カテゴリー別アーカイブ: 04 建築

源ヶ橋温泉

 スーパーに仏花があるのを見て、彼岸なのだと気付きます。

 近いうちに墓参りに行かないと。日常を言い訳にせず……

 火曜日は祝日だったので、子供を連れて銭湯へ。遠くはなく、自転車では行けずで、先送りにしていた所があるのです。

 「源ヶ橋温泉」は大阪市生野区林寺1丁目にある銭湯。温泉ではありません。

 この建物、銭湯では珍しく国の登録文化財に指定されているのです。

13 - コピー

 その名の通り、以前は橋があったのでしょうか。

 後で調べるとこんなサイトを見つけました。

 生野本通商店街と疎開道路の交点、すぐ南西にあります。

 建物の完成は昭和12年。

 当時の富豪が建てたもので、随所に遊びがみられます。

 建築様式はいわゆる和洋折衷。

 正面の自由の女神像が掲げるのは温泉マーク。入浴とニューヨークをかけたようです。

 壁はタイルで屋根にはシャチホコと何でもありなのです。

 番台に座る経営者のおばさんに色々聞いていると「関西ウォーカーを見て来たの」と尋ねられました。阿倍野Walkerという特集号が出たようです。

 建築の仕事をしているので、前から興味があったと言うと、更に色々教えてくれました。

 先代が、昭和17年に買い取ったこと。文化財とは言え、標識を一枚置いていくだけで、何かの指導があったり、補助があったりする訳ではないこと。この時代、銭湯は大変……など。

