伊賀忍者と日本の景色

 昨日の日曜日、忍者の森なるところへ行ってきました。

 場所は三重県の名張市。赤目四十八滝の入口あたりです。

 

 西名阪で奈良を抜け、名阪国道の針か小倉インターで降りて南下。

 大阪市内からは1時間15分くらいでしょうか。

 針インターには大きな休憩所があり、せんとくんと記念撮影しておきました。

 

 忍者の修行体験コースは午前1回、午後1回で予約が必要です。小学生未満は忍者衣装付きで1350円。

 この日の午前は私達だけで、クノイチによるプライベートレッスンでした。

 

 この辺りは現在でも棚田が多く残り、裕福な土地ではありませんでした。

 戦国時代には小国が乱立し、農民は僅かな田を守る為、自衛するほかありませんでした。

 そのゲリラ戦術を磨くうちに忍者と呼ばれる衆が現れたのです。一つ山を隔てた甲賀も同じような図式です。
 
 16世紀後半、全国統一を目指す信長は、伊賀の忍者を大変嫌いました。

 そして1579年から始まる、天正伊賀の乱でこの地を徹底的に壊滅します。僅かに生き残った伊賀忍者は、旅芸人に扮したりして全国へ出て行き、大名に自分を売り込み、何とか職を得たのです。

 

 本能寺の変の後、堺に居た家康を服部半蔵が案内し伊賀の山を越えて三河の国へ逃がしたのは有名な話。
 
 これは、信長への遺恨があったからの事なのです。

 下の子は、赤いクノイチに気おされたか、ほぼ何も出来ず。修行コースが終わってから、もう一度順に回りました。

 昼から、四十八滝と天然記念物オオサンショウウオも見て来ました。

 このオオサンショウウオ。コミカルというか、はっきり言えば気持ち悪いというか……

 およそ3千万年この姿で行き続けています。
 
 そのバイタリティーと図太さがこの姿を形作ったのかもしれません。

 

 柳生、甲賀、伊賀。この辺りに来ていつも思います。

 棚田と里山が織り成す景色は、戦前とさほど変わっていないのではと。

 もしかすると、江戸時代ともそんなに変わっていないかもしれません。
 
 初めて訪れたのは何十年も前ですが、そのときから何か懐かしいと感じていました。

 この200年で世界は大きく変わりました。それ以前のずっと長い時間、日本の景色はおよそこのようなものだったと思います。

 自らの手で自衛せざる得なかったほどの寒村にその景色が残っているのだとしたら、それは至極当然の事だと思うのです。

媚びない、群れない、属さない。そして辞めない

 「あなたにとってプロフェッショナル」とは?」という質問で終わるNHKのドキュメンタリー番組。
 
 その世界で一目置かれている人がその質問に答えます。昨年末、ある町工場の経営者の答えはこうでした。

 媚びない、群れない、属さない。そして辞めない。

 実現を信じて諦めない、辞めないことが大切と続けていました。
 
 人は、無力だから群れるの ではない。群れるから無力なのだ。
 
 これは「反骨のルポライター」竹中労のことば。

 日本で使うプロフェショナルという言葉には、その道のエキスパートというニュアンスが含まれます。誰にも出来ない課題を、解決、改善していく専門家と考えれば、常に孤独なものだと言えそうです。

 エキスパートであるから、その困難な課題がそこに持ち込まれるのですが、鶏が先か卵が先かという話で言えば、元々困難を避けていた人がエキスパートになる事はありません。

 進んで困難と孤独を求める。

 文字だけ見ると、まるで修行僧のようですが、ここに真理があるというのが、竹中労のメッセージだと思っいます。

 困難を解決した時には確実に達成感がありますし、成長できます。そもそも、困難だと思っていただけで、向かい合ってみれば、大した問題ではなかったという事が、大半なのですが。

 先々週、友人の作家が事務所に遊びに来ました。彼は大阪の公園で気流部という一風変わった活動をしています。
 
 その時の写真をUPしていました。

 

