カテゴリー別アーカイブ: 09 家族・私

カミングアウト ‐1000‐

事務所にチルドの宅急便が届きました。

送り状を見ても、何が入っているのか想像できず……

お祝いでした。

この日記も今日で1000回目。

読んでくれる人が居たので、続けることが出来ました。

心から感謝しています。

日記の生い立ちについては、前々回書きました。

今日は、普段書かない事をカミングアウトしてみます。

この夏、長男がこんな質問をしました。

「お父さん、今までで一番大きな病気は何?」

「ん~、やっぱり心の病気かな」

’99年の2月頃から’02年3月までの約3年、酷い鬱に苦しんでいました。28歳から31歳にかけてのことです。

大学を出て設計事務所に勤めました。2年目の冬、幸いにも仕事の依頼を貰います。それを機に独立することにしました。’96年の6月にアトリエmを設立。25歳のことです。

色々な意見もありましたが、すぐに天王寺駅の近くに、ワンルームマンションを借りました。4畳1間で家賃4万5千円でした。

キャリア不足、実力不足は、自分が一番分っているので、懸命に働きました。毎朝、駅から始発のアナウンスが聞こえてきます。「もうこんな時間か、早く寝ないと」という毎日だったのです。

しかし、長く働く事を言い訳にしても、良い結果は生まれません。今は分るのですが、その頃はそれだけがクライアントへの誠意だと思っていたのです。

何とか1件目の仕事を終え、その後も知人から2つ仕事を貰いました。初めての事ばかりでしたが、何とかそれらも完成。

「羽衣の家」 「白馬の山小屋」 「SPOON CAFE」が出来上がったのです。更に続けて、仕事のオファーを貰いました。とても順調だと感じていました。

しかし、28歳の2月頃から、寝つきが悪くなってきます。動悸が収まらず、集中力を欠き……働くことが、ただ苦しい、辛いとしか思えないようになって行きます。

最終的には、息をするのが辛いと思うようにさえなりました。

事務所はマンションの5階にあったのですが、ここから飛び降りれば楽になるんだろうな。死んでしまえば……と考えるようになっていったのです。

心療内科というものがあると知り、診察を受けると「自立神経失調症」という診断でした。いわゆる「鬱」です。それから、切れの悪い頭で、何とか治す方法はないかと模索したのです。

本の中に「自殺者の7割は鬱患者」という言葉をみては更に悲観。あのうっそうとした「鬱」という文字を見るだけで滅入ってしまうのです。そんな状態となり、当時付き合っていた彼女は去って行きました。

それでも迷惑を掛ける訳にはいかないと思い、引き受けていた仕事は完成させ、一旦事務所を閉めようと決めたのです。2001年の5月。30歳の時でした。この頃、知人を介し紹介されたのが、今の妻です。

事務所を閉め、急にやることが無くなったのですが、精神的には全く安定しません。

結婚前でしたが、妻が住むマンションへ行き、日がな本を読んだり、ゲームをしたり。昼間は近所の河川敷を走ったり。気ままに過ごしていたのですが、症状のほうはやはり変わらず。

事務所を閉める理由として、海外を見て回りたいと言っていました。鬱のときは決断力が乏しく、なかなか計画も進まないのです。

それでも、休業してから8ヶ月、ようやく旅にでました。2001年の12月、まずはバックパッカーの聖地、バンコクのカオサンストリートへ。

寒い日本から、腐臭ただよう蒸し暑いタイ。

30歳にして、初めて宿も、帰りのチケットもない旅に。街に着いた途端、何とか私から小銭をふんだくろうとするバンコクの人々。これは大変だなと、気を引き締めたのです。

それから3ヶ月。新しい街に着いては宿を探し、食料を確保。東南アジアをあてもなく彷徨いました。

それぞれの街で、決して裕福ではないけれど、人は逞しく生きています。

貧乏旅行とは言え、男性の日本人旅行者は、世界最高のカモです。こちらから話しかけずとも、あの手この手で、コミュニケーションをとってきます。それが面倒でもあり、楽しみでもあり。