 それはそうだと思います。

 大人、子供、幼児の3人で600円。コインパーキング代と同額でした。

 脱衣室の天井は5m程ある格天井で前庭付。最大40人くらいは入れそうです。

 浴槽こそ小さ目ですが、洗い場床は大きな石畳敷き。水栓も20はあったと思います。

 これらを維持するのは間違いなく大変です。

 子供はスーパー銭湯を喜びますが、何かと理由をつけて銭湯へ行きます。

 安いのが魅力ですが、風呂の無い家がない今、これらが永遠に残る事は考えられません。

 江戸では防火の観点から、基本的には内風呂を禁じていました。内風呂が一般化したのは高度成長期ですから、この40~50年のことです。

 銭湯時代が歴史的には圧倒的に長く、街の交流の中心だったのです。また銭湯に行かなければ、子供が本当の刺青を見る機会も無かったはずです。見た方が良いかは別にしても。

 以前、白髪のお爺さんが腕の部分だけ、刺青を消していました。皮膚移植をするのでしょうか。その人生を勝手に想像します。銭湯には人生の喜怒哀楽があるのです。

 B級グルメではありませんが、B級建築めぐりも合わせて、銭湯は楽しいのです。

東京タワー

 昨日は朝一番の新幹線で東京へ。

 「四丁目の家」の1ヵ月点検でした。

 こちらはまた現場日記にUPしたいと思います。

 夕景撮影まで時間があいたので、六本木、麻布周辺へ建物を見に行って来ました。

 まずは地下鉄の六本木1丁目から南に歩き、麻布台へ。

 「和朗フラット」は1936年頃(昭和11年)に建てられた木造アパートです。

 1号館、2号館、4号館が現存し、現役の賃貸アパートなのです。

 こちらは、年末建築相談に見えた夫妻から教えて貰いました。

 建て主が大工とのんびり作った感じが出ています。
 
 窓の形状、色遣いは当初のままなのか、その名の通り、優しい外観です。

 アパートにつき、中には入れず。

 飯倉片町の交差点まで戻り、東を見ると東京タワーが目の前。

 その足元にみえるのが「ノアビル」です。 

 先日見学に行った「びわこ北寮」の白井晟一設計です。

 桜田通り、外苑東通りの飯倉交差点に建ちます。

 哲学的と言われる作品の真骨頂と言えるような建築です。1974年の作品。

 こちらも日曜につき、中には入れず。残念です。

 現在のオフィスビルとはかけ離れた形態に惹かれるものがあります。

 曇天の空に、黒の外壁と、レンガの陰影が強い存在感を放っていました。

 美しく、品格を感じさせる、まさに名建築です。

 こちらを「玄人好み」とするなら、対極にあるのが東京タワーでしょうか。


 私が前回来たのは35年ほど前です。
 
 上野動物園に初めてのパンダ、カンカンとランランが来たのが1972年。

 その行列に並んだ記憶があるのです。

 高さ333m。

 大展望台は150mにあります。そこへ向かうエレベーターで、足がすくんでいました。

 開口部から見えるその鉄骨の細いこと。

 「デザインとは、いらないものを切りすてること」はサン・テグジュペディの言葉。

 その感覚を、身を持って感じました。

 怖いもの見たさついでに、ガラスの床も撮っておきました。

 上に乗りません。 

 3月1日にスカイツリーが完成しました。

 東京タワーは、観光施設として残されるようです。

 通天閣も設計した内藤多仲の最高傑作。出来るならそうあって欲しいものです。
 
 東京に名建築は数あれど、もし一つ上げるなら東京タワーだと思っています。

 エジプトと言えばはやはりピラミッド。

 ランドマークたりえる建築は、やはり大きいものなのです。誰もが知っているという意味では、高い、と置き換えても良いかもしれません。

 それがスカイツリーにうって変ることになります。私はスカイツリーが美しい建築(塔)だとは思っていません。

 しかし、そういった視点とは違う迫力で、街のシンボルになって行くのでしょう。高さは世界一なので勿論クリア。後は時間が解決してくれるのでしょうか。

 震災からまもなく1年。

 東京タワーの最上部はその時の揺れで曲がったままです。

 もし同じ事があっても、スカイツリーではこのような事は起こらないでしょう。

 それは間違いなく良いことですが、美さやしなやかさと引き換えにしていると感じるのです。

びわこ北寮

昨日は、「あちこちでお茶できる家」のオープンハウスでした。

総勢30名程の方が見えました。一日中賑やかでとても楽しい空間でした。またUPしたいと思います。

先週の金曜日は、琵琶湖の北端、海津大崎まで行って来ました。

日本建築家協会(JIA)の月例勉強会だったのです。

JR大阪駅から新快速で1時間40分ほど。まずは長浜駅へ。

東にある伊吹山は冠雪しており、独特の偉容を放っていました。

琵琶湖も北端までくると、まるで海岸のような景色になります。

その海津大崎にあるのが、「びわこ北寮」です。

企業の施設につき、一般には見学できません。

設計は白井晟一(しらい せいいち)。1905年~1983年を生きた建築家です。

彼の事を知ったのは、1年目に勤めた設計事務所の所長が、代表作「親和銀行本店」の写真を飾っていたからです。

その写真はモノクロでしたがが、陰影ある外観の写真を鮮明に覚えています。

しかし実作を見た事はなく、初めて白井作品に触れました。

同時代を生きた、丹下健三や、村野藤吾に並ぶような巨匠ですが、彼らを光とするなら、どことなく影のような印象を受けるのです。実際にも「異端の人」のような存在でした。

この「びわこ北寮」の工事中に白井は倒れ、完成を見ていません。倒れる4日前、打設の終わった1階スラブに立ち、琵琶湖を眺めていたそうです。

それらの話は、孫にあたる建築家、白井原多さんが私達に話してくれました。

他の白井作品にこの色使いはありません。

生前から最も好きだった色、ペルシアンブルーが日本の風土に合うかと葛藤していたそうです。

最後にどうしてもチャレンジしたかったのでは、という話もありました。

内部は撮影禁止でしたが、湖岸に開かれた食堂からは、遮る物無く竹生島(ちくぶじま)を望みます。絶景、以外に思いつく言葉がありません。

白井晟一はエッセイに、その「青」への思いを書き綴っています。こう結ばれていました。

 それにしても青は「希望」の色とはよく言ったものだ。

青ほど自然の中に多い色はないかもしれません。

「あちこちでお茶できる家」オープンハウス開催

 先日お知らせした、オープンハウスの詳細が決まりました。

■■■オープンハウス開催■■■

日時: 2月26日(日)午前10時~午後4時

 ご希望の方はお名前を明記の上、E-mail:office@atelier-m.comまたはfax:050-7103-3717 までご連絡下さい。地図をお送りします。

