カテゴリー別アーカイブ: 03 自然・季節

適切に自慢を‐1461‐

 寒かった2月が終わりました。

 昨晩の強い雨風と雷で、目が覚めた人も多かったと思います。

 3月は、強烈な春一番からスタートです。

 保育園の終わったあと、公園で遊んでいる子供達も増えてきました。

 猫は屋根の上を駆けていきます。

 この1週間で、すっかり春めいてきました。

 ♪ 春はお別れの季節です~ ♪

 にメロディーがついたなら、40歳半ば以上が確定です。

 新大学生、新社会人と、新しい生活をスタートする人も多いはず。

 そんな人達かは聞いていませんが、私が設計した「R Grey」の空き部屋が、ようやく残り1部屋になりました。

 「永住したい打ち放しのマンション」をテーマに計画がスタート。土地は父のもので、建物は弟がオーナーです。

 近隣マンションには空き部屋も多くあるらしく、両親も「入ってくれるのだろうか」と心配していました。

 竣工は昨年の8月末でしたが、工事中に2部屋が決まったこともあり、すぐに満室になると私は確信していました。

 その後、見学はあるものの中々入居が決まらないようで、仲介会社のwebサイトを通してようやく5部屋が決まりました。

 まだ1部屋残っていますが、多少ほっとしたのです。

 アポイントなしの営業は、全てお断りしていますが、面識のある建築関係会社の方が来られた時のこと。

 「設計士さんも、施工側も、自分の都合ばかり言って、クライアントの方を向いていない。

 設計士さんは、自分の作品と思っているので、自分がしたいことをするし、施工側も施工側で、利益のことしか考えていない」

 という会話がありました。

 こんな話を、本当によく聞きます。ということは、何度も話しているので、順にお答えしました。

① 設計だけをしている訳ではないし、そもそも「設計士」という言葉はない。私は「建築家」でいたいと思うが、「建築士」という資格にも興味を持っていない。

② 理由は、「建築士」とは、ペテン師と同じように技術を売る仕事で、芸術家のように心に響く仕事をするのが「建築家」だと教えて貰ったから。

③ 自分の仕事は「作品」だと思っている。ただし、その定義が眺めて楽しむ骨董品の類を指すのなら作品でなくてよい。実際の暮らしが始まってからの写真しか撮らないのは、それが理由。