 事務所は未だスタッフ募集中。

 進んで困難を求める人お待ちしています。もちろん仕事中だけですが。

続建築家展

 webサイトにも告知していたのですが、この土日は岸和田へ行っていました。

 建築家展に参加する為です。

 車で自宅を出ると、途中に「堺市立のびやか健康館」があります。

 設計は黒川紀章。年末に菊竹清訓が亡くなっていた、との報道もありました。

 くしくもメタボリズム運動の盟友が、同じ年に亡くなってしまいました。

 イベントは、ASJ(アーキテクト・シタジオ・ジャパン)という建築家プロデュース会社が主催するもの。

 会場は、岸和田ベイサイドカンカン横にある浪切ホールでした。

 参加するのは2度目で、前回は昨年の5月。

 この時も、行く前はやる気満々

 しかし現実は厳しいもので……

 人は失敗から学ばなければなりません。結論を言えば、満足はしていませんが、進歩はあったと思います。

 ある夫妻は、私が出るのを確認して会いに来てくれました。計画は少し先との事でしたが、とても嬉しい事です。

 一日7時間立っぱなしで2日間。

 足は筋肉痛ですが、進歩があればそれも心地よいものです。

 さて、また呼んで貰えるかどうか。

 先週現場日記に、加美の家へ行ったと書きました。

 ある番組の下見だったのですが、番組側の意向で「イタウバハウス」に変更する事になったのです。

 クライアントに急遽お願いした日程が今日でした。

 ディレクターと撮影スタッフが4人。

 テキパキと動き、道にレールを敷いたり、手動クレーンのよう機材を組み上げたり。カメラは独特の動きをします。

 撮影は夕方まで掛かりました。こちらは、日程が決まればまたここでお知らせします。

クリエイティブ

 昨年末ですが「イタウバハウス」へ1年点検へ行っていました。

 その際の現場日記に、光熱費のことを書きました。このタイメイングで、出来るだけ聞くようにしているのです。

 その時に教えて貰った金額が、調べてみると少し違ったと、クライアントからメールがありました。

 それで1年分の電気代、ガス代を整理して送ってきてくれたのです。

2011年 「イタウバハウス」
家族構成:夫婦、幼児2人、乳児1人
電気料金/ガス料金
1月  12,237円  /  8,899円
2月  10,864円  /  9,995円
3月  12,456円  /  9,078円
4月   7,870円  /  6,773円
5月   7,146円  /  5,416円
6月   9,134円  /  5,546円
7月  10,733円  /  4,113円
8月  11,081円  /  3,697円
9月   9,265円  /  4,116円
10月  6,699円  /  4,646円
11月  7,840円  /  5,272円
12月 11,445円  / 11,211円

この家は、建築関係の金額だけでなく、土地、土地売買に係わる諸経費、ローンに掛かる費用、テレビ、エアコン、カーテンにかかる費用など、いえにほぼ全ての金額をwebサイト、雑誌に公開させて貰っています。

その動機は、これから家を建てる人の参考になればというもの。私がお願いしたからではないのです。

「感謝」という言葉しか思い浮かびませんが、この言葉をジョブズは一回り大きな視点で使っていました。

 何が僕を駆り立てたのか

 クリエイティブな人というのは、先人たちが残してくれたものに感謝したいと思っているはずだ

 僕が使っている言葉も数学も僕が発明したわけではない

 同じ人類の先人たちが作ってくれたものなんだ

 僕は全力で心の奥底にあるものを表現しようとした

 先人が残してくれたあらゆるものに感謝しようとしてきた

 そしてその流れに何かを追加しようとしてきた

 そう思って僕は歩いてきた

-伝記『Steve Jobs』-

「同じ人類の先人が残してくれてた」というくだりに、軽い衝撃を受けました。

 当然ですが、建築家という仕事は私が発明したものではありません。この仕事が現在あるのは、先輩たちが脈々と引き継いできたからこそ。そういったことへ感謝の気持ちは持っていました。

 しかし、言葉や数学をつくりあげて来た人類の先輩に、感謝の気持ちを持つなど考えたことさえ無かったからです。

 creative(クリエイティブ)は創造的という意。それはある日突然で生まれるのではなく、先人たちへの感謝の気持ちがベースにある。

 ジョブズはその理想の高さゆえ、部下へはかなり厳しい人だったようです。しかし、彼が最も革新的な創造者であったのは、誰より強い先人への感謝の気持ちがあったから。そうであれば、納得できる気がします。

