カテゴリー別アーカイブ: 01 旅・街

福島、山形をめぐる喧嘩の無い旅‐1194‐

 前回は、月曜日の昼に松本に着いた後にアップしました。

 1日目、13日(木)の宿、「御用邸のある街」那須高原を目指します。

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 もっと高級感のある温泉リゾートをイメージしていたのですが、ひなびた感じでした。

 「鹿の湯」という、源泉近くの浴場へ行ったのですが、泉質は白濁しており、とても良かったです。

 草津もそうでしたが、泉質は古さに比例すると言って間違いないでしょう。

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 2日目、14日(金)は、猪苗代湖へ。

 湖畔にある、野口英世記念館へ。生家が保存されているのです。

 野口英世は一番初めに読んだ伝記で、良く覚えています。赤ん坊の時、囲炉裏に落ち、やけどひっついてしまった指を、後に手術によって各指を動くようにして貰います。

 そして医師になることを決意し、成功していくというサクセスストーリー。

 こんな本を読んで、努力し成功して欲しいと思いこの伝記が与えられたのでしょう。

 勿論、子供たちにも買い与えています。

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 会津若松まで移動し、白虎隊の悲劇の舞台となった飯盛山へ移動。

 しかし、目当ては少年志士の墓近くにある「さざえ堂」です。

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 さざえのようにゴツゴツしたフォルムは、スロープなりに伸びた屋根によるものです。

 と言うか、この建物自体がスロープなのです。

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 1796年、寛政年間に出来ており、かなり刺激的な建築でした。

 設計図面があるが故、トライ出来ていないことがあるのではと思わせられる傑作でした。

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 その後、福島と山形の県境にある滑川温泉泊。

 山奥も山奥。熊も出るそうです。

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 ここも白濁したお湯で、岩風呂は長男と貸切。

 連日の雨で川がに濁っているのだけが残念でしたが、秘湯感溢れる宿でした。

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 川のせせらぎを聞きながら朝食。

 山菜、米沢牛も美味しかったのですが、何よりご飯が美味しい。気温は17℃で勿論冷房要らずでした。

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 3日目、15日(土)は、朝一番で、芭蕉の句で有名な山寺(立石寺)へ。

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「閑さや岩にしみ入る蝉の声」

 今回の旅行は半分くらいが雨でしたが、この時が一番降っていました。

 雨でセミが全く鳴いておらず……

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 しかし、無理をして登った甲斐がありました、上に着くと晴れ間が指してきたのです。

 セミの鳴き声も聞こえ、句の感傷にしたったのです。

 那須高原の殺生岩でも一句詠んでいますが「奥の細道」では、芭蕉は東北を中心に、日本全国を訪れています。

 最期の地は大阪ですが、まさに旅芸人の人生。憧れるところがあるのです。

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 3日目の宿は山形の鶴岡。このあたりの宿がなかなか見つからなかったそうです。

 赤川花火大会があるからだと分り、どうせならと見に行くことにしました。

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 この大会は、全国デザイン花火競技会でもあり、20チーム程の花火師が、その技を競うのです。

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 有名な大会らしく、県外からも多くの人が来るそうですが、駐車場の人が「大阪から車でですか?」と驚いていました。

 これだけの為に来た訳ではありませんが、音楽に合わせてだったり、芝居仕立てだったりと、十分楽しませてくれました。

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 3日目は、花火大会もあり宿が取れずにキャンプになりました。

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 4日目、16日(日)は快晴。奥州の朝は爽快でした。

 鶴岡市に別れを告げ北に35km、酒田市を目指します。

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 酒田は、奥の細道でも「五月雨を集めて早し最上川」と読まれた、最上川河口の街。

 最上川はとても広い川でした。

土門拳記念館は、この地の出身である昭和の写真家、土門拳の作品が寄贈されて出来たものです。

 ニューヨークのMoMA新館を設計した谷口 吉生の作品です。

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 館には、土門拳と親交のあったアーティストの作品も多くあります。

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 イサム・ノグチのオブジェは「土門さん」という名。

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 勅使河原宏による庭。

 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館豊田市美術館、上野の法隆寺宝物堂等と共に、水を建築に取り込んだ素晴らしい建物でした。

 水が池であることを考えれば、最も自然と一体感のある建築です。

 トップランナーでありながら、常に抑えが効いた作風は、まさにプロフェッショナルの仕事と感じます。

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 3日程、山形に居たのですが、田と山の美しい所でした。広い庄内平野を後にして、最後の街、新潟へ。

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 快晴の日本海。海沿いの国道は最高の景色です。

 新潟-山形は高速道路がまだ繋がっていなので、新幹線も大切ですが、車派としては、こちらも急いで欲しいものです。

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 新潟港からフェリーは夕方4時半にでて翌朝5時半に敦賀着。

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 佐渡に沈む夕日を見ながら一息。 今日の8時頃大阪に戻りました。

 家族4人で全国制覇も、残すところ東北4県、九州2県、沖縄になりました。今年は秋の連休があるので、まずは九州を制覇してきます。

 1日目の昼、松本を出たあとです。

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 上信越道で那須高原を目指しますが、眠たくなったこともあり、妻と運転を交代。