④ クライアントの幸せを実現するのが仕事だが、それは自分達の幸せとほぼ一致する。働くことは一方通行ではないので、何が幸せと思うかは、互いに明確にしたい。

⑤ 厳しく現場監理はさせて貰うが、クライアントにとってのヒーローになって欲しい。施工者には、それを実現できる技術があるはずだし、必要。

⑥ それらが、とびきり高くてもよければ苦労しないのだが、その仕事を適正な金額で実現するために常に競争見積となる。

 順番や例は、折々に変えますが、概ねこのような流れです。

 恥ずかしながら、自慢のような、偉そうな話をする必要がある場面なのです。

 「R Grey」の長所も、何度かここで書きました。

 満室になるという保証はありませんし、実際まだ1部屋空きがあります。

 しかし、何とか実現できるギリギリのラインまで金額調整をした、弟と私達が身をもってそのコストパフォーマンスを分かっているつもりです。

 そんなことは、借りる側には分からないじゃないかと言われるかもしれませんが、お金を払う時、人は厳しい目で選んでくれます。

 大きな金額であればあるほど尚更で、そう考えると建築はとても恵まれているのです。

 自分達の存在意義、価値を伝える為には、ただ謙遜していればよい訳ではありません。

 「私など、ろくなものではありませんので」と私が言って、仕事を依頼してくれるクライアントは居ないはずです。

 かといって、自慢ばかりしている人が好きな人など、たったの1人もいないのですが。

 状況に合わせ、適切な自慢を。これはかなり難しい、永遠のお題です。

 「R Grey」は、この規模では考えられないくらい頑丈な建物です。適切に自慢しておきますので、よければどうぞ最後の1部屋を。
 

さらば、LOWEの14フィート‐1440‐

 先週の月曜日は、湖での話を書きました。

 今日は海の話です。

 このボートが我が家にやってきたのは1988年、私が高校2年生の時です。

 父が購入したもので、船名を「MGⅡ」といいます。会社の屋号「守谷硝子店」からとったもの。

 ちなみに先代の「MGⅠ」はエンジン付きでゴムボートでした。

 およそ30年、海に湖にと付き合ってもらいましたが、ついに廃船することになりました。

 スクラップ工場へもちこむと、再生できる金属として引き取っとくれるのです。

 ようはアルミ屑となってしまう日。

 重量が約80kg。

 90円/kg、7千円ほどで引き取られていきました。

 舳先が曲がっているのは、クレーンから落とした痕跡で、それによって亀裂が入ったところは、アルミ溶接で修理してもらいました。

 まさに満身創痍だったのです。

 計量を終えるといよいよ解体棟へ。

 フォークリフトは言ってみれば霊柩車。

 「最後のお別れをしてください」という場面です。

 LOWE(ロウ)は、アメリカのブラックバス釣り用のボートです。

 持ち運びがしやすいので、海にも使っていました。

 しかし、約10年前から船底にクラックが入りだし、海専用にしました。補修を繰り返しながら使っていたので、寿命は全うしたと思います。

 海の思い出は、ほぼこの船とともにあります。

1992年9月1日

 大学生になってからは、毎夏フル稼働。

 こんな小さな船で海にでる体験はそうないはずなので、皆が喜んでくれたのだと思います。

 クルマは初代のハイラックスサーフ。

2007年9月22日

 2歳の長男といつも船を下す港の主、Sおっちゃん。

 私の最年長の友人です。

2008年9月14日

 Sおっちゃんは、父の古い友人です。

 海でのマナー、海での遊び方を教えてもらいました。

 この日は2人で痛飲。

2009年8月23日

 娘も1歳半になり、浜遊びができるように。

2009年9月13日

 ここがSおっちゃんの海での家。

 車は2代目のハイラックスサーフに。

 この船があったおかげで、磯で魚を突いたり、タコを獲ったりできたのです。

2012年7月29日

 娘も4歳になり、船遊びの楽しさも少し分かるように。

 長男が釣ったアコウ。

 とても美味しい魚です。

 長男は7歳になり、沖で潜りはじめた頃。