旅の途中から、鬱のこと等すっかり忘れていました。

ホーチミンはフランス統治の影響か、安宿もなかなか良いのです。フォーで知られるように食べものも美味しく、屋上にはハンモックまでありました。

それに揺られ、旧正月を祝う花火をみていました。そして「日本に帰ろう。やっぱり建築設計しかない」と思ったのです。

日本に戻り、2002年の4月から仕事を再開しました。

年間3万人近くの自殺者がでてしまう日本。日に100人近くの人が、自ら命を絶つのです。私はその一線を越えていないので、自分が死の淵を見たのかは分かりません。

しかし、どうしようもなく死にたいと思った事があるのは事実です。もし身近に、そんな人がいたら、こう伝えたいと思います。

「あなたは本当に良く頑張った。何もかも投げ出して、一度自分を開放してあげたら。

一度や二度、何かを投げ出したからと言って、神様があなたを叱責するようなことはない。今まで十分に頑張って来たんだから。

仮に誰かがあなたを叱責しても良いじゃない。あなたの事を分ってくれる人は必ず居るから」

私は精神科医でも、セラピストでもありません。しかし、自らを追い込んでしまう人の気持ちは分るつもりです。

同じような悩みを抱えている人の、少しでも役に立てればとずっと思ってきました。何か行動を起こしている訳ではありませんが、そんな意思表示をしたいと思っていたのです。

そんな3年間を、自分なりに結論付けるなら、考え方の限界だったと思っています。当たり前ですが、嘆いても、落ち込んでも、前には進みません。どれ程消したい過去があっても、それも叶いません。全てを受入れ、今を精一杯生きるしかないのです。

人生、仕事は何にも替え難い経験です。全てをかけるに値します。しかし、命だけは別。人は生きる為に生きるのです。

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3月19日(火)■大阪の住まい力アップ:第1回 リフォーム・リノベーションコンクール ■で「住之江の元長屋」が戸建部門、最優秀賞を受賞しました

【News】
■1月6日(日)放送<「匠」が選ぶビフォーアフター大賞2012>
「住之江の元長屋」が空間アイデア部門2位に選ばれました
4月9日(火)リフォーム産業新聞「住之江の元長屋」掲載

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建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

好きこそが

 8月も2週目に入りました。

 今週を乗り切れば夏季休暇という人も多いのでは。

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 長男が3年生になり、一緒に行動する機会も減ってきました。

 しかし彼らは夏休み中。

 昨日はタイミングが合い、2人で鶴見緑地に行って来ました。

 公園内にある植物園が「咲くやこの花館」です。

 ここで食虫植物の展示があり、公開実験を見たいそうなのです。

 これがなかなか素晴らしく、CCDカメラまで使って解説がありました。

 食虫植物も光合成をしているので、虫を取らなくても生きて行けるそうです。

 「虫はおやつみたいなもの」と説明がありました。
微妙な気分です。

 長男は、かぶりつきで話しを聞いていました。

 また、実験後も、長い時間、お姉さんに質問していました。

 夏休みの自由研究も兼ねているのです。

 有名な塾講師がこんな話しをしていました。

 有名国立大学を出るも、なんとなく塾講師という仕事をしていました。心底打ち込めず、よくパチンコをしていたそうです。

 パチンコ屋で顔見知りになった、おっちゃんがよく競馬の話しをしてくれるのです。

 「あの馬は誰と誰の子供で、その父親はこういう馬で、更にその親はこんな馬で、その馬はこんな特性を持っていて、悪天候の時にはめっぽう強くって……そういえば○○年の××記念では……」

 そんな話を延々と聞いていた彼は「おっちゃん、それだけ勉強したらセンター試験でかなりの点数取れるで」と言ったそうです。

 そして気づきました。「好きやから、全く苦にならないんや。それどころか、楽しくて仕方がないんや」と。彼は英語の講師だったので、それからはいかにして、英語の面白さを伝えるかに、方針を変えました。

