タグ別アーカイブ: 47都道府県制覇

師をめぐる、巡礼の旅‐1089‐

 今年の夏休み旅。14日(木)福岡市に入ったところまで書きました。

 ホテルにチェックインして、夜の天神エリアへ。

 名物の屋台で、焼きラーメンを汗だくで炒める店主。

 南国とは言わずとも、開放的な雰囲気があります。

 屋台がよかったのですが、子供がいるので断念。今度の楽しみにします。

 翌朝、早起きして中心部を歩きました。

 中洲エリアにある、アルド・ロッシ設計のイル・パラッツォ(1989年)。

 単純ですが、ひときわ目を惹きます。

 巨匠・吉村順三の河庄(1959年)。

 コンクリート打放しのルーバーを楽しみにしていました。

 しかし、グレーとピンクで塗装がなされており……

 これは正直かなり残念。

 ホテル近くの福岡銀行本店(1975年)。

 黒川紀章、初期の仕事です。

 屋内というにはあまりにも高い天井。

 特別な存在感を放っています。

 朝食のあと福岡を発ち、北九州市立美術館へ。車で1時間程でした。

 こちらも、磯崎新の初期の作品です。

 学生の頃、白黒写真で見て以来、ずっと訪れたいと思っていました。

 磯崎の建築は、単純な造形を用い、一度に建物を印象付ける力があります。そんなところに憧れていたのです。

 一方、より限られた素材で、対比という思想を持ち込めば、より美しい建築が出来るのではとも思っていました。私の作品「加美の家」のモチーフになっているのです。

 訪れるより先に、創ってしまったのですが。

 麗しの磯崎を訪ね、今回の建築巡礼、目的は果たしました。

 しかし、建築めぐりだけでは家族は退屈します。

 午後には日本最大級の鍾乳洞、秋芳洞に到着。

 子供達は探検気分で楽しんでいました。15日(金)は山口泊。

 最終日、16日(土)は朝から萩へ移動。

 市内では、維新の志士、高杉晋作、木戸孝允(桂小五郎)の生家を回りました。

 そして、最後の目的地、松下村塾に到着。

 1856年、吉田松陰は叔父からこの私塾を引き継ぎました。

 そして、多くの幕末の志士を育てるのです。

 倒幕を強く訴える松陰が、維新を見届けることはありませんでした。

 大老・井伊直弼による安政の大獄によって斬首されるのです。1859年のこと。

 日本の近代化は、薩長土肥という地方の力によって成し遂げられています。

 それを差し引いても、この本州西端の小さな私塾から、育った人物の数は目を見張ります。

 先の2人を初め、久坂玄瑞、伊藤博文も松下村塾出身。

 松陰は、相当にクレイジーな部分もあったようです。

 しかし、少々狂気のようなものが無ければ、人の心に火をつけることは出来ないのでは。8畳の小さな講堂を見ながら、そんな事を思っていました。

 当の本人はこんな言葉を残しています。

 「みだりに人の師となるべからず。みだりに人を師とすべからず」

 師を持っていない私にとって、世界に残る名建築、そして珠玉の名言が、師そのもの。勿論みだりではないつもりです。

<目指せ、家族で47都道府県制覇>
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フェリーで行く福岡‐1088‐