 2月26日(日)までには、引っ越しも終っている予定です。

 空っぽの家でなく、全ての家具が入っている段階でオープンハウスは、なかなか無いと思います。興味のある方は、気軽に遊びに来て下さい。

 以下に現時点での写真をUPします。

 ダイニングから和室見る

 和室からリビング・ダイニングを見る

 寝室

 子供部屋1

 ファミリースペース

 1階WC

 手洗い

 子供部屋2

 2階WC

 洗面の収納

 和室下の引出し

 外観

 外観模型

 2009年3月に計画はスタートしました。

 お子さんの入学などを考え、竣工をこの時期に合わせたのですが、3年間で随分大きくなりました。

 下のお子さんが生まれた2ヶ月後が、第1回目の打合せだったのです。

 カフェのように家のあちこちでお茶できるような家は楽しいだろう、というのがこの家のメインコンセプト。それを最も真っ直ぐに表現しているのが、大きな玄関土間です。

 農業も営むご主人の実家、漁師の奥さんの実家の両方に、大きな土間があったことが、きっかけになりました。

 現在はまだ工事中で写真はありませんが、楽しむ、迎える、開放するなど、需要な役割を担っています。

 土曜日の打合せ時、ご主人がニコニコしながら「模型のままですね」と言っていました。それは良い意味で、と解釈しています。

思い出トランシット

 先週の木曜日。

 年末に続いて阪神山手にある住宅の調査へ行っていました。

 景色を楽しみにしていたのですが、この日はあいにくの雨。

 改修相談なので、まずは建物と敷地の測量から始めます。

 道路と敷地の高低差はおよそ3m。そこから生れる開放感は魅力的です。

 調査の際、平面的な位置関係はコツコツ測っていけば分かるのですが、高さ関係は意外と難しいのです。

 建築というのは水平や直角を基準にして造られるものですが、地面はそうでないからです。

 そこで使うのがこのトランシット。

 本来は、ポイントとポイントの角度、距離を測る為の物です。

 その性格上、水平に回転する望遠鏡がついているので、基準点を決め、その差を測っていけばそれぞれの高低差も分かります。

 このトランシットは精密機械なので、最新式なら40万円から100万円くらい。当事務所が持っている物は相当に古いのですが、それでも30万円から40万円はしたそうです。

 そうですと言うのは、貰い物で正確な金額を知らないのです。

 家業がガラス屋で、高校や大学生の時は、バイトで現場へ出ていました。それもあり得意先の工務店がどこかも分かっていました。

 その会社の社長も私に気を掛けてくれ、アトリエmを設立した時も「大変やろうけど頑張れ」と言ってくれたのです。それから少し経った頃、その会社に寄ると社長が「このトランシット要らんか」と。

 今は物を貰う事はしませんが、その時は1つ返事で喜んで持って帰りました。その後、工務店が店を閉めたと母から聞きました。

 「この家の半分以上は○○工務店からの売り上げで建っている」と良く聞きました。という事は、私の体の半分くらいは、その売上から捻出された食費で出来ている訳です。

 父の知人たちは、一様に私の独立を応援してくれました。「設計の仕事は道楽みたいなもんやから、親に感謝しなあかん」などと言いながら。

 有難いことです。ただ、この仕事を道楽で終わらせるつもりはありません。永続的に発展し続ける設計事務所にしたいと、15年間取組んできました。良い仕事をし、作品を発表し続けて
いれば、どこかで見てくれるかな、とも思っています。