 生徒の成績は上がりだし、彼の塾講師としての礎を築いていったのです。

 どうすれば仕事の勉強の面白さを伝えられるのか。

 「仕事でも勉強でも、あなたが楽しくて楽しくて仕方ない、という取り組み方をしていれば、教育も何もいらないよ」と教えてくれた人がいました。
全くその通りです。

 結局ハエトリソウを買うはめになりました。1鉢600円。

 好きなら、世話も苦にならない、となれば良いのですが。

果てあるべからず

 昨日は、あべのハルカスへ。

 日本一高い展望台からの景色を見るつもりでした。しかし、上層階は未開業。

 2014年春オープンとなっていました。

 14階までの近鉄百貨店は開業中で、バーゲンの残り香を楽しんできました。

 はす向かいにあるキューズモールも、ほぼ初めて。

 2011年開業ですから、すでに2年が経っています。

 昔の風情を残すのも、天王寺駅北東エリアだけになりました。

 この古い商店街を抜ければ、17年前に事務所を設立したマンションがあります。

 私にとっては創業の地でもあるのです。

 昨日、家族はみな出掛けており別行動。一応私の誕生日なのですが……

 今朝、事務所でのミーティングが終わると、スタッフからプレゼントを貰いました。

 ブラックバス、ブルーギル、エビフライ、そして私のクッキー。

 女性スタッフの田辺さんだけでなく、1年目の田坂君も一緒に焼いてくれたそうです。 

 彼の力作は、ブラックバスとブルーギル。

 釣り好きだけあり、よく特徴をとらえています。

 田辺さんはエビフライと私。

 良く似ているとは妻の弁。

 ナニワ生まれのナニワ育ち。7月28日で43歳になりました。

 時々に思う言葉はいくつかあります。

 こんな日は、やはり世阿弥の「花鏡」から。

  是非の初心忘るべからず 
  時々の初心忘るべからず 
  老後の初心忘るべからず 
  命に終わりがあり、能には果てあるべからず 

 人は宝。総勢4名の小さな事務所ですが、彼らの幸せを実現出来るよう、粉骨砕身、働くつもりです。

 命に終わりはあっても、仕事に終わりはないのです。

見て桜、撮って梅

 火曜日は、昼の新幹線で品川へ。

 昨年夏にスタートした計画の、金額調整も最終段階。

 工事の契約までもう一息のところまで来ました。

 品川は初めて来た街で、本来ならうろうろしたいところです。

 しかしやや悪寒がし、まっすぐ打合せの場所へ。

 折角満開の桜も、ただ撮るだけになってしまいました。

 翌水曜日は、滋賀へ敷地調査に。

 その庭にあった梅の木が何とも味わいのある樹でした。

 桜は花弁の淡さゆえ、その美しさが写真では捉え辛いのが難点。

 梅は常に写真に応えてくれる花と言えます。

 見て桜、撮って梅。

 プロなら違うのかもしれませんが。

 フキノトウも顔をだしていました。

 季節感の違いが、その土地性を体感として知らせてくれるのです。

 その移動を楽しんでいたのですが、寒気が辛くなり病院へ。

 人生初のインフルエンザと分りました。B型だそうです。

 予防接種をしていたせいか、比較的軽症で済んだ気がします。

 スタッフには迷惑なのですが、今日もマスクで出所です。

 小中高、12年間無遅刻無欠席が私の自慢ですから。現場日記

後厄おわる

 昨日は節分、今日は立春ということで、晴れて後厄が終わりました。

 後厄は数えで43歳。私は1970年(昭和45年)の7月28日生れで42歳。昨年末で終わる。節分で終わる。2つの話を聞きましたが、立春を迎えた今日、間違いない終わったと言えそうです。

 この3年間「厄年だから~」という発言はしないと決めていました。言い訳やネガティブな言動が、いい結果を生むことはありませんから。

 昨晩、近所の神社を通ると、大きな焚火があがり、祈祷する声が聞こえてきました。

 行事の内容は分かりませんが、この時期にまつわるものでしょう。
厄除けで有名な門戸厄神のwebサイトにはこのような説明があります。

 「厄」には「苦しい、災い、節」という意味があります。そもそも「厄」は「役」に通じるといって、必ずしも「災難に遭いやすい」ことばかりが強調されてきたわけではありません。長い人生には要所要所で節目があり、肉体的、社会的にも様々な変化による区切りがあります。その節目にあたり、あらかじめ心の準備をおこたらないように昔人は「厄年」という習わしを考えたのです。