来たれ!ラーメン好きの若者

 昨年の大晦日の事。阪神間の山手と呼ばれるエリアへ行っていました。

 12月29日に初期相談があり、近いうちに既存建物を見ることになりました。

 「もう休みですよね」と聞かれたのですが、この日の午前中が空いており、早速現地へ向うことになったのです。

 企画段階につき詳細は控えますが、流石に街の雰囲気、眺めは素晴らしいの一言に尽きます。

 また、初めての敷地を見る時、ワクワクとしか言いようのない気持ちになります。

 打合せ、既存建物の調査が終わると午後1時頃でした。所員と昼食をとることに。

 休日くらいは好きなものをと思い、聞くと大概、ラーメン、ハンバーグ、ハンバーガー……あたりがリクエストです。

 大学時代はスキー部の関係で、良くこの辺りに良く来ていました。

 そういえば石屋川沿いだったか、連れていって貰ったラーメン屋があったな。結構おいしかったような記憶が……ということで早速移動することに。

 山幹(正確には山手幹線)沿いをイメージして車を走らせると、何だか景色が違う。違ったかなと思い、もう少し南へ下ると「神戸の中華そば もっこす 石屋川店」の看板がありました。

 山幹ではなく2号線沿いでした。

 若い頃は、麺類だけでは頼りなく、好んでそういう店には入りませんでした。

 しかし、40歳になり少し量が少なくても我慢できるようになったのと(あくまで我慢しているのですが)、所員が食べたいのならと、ラーメンを食べる機会が少し増えたのです。