2009年9月2日

 従兄弟たちと。

 海の中は、いつも極彩色です。

 子供達に一番見せたかったのは、その景色だったと思います。

 獲物の基本は、小物のガシラですが。

2014年9月14日

 沖からみる海は、いつも本当に美しいものでした。

 車は初代ディスカバリーに。

 長男は、1人で潜るようになりました。

 家族で乗ったのは、この日が最後になりました。

 荷物を満載した車4代とともに、夏の相棒でした。

 80kgある船を引きずり回しながら、積み下ろしするのが私の夏でした。

 準備は大変でしたが、それが無くなると思うと、正直寂しいものです。

 心残りは、子供2人が中学生になるまで、このボートで遊べなかったことでしょうか。

 クルーザーは持てなかったけど、海面が近いこのボートで日本海に出るのが好きでした。

 車や船が去っていく時、言葉が尽きることはありません。

 形あるものはいつか壊れる。命あるものはいつか尽きる。

 分かってはいますが、30年も私に仕えてくれて、今は感謝の気持ちしかありません。

 さらば、LOWEの14フィート。

 今は次の船をイメージできないのです。

■■■『建築家と家を建てる、という決断』守谷昌紀
ギャラクシーブックスから11月27日出版
amazon <民家・住宅論>で1位になりました■■■

メディア掲載情報

◇一級建築士事務所 アトリエ m◇
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

けいこ不足を、幕はまたない‐1432‐

土曜日の夜、娘と大阪を発ちました。

助手席で寝ているあいだに、奈良県下北山村に到着。

日曜日は1月並の寒波到来で、寒い1日になりました。

早朝は2度くらいだったでしょうか。

娘と2人で釣りにやってきましたが、防寒対策はスキーウェア。

こんな中でも付き合ってくれるのです。

日中は晴れ間が広がり、良い天気になりました。

奈良県下北山村は常緑樹が多いのですが、ところどころにあるヤマモミジが真っ赤に染まっています。

釣りのほうは、何とか午前中に1匹手にすることができました。

しかしこの時娘は休憩中。

朝は一緒に出船したのですが、やっぱり寒いからと一旦車に戻っていました。

休憩時は本を読むんだと、沢山の本を持ち込んでいます。

寝袋に入り、サンルーフのシェードを開け、青空を見上げながらの読書タイム。

本当に本好きで、飽きることなく読んでいるのです。

折角ここまで来たのだからと、昼食後、再び一緒に出船しました。

で、何とか1匹釣りあげました。

外道(狙っていた対象ではない魚)のニゴイでしたが、これが45cmの大物。

娘は大満足で、これにてストップフィッシング。帰路についたのです。

帰り道は2時間半のドライブですが、いろんな話をしました。

とても成長したなと思ったり、小学4年生もなかなか大変だなと思ったり。

面と向かい合って話すより、流れる景色を見ながらのほうが、気楽だし話が弾むものです。

1983年、梅沢富美男の『夢芝居』という曲がヒットしました。

『夢芝居』 歌:梅沢富美男 作詞・作曲:小椋佳

 けいこ不足を 幕はまたない

 恋はいつでも 初舞台

恋だけでなく、子育ても同じです。

娘の父をするのは初めてですし、もし次女がいたとしても、次女の父をするのも初めてです。

子供は2人目ですが、全くパーソナリティが違います。

そう考えれば、何事も全て初めてとも言えそうです。

初めてなので、間違ったり、正解したりしながら親子とも生きていくのです。子には申し訳ないのですが、全問正解はないのです。

仕事においても、フレッシュな目で見たほうが、よりよい判断ができるのではと最近思うようになりました。

経験から経験を捨てることを学んだような気がします。

「夢芝居」の作詞作曲は小椋桂でした。

けいこ不足を 幕はまたない

これぞ小椋節。いい詞だなと思うのです。

それでもやまない雨はない‐1426‐

 先週の台風21号に続いて、22号が発生。

 2週続けて、大雨の週末になりました。