 少しすると大きなサイレンが鳴りました。

 「前の車左へ寄りなさい」

 覆面パトカーに連れて行かれる妻を見て、娘は「今から3人で温泉へ行くん?」と。

 「通行帯違反」で罰金6千円。高速道路では、追い越し車線を走り続けてはいけません。

 妻が言うには、左車線の車とスピードが同じくらいになり、戻り損ねているうちにサイレンが鳴ったと。

 おそらくスピードもオーバーしていたと思うので、まあこの程度の罰金で済んでよかったのですが。

 宇宙人が攻めてくれば、戦争は全て無くなるというのはもっともな話。

 今回は警察に捕まったので、勿論喧嘩はなしです。

<目指せ、家族で47都道府県制覇>

40/47 【】は済み
【北海道】
青森  岩手 宮城 秋田 【山形】【福島】
【茨城】 【栃木】 【群馬】 【埼玉】 【千葉】 【東京】 【神奈川】
【新潟県】 【富山】 【石川】 【福井】 【山梨】 【長野】 【岐阜】 【静岡】 【愛知】
【三重】 【滋賀】 【京都】 【大阪】 【兵庫】 【奈良】 【和歌山】
【鳥取】 【島根】 【岡山】 【広島】 【山口】
【徳島】 【香川】 【愛媛】 【高知】
【福岡】 佐賀 長崎 【熊本】 【大分】 【宮崎】 【鹿児島】 沖縄

旅に出ると喧嘩が始まる‐1193‐

 今日13日(木)から4日間の夏季休暇です。早朝に大阪を出発しました。

 夕方には、栃木県那須に到着の予定ですが、途中、長野の松本に寄りました。

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 松本城は、日本で4つしかない国宝です。

 戦国時代は攻防に長けた山城が多く、平城は珍しいそう。その分堀がひろく、美しい建物でした。

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 城下町も、雰囲気を残す取り組みが見え、好感がもてます。

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 また、いたる所に井戸や、湧き水がみられます。

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  そばは、痩せた土地でも育つので、こういった地域の名産品になります。

 とても美味しかったのですが、若干の物悲しさを感じるのです。

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 そば屋には、水は横の井戸で汲んでくださいとの貼り紙。

 水が綺麗な街だからこそできるサービスです。

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 近くにあった、伊東豊雄設計の、まつもと市民芸術館も見に行ってきました。

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 基本は音楽ホールですが、余白のあるプランになっています。

 見せ場は、なんといってもランダムに開けられた開口部です。

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 所どころに、少し大きな透明な開口があり、自由度、遊び心と圧巻でした。

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 ベンチの下、カーペットには形状に合わせて、グラディエーションが掛かっているという、芸の細かさ。

 プリツカー賞受賞者の実力が如何なく発揮された力作でした。

 夏の旅行は、今からスタートですが、2、3日前、FMからこんな話が聞こえてきました。

 「子供の頃、夏休みの旅行をとても楽しみにしていました。

 父も張り切っているのが分るし、普段は行かないような遠いところまで出掛けるので、皆のテンションはマックス

 しかし、大概の場合、両親が喧嘩を始めるのです。

 妻は仕事場に来るので、比較的会っている方だと思いますが、それでも全員が24時間揃うのは旅行中だけ。

 勿論、我が家も例外ではありません。

 まず休みを決め、行く場所を決め、どこを回るかを考えます。何を見て、何をして遊ぶかイメージをめぐらし、準備に入ります。

 早起きし、コツコツと準備を開始。パーフェクトと思っていたら「あれを忘れた、これを忘れた」と。「だからメモをしておくよう……」

 大方こんな流れです。

 社会が裕福になり、子供時代から個室を持ちます。自分だけのテレビ、ゲーム、パソコン、携帯電話も持ち、それでも他人への思いやりは江戸時代以上。

 そんなことは有り得ません。現代人は、例外なく我がままなのです。
 
 バブル華やかし頃、成田離婚という言葉がありました。海外へ新婚旅行に出掛ける空港で、意見が合わず離婚するという。

 何せ、トラベルの語源はトラブルと言うくらいですから、その人の性がでるのです。
 
 入社試験で、皆で料理を作るという試験があるそうですが、合う、合わないを知りたければ、旅に出るのが一番です。

 しかし今更、合う合わないを言っていても仕方ないので、今回の目標は「喧嘩をしない」です。

 栃木、福島、山形と修行の旅は続きます。

 <目指せ、家族で47都道府県制覇>

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【北海道】
青森  岩手 宮城 秋田  山形  福島
【茨城】 【栃木】 【群馬】 【埼玉】 【千葉】 【東京】 【神奈川】
【新潟県】 【富山】 【石川】 【福井】 【山梨】 【長野】 【岐阜】 【静岡】 【愛知】
【三重】 【滋賀】 【京都】 【大阪】 【兵庫】 【奈良】 【和歌山】
【鳥取】 【島根】 【岡山】 【広島】 【山口】
【徳島】 【香川】 【愛媛】 【高知】
【福岡】 佐賀 長崎 【熊本】 【大分】 【宮崎】 【鹿児島】 沖縄
 