 雨の中、傘をかぶせたトランシットを見て、15年前のことを思い出しただけなのですが。

続建築家展

 webサイトにも告知していたのですが、この土日は岸和田へ行っていました。

 建築家展に参加する為です。

 車で自宅を出ると、途中に「堺市立のびやか健康館」があります。

 設計は黒川紀章。年末に菊竹清訓が亡くなっていた、との報道もありました。

 くしくもメタボリズム運動の盟友が、同じ年に亡くなってしまいました。

 イベントは、ASJ(アーキテクト・シタジオ・ジャパン)という建築家プロデュース会社が主催するもの。

 会場は、岸和田ベイサイドカンカン横にある浪切ホールでした。

 参加するのは2度目で、前回は昨年の5月。

 この時も、行く前はやる気満々

 しかし現実は厳しいもので……

 人は失敗から学ばなければなりません。結論を言えば、満足はしていませんが、進歩はあったと思います。

 ある夫妻は、私が出るのを確認して会いに来てくれました。計画は少し先との事でしたが、とても嬉しい事です。

 一日7時間立っぱなしで2日間。

 足は筋肉痛ですが、進歩があればそれも心地よいものです。

 さて、また呼んで貰えるかどうか。

 先週現場日記に、加美の家へ行ったと書きました。

 ある番組の下見だったのですが、番組側の意向で「イタウバハウス」に変更する事になったのです。

 クライアントに急遽お願いした日程が今日でした。

 ディレクターと撮影スタッフが4人。

 テキパキと動き、道にレールを敷いたり、手動クレーンのよう機材を組み上げたり。カメラは独特の動きをします。

 撮影は夕方まで掛かりました。こちらは、日程が決まればまたここでお知らせします。

原始的に、自然に、そして子供のように

 今年2回目の日記は、前回に続いて茅野、蓼科の旅から。

 初日の出を、名古屋あたりで見れました。

 「神長官守矢史料館」に着いたのが10:00am頃。

 この辺りは盆地なので、寒い時は本当に寒い。

 側溝の水は完全に凍っていました。

 屋根は天然石で葺かれ、外壁にはこの地域でとれた「サワラ」という木を、手割りしたものが張られています。

 壁はワラスサを混ぜたモルタル。

 スイッチプレート、取手などは栃木の鍛冶屋で作られたもの。ガラスは色なしのステンドグラス。

 簡素ではありますが、自然、手仕事に徹底的にこだわっています。

 諏訪神社上社の神官であった守矢家に伝わる古文書を保管するのがこの館の目的です。

 通常跳ね上げ階段は上がっており、蔵の役目を果たしているとの事でした。

 それまでは東京大学で、建築史家として教鞭をとっていた藤森照信氏は、この作品から建築家へと重心を移して行くことになります。

 この次に作られたのが自邸「タンポポハウス」。屋根にタンポポが植えられた、エポックメーキングな作品です。

 氏の進化はまだまだ続きます。屋根からニラの生えた「ニラハウス」。

 建物の頭頂部に木を植えた意匠の建築を発表し続けるのです。昨年の春、九州でみた、「ラムネ温泉」もその一つでした。

 原始的に、自然に、シンボリックに、まるで子供のように。

 実際に求められているからこそ、その場があり続けるのです。

 「高過庵(たかすぎあん)」は、守矢史料館の裏にある小山に建っています。

 誰もが入ってみたいと思う玄関は床の下に。

 同じく藤森氏の作品「空飛ぶ泥舟」が、すぐ横にあります。

 元々は茅野市美術館横に、企画展として作られたのですが、この地に移設されました。

 この場所は藤森氏の実家の敷地のようです。

 子供と話ていると「空飛んでないやん」と。 「だって横にヒモがついてるもん」

 なるほど、子供の意見ももっともです。しかし、単純に凄い建築です。

 その後は、蓼科へ移動してスキー場へ。

 ピラタス蓼科スノーリゾートは、ロープウェイで標高2200mまで一気に登れるのが特徴です。

 頂上付近は-14℃まで下がっていました。

 3歳の娘は、本格的なスキー板を履くのが初めてで。

 最終的には、何とかボーゲンまで出来るようになりました。

 それで、初めて4人でリフトに乗ったのです。

 当分遠出は出来ないだろうという気持ちもあり、休みの間は出来る限りスキーを教えました。

 今日から当事務所も仕事初め。事務所の目標は「新しき計画の成就」です。

 初日から全力でいきます。

茅野より

 新年明けましておめでとうございます。

 今年は2年ぶりに蓼科で年始を過ごしています。

 1月1日の早朝に大阪を出ました。午前中のうちに諏訪ICを出て茅野市宮川へ。

 この地域出身の建築家、藤森照信氏の作品があるのです。

 元は建築史家だった氏は、神長官守矢資料館がデビュー作。

 また、実家もすぐ近くで、そこに建つのがこの高過庵です。

 説明不要の刺激的な建築で、遊び心十分。しかも、おめでたい感じも。

 スタートにはぴったりなので、アップしてみました。詳しいは木曜日に書いてみます。

 それでは今年も宜しくお願いします。

この土地を買う、買わない

 この日曜日、奈良へ行っていました。

 以前、建築相談に来所した夫妻から、メールがあったのです。

 「近くに手頃な土地が見つかったので、一度見て貰いたい」という内容で、相談の際もリフォームにするか、新しい敷地で新築するか迷っているとの事でした。
 
 詳細は控えますが、金額的には納得できるが、幹線道路と線路が近いというので迷っていたのです。まずは自宅を見せて貰い、その後敷地へ向かいました。

 農地を開発し、8区画が売りにでる予定です。土地購入の相談があった場合、伝えるチェックポイントは以下のようなものです。

1. 都市計画上の用途地域の確認。→当然ですが、法的に建築行為が可能な場所かどうか。
2. 接道の長さ、種類、巾員の確認。→基本的に4m以上の道路に接していないと建築行為は出来ません。
3. 上下水道、ガス、電気など、ライフラインの確認→特に上水道の引込管が無い、または細い場 合、結構な費用が掛かる場合があるので要注意。
4. 敷地の地盤強度→軟弱な地盤は改良が必要。その場合は、金額を把握しておく。(農地転用は軟弱な可能性が高い) 
5. 敷地環境の確認→時間帯や曜日を変えて見に来る。出来れば近所の人の話を聞いてみる。住人だからこそ分かる情報が聞ける。

