はじめての光庭‐1427‐

 大阪市生野区は、大阪市の東端に位置します。

 密集した住宅街が続き、まさに下町の代表格のような地域。

 私が「生野の家」を設計・監理していたのは、2000年から2001年にかけて。29歳から30歳にかけての頃です。

 私にとって6つ目の作品で、初めての鉄骨造。1年間休業する前の最後の作品でもあります。

 約10年ぶりに訪れましたが、外壁が塗装されていました。

 暑さ対策に遮熱塗料を塗ったとのことでした。

 敷地一杯に建っているので、庇を付けられなかったのですが、今ならまた違った提案が出来たかもしれません。

 自分の作品をこういっては何ですが、なかなか魅力のある建物だと思います。

 屋根の納まりに粗さも見えますが、丸窓は随分悩んでプロポーションを決めました。

 リビングの開口部は、階段に沿うように三角形+長方形の台形としました。

 この窓も、大きさ、位置とかなり悩んだことを覚えていますが、その窓の横には光庭を配置しました。

 正直に言えば、最も仕事が怖かった時期でした。

 創業して5年目。本当に自分の判断は正しいのだろうかと、不安で不安で仕方なかったのです。

 そして、その後1年自分を見つめなおす時間を持つことに決めました。

 今回は、先の台風で雨漏りが発生してしまい、工事担当者に同行して対策を話し合ってきました。

 問題はないにこしたことはありませんが、起こってしまったなら、それに対して手を打つしかありません。

 その手に効果がなければ更に改善策を考え、手を打ち続けるしかありません。

 そんな簡単なことが、20代の頃は分からなかったのです。

 29歳の自分と向き合っているようで、プランを見直してみました。

 ここで初めて建物に切れ込んだ光庭を採用したことを思い出します。

 都心部での暮らしに、光庭が果たす役割は大きいのではと考え、3階から1階まで光が届く中庭を提案しました。

 この経験から密集した環境の際に、光庭を挿入することをはじめたのです。

2006年「光庭の家」 大阪市生野区

2012年「住之江の元長屋」大阪市住之江区

2015年「松虫の長屋」 大阪市阿倍野区

 これらは、全て「生野の家」からの系譜なのです。

 クライアントの期待を背負い、実際の現場で経験したことは何物にも代えがたい経験です。

 それが自分の中で醸成し、ある場面において噴き出してきます。

 そうなればしめたもので、自然に手が動き納得できるプランが出来上がるのです。

 ただ、当時は明るく元気だったお母様は今年の2月に96歳の長寿を全うされたとのこと。

 無精をしていた非礼を心からお詫びしたい気持ちです。

 また、建築というものが、生まれ、成長し、成熟し、没する全ての場面に関わることを改めて実感します。

 心からご冥福をお祈りいたします。