人は空ばかり見てる‐1188‐

今日の大阪は34℃なるそう。朝から完璧な夏空です。

春先の新聞に、関西電力が「黒部ルート」の見学会を募集しているとでていました。

2.7倍の倍率でしたが、無事当選。先週木曜日に長男と行って来ました。

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先週は、残念ながら木曜日だけが雨。

黒部ダムは日本一高いダムで186mあります。その価値をまとめてみます。

ダムのある黒部川は急流の暴れ川で知られます。距離に対して高低差が大きく、大正時代から電源開発の資源として注目されていました。

水力発電は、水の位置エネルギーを、運動エネルギーに変える事で発電するからで、豊富な積雪も、安定した貯水に貢献します。

戦後、日本経済の復興と共に、深刻な電力不足が起こります。

それらを補うため、昭和31年から7年をかけ、関西電力が社運をかけて完成させたのが黒部ダムなです。

地形と共に見ると分り易いと思います。

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中央下にある赤のマークが黒部ダムです。

西は立山連邦、東は北アルプスと、急峻な山岳地帯に挟まれています。

そして青が黒部川第四発電所

黄色が欅平(けやきだいら)で、下流からここまでは、緑の宇奈月温泉からトロッコ列車で訪れることが出来ます。

黒部川はと、北に向かって流れているのですが、一般の交通機関はありません。

関西電力の輸送設備のみで、この区間が「黒部ルート」です。

私達は、右下の水色、信濃大町(長野側)ら、トローリーバス(関電トンネル)でアプローチしした。

黒部立山アルペンルートを通ると、黄緑の室堂(富山側)からもアプローチ出来ます。

立山からのトンネルは昭和46年、黒部川からの黒部トンネルの開通は昭和34年。よって、33年の関電トンネルが開通するまで、未開の地だったのです。

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案内人が1グループ30名を率います。

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まずはダム横の黒部トンネルをバスで移動。

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真夏でも気温4℃。

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10kmに渡るトンネルには換気設備はありません。

数箇所ある横坑から、外にでることが出来るのですが、この日は生憎の濃霧。本来なら、北アルプスの裏剣岳が見れるそうです。

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残念ですが、この時期でも雪渓が残っていました。

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黒四発電所のすぐ手前で、バスを降ります。

黒部川は高低差がきついと書きましたが、ここからはインクラインに乗り換えます。

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インクラインとは、運搬用、大型ケーブルカーです。

このインクライン、アニメ「エヴァンゲリオン」でそのまま再現されているそうです。

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34度で一気に456mを下ります。

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そしてここが発電所内。

国立公園の景色を壊さないよう、また雪崩を避け、全てが地下に作られています。

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すぐ横に、予備の水車が置いてありました。

この日は大雨で、残念ながら発電はしていませんでしたが。

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黒四発電所から欅平までは、上部専用鉄道というバッテリーカーで移動します。

「高熱隧道」と言われる難工事部分は120℃になる上、硫黄が常時発生しており、架線が寂びてしまうからとの事でした。

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川べりを走るですが、 関電は、黒部川に4つのダム、11の発電施設を持っています。

同じ川にいくつもダムを持つのは、貯めた水を何度も使えるからで、一度貯めると四度美味しい訳です。高い位置にある、豊富な水こそが、まさに財産なのです。

また、この欅平から下流にある第三発電所まで、多くは戦前に完成しています。

昭和初期にかけての難工事は吉村昭が書いた小説「高熱隧道」に詳しいとのことでした。

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2002年、NHKの紅白歌合戦に中島みゆきが初出場し、生中継で歌ったのが、このトンネル内です。

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最後は梅田オフィスタワーが出来るまで、日本最大だった竪坑エレベーター。

200m降りると、トロッコで電車の欅平駅に到着。見学会は終わりました。


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ここからは、長男とぶらり旅。

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途中にある、水路橋は昭和2年とのアナウンスでした。

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北陸新幹線、サンダーバードと乗り継ぎ、大阪に帰ってきました。

インクラインに乗っている20分間、2002年の紅白の映像が流れました。

中島みゆきが歌った「地上の星」は、「プロジェクトX」オープニング曲だったので、勿論覚えています。

「プロジェクトX」のサブタイトルは~挑戦者たち~。書き下ろした曲と知っていましたが、歌詞の意味は全く頭に入っていませんでした。

真っ暗なインクラインの中で聴いた時、不覚にも熱いものがこみ上げてきました。

街中で頑張っている人を誰も見ず、誰も応援せず、空ばかり見上げている。名の知られたものに、華やかなものばかり追い、氷ばかりつかんでいる。空を飛ぶつばめなら、分っているだろうに。