 それで思うのですが、ラーメンって本当に美味しいなと。もっとはっきり言えば「旨過ぎる」という感じです。

 これでもかと旨みがが濃縮されており、ほぼどんな店でも間違いない気がします。

 ただ、全てが濃すぎるのも間違いありません。これをしょっちゅう食べていたら、他のものを食べれなくなるんじゃないかとも。

 久し振りに食べたこの店のラーメンは、少し味が優しいと感じました。

 このあたりが、もう20年も支持されている理由かもしれません。

 探している時「チャーシューの代わりに、スジ肉が入っていて、ネギが沢山盛られていて……」と話していました。

 出てくると、細麺に王道のようなチャーシューの入ったラーメンでした。

 私の食への執着心はその程度なのです。

 2号線と石屋川の交点の北東角には御影公会堂があります。

 その西向いがこのお店。良ければ是非。

 今日は成人の日です。

 若者にとっては風当りの強い世の中ですが、いつの時代でも「少年よ大志を抱け」です。

 当事務所は慢性的な人手不足。大志ある若者を、いつも私は待っているのですが……

 休日の昼は、ラーメン付です。

原始的に、自然に、そして子供のように

 今年2回目の日記は、前回に続いて茅野、蓼科の旅から。

 初日の出を、名古屋あたりで見れました。

 「神長官守矢史料館」に着いたのが10:00am頃。

 この辺りは盆地なので、寒い時は本当に寒い。

 側溝の水は完全に凍っていました。

 屋根は天然石で葺かれ、外壁にはこの地域でとれた「サワラ」という木を、手割りしたものが張られています。

 壁はワラスサを混ぜたモルタル。

 スイッチプレート、取手などは栃木の鍛冶屋で作られたもの。ガラスは色なしのステンドグラス。

 簡素ではありますが、自然、手仕事に徹底的にこだわっています。

 諏訪神社上社の神官であった守矢家に伝わる古文書を保管するのがこの館の目的です。

 通常跳ね上げ階段は上がっており、蔵の役目を果たしているとの事でした。

 それまでは東京大学で、建築史家として教鞭をとっていた藤森照信氏は、この作品から建築家へと重心を移して行くことになります。

 この次に作られたのが自邸「タンポポハウス」。屋根にタンポポが植えられた、エポックメーキングな作品です。

 氏の進化はまだまだ続きます。屋根からニラの生えた「ニラハウス」。

 建物の頭頂部に木を植えた意匠の建築を発表し続けるのです。昨年の春、九州でみた、「ラムネ温泉」もその一つでした。

 原始的に、自然に、シンボリックに、まるで子供のように。

 実際に求められているからこそ、その場があり続けるのです。

 「高過庵(たかすぎあん)」は、守矢史料館の裏にある小山に建っています。

 誰もが入ってみたいと思う玄関は床の下に。

 同じく藤森氏の作品「空飛ぶ泥舟」が、すぐ横にあります。

 元々は茅野市美術館横に、企画展として作られたのですが、この地に移設されました。

 この場所は藤森氏の実家の敷地のようです。

 子供と話ていると「空飛んでないやん」と。 「だって横にヒモがついてるもん」

 なるほど、子供の意見ももっともです。しかし、単純に凄い建築です。

 その後は、蓼科へ移動してスキー場へ。

 ピラタス蓼科スノーリゾートは、ロープウェイで標高2200mまで一気に登れるのが特徴です。

 頂上付近は-14℃まで下がっていました。

 3歳の娘は、本格的なスキー板を履くのが初めてで。

 最終的には、何とかボーゲンまで出来るようになりました。

 それで、初めて4人でリフトに乗ったのです。

 当分遠出は出来ないだろうという気持ちもあり、休みの間は出来る限りスキーを教えました。

 今日から当事務所も仕事初め。事務所の目標は「新しき計画の成就」です。

 初日から全力でいきます。

茅野より

 新年明けましておめでとうございます。

 今年は2年ぶりに蓼科で年始を過ごしています。

 1月1日の早朝に大阪を出ました。午前中のうちに諏訪ICを出て茅野市宮川へ。

 この地域出身の建築家、藤森照信氏の作品があるのです。

 元は建築史家だった氏は、神長官守矢資料館がデビュー作。

 また、実家もすぐ近くで、そこに建つのがこの高過庵です。

 説明不要の刺激的な建築で、遊び心十分。しかも、おめでたい感じも。

 スタートにはぴったりなので、アップしてみました。詳しいは木曜日に書いてみます。

 それでは今年も宜しくお願いします。

暮れは元気にご挨拶 2011年

 今年最後のゲツモクになりました。2011年は今日も合わせて111記事を投稿しました。

 普段のゲツモク版が105回、それに、メディア告知や旅行のイレギュラー版が6回。この中には3月12日(土)は東日本大震災についても書きました。

 各月ごとに振り返ってみます。

1月 -地元建築家がガイドする名建築-大阪編

建築を評論するのは大変難しかった、というのが本音です。

 しかしそれ以上に、大阪の建築を再度見て回るのは、なかなかない機会だったと思います。

2月 毎日かあさん

 スキー部時代の先輩が、この話題作の監督を務めました。

 やはり刺激になります。

3月 『月刊ハウジング』に「ドタバタ広場のある家」掲載

 月刊ハウジングは初掲載です。

 更に、「ドタバタ広場のある家」は、この1年で3回取り上げて貰いました。

4月 『住人十色』で「光庭の家」放映

 この番組で取り上げて貰ったのをきっかけに、奥さんの仕事が世の中に広く認知されました。

5月 フェリーで行く九州

 フェリーの旅はとても快適で、結局、お盆も九州へ。

6月 Let’s Go To The Dentist! (歯医者へ行こう!)

 その後、ホワイトニングのセットを貰っているのですが、いまだ出来ておらず……

7月 キッズデザイン賞

 大企業がひしめく中、「Ohana」で受賞できたことは、とても嬉しいことです。

8月 香港建築科学出版社

 海外の一流建築家の中で取り上げて貰ったことは、自信になります。

9月 『住まいの設計』 に「イタウバハウス」掲載

 建物もそうですが、その家づくりの全金額を公開で出来たことは、意義のあることだと思っています。

全てはクライアントの理解があってこそ。

10月  ジョブズ

 この流れの速い現代社会を、彗星のように現れ、逝ってしまった天才。

 グラミー賞受賞は驚いたとともに、粋なはからいでした。

11月
アメリカ 1日目 2011年11月3日(木)
アメリカ 2日目 2011年11月4日(金)
アメリカ 3日目 2011年11月5日(土)
アメリカ 4日目 2011年11月6日(日)
アメリカ 5日目 2011年11月7日(月)