 今年の夏休みもフェリーの旅になりました。

 13日(水)の夕方、南港を出港。

 6時ころ、明石大橋を通過しました。


 今回は個室がとれました。

 乗船時間は12時間。

 子供たちにとっても、私にとっても、この時間が一番ゆっくり出きる時間かも知れません。

 船室の窓から景色が見えるこの幸せ。


 早朝に新門司に到着。

 その足で門司に寄りました。

 レトロの町、門司にはアルド・ロッシのホテルと黒川紀章のタワーマンション。


 子供たちが勉強を好きになってくれますように。

 まずは太宰府天満宮へ。賽銭も普段よりやや多めにしておきました。

 参道にあるスターバックスものぞいてきまいした。隈研吾設計の設計です。

 杉の角材を組み合わせた装飾が圧巻でした。

 帰りがけには菊竹清訓設計の、九州国立博物館。

 以前、出雲大社横でみた菊竹の狂気とは、まったく異次元の奔放さでした。

 博多へ移動して昼食。

 博多ラーメンはるるぶ情報のみ。博多一幸舎大名本家へ。少し並びましたが、すぐに入店。

 初めて替え玉を経験しました。つけ麺も初体験でしたが、これがなかなか。

 郊外にある、アイランドシティへも足を伸ばしました。「ぐりんぐりん」は伊東豊雄の2005年の仕事。

 うねるコンクリートスラブの下にある温室。上部も緑に覆われています。

 スラブには大きな開口があります。

 外と中の区別があいまいになって行くのです。

 自由、アグレッシブ、先進的。

 隈研吾、伊東豊雄は、時代の一番前を走る建築家です。

 それに、ロッシ、黒川紀章、菊竹ともうフルコース。

 福岡は建築がいいと聞いていましたが、これほどとは。刺激的でした。

 知らない辻を曲がる時のこのときめき。今からは夜の博多を歩いてきます。

竜馬、鰹、過去未来‐1060‐

 GWの愛媛、高知の旅。

 前回は、四万十川を巡るところまで書きました。

 東へ車を走らせると、高知市内に入ります。やはり竜馬は外せないので、まずは桂浜へ。

 司馬遼太郎好きですが、「竜馬がゆく」を読んだのは30歳の頃。その頃、私は仕事を1年休み、海外へ出掛けたりしていました。

 彼の人生は32年です。

 激動の人生を駆け抜けた様を知り、焦りを覚えました。今も焦りはありますが、日々ベストを尽くす他ないと腹はくくっています。

 高知出身の先輩に「地元の人間もひろめ市場はよく行く」と聞いていました。

 南国特有のおおらかな空気を感じます。ベトナムやタイの市場を思わせる雰囲気もあり、気分は盛り上がります。

 中でも、明神丸の鰹は絶品でした。

 GWの混雑でしたが、席を譲ってくれた家族がいました。

 「あれは食べた方がいい」と勧めてくれました。

 鰹のハランボは売り切れごめんだそう。

 トロのような部分なのか、脂がのっていて、別次元の美味しさでした。

 塩たたきは、その名の通り塩だけで頂くもの。

 この粗塩が、新鮮な鰹の味を引き立てます。1本釣りの鰹だけを使っているそうです。

 美味しいとは聞いていました、ここまで違いがあるものかと、圧倒されました。

 これだけでも、高知へ来た甲斐があります。

 最終日、フェリー乗り場のある愛媛へ戻ります。

 別子銅山のことを知ったのはこの1月。祖母の葬式の際でした。その近くにある、神社が祖母の親の出身だと聞いたのです。

 以来気になっており、「東洋のマチュピチュ」というフレーズを知りました。

 標高750mに広がる、日本最大級の銅山跡で、産業遺産として保存されているのです。

 ただ、ここ至るまでの道が極めて狭く長い。

 もしこの道幅を知っていたら、行かなかったかも。その位、離合が大変でした。

 昭和43年に閉山されたのですが、多くの建物が残っています。

 変電所跡も当時のまま。

 壁が剥げ落ちてはいますが、ぬっと人がでてそうな雰囲気です。

 最盛期はこの山奥に3600人の関係者家族が暮らしていました。

 ここは住友が民間一社で採掘をしていた稀な銅山で、小学校、中学校もありました。子供たちをしっかり教育すれば優秀な人材が生まれ、何代にも渡って、彼らが住友を支えてくれたそうです。