そういうメッセージだったのです。

この見学会は「電源開発の軌跡と、電気事業への理解を深めて貰うことを目的にして実施している」とあります。

そんな意義をはるかに越えた、本気の手跡がありました。

夏休み分は来年ですが、秋の応募はまだ大丈夫のようです。子供は小学5年以上。是非お勧めします。

ヤンキーの兄ちゃん‐1184‐

 先週、私の住む喜連は環濠都市だったと書きました。

 そこから2kmほど北にある、平野郷はさらに大きな環濠都市で、現在も環濠跡が残っています。

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 信長にも謁見した宣教師ルイス・フロイスもその美しさを書き残しています。当時は竹垣で囲まれていたようです。

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 その北端にあるのが杭全神社。

 大阪は夏祭りの季節に入って行きますが、杭全神社のだんじりは、大阪府下において岸和田に次ぐ規模で知られます。

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 昨晩は、九つの町にあるだんじりが各町内をねり歩き、南港通りで一同に会する九町合同曳行の日でした。

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 九町集るのが夜10時頃。そこまで居るつもりはないので、夕方から境内の夜店へ。

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 スーパーボールすくい。

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 射的と、子供だましと言えばそうですが、楽しめるうちは。

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 何故、体に悪そうなものを子供は好きなのか。

 普段、与えていない分、つい甘やかしてしまいました。

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 嘉門達夫の歌ではありませんが、あまり上品でない若者の比率が急激に増すのが祭り。

 煙草を吸う、ビールを飲む中学生、高校生らしき若者の多いこと。まあ、そんな姿も含めて下町の祭りですが。

 子供達は怖がるかと思っていたら、だんじりに興味深々で、気が付けば9時を過ぎていました。

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 自転車も交通規制に引っ掛かるので、人ごみを掻き分け、遠回りしてなんとか家まで辿り着きました。

 娘は体調があまり良く無かったのですが、本人が行きたいと言い、多少無理をして連れて行ったのです。

 昨晩から肩で息をするうようになりました。以前、肺炎で入院していることもあり、早朝から救急外来へ。

 後悔しましたが、文字通りあとの祭り。

 数値は良くないもの、入院は不要という診断で、多少胸をなでおろしたのです。バタバタとした週初めになりました。

 夏祭りは農耕に従事する人のねぎらいの場で、発散の場であったはずです。

 祭りには人を集める全ての要素が詰まっていると、ディズニーランド誘致に成功した堀貞一朗は言います。

 動き、明かり、音。

 加えて言うなら、人でしょうか。人が人を呼びます。そして、人が集るところにはヤンキーが。(死語?)

 若者が、世を憂い、退廃の雰囲気を漂わせている姿を見るのが、正直、一番嫌いです。

 簡単に目立つ方法は、いくらでもあります。しかし簡単には覆せない時間、努力が、別次元の達成感、幸福感を与えてくれるのです。

 自分もそんな空気を発散していた時期がありました。それで、余計に目につくのでしょう。(勿論ヤンキーではなかった)

 目覚めよヤンキーの兄ちゃん。君達の未来は、道端にはない。

街の清濁‐1182‐

 奈良県香芝市での女児連れ去り事件。

 発見、保護の一報が入り、ひとまずですがほっとします。

 犯罪者に美意識などあろうはずもありませんが、弱者へ向けての許しがたい身勝手な愚行。

 はたして子供を危険から守る方法はあるものなのか。

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 私の住む平野区喜連。中世には環濠都市として発展しました。

 環濠は堺が有名ですが、喜連は小振りなだけあり、密集して江戸、明治期の建物が残ります。

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 私のジョギングコースに、最近案内板をみつけました。

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 庄屋、豪農邸が多く残るのが喜連環濠地区の特徴とありました。

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村への6つ入口には、現在も地蔵尊が祭られています。

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 深さ3mの堀といえばかなりの深さ。そこに橋が架かっていたのです。

 村に入ってからも小さな村が故、来訪者は好奇の目でみられたはずです。安全を、物、人で守ってきたのが環濠都市なのです。

 ペルーで仕事をしていた日本人に聞きましたが、ゲーテッドタウンで暮らしていたそうです。

 フェンスで囲まれた街の入口にはゲートがあります。そこで、チェックがあるのですが、海外では富裕層が暮らす街として普及しています。

 しかし、「街歩き」を私の趣味とするなら、魅力的なもの、興味を引かれるものは、概ねそのようなところにありません。

 日本でも、海外でも、もっと猥雑で、人の欲望が顕在化したところに、魅力ある空間はあるものです。

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 現在小学5年の長男は、塾へ行く際、一つ前の駅で降りて繁華街を歩き回っているようです。

 勿論、そんな所へ行かないほうが危険はないのですが、最高に楽しいのも理解できます。

 清濁合わせて、人は成長するものですから。

 犯罪者など心から、全て消え去った欲しいと思います。しかし、完全に犯罪の元を断つことは不可能なら何か手を打たねばなりません。

 5人組、隣組に戻る必要はありませんが、せめて向う三件両隣に、全ての日本人が毎日挨拶したなら。

 そんな、のんびりした案しか思いつかないのですが、子供を危険に陥れるのも人なら、防ぐのも人以外にないはずです。

 一生をゲーテッドタウンで暮らすのでなけば。

ごて地蔵‐1177‐ 

 連日紙面をにぎわす「大阪駅前地下道」の立ち退き問題。

 村野藤吾デザインの換気塔を横目に、地上の工事は滞りなく進んでいるようです。

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 梅田換気塔は1963年の作品で、有機的なフォルムをステレスで表現しています。