 土曜日は「中庭のある無垢な珪藻土の家」の撮影の予定でしたが、延期せざるをえず。

 緑を囲む京都のオフィス「(仮称)山本合同事務所」

 家事動線がコンパクトな「白のコートハウス」

 築80年、住吉の長屋を「碧の家 」に〈リノベーション〉

 木、金、土の現場回りはずっと快晴で、1日ずれていればと、歯噛みしたくなります。

 昨日はJRでの移動でしたが、昼頃はかなり強い雨脚でした。

 淀川も増水していましたが、直撃ではなく先週ほどの被害はなかったようです。

 昼には大阪に戻り、ショールームでの打合せに。

 グランフロントにあるリクシルで2時間半みっちり打合せをしました。

 夕方頃には雨もあがり、神戸方向から夕日も差してきたのです。

 梅田にも人足がもどり、どことなくホッとした気分になります。

 例えに出して申し訳ないのですが、「やまない雨はないというけど、本当だろうかと思っていた」と元プロ野球選手・清原和博が話していた場面をみたことがあります。

 FAで、西武から念願の巨人に移籍したが、思うような成績をなかなか出せず。

 また、松井秀喜との主砲争いに敗れ、夜遊びばかりとメディアからバッシングを受けていた頃を指してのコメントでした。

 やまない雨がないのは間違いありません。しかし、晴れがやってきたとしても、またいつか台風はやってきます。

 数限りない栄光を手にしてきた彼が、本当に超えられなかったのだろうかとも思いますし、早熟の天才だったからこそ超えられなかったのかもしれません。

 先週、ある計画のプレゼンテーションをした後、断りの連絡を貰いました。

 私も設計したいと思っていたにも関わらず、断りがはいったのは久し振りです。

 負け惜しみもありここで書いているのかもしれませんが、この経験を少しでもプラスにしなければ、同じところを行ったり来たりするだけです。

 今回は良かったですが、またいつか大型の台風が直撃する機会はあります。

 ならばそれを想定し、準備し、危険も含めて、生きることを楽しむしかありません。

 それでもやまない雨はないのですから。

親父脱退‐1424‐

 昨晩は台風の影響で、一晩中強い雨風が続きました。

 大阪市南端を流れる大和川は氾濫危険水位を超え、避難勧告がでました。

 私の家から大和川までは1.5kmほど。夜中に何度も警報がなり響きました。

 出勤前に通ってみると、堤防まで3mくらいのところまで水位が上がっていたようです。

 4kmほど下流の浅香では堤防を越え、1mほど浸水しました。

 大和川は上流にある奈良盆地の水を一手に集めて、大阪湾に注ぎます。

 元の川筋は大阪平野に入ってすぐに北上していたため、氾濫を繰り返していました。

 それが、江戸幕府によって現在のように付け替えられました。

 当時重機はないので、掘るというよりは堤防を盛り上げている感じです。

 浅香辺りには小高い山があり、難工事となった場所です。それを避けるように、左に大きく蛇行しており「浅香のカーブ」と呼ばれます。

 奈良の三郷も浸水しましたが、こちらも右に蛇行している箇所。

 山間部を別にすれば、最も大きく蛇行している2ヵ所で、やはり起こるべきところで災害は起こります。

 反対に言えば、ある程度予想できるともいえるのです。

 牙をむいたときの自然は人の手に負えるものではありません。

 行政の警報は、安全値をみているために空振りも多いですが「うちは大丈夫」探しをする前に、備えをすることは大切なことだと思います。

 昨晩は、枕もとに家族分のライフジャケットを置いておきました。

 距離、川筋を考えても、浸水する可能性は低いと思いましたが、備えあれば憂いなしです。

 「地震雷火事親父」は江戸時代からの怖いものの例え。

 最後の「親父」は、台風を意味する「大山嵐(おおやまじ)」だったという説があるそうです。

 webサイト調べ程度ですが、親父がたいして怖くない時代、ここからは脱退させて貰ったほうがよいかもしれません。

 恐怖で何をさせるのは間違っていますが「怖い」を知ることは大切なこと。

 それは子供だけにいえるものではありません。昨晩は久し振りに怖いと思う程の「大山嵐」でした。

