カテゴリー別アーカイブ: 04 建築

湖底でキュウリを刻むように

 夏休みを終えてから、何組かの方が建築相談に来所しました。

 詳細は控えますが、ある夫妻は関東から車で。片道8時間を、交代で運転しながらとの事でした。今後の事は別にしても、感動すら覚えます。

 先週の土曜日、その夫妻は3時間程の打合せの後、夕方に大阪を発ちました。見送った後、車が止まっていた下に、茶色の液体が少し落ちていました。スタッフに「流しておいて」と頼み、次の打合せの準備を始めたのです。

 全ての仕事が終わり、帰宅しようと事務所を出ると、先程流したところに、少し雨が浮いていたのです。もしかすると車のオイルかなと思ったのですが、その時は、次回会った時に伝えないと、位に思っていました。

 翌日メールがあり、あれはエンジンオイルで、ディーラーが点検の際に蓋を閉め忘れていたとの事。それで噴出していたのです。

 帰路の高速道路でエンジンから異音が聞こえだし、サービスエリアに入ってその事実が分かりました。自宅まであと100kmで、本当に事故等にならずに良かったと思います。

 自宅に戻ったのは日曜日の朝だったそうです。

 先週も事務所に見えました。今度は新幹線で来て、帰りは飛行機にしましたと笑っていました。

 気を遣って貰い、お土産を2つ頂いたのです。ひとつはハチミツ。

 加えて、原宿焼きショコラ。
 
 「こんなトラブルも、家を建て終ったあと、あんな事もあったなあ、という思い出になればいいなあ、と思っているんです」と。

 そうです、そのくらい前向きな感じで考えられると、とっても良い家になりますよ、と話していたのです。

 家に大切なのはストーリーですから。

 この出来事から思う事があったので、少し書いてみたいと思います。

 私は釣りが好きで、若い頃はかなりのめり込んでいました。今江克隆というプロアングラーが居るのですが、彼の本にこんな事が書いてあったと思います。

 重いルアー(疑似餌)で底の魚を狙う時。湖底をトントンと叩きながら、丁度キュウリを刻むようなイメージで動かしてくる。すると、僅かにフッと軽くなったり、反対に重くなったりする瞬間がある。そんな時、魚はルアーに対して何らかのリアクションを起こしている。

 大切なのは一定のリズムで。同じリズムをキープしていれば、その違和感を感じやすい。

 この記述で、釣り方が想像できる人は、かなりの釣りマニアですが、伝えたいのは釣りの話ではありません。

 いつも掃除をしているから、駐車場の床の変化に気付けたと思います。また、折角その違和感を感じていたなら、先に何らかの連絡を入れれば、もしかすると、エンジンオイルが無くなっていくという事故は防げたかもしれません。ジョブズの言う「直観を信じる勇気を持て」です。

 家を建てるという事は、非日常の行為と言えます。しかし、私達にとっては日常の積み重ね。

 毎日やるべきこと、例えば、掃除を、高い意識で、同じようにする事は、非常に重要な事だと、改めて感じたのです。出なければ、クライアントの心の機微を感じる事などできません。

 若い頃は、大きな夢を持ちます。今、それが目の前にある日常と直結している、と解ります。

 今日はカラッと気持ち良い朝。しっかりトイレ掃除します。

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■■■『大改造!!劇的ビフォーアフター』■■■ 7月8日(日)「匠」として出演しました