 床に転がるビールの空き缶。

 「子供の頃見た、アサヒビールのロゴはこんな感じだったな」と思い出します。

 旅は、自分の過去と向かい合い、未来を見つめなおす機会でもあります。次にまとまった休みを取れるのはお盆でしょうか。

 家族旅行、47都道府県制覇を目指します。

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最後の清流に見る‐1059‐

 今年のゴールデンウィークは、愛媛、高知を回っています。

 四万十川沿いを走っていると、鯉のぼりの群れ。

 今日は端午の節句。

 子の健康と成長を願うのは、誰しも同じです。

 3日(金)の早朝、フェリーは東予港に到着しました。

 松山までは高速で1時間かかりません。

 3千年の歴史を誇る道後温泉は、夏目漱石らも愛した古湯です。

 松山は、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の舞台でもあります。

 そのミュージアムは、安藤忠雄設計です。

 その晩は、宇和島泊。

 藤原純友が考えたとも言われるのが鯛めし。

 刺身を生卵の入った出汁にからめて、ご飯と一緒に。ようは海賊料理なのです。

 翌日は、四万十川を遡りながら、高知を目指します。

 最後の清流、四万十川。何ともノスタルジックな響きです。

 沈下橋のある景色で知られますが、最も美しいとされるのが岩間沈下橋。

 これらは生活道路です。

 大雨の時に流されないよう、欄干がありません。

 しかし、はるか上空に建設すれば、こういった形状にする必要はないのです。

 少し走れば多くの沈下橋を目にします。

 上流部にある向山橋は、昭和38年架橋とありました。

 これほど薄い橋は見たことがありません。

 機能美と言えるところまで昇華しており、自然と融和しているように見えるのです。

 ミニマリズム、簡単に言えばもったいない主義。

 自然との共生を、最後の清流に見た気がします。

想像力‐1051‐

 土曜、日曜と、新潟のシャルマン火打スキー場へ行っていました。

 健常者と、チェアスキーの選手が、同じコースで試合をするのが「icetee cup」です。

01

 この団体は、大学時代の友人、先輩達が設立しました。

 学生時代から続けるアルペンスキーも、この試合に出るだけになりました。

 何とか、入賞するところを子供に見せたいという気持ちもあり。

 今回は0.4秒届かずの、7位がベストリザルト。

 甘くはありませんが、かなわないとも思えず……年1回ですが、来年もフルアタックでいきます。

 1日目は晴れましたが、2日目は大雪。

 チェアスキーの人達は、特に寒そうでした。

 子供にも、ちょっと厳しかったかもしれません。

 長男も、残念ながら旗門不通過。

 宿舎が一緒だったので、チェアスキーの人達に色々聞いてみました。

 「やっぱり、パラリンピックに出るというのが目標ですか」

 「この方、リルハンメルのメダリストなんですよ」

 失礼しました。

 「日本旅館だと、段差が大変ですか」

 「そうですね。でも5cmくらいなら何とでもしますよ。ただ、車椅子が通らないと一番困りますね。50cmあればいいんですが」

 私が建築設計をしている事を伝え、聞いたのですが、様々な意見を聞かせてくれました。皆さん一様に明るいのですが、はやり困難も多いのです。

 これまでも、パラリンピックの価値を、文字としては理解していました。しかし、それらを目標としている選手と一緒に食事をし、風呂に入り、人として理解できました。

 夢や目標があるから、みな頑張れるのです。

 3年前の震災直後、ビートたけしが語っています。

 常々オイラは考えてるんだけど、こういう大変な時に一番大事なのは「想像力」じゃないかって思う。今回の震災の死者は1万人、もしかしたら2万人を超えてしまうかもしれない。テレビや新聞でも、見出しになるのは死者と行方不明者の数ばっかりだ。だけど、この震災を「2万人が死んだ一つの事件」と考えると、被害者のことをまったく理解できないんだよ。

 じゃあ、8万人以上が死んだ中国の四川大地震と比べたらマシだったのか、そんな風に数字でしか考えられなくなっちまう。それは死者への冒涜だよ。

 人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。そうじゃなくて、そこには「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ。
本来「悲しみ」っていうのはすごく個人的なものだからね。被災地のインタビューを見たって、みんな最初に口をついて出てくるのは「妻が」「子供が」だろ。

 一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、自分の子供や身内が一人死ぬことのほうがずっと辛いし、深い傷になる。残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ。