 元気に働けることに感謝し、台風一過の青空の気分で今週をスタートしたいと思います。

細胞レベルで‐1421‐

 月曜日の体育の日は、「さかたファミリー歯科クリニック」の撮影でした。

 一度、天気が悪く延期しましたが、この日は何とか晴れ。

 白い外壁に、全周を囲む庇がポイントの建物なので、やはり撮影は晴れ空に限ります。

 昼の部が終わり、夕景までに空き時間ができたので、穂谷という地域へ立ち寄ってきました。

 奈良へ抜ける307号線を東に進み、南に少しそれたあたり。近くには関西外大があります。

 訪れるのは2回目ですが、高低差のある里山風景が素晴らしいところです。

 現在「枚方の里山・収穫の秋穂谷」というイベントを開催中。

 コスモス畑が有名で、100円で10本摘んでよいと立て札があります。

 訪れた人たちは、思い思いの花を摘んでまわっていました。

 ヒマワリ畑もあるのですが、こちらは観るだけ。

 この日の気温は季節外れの29度。どちらかと言えばヒマワリの日でした。

 里山100選にも選ばれているのどかな風景は、日常と全く違う時間が流れています。しかし、500年前ならごく当たり前の風景だったに違いありません。

 私は大阪市内で育ちましたが、休みは自然の中でいたいほうです。人が経験、体験の中だけに生きているなら、辻褄が合わないでもありません。

 40億年前、海は濃いスープ状の海水で満たされていました。

 浅い潮だまりに膜のようなものが張り、それが単細胞生物の原型になったといわれています。

 ソウ類、植物、両生類へと進化し、哺乳類が生まれたのは2億年前。

 人も間違いなく自然の一部です。

 誰かの決めセリフではありませんが、細胞レベルで自然を求めるのでしょう。

 コスモスは色によって花言葉が違うそうです。

 赤=愛情、調和

 ピンク=純潔

 白=優美

 自然と人の中間にあるのが里山。調和に満ちた美しい風景といえば格好よくまとめ過ぎでしょうか。

 全ての撮影が終わったのは午後7時頃。どんな現場でもヘトヘトになります。

 ひっきりなしに現れる路上駐車の車。

 また、雲は私たちの都合では動いてくれません。

 良い光を待ち、路上駐車の車が動くのを歯噛みしながら待ったり、時には「少し動かしてもらえませんか?」と交渉したり。

ポイ捨てのゴミを拾ったり、窓ガラスを拭いたり、家具の配置を確認したり。

 納得のカットを撮るのに、かなりの時間と労力を注ぎます。

 自然を愛する気持ちと、この俗人加減。

 そんなことを考えていると、「いろんなことをしてるなあ」と時々笑ってしまいます。

 このような両端にある車輪で、何とかかんとか前に進んできたのだという実感もあります。

 人は細胞レベルで生きようとするのだと実感するのです。

人類みな親戚‐1419‐

 昨日は中秋の名月でした。

 薄雲をほのかに照らすさまは、名月にふさわしいもの。

 中秋の名月は必ずしも満月でないそうです。よく見れば、僅かに左が欠けています。

 明日が満月だそうですが、これは娘に教えてもらいました。

 樹々も徐々に色づき始めました。

 天高く馬肥ゆる秋です。

 「馬肥ゆる」は、警告の意味も含まれていると昨秋の新聞で知りました。

 収穫の秋を迎え、たっぷりとエサを食べ肥えた馬にのって北方の騎馬民族が略奪にやってくる。

 それらを警戒する、中国の故事からきたものだそうです。

 日本語は中国語を源としますが、同時に多くの故事、習慣も伝わっていますが、鬼門もそのひとつです。

 「北東を鬼門、南西を裏鬼門とし、玄関や水廻りをさける」

 これが一般的な解釈でしょうか。

 住宅を設計する際にはよくでてくる言葉なので、以前その真意を調べてみました。概ね以下のような説に集約されると思います。

① 古代中国の家創りの風習で、黄河中流域(中原)から見て、北東から攻めてくる匈奴に代表される騎馬民族が、真っ先に侵入してこないよう玄関を設けない。

② 冬の季節風は北東から吹くことが多い。また、台風、モンスーンに代表される南西から吹く強い風で、カマドの火の粉が家の中に入らないよう、これらの方角には台所を設けない。