 遊び心漂う作品ですが、同じく紙面を賑わしている新国立競技場とは一線を画します。

 この押さえのきいた表現は、日本人のみに分るものなのか。そのあたりはザハ・ハディドに聞いてみたいものです。

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 あたりから、東の路地に入ると「ごて地蔵通り」という看板が見えます。

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 突き当たりにあるのが「ごて地蔵」。

 昭和の初め頃、梅田界隈で悪病が流行した。不動時の住職が「この地に埋没放置されている地蔵尊がある奉祀せよ」とのこと。発掘し、誰かの庭に奉祀すると災いは収まった。

 しかし、ここは梅田の一等地。街の移り変わりも激しく、地蔵さんの場所が変わるたびに災いが起こった。

   最終的には曽根崎警察が預かることになったが、昭和48年の建替え工事の際、この地に祭られることになった。

 何か起こるたびに「お地蔵さんまたごててはる」からごて地蔵となったとか。

 今回の立ち退き問題は、阪神百貨店建替えにともない発生した話ですが、色々な立場、思惑が見えてきます。

 紙面からの情報によると、地下道拡幅は市の計画としてあったようです。それが、今回工事にともない、民のお金で実行するという機会がやってきました。

 家賃が安すぎる。適正な競争が行われていない。いや、市のほうにも誤解があったなど。二転三転、様々意見が聞こえてきます。

 スナックパークに続いて、愛用の立ち食い蕎麦まで無くなるのは寂しいですが、「ごねてる感」があるのは否めません。

 「ごねる」は御涅槃(ごねはん)から来たもので、本来は死ぬという意味だそう。

 思い通りにしろと文句をつけるが「ごてる」で、混同、誤用されていることが多いのです。(ここでも間違って使っているのですが)

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 先週末、子供と釣りに行く際、塾が遅いので、天王寺まで迎えに行きました。

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 塾終りでピックアップし、そのまま出発。私が子供の頃より、圧倒的に長い時間、勉強しています。

 それでも、成績を見て一喜一憂。ダラダラしていると文句の一つも言いたくなりますが、頭が下がる思いです。

 若い時の苦労は買ってでもしろと言うのに、大人になると、ちょっといい条件を取り上げられそうになると、ごねる。

 ずっとチャンスなどあり得ませんし、ピンチが無くて成長できる程、人は強くないと思うのです。

 ごてて、ごねると死に至る。

 そうならずに良かったですが、祠の一つくらいはあっても良いかもしれません。

竹内街道から古都の秘密にせまる‐1175‐ 

 この日記も10年を越え、正確には分かりませんが、200~300名くらいの方に読んで貰っているようです。

 しかし、アクセスの少ない回には傾向があります。

 その一つが歴史の話。前回も普段から比べるとやや少な目でした。

 前回、聖徳太子廟のある街、太子町について書きました。今回も懲りずに、古都・奈良の秘密に迫ってみたいと思います。

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 太子町には多くの古墳が残りますが、少し視野を広げてみれば、竹内街道周辺に多くが集っています

 堺から明日香村に至る竹内街道は、日本初の官道と言われます。

 山川出版の日本史によると、3世紀から4世紀にかけて、瀬戸内海沿岸から畿内にかけて、古墳が発生しました。

 これは、弥生時代の共同墓地とは異なり、権力者が多数現れたことを示します。

 多くの古墳がある大和を中心とし、4世紀中頃、豪族達が連合して大和政権が起こったと考えられています。前回書きましたが、皇室の祖先にあたります。

 魏志倭人伝に邪馬台国の卑弥呼が登場するのは3世紀のことで、その後の時代の話です。

 大和政権は、権力争いが絶えないなか、中央集権化を進めて行きます。

 7世紀初め、混乱の中即位した女帝、推古天皇は甥の聖徳太子を摂政とし、律令国家を目指しました。

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 そんな時代、小野妹子を隋に遣わせます。

 この時代、文化の進んでいた大陸と船で繋がり、シルクロードの終着点となったのが大和の地でした。

 東京オリンピックに際、新幹線の完成を急いだように、隋からの国賓を迎える為、急ピッチで進められた国家プロジェクトがが、竹内街道だったのです。

 では、なぜ都がこれほどまでに、畿内に集中していたのか。その訳は、旧石器時代にまで遡ります。

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 竹内街道のすぐ北にある二上山で、サヌカイトという石がとれました。この、矢じりなどに適した石は、二上山産が広い意地域で見つかっています。

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 更に、古墳時代に移ると、石室などに使う、加工しやすい凝灰岩が必要になります。