 土地に抵当権が設定されていない等は勿論の事として、ざっとまとめるとこのような感じでしょうか。

 もう一点、実際の金額交渉になった時、焦らない事も重要だと思っています。一般の相場より、高く買うのは問題ですが、凄く得をしようという考えを捨てれば、冷静な判断が出来ると思います。

6. 急かされた場合は断る→急かしたり、焦らさて、というのは物を売るときの常套手段。悪意はなくともよく起こる状況という事を頭に入れておく。

 ここで始めの話に戻ります。

 線路が近くにある敷地は、過去に設計した経験があります。

 よって、20mから30mくらい離れれば大丈夫という仮説を立てました。

 区画によってはクリア出来そうです。

 もう一つは、すぐ横の幹線道路。この距離感は経験がありません。

 経験で言うと、やはり30m以上離れていれば、概ね大丈夫だと思います。しかしすぐ横となると……まずは敷地に目印をつけました。

 その場所に立ちながら、昼間の音の大きさがどの位のものなのか、真剣に聴いてみます。候補の区画では、丁度高架になっており、それ程でも……という気もします。

 小一時間、辺りをウロウロし、ご自宅に戻りました。「で、どうでしたか」と勿論問われます。

 もう一度過去の経験を思い起こしてみると、国道に面した家を思い出しました。母の実家です。

 香川県にある金毘羅さんへ向かう国道沿いにあり、電気屋を営んでいます。今でもその店舗兼住宅はあります。盆、正月に帰った時、私達は2階に寝ていたのですが、大型トラックが通ると、揺れを感じました。

 寝れなかったという程の事はありませんが、他の選択肢があるなら、買いではないと判断。その考えをもう一度整理し、夫妻に伝えたのです。
 
 明けて火曜日、お礼の言葉と共に「今回の土地は、見送ることにしました」とメールがありました。

 新築を楽しみにしていると聞いていたので、複雑な気持ちもあります。どの答えが一番正しかったかは分かりません。

 しかし、現実を公平に見て、最も強い動機に従う、が私の哲学です。悔いはありません。

和の心

 先週の土曜日は、見学会に行っていました。
 
 あいにくの雨だったのですが、個人ではなかなか見れない住宅を見学させて貰ったのです。

 私は社団法人日本建築家協会(JIA)という団体に所属しています。

 その中に、住宅部会という会があり11月勉強会の世話人となっていました。

 何を企画しようか考えた結果、普段はアプローチするのが難しい作品を見てみたいと思ったです。

 お願いしたのが、木原千利先生。

 関西に事務所を構えられて約40年。コンテストの審査員等も務められる建築家で、和の心を追求する作風は、唯一無二の存在なのです。

 快くOK頂いたのは、双葉の家。1992年に竣工した作品です。

 住宅につき、見学の募集人数を30人と限定。部会員の皆さんへ案内を送ると、2日で定員に達しました。

 雨ではありましたが、しっとりとした趣もまた良く、内部も大変良い状態が保たれています。住まい手の愛情も伝わってくる、素晴らしい住宅でした。

 木原先生には、この建物の設計意図、ディティールから建築家としての心構え、また現場の職人との関係まで、2時間以上の時間をかけて丁寧に説明して頂きました。

 参加者は設計を生業とするものばかり。皆が輪になって、その一言一言を聞き漏らすまいと、尊敬の念を持って聞き入る姿は、非常に清々情景でした。
 高台寺の傘亭から、双葉の家の屋根を浮かせるというモチーフのインスピレーションを受けた話。
 
 細く、軽やかに見せたいというのは設計者として永遠のテーマだが、それを実現するには、良い材料で、良い仕事をしないといけない。

 また、何とか一緒に実現したいという職人の仲間をつくらないといけない等々、内容は多岐に渡りました。

 初めて電話した時、非常に柔和な話しにホッとしました。その際に「勉強熱心だね」と言われ「なかなか、本物の和の建築を見る機会がないので、是非お願いしたいです」と応えました。

 すると「私の建築は、和ではないけどね」と少し笑いながら言われたのです。

 伝統的な和の建築を再現するのではなく、自然を慈しむ心、招く心、もてなしの心を具現化しているのだというのが、よくわかりました。

 形式ではなく、追求するのは和の心。とて刺激になり、背筋がピンと伸びた感じです。