 この3年間、坐骨神経痛だったり、お尻を患ったり。確かに体のケアの必要な歳になったと感じます。しかし、社会のなかでの「役」が変わったとも思います。

 例えば、自分の成長のみを見ていても、事務所の成長には直結しない、というような事を思うのです。

 土日は、岸和田の浪切ホールでの建築展に参加していました。

 11組の建築家が、ブースを与えられ、その家づくりの楽しさを伝える、というのが目的。

 今回で参加は6回目になりました。

 ようやく自分のスタイルで、訪れた人を楽しませることが出来たのでは、と思っています。
 
 例えばこのASJも、新たな役割を求めて40歳頃に登録したものです。初回の事を思い出すと、いまでも何となく嫌な汗が出てきます。

 今日は、ひとつ節目を迎えた清々しい気分です。

 気にしていないと言いながら、今日という日を楽しみにしていた裏返しでもありますが。

子供とアルバイトに見えて、大人に見えないもの

 今週は前半から、妻と長男が風邪気味でした。

 長男の咳がひどいので、妻が病院に連れて行くと。

 火曜日は長女もプールがあり、進級テストの日。

 それで、私が連れて行くことになりました。

 娘も最近通い始めたのです。

 「凄く頑張っているから、一度見に行ってあげたら」とも言われていました。

 この日のテストは、息継ぎ無しのバタ足5m。

 そのくらいという事なかれ。手が離れても駄目、頭が上がっていても駄目、ヒザが曲がっていても駄目。

 このスミングスクール、厳しいので有名なのです。

 娘はぐんぐん進み、10mくらい泳いだでしょうか。

 そこで、コーチが止めました。

 結果は合格。

 合格者は皆の前に立ち、拍手でたたえて貰えるのです。

 4ヵ月で、見違える程上達していました。

 一際大きなワッペン。

 クラスが上がる度に貰えるワッペンを、楽しみに彼女は頑張ってきました。

 この試験は3回目の挑戦でした。

 着替えて出てくると、満面の笑み。

 進級だけが目的なら、週2回の練習をこれ程楽しみには出来ないはず。

 練習し、進歩、成長する喜びが、彼女のモチベーションになっているのです。

 以前、オープンデスクに来ていた女の子が、マクドナルドでのバイトの話をしてくれました。

 店内には完璧なマニュアルがあり、出来る事が増えて行くと、それこそ進級のようにランクがあがって行く。

 それによって、バイト代も上がるのでしょうが、その事を凄く嬉しそうに話していました。

 私にすれば、マクドナルドへの就職が希望なら別ですが、ここでのオープンデスクにもっと身を入れたら、と思っていたのですが。

 しかし、これは理にかなっています。自らの成長が動機になるなら、誰に言われるでなく、どんどん学び、勝手に伸びて行くのですから。

 今週も、教育者の在り方が引き続きメディアを騒がせています。

 体罰については月曜日に書いたので触れませんが、指導者の思い入れが、受け手の思いを超えてしまう事は良くあります。これは、スポーツに限らず、勉強、仕事でも全く同じ。

 子供の水泳とアルバイトには理想的なモティベーションが生まれるのに、肝心の実社会ではそれが難しいのは何故か。「目に見えての成長ではなくなるから」だと思っています。

 子供の頃、もしくはアルバイトなら、日々進歩して行きます。しかし、大人になり、技術、熟練が必要となる仕事が、目に見えて進歩できることは稀です。

 目に見えない、日々の僅かな成長を(大きい方が嬉しいのですが)、信じれるか。その積み重ねが大きな成果になりえると思えるか。このあたりが分岐点なのだと思います。

 知ったような事を書きましたが、チームのモチベーションを上げるのは簡単ではありません。私にとって、現在最も取組み甲斐のある課題です。

人類は進歩し続けるのか

 昨年の11月、こんな記事が出ていました。

 人類の知性は2千~6千年前ごろをピークにゆっくりと低下し続けているかもしれない――。こんな説を米スタンフォード大のジェラルド・クラブトリー教授が米科学誌セルの関連誌に発表した。