 あの2こぶラクダのような形状は、富士山と同じように、噴火によって形成される形です。

 古代、二上山は火山だったので、灰が固まった凝灰岩を多く産出しました。よって、多くの石切り場跡も確認されているのです。 

 7世紀中頃、大化の改新のあと、都は難波の宮、現在の大阪城南に移されます。

 その後、主なところでは、近江宮(大津市)、藤原京(橿原市)、平城京(奈良市)、紫香楽宮(甲賀市)、難波京(大阪市)、長岡京(長岡京市)、平安京(京都市)と、天皇が変わるたびに、都は移ります。

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 緑のエリアが都の跡ですが、大阪の難波宮、奈良の平城京、明日香、橿原の藤原京と、これらを結ぶように、大道が発達していったのです。

 明治を迎えるまで、概ねは日本の都は奈良、京都、大阪、滋賀と、常に畿内にありました。広辞苑には、畿=帝都から500里(200km)四方とあります。

 サヌカイト、凝灰岩が、人をここに集め、後に都へと発展して行ったと考えると、辻褄があいます。

 では、なぜ大阪平野より、奈良盆地、京都盆地に都が多かったのか。当時の地形を想像すると分り易いかもしれません。

 水都大阪というサイトにありました。

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 古代からの大都市は、ローマ、長安、パリ、ロンドンなど、全て内陸の大河沿いにあります。

 水は人が生きる為に必須で、水運の重要さは、現代の比ではなかったはずです。

 しかし、大阪平野なら、繰り返し水害をもたらした大和川を、秀吉が付け替えたように、水害の被害も、現代の比でなかったと考えられます。

 堺は急深の良港だったのが、この付け替え工事により土砂が堆積。港としての価値を急速に失って行ったのは皮肉なところ。

 利休を自害に追い込んだのも秀吉で、堺と秀吉は相性が悪かったのでは、というのが歴史のサイドストーリーです。

 京都の鴨川も、暴れ川だったとの記述もあるように、枯れることのない水量と、氾濫の頻度のバランス、そして外敵からの防御。

 それらの総合点が最も良かったのが、奈良盆地だったのではと想像しています。

 奈良はリニアモーターカーの駅で京都と綱引きをしています。

 勿論、駅が出来るに越したことはありませんが、何千年も日本の中心だった理由を探求し、もっと伝えていけば、世界一の観光都市、京都を凌ぐ可能性も十分にあるのでは。

 奈良の秘密に迫る。いかがだったでしょうか。 

太子が眠る王陵の谷‐1174‐ 

 久し振りに友人の墓参りに行って来ました。

 墓石を見ると亡くなったのは17年前。私の記憶は3年ずれていました。なかなか友達が出来ない訳です。

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 霊園は羽曳野の山手にありますが、園内には古墳があります。

 古代からこの地域は、墓地として最高の場所だったようです。

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 カーナビを見ると、少し南に推古天皇陵、小野妹子の墓がありました。

 推古天皇は、聖徳太子の母だったか。このあたりは太子町になるようです。

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 行ってみると、推古天皇陵は宮内庁管轄とありました。

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 小野妹子廟は科長神社の中に。

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 質素と言えばよいのか、巨大と言えば良いのか。

 木々と共に墓となるのが、日本の民族性でしょう。

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 近くに、竹内街道歴史資料館があると知り、寄ってみました。

 元、社会の教師だったという副館長が、このあたりの歴史をレクチャーしてくれました。これがなかなか面白かった。

 この時代の基礎知識としては、以下の3つ。

・603年 初の女性天皇、推古天皇は初の官位制を取り入れた。
・604年 甥の聖徳太子を摂政とし、初の憲法をつくった。
・607年、小野妹子が遣隋使として派遣された。

 更にその前後、また、国の起こりにまで話を広げてくれました。

・8世紀に編纂された古事記、日本書紀には、初代神武天皇(前660–前585)から9代までの記述があるが、10代崇神天皇(前97–前29)からは、史実の裏づけもある。

 知識として知っているつもりでしたが、皇室が2700年も紡がれていたことが、もうひとつ分って居なかったのです。

 聖徳太子が皇族であるということも。

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 近くの叡福寺に聖徳太子廟があると聞き、日が暮れる前にと寄ってきました。