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中国新聞 リフォーム・エクステリアフェア

 朝夕には秋の気配も感じられ、ようやく寝苦しい夜は脱したでしょうか。

 気温が下がり始めると、あの酷暑さえ名残惜しい気になるもの。

 この夏にしておかなければならない事は、この夏のうちに……

 9月15日(土)、16日(日)に、『中国新聞リフォーム・エクステリアフェア』というイベントがあります。
 
 このイベントは2日あるのですが、セミナーの依頼があったのが8月の初め。16日(日)の11:00からと、15:00からの2回セミナーをする事になりました。

 一昨日、中国新聞にも広告がでたので、告知OKとなりました。

 色々なセミナーがある中で、スペシャルセミナーという位置づけで告知されています。

 ややプレッシャーも感じますが、中国地方の方、良ければ遊びに来て下さい。

 内容の通り、これも「ビフォーアフター」の件があったから。勘違いしないようにしなければなりませんが、有難い事だと思っています。

 事前申し込み制となっており、会場は広島産業会館西展示館で今までで一番大きな会場です。

 どんな話をするのか、まだ検討中ですが、基本的にはリフォームの可能性を伝えたいと思っています。

 前回のセミナーで、自分の中で少し方向転換しました。良い講師を目指すのではなく、伝えたいことを全力で伝えるという事。会場はどんな空気になるのか。楽しみにしています。

 現在進行中のクライアントに、広島に詳しい方が居ます。

 「どうせ食べるなら、ここですよ」と広島お好み焼きの店も教えて貰いました。
  
 さて帰りの新幹線は、心地よいものとなるか。

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木の音楽ホール

 昨日の朝、9時頃に新横浜駅に着きました。

 稲盛和夫さんが若手に経営を教える盛和塾の世界大会に参加する為です。

 会は昼からなので、早めに来て横浜の建物を見に行って来ました。今回はJRの桜木町駅へ。山手へ徒歩5分。紅葉坂を登れば、神奈川県立音楽堂が見えてきます。隣接する県立図書館と共に前川國男の設計で、完成は1954年。戦後初めての、公共音楽ホールなのです。

 内部は木でできており当時の新聞には、「東洋一の響き」という記載もありました。

 電話で見学の予約をしていたので、ホワイエ、ホール内とスタッフが案内してくれます。

 この建物は、約10年前に建て替え計画が持ち上がります。

 その計画に反対したのが、このホールを愛する音楽家や、この建築の価値を知る建築界の人達でした。客席は1,000席程で、一席がやや小さいという問題もありますが、現在の音楽ホールと比べると残響時間が短いそうです。

 それが、時間差なしに全ての観客へダイレクトに音が伝わると、一流の音楽家の間でも、非常に評価が高いそうなのです。

 館のスタッフも、是非一度聴きに来てくださいと言っていました。

 ステージの上にも、立たせて貰いました。

 結局、建て替え反対の署名が多く集まり、存続が決まりました。そして3年前に耐震工事が終わったのですが、それを機にエントランス部分を、完成当初の黄色に塗りなおしたのです。

 戦後すぐは、カラフルな色が音楽堂らしくないという意見があったのか、50年を経てオリジナルの色合いに戻った訳です。

 これら詳細は、全て案内してくれたスタッフ、また館の責任者の方が、資料を出してきて、熱心に説明してくれたものです。最後は、面白いものがあるんですと、地下倉庫まで連れていってくれました。

 「これは、前川さんオリジナルデザインのポスター立てで、これはコントラバスチェアなんです」と。座面の裏には、昭和29年10月と書かれてありました。

 地域の人に愛されて、この建物は残ったんですという言葉通り、彼らの愛情をひしひしと感じました。冷たいお茶まで入れてくれて。

 前川は戦後、復興に向かう日本を牽引した建築家です。

 戦後10年たらずに完成したこの建物は、DOCOMOMOより「日本の近代建築20選」にも選ばれています。(DOCOMOMOは、近代建築の記録、保存の為にできた国際組織)

 「前川國男 現代との対話」松隈 洋 編のあとがきに、彼の言葉が紹介されています。

 「建築家はその精神の自由を確保して、時流にも、営利にも権力にも、悪徳にもゆがめられることなく、刻々のきびしい決断を集積してその建築を築かねばならない職能人だったはずなのです。(中略)人間における不易なもの、そして建築家において不易なもの、それを守り続ける意気地がなくて、どうして人間に生まれ建築家を志した効がありますか」
 