 人類の知性の形成には2千~5千という遺伝子が関係しており、ランダムに起きる変異により、それらの遺伝子は、働きが低下する危険にさらされている。

 一瞬の判断の誤りが命取りになる狩猟採集生活を送っていたころは、知性や感情の安定性に優れた人が生き残りやすいという自然選択の結果、人類の知性は高まっていった。

 真実かどうかは別にして、十分説得力のある話です。進歩発展を続けていると思っていた人類が、まさか後退していたとは驚きです。

 千年単位の話ではありませんが、思い当たる節がないではありません。

 一昨日、泉大津まで行っていました。

 所用でクライアントと会っていたのですが、帰りに「羽衣の家」をのぞいて来ました。 

 この仕事のオファーを貰い、私は独立しました。

 完成からはや15年。

 庭木も更に育ち、ちょっとした雑木林のようになっています。

 25、6歳の頃の記憶が、もっと言えば苦悩が、一瞬で蘇って来ます。

 まさに青春の1ページと言えば、少々青臭いでしょうか。

 42歳になったいま、当時より劣るものは何一つないつもりでした。が、先のニュースを読みふと思ったのです。私は進歩しているのだろうか、と。

 ―知性や感情の安定性に優れた人が生き残りやすいという自然選択の結果、人類の知性は高まっていった。―
 
 表現はオブラートに包まれていますが、冷静でなかった人類は獣の餌食になったという事です。
 
 不景気、就職難、デフレなど聞こえてきますが、生きることに命がけの時代に戻っただけのこと。ものは考えようです。
 
 このあたりは進歩したのか、ただ図太くなっただけなのか。 

暮れは元気にご挨拶 2012年

 昨日は、オリンピックイヤーに開催している同窓会でした。

 総勢52名。世話役の代表をしているのですが、やって良かったと思えるのは、皆に感謝の言葉を掛けて貰った時です。

 今年最後の日記は、大晦日になりました。2012年を振り返ってみます。

1月 「原始的に、自然に、そして子供のように」

 年始は茅野、蓼科の旅行からスタートしました。

2月 「お湯」

 この時は、冬までには自邸を建て替えていると思っていました。

 現実は未だ設計中。

3月 「東京タワー」

 四丁目の家の竣工、点検で東京へ。

 出張の際は、色々な街をみる楽しみもあります。

4月 「スキーのない人生」

 前週にスキーの試合に出たこともあり、自分とスキーを振り返ってみました。

5月 「ミュージアム in 北陸」

 ゴールデンウィークの終盤、北陸へ旅行へ。

 この頃「ビフォーアフター」の撮影も終盤でした。

 なかなか、あきの日が決まらず……

 急遽とった宿が、和倉温泉のビジネスホテルでした。

6月 「上野で見る、師弟の仕事」

 東京で竣工した「四丁目の家」の写真撮影へ。

 街歩きは上野。

7月 「匠という仕事」

 半年関わった「ビフォーアフター」が無事放映されました。

 ほっとしたというのが、正直なところ。

8月 「建築の詩人」

 長年見たいと思っていたスカルパ、ガウディの建築を見るためにイタリア、スペインへ。

 スカルパのブリオン・ベガ訪問は、今もその景色、風、のどかな田畑の匂いが蘇ってきます。

 家族での海外旅行も初めて。

9月 「話して観て食べる広島」

 テレビのおかげで、今年は講演を沢山させて貰いました。

 仕事で、色々な街へ行くのは特に楽しいのです。

 広島のお好み焼きは、やはり美味しかった。

10月 
「青春から朱夏へ」

 後輩の結婚の事を書きました。

 そのアクセスにお多さも驚きましたが、思いがけない後輩からも連絡があり。

 彼の結婚は来春です。

11月 「24年振り、わが母校」

 全ての講演の中で、最も嬉しかったのが母校での講演。

 ラーメンの味、食堂のおばちゃんまで全く変わらず。

12月 「ちょっとピンボケ」

 忘年会で飛田新地の「鯛よし百番」へ。大阪にも、知らないところがまだまだあります。

 いよいよ今年も今日で終わりです。

 何とか仕事に区切りをつけ、ややほっとしているところです。

 そんな中、先週金曜日に松井秀喜引退のニュースが入ってきました。その驚きと共に、私は松井秀樹が本当に好きだったんだなと分りました。

 その日はニュースのある時間に帰ろうと決めたのです。最も印象に残っている事はという質問に、彼はこう答えました。

 「長嶋監督と素振りをした時間が印象に残っている。プロの心構え、連練習から試合への取り組みを学んだ。それが20年間、自分を支えた」

 充血した目を見て、私ももらい泣きしました。その長嶋監督が発表したコメントは以下の通り。

 「これまでは飛躍を妨げないよう、あえて称賛することを控えてきたつもりだが、ユニホームを脱いだ今は、『現代で最高のホームランバッターだった』という言葉を贈りたい」

 これを聞き、更に涙してしまいました。

 松井選手の調子が悪いとき、電話口の前で素振りをし、その音を長嶋監督が聞きアドバイスをしたという話は有名です。これも、半分笑い話なのだろうと思っていたのです。

 しかし、18歳の松井を見た時から、球界を背負って立つと解っていた長嶋監督は、超一流同志にしか分らないレベルの指導、会話をしていたのでは、と今は想像しています。

 意はと聞かれると「来たボールを打つだけ」というコメントが象徴する通り、文字通りの天才だからです。

 しかし、松井を支えたのは長嶋監督との時間だったというコメントを聞き、高みを知る人間にしか分らないものがあるのだと感じたのでです。

 自分に置き換えるなら、限りなく高い目標を目指したいと思いますし、その機会を貰っているようにも感じます。

 願わくば、松井秀喜がヤンキースタジアムに立つ姿を、直接この目で観たかった。イチローがヤンキースへ移籍した今、同じ様な悔いを残さない為にも……

 来年も全力で働きます。

 ことし1年、このゲツモク日記にお付き合い頂き有難うございました。皆さんにとって、来年が更に素晴らしい1年となりますよう、心からお祈り申し上げます。

 2012年12月31日 守谷昌紀

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■■■『大改造!!劇的ビフォーアフター』■■■ 7月8日(日)「匠」として出演しました