③ ②と同じく南西から吹く強い風で、家が吹き飛ばされないよう玄関を設けない。

④ 北東は日当たりが悪く湿気がたまりやすい。南西は日当たりが良すぎるので水や食べ物が痛みやすいので、水廻りを設けない。

 世界最大の建造物、万里の長城は匈奴に代表される騎馬民族を中原に入れないよう築かれました。それほどまでに脅威だったのです。

 ④は北半球全体に言えることですが、①~③は中原にのみに当てはまる項が沢山あります。

 しかし、まったく意味の無い物ではないので、鬼門除けを含めて、うまく活用すればよいと考えています。

 日本語が中国語を源としているなら、言語としては親戚関係にあるといえます。それがなぜこのような関係にあるのか。

 「遠きと交わり近きを攻める」

 魏晋南北朝時代の兵法書にあることばです。

 「攻める」はやめてもらいたいですが、大事が起る前に「交わる」ことはできないのかと思うのです。

 2万年前まで日本と中国はつながっていました。1世代25年とすれば800世代。800世代前は日本人も中国人も無かったのです。

 人類みな兄弟とまではいえませんが、親戚くらいではあると思うのです。

融通=溶けあい和合する‐1416‐

 昨日今日と、大阪は気持ちのよい秋晴れです。

 気温25度、湿度は40%をきり、1年でも最も気持ちのよい季節になりました。

 大阪市平野区で最も大きなお寺はおそらく大念仏寺です。

 歴史も古く、1127年の創建とあります。

 裏手には墓地があり、遠く目に彼岸花がみえました。

 彼岸の中日を過ぎたにもかかわらず、墓参りにいけておらず……

 ひとさまのお墓にまいるわけにはいきませんが、少し立ち入らせてもらいました。

 大念仏寺は融通念佛宗の総本山とあります。

 平安末期に広まった念仏信仰の先駆けとなり、日本最初の念仏道場だとwebサイトに紹介されていました。

 「融通念仏」については以下の説明がありました。

 融通とは溶け合い和合することです。

 砂とセメントと水は、それぞれその形も働きも異なりますが、この三者が溶け合って和合すると強固なコンクリートになるのも融通です。

 融通念仏は、念仏が相互に融通して大きな力となることをいいます。すなわち念仏を称えることによって、人と人、人と物、物と物とのすべての関係の上に融通和合の世界を自覚し、苦脳と迷いのこの世を喜びに満ち溢れ、悟りの智慧かがやく楽土(浄土)にすることをめざした教えです。