 ミース、ライト、マンハッタン。全てが刺激的でした。

12月  急に今日の話です。

 午前中の打合せの後、妻と子供たちが事務所に来ました。

 学校が終わり、前日から泊まりに来ていた、長男の友人も一緒です。

 3人で、キャッキャ、キャッキャと言いながら、イス、床を拭いてくれます。

 とても綺麗に出来ており、彼らの成長を感じたのです。

 建前上、今日が仕事納め。しかし年賀状書き、この時期にしか来所できない方の初期相談、現場視察と、年末まで仕事をします。

 これも、求めてくれる方が居るから。心から有難いと思えます。

 最後に。今年もこのゲツモク日記、また現場日記にお付き合い頂き、誠に有難うございました。心より感謝申し上げます。

 2011年は色々な事がありましたが、全てを教訓とし、更にバネとし、2012年が素晴らしい1年になる事を確信しています。

 皆さんが素晴らしい新年を迎えられますことを、心よりお祈りしています。

2011年12月29日 守谷 昌紀

Let it snow

昨日はクリスマス。

天気予報も、大阪以外には雪マーク。ホワイトクリスマスになった街も多かったのでは。賢い子どもに、プレゼントは届いたでしょうか。

25日(日)は夕方から、実家でクリスマスパーティーを開催してくれることになっていました。

予約してあったケーキを取りに行くことに。

これくらいは手伝わないとバチが当たりそう。

甥っ子も1人連れて行くと、昼間からテンションは上がりきっています。

夕食は母が準備してくれます。

サラダもツリー仕立てに。

星はパブリカでしょうか。

それぞれの皿にもツリーと、サンタクロースが居ます。

全て力作ですが、オリガミで星を作るのが意外と苦労したと言っていました。

その甲斐あって、子供達もよく食べ、最後のクリスマスケーキへ。

長男はどこで貰ったのかクラッカーを鳴らしていました。

先日、1年点検での訪れた「イタウバハウス」でも、いつまでサンタクロースを信じているのかという話になりました。

我が家の長男も今年は小学生。

学校でも「サンタクロースなんて居ない」という子供も居るでしょう。

しかし
「サンタクロースは、故郷のラップランドで、小さな妖精たちに手伝ってもらいながら、大きな袋いっぱいにプレゼントを詰め込みました」

なんてと言うニュースを見かけると、やっぱり良いもんだと思えます。

もしクリスマスソングが無かったら、ここまでクリスマスは広がらなかったと言えば言い過ぎでしょうか。

それくらい名曲が沢山あります。

『Let It Snow』 作詞:Sammy Cahn 作曲:Jule Styne

Let it snow, let it snow, let it snow
雪よふれ 雪よふれ 雪よふれ 

この曲、クリスマスという言葉はでてきませんが、温かく、少し切ない感じが何ともこの時期にマッチします。

何より題名の音の響きが素晴らしいのです。

タイのペルソナ

 実家の階段にはお面が置いてあります。

 これは私が買ってきたもの。
 
 約10年前のこの時期。私はバンコクに居ました。

 事務所を立ち上げて5年。仕事は増え始めたのですが、精神的には疲弊しきっていました。一旦全ての仕事を終え、帰りの予定の無い旅に初めて出たのです。

 はじめに着いたのがタイのバンコク。空港からバックパッカーの街、カオサンストリートへ直行します。宿代は当時のレートで、1泊が1ドルか2ドル。その頃も、円が強い時期でした。

 数週間ここに滞在し、それから近隣の国を放浪し始めます。沢木耕太郎の小説「深夜特急」のような旅をしたいと思っていたのです。

 気になる街へ行き、安宿を探す事を繰り返していました。ベトナムのホーチンミン市にやってきた時、丁度旧正月の時期でした。中華街ではそれを祝う花火が上がり、あちこちで爆竹が鳴っていました。それをゲストハウスの屋上から眺めていた時、やっぱり日本へ帰って建築設計がしたいと思ったのです。

 3月の終わりには日本に戻ろうと決め、再びバンコクに戻ります。その時に買ったのがこのお面。資金はほぼ使い切っていたので、勿論安物です。怖い顔の面は魔よけの意味。お多福のような面にどんな意味があるのか、説明を聞いても分かりませんでした。

 パーソンの語源はペルソナ。仮面というラテン語でだと言われます。

 人は色々な顔をもつもの。旅に出る前は、何とも暗い顔をしていたと思います。しかし、日本に戻ってから、落ち込むこと、暗い顔をする事を辞めました。私はその仮面を捨てたのです。

 今年も残すところ10日を切りました。大晦日には「今年も精一杯頑張った」と言えるよう、残された2011年を全力でいきます。

建築家がゲツモクに綴るブログ、動画。人、建築、街、自然・・・・・・ぜひご覧ください