 明治には石室にまで入れたらしく、富岡鉄斎のスケッチもあるそうです。

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 冠位十二制度は、確か色で区分けされていたはずです。

 紫が最上位だったでしょうか。菖蒲の姿がそのきっかけになったのかもしれません。

 推古天皇によって整備された大道(のちの竹内街道)が置かれました。

 遣隋使として知られる小野妹子はこの道を通って遠く大陸をめざし、また大陸からはるばるやって来た使者たちは逆にこの道を通って都のあった飛鳥へ向かったのでしょう。

 この頃、大和の飛鳥が“遠つ飛鳥”と呼ばれたのに対し、太子町周辺は“近つ飛鳥”と呼ばれ、町内には数多くの天皇・皇族クラスの古墳が築造されました。

 太子町一帯が「王陵の谷」と呼ばれる由縁です。

 大阪府南河内郡太子町のwebサイトより

 政治は斑鳩の里で行われたのですが、廟はここにと、生前から太子が決めていたそうです。

 何より、太子町の太子は聖徳太子を指すことがまったく分っていませんでしした。

 もう少し言えば、太子の墓があるが故、太子町なのです。改めてその偉大さを知りました。

 全てが事実かは別にしても、フェアを日本に持ち込んだ、推古天皇と聖徳太子。国際化の扉を開いた小野妹子。

 彼らが居なければ、また違った日本になっていたかもしれません。

 石器時代から、古墳時代まで、なぜこの地が日本の中心だったのか。この話がとても面白かったのですが、また回を改めます。

北海道800kmの旅‐1165‐

前回は5月3日(日)稚内に着いたところまで書きました。

 4日(月)の朝、曇天の稚内を立ちます。

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 北海道の北端、宗谷岬まで40km弱。もの凄い強風、かつ気温4度でした。

 多少感慨深いものを想像していましたが、あまりの寒さに早々に退散です。

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 しかし一番印象に残ったのは、この最北の地にも、かなりの民家があること。これは稚内でも同じことを感じました。

 日本には、すでに辺境など無いのだと分かったのです。

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 宗谷岬から、今度は東の海沿いを走ると、道内最大の湖、クッチャロ湖。

 ここは、渡り鳥の飛来地。白鳥、鴨が多くいましたが、野生の鳥にエサをやるのはどうかなと思うのです。

 4日の晩は、旭川泊。昼間の気温は25度でした。温度差が20度で、北海道の大きさを体感します。

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何故かモンゴルのゲルに泊まることに。

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 旭川市を見下ろす高台にあります。

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 馬、山羊、兎などがおり、牧歌的な風景が広がっていました。

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 翌朝は朝一番から旭山動物園へ。子供にとってはメインイベントです。

 文字通り、旭川市の東にある旭山にある動物園で、高低差がかなりあります。

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シロクマを観察できるシールズアイ。

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 アザラシの視点で見るという展示ですが、人をエサとして見られる視点とも言えます。

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 一番感激したのは、レッサーパンダの吊り橋。

 飼育スペースと、通路を挟んだ木が、覆いのない吊り橋で木が繋がっています。その高さ3.5m。

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 レッサーパンダは高い所が好きという習性を生かした展示方法ですが、下に飛び降りることも可能な構造。見ていて非常にスリリングなのです。

 それもあって、体感距離が非常に近いのです。

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 テナガザルの展示方法もく同じ手法でした。

 高さが12m程ある鉄塔の上が大きく張り出しています。

 その高所で、テナガザルは素晴らしくダイナミクに、スピード感溢れるウンテイ運動をするのです。

 観客からはその度に、大きな歓声があがっていました。動物園で歓声が上がるなど聞いたことがありません。

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 チンパンジーは彼らの下から。手や足の裏を見れるという展示です。

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 ペンギンも水中トンネルから。下もしくは同じ目線で。

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 キリンに対しては、少し下から目線。

 閉園の危機から、屈指の人気動物園になったというストーリーを聞いても、ピンと来ていませんでした。

 アドベンチャーワールドにも何度も行ったし、そんなに変わらないのでは。規模でいいならむしろ……

 しかし、人気園には十分な理由がありました。

 行動展示というコンセプトが貫かれ、動物に対して観る側の目線が徹底的にデザインされています。

 このデザインは動物園設計の専門家ではなく、各飼育員が深く関わったんではと想像します。

 でなければ、レッサーパンダは3.5mから飛ばない、テナガザルは12mから飛び降りないと、まず言えません。

 さらに飛び降りようと思えば飛び降りれる、構造を認めて貰うにには、行政との折衝も難航を極めたと思うのです。

 結果は子供の喜び様が全てでした。私の知る限り、文句なしに日本一の動物園です。

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 4時間みっちり遊んで旭川駅前に移動。

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 旭川ラーメンの有名店、青葉台へ。

 塩、しょう油、味噌とも間違いのない味でした。女将さんがユニークでとっても元気。

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 札幌までは高速でもどります。1時間半の移動。

 まずは北海道大学のイチョウ並木。

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 チューリップと大通り公園のテレビ塔。

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 大通り公園やや西にあるのがブラックスライド・マントラ。