 堅苦しくもありますが、読めばなにかソワソワしてきて、居ても立ってもいられない気持ちになります。

 戦前、東京大学を卒業するとすぐにル・コルビュジエに弟子入りします。2年の修行を終え日本に戻ると、アントニオ・レーモンドに師事します。初期の作品にはその影響が色濃く出ているのです。

 その影響に解放された傑作が1961年の東京文化会館や、1977年の熊本県立美術館なら、その影響を受けながらの傑作が、神奈川県立音楽堂と言えるかもしれません。

 その色使い等にも、コルビュジエの影響が色濃く表れています。 

 作品は前川事務所によるものですが、時代の流れ、気分のようなものが織り込まれているのが建築です。

 それが私の心を、一気に60年をさ遡らせるのです。

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匠という仕事

 昨日、無事「天井から雨の降る家」が放送されました。

 時間が来れば放送は終わるのですが、今はほっとしています。

 関わった人の数、エネルギーを考えると、無事放送が第一義でした。また、改めてこの番組の認知度を実感します。

 昨晩から、感想やメッセージを本当に沢山頂きました。

 まずは、チャンスを貰ったクライアント、一緒に取組んでくれた市川工務店と各工事会社、そして番組に感謝したいと思います。

 完成後、対面する場面が放送にありましたが、その数日後、クライアントから電話がありました。

 「先日は撮影中だったのでろくにお礼も言えず……ほんとに喜んでます。日に何度も庭を眺めています」と。

  光、風、そしてイロハモミジ。自然をどれだけ建築の中に取込めるかは、建築の普遍的なテーマだと考えています。それぞれの建物は、私の考える解の一つに過ぎませんが、心から喜んで貰えたら、これ程嬉しい事はありません。

  普段クライアントには必ず「守谷」と名前で呼んで貰います。役職名などではなく。

  例えば私が、あるクライアントを「社長!」と呼ぶとします。何かそれでは、何か緊密な関係が築けない気がするからです。

  しかし今回、クライアントは私を「匠さん」と呼びます。ふと考えました。

  これは番組が長年、視聴者に夢を与え続けてきた結果なのだと。喜んで、匠という仕事を引き受ける事にしたのです。

  それもようやく一区切りがつき、今はこのプロジェクトに関われ、本当に良かったと思っています。しかしこれで、事務所の能力が劇的に伸びる訳ではありません。

 一日生きることは、一歩進むことでありたい
 -湯川秀樹-

 毎日、全場面を、全力で判断する。これだけが私にできる約束です。

 最後に、知人から最も多かった質問はこの2つでした。

Q 本当に依頼者は途中を見ていないの。
Ans. 見てません。

Q キャッチフレーズは?
Ans. 自分が決める訳ではないので、分らない。

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大改造!!劇的ビフォーアフター

 日曜日の夜に放送されている『大改造!!劇的ビフォーアフター』。来週末「匠」として出演します。

 番組のwebサイトにも予告がUPされたので、改めてお知らせします。タイトルは「天井から雨が降る家」。確かに雨漏りは凄かったです。

 この番組は2002年4月にスタートし、2006年3月で一旦終了。単発特番を経て、2009年4月に再スタートしました。これを「Season II」と呼びます。

 コンセプトは『家族の問題を「リフォーム」で解決する』。年間、20数名という「匠」のオファーを貰うのは光栄な事ですし、自分の力量を試してみたいという気持ちもあり、喜んで引き受けました。

 是非見て貰いたいと思います。ある1点を除いては。自分が話している所だけは、まともに見れないというのが正直なところ。それなら受けるなという話ですが。

 初めての改修の仕事は、1998年「白馬の山小屋」でした。

 縁あって学生の頃、何度か泊めて貰ったのですが、当然その頃はのんきなものでした。

 しかし、いざ仕事をするとなり、既存建物と向かい合った時には、大いに緊張しました。

 自分に何とか出来るのだろうか、と。最新の仕事は、「Epic Games Japan」です。

 2010年 「Epic Games Japan」

 2006年 「光庭の家」

 2004年 「RED-Lab」

 2004年 「岡崎のマンション」

 2003年 「吉松歯科医院」

 1998年 「Spoon cafe」

 BEFORE

 動機は、コストを抑えたい、この建物に愛着があるなど様々です。

 しかし、既存の建物を活かそうと考える時、新築では考えなかった事を考えます。

 何故この建物は改修されなければならないのか。どうして、この地域には同じような構造体が多いのかなど。元の建物を活かそうと、調べれば調べる程、色々なことが分かってくるのです。

