロ、ホーク・ウォリアー、ジャンボ鶴田、冬木弘道、橋本真也、そして三沢光晴。

これ程の高度情報化社会はいったい何を残したのでしょう。イマジネーションを膨らませる、余白の部分を大きく取り上げてしまったのではないのでしょうか。これからプロレスを見ることは、ほぼ無いかもしれません。

リング上でしか自分を表現できない、不器用な大男達。その歓喜と悲哀を見るのが好きでした。安らかに……

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