 「苦脳と迷いのこの世を」とはっきり言われると、月曜日の朝には多少重いかもしれません。

 不信心を承知でかくなら、喜びに満ち溢れ、悟りの智慧かがやく楽土(浄土)にする方法は、何でもよいと思います。

 「念仏」を唱えることで実現できればもちろんそれでよいのです。

 「融通」は、普段ネガティブ、あるいはグレーな意味でつかわれることが多いでしょうか。私は最も不得手としてきたことばだと思っています。

 「融通のきかない男だな」と人生の中で何度か言われたことがありますし、それでよいと思ってきました。

 しかし、コンクリートの説明はとても分かりやすく、ポジティブに解釈させてくれます。

 融=とけあう + 通=つうじる =  溶け合い和合する

 現時点より、成長したいなら不得手と思ってきたことを改善、克服していくしかありません。

 社員は自分の長所を伸ばせばよい、経営者は欠点を無くさなければならない。

 この言葉が身に染みたのです。

 「融通」ということばと、正面から向かい合う必要がありそうです。

 暦の無い時代、私のような不信心者にも、彼岸を知らせてくれた彼岸花。美しさと実用をかねていた訳です。

 時代を遡ることはできませんが、その意味合いは全く違ったものだったと想像するのです。

子供との一場面を見逃さないために‐1413‐

 前回、夏にサヨナラしました。

 しつこい人は嫌われるのですが、もう少しだけ海での話しを。

 父に連れられ、小さい頃から来ているこの海ですが、山あいにある小さな浜です。

 山の斜面がそのまま海に落ち込み、少し沖にでるとすぐ深くなっています。

 遠浅の海水浴場ではありませんが、漁港としては好立地なのです。

 その港を守る堤防が、私達の遊び場でした。

 2段になっており、これが結構高いのです。

 写真では分かり難いですが、大人でも頭から飛び込むにはちょっと勇気がいるくらい。

 中学1年生の長男は、高い方から飛び込んだことがなく、今回は雪辱戦でした。

 しかし、午前中は干潮で浅く、高い方はやめておくよう伝えていました。

 それで、低い方から繰り返し飛び込んでいました。

 ただ飛び込むという単純な遊びが、スマホのゲームより面白いと思って貰えれば嬉しいのですが。

 小学4年生の娘も、飛び込もうかやめようか、結構な時間悩んでいました。

 しかし、勇気をだして初ダイブ。

 1回だけでしたが、これも成長です。

 2010年の8月末、何家族かを誘ってここに遊びにきました。

 7年前なので娘は2歳。最高の砂場をみつけたと、1日中砂遊びに夢中でした。

 一緒にきていた友人の次男君は当時9歳。

 今の娘と同じ年齢です。

 高い方の堤防から、飛び込もうか、飛び込むまいか、かなりの時間逡巡していました。

 が、見事に飛び込んだのです。

 下で待っていた、お父さんの表情が全て。

 すがすがしい風景でした。

 長男はもう12歳なので、潮が満ちたあと、高い方から何度も何度も、飽きることなく飛び込んでいました。

 私は片づけをしながらだったので、遠目には見えていましたが、写真は撮ってやれませんでした。

 親として、どのくらい子供見ているのかを考えるとき、いつもイチローの父親の話を思い出します。

 イチローの父親は、小学3年から6年までは毎日一緒に練習をしました。また、高校卒業までは毎日欠かさず学校まで練習を見に行ったそうです。

 中学生の時、監督からバッティングフォームを矯正するよう指導を受けます。

 ずっと2人でフォームを創り上げてきたイチローの父親は「バッティングフォームだけは変えないように指導して頂けませんか」と願い出ました。

 プロに行ってからも、同じ場面はやってきます。コーチから矯正を求められるも、今度は自らそれを拒否。その結果2軍に落とされます。

 女子テニスの、杉山愛選手だったか、 沢松奈生子選手だっか忘れてしまったのですが、母親がコーチでもありました。

 玄関先でなかなか靴の紐を結べない我が子を、怒ることなく、急かすことなく、1人で結べるまでひたすら待ったといいます。

 親なり、コーチなりにできることは、これらの話しに集約されているような気がします。

 8歳から18歳まで、毎日練習を見に行くことは誰にも出来ることではありませんが、反対にいえばこれしかできないのです。

 ただただ見る。そして、必ず守るという覚悟を示す。

 リーダー業を21年、父親業を12年やってみて、私が感じたことも最終的には全く同じでした。

 イチローの父親と比べると、何10分の1しか時間を割いていないかもしれませんが、思いは全く同じです。

 ある夏の一日。

 小さな成長の場面を目にすることができました。

 私がどれだけ一緒に居たいといっても、子供に拒否されればそれまでです。

 「お父さんと過ごす休日は楽しい」と思ってもらえるよう、休日用の引き出しを開け続けるのです。

夏にサヨナラ‐1412‐

 昨日は、早朝から福井へ。

 北陸道と舞鶴若狭自動車道が繋がったのが2014年。敦賀半島へのアクセスは更によくなりました。

 今回は、敦賀南スマートICで降りてみました。

 古き良き農村の風景に、秋の気配を色濃く感じます。

 8時頃に現地着。

 小さい頃から、欠かさず訪れてきたこの海ですが、今回は2年振りです。

 大学時代の後輩と、現地で待ち合わせていました。

 まずは砂浜で水遊び。

 海好きの彼は、早速カニをつかまえてきました。

 後輩の長男君は3歳。

 海は初めてだそうですが、お父さんと同じく海好きになるのでしょうか。

 港で私達を迎えてくれたのは父の友人。

 この海をこよなく愛するSおっちゃんです。

 愛しすぎて浜に民家を借りており、半分はここの住人でもあるのです。

 一部利用者のマナーが悪く、港での船の上げ下ろしが昨年から出来なくなりました。

 自分の船を出せないこともあり、昨年は足が重かったのです。

 この日は「一緒に遊んだらええ」とおっちゃんが船をだしてくれました。

 沖にでると更に水は澄み、手つかずの自然が広がります。

 40年以上ここに来ていますが、変わりなく美しい、この豊かな海を、子供達に少しでも体感させておきたいと思うのです。

 小一時間遊んで、港に戻りました。

 港の通称テント村。

 穏やかな浜風のなか、海を眺めながらの昼食は至福の時間です。

 長男が釣った、本当に小さなカワハギですが刺身にしました。

 家で料理をする機会はめったにありませんが、小さな魚をさばくのは慣れています。

 自分で獲った獲物を、その場で食べることは、大人であれ、子供であれ、とても喜んでくれるのです。

 普段は魚嫌いの長男も、「美味しい、美味しい」と食べていました。

 小学校、中学校の夏休みは、とびきり楽しいものでなければならないと思っています。

 昨日は1ヵ月振りの休みで、ようやく子供達を海に連れていきました。

 私のスケジュール、家族のスケジュールと制限が増えるなか、子供達と過ごす夏休みはより限られてきたと実感します。

 何とか「夏の思い出」にギリギリ間に合ったでしょうか。

 すかっと晴れ、波は小さく、風も穏やか。そして気温は31°。考えてみれば、これほどのご褒美はなかったかもしれません。 

 先程後輩から、「これで、夏にサヨナラできます」とメールが届きました。

 ようやく始まったと思ったら、今年の夏はこれでサヨナラか……

 夏は毎年、足早に過ぎていくのです。