 使い捨てでは、どうも地球がもたなってきました。人が作ったものとは言え、元からあるものは環境の一部として受け入れるくらいの考えが必要だと思います。

 大改造はしました。さて、「劇的」となったのかどうか。最終版はまだ私も観ていないのです。

道路内に建築は出来ません

 昨日は昼過ぎまで奈良で現地視察。

 その後所要を済ませ、住之江にある銭湯へ行きました。

 湯楽はいわゆるスーパー銭湯ですが、先週に続いてです。

 中東の死海のように浮かぶ「死海風呂」があるのです。

 先週の日曜、入って子供と探すも見当たらず、スタッフに聞いてみました。偶数日は女湯との事。

 子供は文句を言い、ふてくされてしまいました。

 アヒルのオモチャが無数に浮いている浴槽でお茶を濁したのです。

 下の娘はそれなりに楽しんでいましたが。

 そして昨日。

 流石にカメラは持って入れないので、写真は共にwebサイトから。

 実際には水着は要りません。

 理論上は簡単な話ですが、体験すると何とも言えない浮遊感でした。

 ただ擦り傷跡はあとは、かなりしみました。土日は750円ですが、ちょっと楽しめます。 

 銭湯に来る前、阪神高速の池田線を走っていると、1キロ程工事渋滞の情報。

 梅田出口付近なので、カメラを持って準備していました。 

 ゲートタワービル(ビーハイブ)は、1992年竣工のオフィスビルです。

 阪神高速はビルの中を通る箇所がいくつかあります。

 しかしこのビルが最もダイナミックにくり抜かれています。

 建築基準法44条で、道路内の建築は制限されています。

 しかし関連法を一部改正し、1989年に立体道路制度というものができました。

 これによって、道路の上下等に建築が可能となったのですが、その適用第一号が、ここ池田線の梅田出口なのです。このビルの5階から7階は阪神高速がテナント扱いになっています。

 のビルはダブルコア方式が採用されています。高速道路部を避けて、エレベーター等が配置されているのです。

 2011年の1月「住まいの設計」という雑誌で、大阪の名建築を紹介するというコラムを書きました。その際、このビルも調べたのですが、調べれば調べる程気になるビルでした。

 その際は、オリジナルの写真が必要で、高速道路の上で三脚は立てられないので断念しました。

 本当の事を言えば、何度か車からトライしたのですが、上手く撮れなかったのです。

 条件が厳しければ厳しいほど、創り手として燃えます。敢えて言わせてもらうなら、この特別な条件にふさわしいデザインであれば、なお良かったと思うのですが……

 厳しい条件の仕事、大歓迎です。

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7月8日(日) 7:58pmから8:54pm「匠」として出演します 