 そう考えれば、震災被害の本当の「重み」がわかると思う。2万通りの死に、それぞれ身を引き裂かれる思いを感じている人たちがいて、その悲しみに今も耐えてるんだから。

 「想像力」を、生死を例に語っています。

 書かれている通り、「人の気持ちになる」というのは決して容易いことではありません。しかし、どれだけ踏み込めるかが、人生の、仕事の成否を分ける気がするのです。

法力で投入れる

 この夏、山陰に来たのは、2つの目的があります。

 1つは投入堂を見ること。

 鳥取の山中にある投入堂は、三徳山三佛寺というお寺の奥院です。平安時代後期、706年の建造とされています。

 役行者が法力で岩窟に投げ入れたので「投入堂」。そんな伝説がある建物を、一度見てみたいと思っていまいた。

 途中の道路に鳥居があります。山や自然自体を信仰の対象とする、山岳寺院と言ってよいでしょう。

 登山参拝の受付には、以下のような看板があります。

 投入堂参拝は、厳しい試練の道

 観光気分、観光装備での入山はご遠慮願います

 この看板に偽りなし。

 最低限の準備はして行ったほうが良いと思います。前半から、かずら坂、くさり坂と難所が続きます。

 途中で引き返している人高齢者もいました。実際に、年に何人かは亡くなるという話しです。

 前半の山場を越えると、まずは文殊堂。

 大きな岩に直接柱をたて、大きく空へ張り出す回廊に、手すりはありません。

 落ちれば命さえも危うい高さ。

 安全確保一辺倒で、反対に生を感じる機会は減っているのかもしれません。

 登り始めて1時間程。突然目の前に現れました。

 少しその場に居たのですが、目の前に現れた瞬間、誰もが驚嘆の声を上げていました。

 期待して見に行った上で、それに応えてくれる建物が、日本にいくつあるのだろう、とも思います。写真家、土門拳が「もっとも美しい建築」と称えた投入堂。

 垂直に切り立った岩盤のくぼみに、貼りつくように建つこの寺。どのようにして建築されたのか、未だ解明されていないそうです。

 確かに「法力で投入れた」と言いたくなります。
 
 建築とは、その建物だけを指すのではない事が良くわかります。簡素で、力強く、美しいその姿は、この圧倒的なロケーションが、それらを限界値にまで高めているのです。

 非常に満足して山を下りました。出来ればあの縁側にも座ってみたかったのですが。

 もう1つの目的はアリジゴク。

 大阪では見つけるのにあれほど苦労しましたが、ありました。

 北条砂丘の松並木の中で、いくつも見つけることができました。

 アリジゴクは、ウスバカゲロウの幼体です。

 スリバチ状の罠にアリが落ちると、下から砂をかけて、更に下へと導くのです。その名の通り、アリにとっては地獄。しかしその様を見て軽く感動を覚えました。

 スコップで掘り起こしましたが、意外に小さいものです。大きいもので体長7mmくらい。

 前には進めず、すぐにお尻から砂地に潜っていく様には、哀愁すら感じます。結局、持ち帰ることに。

 子供達は、何か気に入らない事が起こると、文句ばかり言い出だします。しかし、子供と私の好奇心を満たす旅が、いつまで続けられるのか、とも。

 山陰の旅も今日までです。

ゲゲゲ

 今年の夏季休暇は、山陰へ来ました。

 早朝に大阪を出て、8時頃に境港に到着。まずは水木しげるロードを歩きました。水木しげると言えば、勿論ゲゲゲの鬼太郎。

 駅からの目抜通りに、ブロンズで出来た妖怪が、数メートルおきに並びます。スタンプラリーもあり、子供連れにはもってこい。

 街を上げての取り組みにも、好感がもてます。

 遊び疲れて皆が寝ている間に、植田正治写真美術館も訪れました。高松伸の設計ですが、彼も山陰の出身だったはずです。

 大山へ開かれた、眺望が見事でした。

 夕食は、皆生(かいけ)温泉で。

 水木しげるは、幼少期に父の故郷、境港へ移り住みます。

 家に出入りするまかない婦のおばさんが、聞かせてくれた妖怪話に、強い影響を受けたのです。記念館には以下のような言葉がありました。

 どうでもいいようなことを真剣に考えて、居ると信じる。それが妖怪なんだ。 

 まさに「一隅を照らす」です。

 画家志望だった水木は、戦争で左手を失います。なかなか売れず、何とかなったのが40歳を過ぎた頃でした。

 知らない街へ行き、誰かの人生を知る。心の隙間に何かが染み込むよう……

 3泊4日、山陰の旅は続きます。

女の仕事

 連休の後半は梅田での建築家展へ。

 翌7日は茨城県のつくばへ打合せに行っていました。

 バタバタと日常に戻って行くのですが、もう少し伊勢志摩の話を。

 連休前半、羽で海女さんの実演ショーを見ました。この日は気温20℃、水温14℃。

 それでも3日前からウェットスーツを着ていないと説明がありました。