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24年振り、わが母校

11月3日の土曜日は文化の日。

この日は母校、高槻高校の第1回ホームカミングデー。浪人時代に一度来たので、24年振りだと思います。

ホームカミングデーとは、母校に帰ろうというイベントで、最近は多くの大学、高校で開催されるようです。

今回は子供達も連れて行きました。

11時頃から、小講堂でセミナーをしました。

第1回目に声を掛けて貰ったのは光栄なことです。

「ビフォーアフター」の話をと、リクエストを受けていたので、その話を中心に約50分程。

会場のキャパは300人だったのですが、参加者は40人足らず。

若干寂しくはありましたが、母校での開催と言うのは、嬉しいものです。

阪急高槻駅は、高架化され随分近代的になりました。

駅前の雰囲気はあまり変わりませんが、道幅は狭く感じます。

中1の時は145cm、今は172cm。

私も少しは成長したでしょうか。

毎日帰りに寄った駄菓子屋は、自販機だけになっていました。

反対に食堂のおばちゃんは今も現役。

もう勤続30年以上とのこと。

ラーメンの容器も、スープの味も、チャーシューも全く変わらず。

このチャーシュー、何故かとても美味しいんです。よく単品で追加しました。

舌の記憶は、四半世紀を一瞬で超えます。

中高の6年間を過ごしたわが母校。

正直、今までほとんど愛着がありませんでした。

その理由は、学校が何かしてくれると期待していたからだと分ります。

僅かながら、学校の役に立てたと感じる今、急遽愛着が湧いてきました。

出来れば長男も……

本当を言えば、いつかこんな機会が来るのではとイメージしていました。今回は、卒業生の先輩方、後輩へ向けてのものでしたが、出来るなら在校生に向けて話してみたかった気がします。

勉強とは、仕事とは、生きるとは。

そんな暑苦しい話はいいよ、と言われるかもしれませんが。

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先祖代々400代

 今日から11月。

 一昨日には木枯らし1号も吹き、少しずつ冬へ向かっていると実感します。日曜日の夜、父が太刀魚を釣ったと、持って来てくれました。

 鋭い歯に、怪しくギラギラと光る姿はかなり怪しげ。

 旬は夏と言われますが、この時期の方が当然大きく、食べごたえもあります。

 塩焼きは勿論ですが、オリーブオイルのソテーもなかなかいけました。

 現在、事務所は私を含めて3名。加えて、オープンデスクの学生が1人来ています。

 実はこの8月、一旦4人体制になったのですが、10月度で入所したスタッフが辞めました。先日、1日でオープンデスクを辞めた、というのとは別の話です。

 長男を見て、どんな仕事をするのだろうと思います。

 折を見て、自分の仕事へ誘っていますが、彼が夢中なのは虫捕りです。

 彼岸の墓参りの際も、アミと虫カゴを放す事はありませんでした。

 釣る、潜るなど。私も狩猟することが一番好きだったなと思います。

 父は今でも月に2回、岸和田から船で魚を釣りに行きます。

 定住を始めたのは1万年前。それ以前は、まぎれもない狩猟民族だった事を考えると、これはごく当たり前の事なのかもしれません。

 私達の祖先は、熾烈な生存競争を勝ち抜いて来た優れた人達です。その結果、私にまで命が届いたのです。仮に1世代25年とすれば、1万年は400代です。狩猟を捨てたのは遥か彼方の話ではありません。

 その後、農耕が始まり、今度は土地の奪い合いなど、幾多の争いもあったはずです。それらに勝ち残り、働き、かつ、かなりの幸運を併せ持っていた人。その子孫が私達なのです。

 農耕は自分に向いていないとか、休日が雨の日では自分の予定が立てられないから辞めます、などと言う人は、生き残っていないはずなのです。

 今年で4年目に入った所員は、随分やる気を見せています。初めの1、2年はどうなる事かと思いましたが、やはり石の上にも3年です。

 自分が遺伝子によって受け継いだ、何らかの得意を掘り起こす。仕事探しとは、結局そんなものではないかと考えています。

 ただしその発掘作業は、最低3年掛かるのです。

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