上野で見る、師弟の仕事

 6日(火)の朝、9時頃東京に着きました。そのまま地下鉄で上野へ。

 何回か来た上野ですが、まずは中に入れていなかった国立西洋美術館へ。

 こちらは、20世紀を代表する建築家、ル・コルビュジエ日本唯一の作品です。

 向かい合って建つ、東京文化会館は弟子、前川國男の設計。

 実施設計や現場監理は、弟子である前川、坂倉準三、吉阪隆正らが行ったようです。

 更に北へ歩くと国立東京博物館が見えてきます。

 エントランスをくぐって、すぐ西へ向うと見えてくるのが法隆寺宝物堂。

 こちらも、やっと見る事が出来ました。

 その名の通り法隆寺の宝物が収蔵されています。

 内部は荘厳という表現が相応しい神聖な空間でした。
 
 完成は1999年で、谷口吉生の作品です。

 ニューヨーク近代美術館(MoMA)の新館、豊田市美術館、丸亀市現代美術館と共に、彼の代表作と言えます。

 いずれも秩序が保たれた清潔なたたずまいで、美術館のエキスパートと言えるでしょう。

 この敷地に入ってすぐ、右手にある東洋館は、谷口吉郎の設計です。苗字が示すとおり、彼の父親の作品なのです。

 同じ敷地内で、父子が国の施設を設計するというのは極めて稀な事。こちらも何らかの形で、精神の継承が行われていると考えるのが自然だと思うのです。

 次の目的地は、浅草のすぐ西、田原町駅近くにある善照寺。

 細い路地を抜けると突然現れます。

 こちらは白井晟一の代表作で、鉄筋コンクリート造の切妻屋根と正面にある入口だけというのシンプルなファサードです。

 周囲に持ち上げられた片持ちの床が美しく、建物を軽快に見せています。

 住職が建物に大変愛着を持っていると聞いていたので、不在だったのが残念と言えば残念。 

 その後、都内のスタジオへ向かいました。

 『大改造!!劇的ビフォーアフター』の収録の為です。

 昨年の10月中旬、番組のプロデューサーから電話がありました。当事務所で一度会い、その後実際に依頼したいと連絡がありました。スタートしたのは、11月の中頃。

 それから約半年。ようやく工事が終わり、スタジオ収録となったのです。スタジオ収録もスムースに進み、1時間ほどで終了。

 まだ編集などは残っているようですが、放映日も7月8日(日)と決まりようやく肩の荷がおりました。

 経緯については、番組の放映が終わってから、現場日記にUPしていくつもりです。 

 6日(火)はホテル泊で、翌日は「四丁目の家」の撮影に行ってきました。

 生憎の雨でしたが、内部は良い写真が撮れれました。

 こちらもまた、現場日記にUPします。

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■■■『大改造!!劇的ビフォーアフター』■■■ 
7月8日(日) 7:58pmから8:54pm
「匠」として出演します 

日本の職人

 今日は朝から庭工事に立ち会っています。

 予算が厳しいときは、クライアントと一緒に庭木を買いに行く時もあります。

 しかし、やはりプロの仕事は違います。

 下草に使われるリュウノヒゲ。

 日陰でも育つ強い草で、タマリュウと近いもの。

 こちらのほうが毛足が長いのが特徴です。

 しかし、混同されているケースもあるとのこと。

 現場には、この道何十年という職人が右にも左にも。

 学ぼうと思えばいくらでも学べるところです。

 そんな造園職人の足にはタビ。

 足裏で土をならす姿はまさに日本の職人です。

無料相談会って

 4月28日の土曜日は全国的に晴れ空。30℃を超えたところもありました。

 私は阪急電車に乗って三宮へ。

 西宮北口を超えたあたりから山が迫りだし、一気に景色が変わって行きます。

 三宮駅を降りても、山はすぐそこという感じ。

 函館、長崎、神戸。坂のある港町は景色が劇的に変わります。

 そのあたりが観光地としての魅力でもあります。

 この日の目的は、三宮センター街にあるジュンク堂で、相談員をすること。

 店内にも「建築家による無料相談会開催」と、横断幕が掲げられています。

 私が言うのも何ですが「無料相談会」と聞くと、何か怪しく感じます。無料のものってあるの?と。

 しかしこの場は、日本建築家協会近畿支部がジュンク堂が協賛して開催される無料相談会。

 建築家としての品位を欠くような行為は禁じられています。勿論求められれば、仕事をすることも可能ですが、あくまで社会貢献の1つという位置づけです。

 5階のエスカレーター横にブースがあります。三宮店はこの日で3回目です。

 勝手を知っているというのは強いもので、気分転換くらいの気持ちで座っています。

 担当は3時半から6時までの2時間半。その間に2人の相談がありました。

 前回もそうでしたが、建築雑誌に載っているのを見たとか、webサイトを見ていると言う方も増え、長くやって来たんだなあ、という感慨もあります。

 これまでに何度か、このような相談がありました。

 「家にはこだわりがあったが、建築家(建築士)に頼むと高くなると思い違う方法を選んだ。しかし担当者の対応に納得できず困っている。どうすれば良いか」

 私としては、まず納得できていない事を伝える事。その後の対応にも納得できなければ、担当者の上司に伝えること。それでもどうしても納得できなければ、解約も辞さないという覚悟をすること、というアドバイスをします。