 2日前、存分に遊ばせて貰ったモエレ沼公園の設計者、イサム・ノグチの作品です。

 私も滑ってみましたが、どの滑り台よりスピードがでます。ここでは人に重力を再確認させたかったのでは。

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 夕食は夜のススキ野で。

 時間があれば余市にも行ってみたかったのですが、今回はここまで。

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 小樽運河の夜景をみてから、フェリーに乗船しました。

 今回の目的は、日本の北端を見るでした。

 東端の南鳥島、南端の沖ノ鳥島。この2つは、ちょっと一般の方法では難しそうです。

 しかし、西端の与那国島なら行けそうです。

 どうせなら、今度は地球の端っこを。と書いて、地球に端っこなど無いことに気づきました。ミクロ側から見るので端っこという発想がある訳です。

 しかし、ミクロの視点があってこそマクロの視点も活きてきます。

 旅に出ると、街や人、あるいは言葉や風習が違うことに刺激を受けます。しかし、同じ人間で、本質的には変わりがないことを知る。

 自分を知ることは、こんな事の積み重ねなのかもしれません。

 北海道内で820km走りました。大阪-舞鶴を合わせると丁度1000kmくらい。我ながら良く走りました。

 若い頃、冬の北海道は良く走りましたが、一つ念願がかないました。

 多少スケジュールの詰め込みすぎは否めません。秋の連休は、のんびり釣りでもいこうかと……

<目指せ、家族で47都道府県制覇>

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盛年は大志を抱け‐1164‐

 5月4日(月)の朝。日本最北の街、稚内にいます。

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 海沿いのホテルで、ウミネコの鳴き声で目を覚ましました。八代亜紀の世界です。

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 5月1日(金)の夜、仕事終わりで舞鶴へ。

 新日本海フェリーで小樽へ。深夜0時半に乗り、翌夜の8時45分に小樽着。約20時間の船旅です。

 学生時代、何度も乗った航路ですが、当時は30時間掛かっていたような気がします。

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 当時は大部屋の雑魚寝でしたが、今はそのような部屋はありません。

 家族4人の部屋を取りました。この季節、ほぼ揺れはないそうで、至って快適な船旅でした。

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 まる一日過ごすので宿題はフォワードデッキで。

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 5月2日(土)の夕方、20年振りの北海道が見えてきました。いまだ残雪が残ります。

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 その日は小樽泊。

 5月3日(日)早朝に出発しました。

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朝一番は、札幌郊外のモエレ沼公園。

 彫刻家、イサム・ノグチの遺作をようやく見ることが出来ました。彼のアトリエは香川に保存されており、庭園美術館として公開されています。

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 彼は、不燃ゴミの埋めた地だったここモエレ沼を、アートの力で再生することに情熱を注ぎました。

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アートとは人を感動させることが出来るものと定義付けるなら、そもそも、自然とアートに建築の境界など曖昧なものです。

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 子供はただ山があるだけで、感激できるのです。

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 そして最後はなぜか転がって降りるはめに。

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彫刻家の後を受けて、設計を現実のものとしたのは、旧知の建築家、アーキテクトファイブの川村純一です。

 今日はこれ以上触れませんが、彼とイサム・ノグチの関係がまた凄いもので……

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 羊ケ丘公園までは、早朝につき渋滞もなく30分ほど。

 現北海道大学の初代教頭、クラーク博士像の後ろに見えるのは札幌ドームです。

 自然が近い大都市。それが札幌でしょうか。

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 札幌ドームとのファーストコンタクトはなかなかのインパクトでした。

 梅田スカイビルも設計した、原広司の作品です。

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札幌から滝川まで高速にのり、国道40号線で富良野、美瑛をめぐります。

このポプラが「ケンとメリーのスカイライン」のCMで使われたそう。昭和47年なので私たち世代には馴染みがありません。

しかし、何度かクライアントとの話題に上がりました。車が男の憧れだった良き時代だったのだと、この景色をみれば良く分かります。

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 同じく美瑛にある「セブンスターの木」。

 左端の柏の木がそうですが、近くで見ると葉がほとんどなく。引きの写真にしました。

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 美瑛から稚内まで300km弱。高速も途中まででここからが長かった。

 途中、サロベツ原野で休憩し、5時間程かかりました。

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 日本最北の街、稚内には6時に到着。

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 妻が予約していた、人気店でたまには寿司でもと子供に勧めるのですが。

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 結局、鉄火丼、ソーセージ、唐揚げを頼んでいました。

それでも、嫌いだったホタテが、新鮮なら美味しいと分かったのは収穫です。

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 JR小樽駅から北に伸びる線路。日本の線路はここまでと、粋な演出です。

Boys be ambitious.

 勿論、大志は少年だけが持っていれば良いものではありません。「青春とは心の持ち方を言う」と言った、サミュエル・ウルマンの詩の通りです。

 そもそも、大志を抱かねばならないのは少年でなく私たちです。子供、従業員に夢を与えられる、大きな志がなければ、40代など家の中でも嵩高いお荷物でしかありません。

 厚生労働省は以下のように区分けをしているようです。

 幼年期0~5歳、少年期6~14歳、青年期15~30歳、壮年期31~44歳、中年期45~64歳、前期高年期65~74歳、中後期高年期75歳~。

 私はまだ壮年か。ああよかった……ではなく、中年や、中後期高年などという言葉は即刻排除すべき。その言葉には、頽廃と諦めの匂いが漂っています。

 厚生労働省担当者は、即刻に盛年に変えるべき。盛年よ大志を抱け、です。

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 ふつふつと湧き出してくるものを感じながら、今日は息子と日本の端っこを見てきます。

 昔、そんなCMがあったような気がします。今回の旅の動機は、この記憶からなのですが。

<目指せ、家族で47都道府県制覇>
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