 この海女と言う仕事。何故女性なのだろうと思っていました。理由はいくつかあるようです。

 1つは、女性の方が皮下脂肪が厚く、寒さに強いから。これは想像できます。

 その他、沖での漁は漁獲も多いが、危険が伴う。それで、沿岸部の潜水漁業は女性の仕事になったとありました。

 また夫婦で働く夫婦船も多く、その際は漕ぎ手が男の仕事だったのです。船と言えば、エンジン付きをイメージしますが、漕ぎ出すとなるとこれは重労働です。

 現在は、男海女(海士)が増えているとのこと。ウェットスーツの着用が認められたり、経済的不況なども影響しているようです。

 ドイツ帝国の礎を築いたビスマルク。鉄血宰相の名で知られますが以下の言葉を残します。

 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

 歴史は時代の積み重ね。その時代が変われば歴史も変わります。

 男らしい、女らしいも時代によって変わるのです。

神宮式年遷宮、お伊勢参り

 友人がエクシブをとってくれました。

 宣伝の写真みたいになっていますが。

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 朝、海沿いをジョギングしていると、あちこちから煙が上がっていました。

 流石漁師の街ですが、煙をみるのも久しぶりです。煙が上がらないの見て、民の貧困を嘆いた詩がありました。

 火が生きる証なのだと、理解できます。

 昨日はまず、みえ子供の城へ。

 私としては、海の博物館へ行きたい気持ちもありますが、子供の要望にも応えなければと。

 丁度イベントがあったようで、屋台も出ていました。

 わたがしが100円。

 一応満足してくれたので、伊勢神宮へ。鎮座2000年、日本最高位の神社です。

 この秋には、20年に一度の神宮式年遷宮を迎えることもあり、凄い人出でした。

 急がば回れの法則で、2km地点までたどり着きました。しかしここまで。車を妻に託し、子供と徒歩で目指すことに。

 秋に備え、着々と準備が進んでいるのが解ります。

 木造建築の粋を集めた美しさは、巨匠ブルーノ・タウトも絶賛しました。

 彼は、桂離宮、飛騨高山の建築も称賛しており、日本人以上に日本の建築を愛した建築家です。

 時代が時代なら、一生に一度のお伊勢参り。

 社殿は撮影不可で、現在もその神秘性は保たれています。

 木々の隙間から見える屋根が光を受け、黄金のように輝いていました。刺激の多すぎる時代が果たして幸せなのかどうか。

お奈良

 今日は成人の日。15日でないことに、違和感を感じると言い続けて数年。

 今年は雪の地域も多く、特に女性は大変だったでしょう。しかし、それはそれで記憶に残る一日になったかもしれません。

 20年経てば全く違和感のない若者が成人するのですから、時は全てを凌駕する訳です。

 私達は奈良の東大寺に行っていました。

 市内も若草山を境にうっすらと雪化粧。

 冷たい雨の一日でした。

 濡れそぼった鹿をみると可愛そうな気もしますが、たくましさも感じます。

 子供の絵本に「だじゃれ日本一周」という本があります。

 大阪府、たこやき食べてお釈迦プー。

 奈良県、それならと大仏さんもおならけん。

 全く罰当たりな絵本ですが、それで大仏さんを見に行こうか、となったのです。

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 「絵本より大きい」というのが娘の感想。

 それはそうです。

 柱くぐりもしてきました。

 私もくぐれるかなと思いトライしましたが、肩が入らず断念。

 これはどんなご利益があったのか。

 奈良県立美術館で「田中一光展」があったのも、久しぶりに奈良へ行こうと思った理由。

 彼は奈良出身でした。

 エントランスのみ撮影可。

 私が彼の名前を初めて聞いたのは、大学時代でした。

無印良品のデザインをしていると、美大に行っている友人に教えて貰ったのです。

 展示はポスター、グラフィックデザイン、スケッチなど、かなり見応えがありました。

 「具体」の吉原治良や、抽象画の元永定正から影響を受けていたと知り、常に貪欲に、刺激を求めていたのだと分かったのです。

 やはり一流は一流と交わるもの。

 また、彼は奈良という街の風土に大きく影響を受けているようです。

 古都奈良の特徴を、京都と対比させて語られることが多くあります。建築で言えば、武骨で実直、と表現したくなります。

 それらの風土は、今なお街に息づいていると感じます。

 県庁、奈良市民ホール、奈良国立博物館など現代建築の見どころも沢山。これらはまた晴れた日に。

 子供達は奈良県に入ったとたん「おならけん」とホントにおならしました。車の中で。

 奈良県の皆さん、どうか許しを。