 当事者ではないので、勝手な事は言えませんが、誰もが自由に家を建てる権利を持っているはずです。お互が納得できない状態で家創りを進めても、共に幸せになれる可能性はないと思います。これは建築に限ったことではありませんが。

 進め始めたことをストップするのは勇気のいることです。しかし、一生後悔することに比べれば、たやすい事と考えるべきだと思います。

 お互いが納得できる点が見つかり、良い家が建つのが最良のストーリーです。何とかそこにたどり着くためにも、お互いの覚悟が必要だと思うのです。

 これらの相談会に出て一番思うのは、何一つ勉強にならないことはないということ。もし誰も来なくても、本屋さんの中で、2時間半も人を観察する機会など滅多にないはず。

源ヶ橋温泉

 スーパーに仏花があるのを見て、彼岸なのだと気付きます。

 近いうちに墓参りに行かないと。日常を言い訳にせず……

 火曜日は祝日だったので、子供を連れて銭湯へ。遠くはなく、自転車では行けずで、先送りにしていた所があるのです。

 「源ヶ橋温泉」は大阪市生野区林寺1丁目にある銭湯。温泉ではありません。

 この建物、銭湯では珍しく国の登録文化財に指定されているのです。

13 - コピー

 その名の通り、以前は橋があったのでしょうか。

 後で調べるとこんなサイトを見つけました。

 生野本通商店街と疎開道路の交点、すぐ南西にあります。

 建物の完成は昭和12年。

 当時の富豪が建てたもので、随所に遊びがみられます。

 建築様式はいわゆる和洋折衷。

 正面の自由の女神像が掲げるのは温泉マーク。入浴とニューヨークをかけたようです。

 壁はタイルで屋根にはシャチホコと何でもありなのです。

 番台に座る経営者のおばさんに色々聞いていると「関西ウォーカーを見て来たの」と尋ねられました。阿倍野Walkerという特集号が出たようです。

 建築の仕事をしているので、前から興味があったと言うと、更に色々教えてくれました。

 先代が、昭和17年に買い取ったこと。文化財とは言え、標識を一枚置いていくだけで、何かの指導があったり、補助があったりする訳ではないこと。この時代、銭湯は大変……など。

 それはそうだと思います。

 大人、子供、幼児の3人で600円。コインパーキング代と同額でした。

 脱衣室の天井は5m程ある格天井で前庭付。最大40人くらいは入れそうです。

 浴槽こそ小さ目ですが、洗い場床は大きな石畳敷き。水栓も20はあったと思います。

 これらを維持するのは間違いなく大変です。

 子供はスーパー銭湯を喜びますが、何かと理由をつけて銭湯へ行きます。

 安いのが魅力ですが、風呂の無い家がない今、これらが永遠に残る事は考えられません。

 江戸では防火の観点から、基本的には内風呂を禁じていました。内風呂が一般化したのは高度成長期ですから、この40~50年のことです。

 銭湯時代が歴史的には圧倒的に長く、街の交流の中心だったのです。また銭湯に行かなければ、子供が本当の刺青を見る機会も無かったはずです。見た方が良いかは別にしても。

 以前、白髪のお爺さんが腕の部分だけ、刺青を消していました。皮膚移植をするのでしょうか。その人生を勝手に想像します。銭湯には人生の喜怒哀楽があるのです。

 B級グルメではありませんが、B級建築めぐりも合わせて、銭湯は楽しいのです。