カテゴリー別アーカイブ: 01 旅・街

木曽福島の山荘にて

 新年明けましておめでとうございます。

 いきなり告知です。1月6日(日) 朝日放送系列18:56より『2012年ビフォーアフター大賞』が放映されます。

 匠による投票で、ビフォーアフター大賞を決定するのですが、担当した「天井から雨が降る家」も放映があるかもしれません。もし良ければご覧ください。

 12月31日は、早朝から木曽福島へ行っていました。

 スキー場についたのが朝の8時半。

 きそふくしまスキー場はスキーヤーのみのスキー場です。

 両親、弟家族と一緒ですが、小学2年、1年の長男達は、随分滑れるようになりました。

 恰好はもう一人前です。

 下の娘は5歳ですが、上の2人に負けないくらい腕を上げています。

 体は小さいのですが安定感があり、向上心があるのです。

 「こんな風にしてみなさい」というと素直にトライするのが、成長の理由でしょうか。

 そんな彼女が一番気にしているのは、2つ下の従妹。

 今年からプルークボーゲンの練習中ですが、こけたら走って助けに行きます。

 抱え起こして。

 ポーズ。

 片時も離れず、喧嘩もそうせず。

 本当に仲が良いのです。 

 今回も、親族の山荘に2泊しました。

 食事は母が概ね用意してくれたもの。

 自炊ながら、正月気分は十分です。

 子供達にとっては、誰にも気兼ねせず遊べるのが、何よりのお年玉でしょう。
 
 男の子組は、ベイブレードで盛り上がっていました。

 この山荘に来るのは何回目でしょうか。

 これは、義妹家の親兄弟で建てたものです。

 その中で、ここにはテレビを置かないと決めているそうです。

 ネット環境もないので、ある意味で贅沢な時間を過ごせました。

 その分静かに過ごせたかと言えば、そうでもなく、聞こえてくるのは常に子供の嬌声ですが。

 1月2日の夜、大阪に戻ってきました。

 いよいよ明日から、2013年が本格的にスタートします。

 アトリエmのテーマは「幸福のために」、私のテーマは「学び」です。

 「学ぶ」ではなく「学び」にしました。行動すれば良いというものでなく、成果として出すという意思を込めました。

 変えられないのは他人と過去。変えられるのは自分と未来。今年も全場面、全力で判断します。

 ゲツモク日記共々、2013年もどうぞ宜しくお願いします。
 
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■■■『大改造!!劇的ビフォーアフター』■■■ 7月8日(日)「匠」として出演しました

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建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
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最後の色街

 忘年会シーズンもそろそろ終盤。私の参加回数は5回程度と、かなり少ないほうだと思います。

 その中で、最も楽しみにしていたのが「鯛よし百番」ので忘年会。先輩の建築家、石丸信明さんが主催する勉強会の忘年会です。

 何故、鯛よし百番になかなか行く機会がなかったのか。それは、飛田新地の中にあるからです。

 最近、書店に平積みで置いてある本に「さいごの色街 飛田」があります。読んではいないのですが、昭和の色街の匂いを色濃く残した街。それが飛田新地です。

 場所で言えば、通天閣の南、ジャンジャン横丁を南に下って行き、更に43号線を超えて10分程。最近活気のあるあべのキューズモールの西側あたり。

 煩悩、猥雑、淫靡、そんな言葉を建築にした街。写真撮影は一切禁止ですし、撮れる雰囲気も全くありません。

 しかし、鯛よし百番はOKでした。建物は大正末期に遊郭として生まれ、現在は料亭として営業しているのです。

 いままでに、飛田新地は1、2度通った事があります。大人の男の私も、緊張してしまうというか、大人の男だから緊張してしまうというか……

 この街は、完全に時間が止まっています。本物のタイムマシンでした。

 街にA面とB面があるとしたら、この街はB面の街。その表現さえも昭和の名残と気づいた私。

 「さいごの色街 飛田」哀愁のフレーズです。

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席を譲る、その作法

 先週土曜日は、茨城県に行っていました。

 千葉で住宅を設計中なのですが、施工会社が茨城県にあるのです。
 
 柏市を超えたあたりから、急に視界が開けてきました。

 茨城県取手市、藤代駅。

 茨城県を訪れるのは、おそらく初めてです。

 これで未体験は、沖縄、栃木、福島の3つになりました。
 
 クライアントとの打合せは昼からで、施工会社の担当者、社長と昼食に出掛けました。

 関西なら、立ち食いうどんですが、関東なら立ち食いそばです。

 そばはやはり関東でしょうか。

 こちらのつゆも、やや辛目でかなり美味しかったのです。

 茨城の名物を聞くと、あんこう鍋、納豆、偕楽園と上がってきました。

 冬のあんこう鍋。いつか食してみたいものです。

 上野から藤代までは常磐線で50分。

 出来れば座って、一仕事したいところです。空き席もあり快適な電車の旅を楽しみました。

 ちょっと足元のヒーターはちょっと熱すぎですが。

 これは聞いた話です。

 行楽シーズンの新幹線でのこと。東京―新大阪は自由席しか切符がありませんでした。勿論東京駅からほぼ満員。その人も通路に立っていたそうです。
 
 すると、新横浜から老夫妻が乗車。車内に入ってこられました。

 それを見て、ある20代のカップルが席を譲りました。大阪までなら約2時間、名古屋まででも1時間半は立ったままです。

 これを見て、とっても清々しい気分になったと言います。つい「今の若者は」と言ってしまいそうですが、その場で自分が同じ行動をとれたかどうか……

 先日読んだ「強育論」には、席を譲られた相手が、譲られたかどうか分らないのが、最もスマートな席の譲り方、とありました。

 譲られたお年寄りに強く遠慮された時。また、同乗していた友人に見せつけたいが為に、席を譲っていると感じた時。それに気付いた、とあったはずです。

 隣の車両に、気になる広告を見つけたかのように、席を譲れたら。これはもう美学です。

 どちらの話にもいたく感心したのは、自分がその域にいないから。トライしてみようと思います。

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長州岩国で、歴史を思う

 土曜日は朝から新幹線で、山口県の新岩国駅へ。

 大阪工業技術専門学校、校友会の中国支部総会に呼んで貰いました。1時間ほどで何か話をして欲しいという事。

 岩国と言えばやはり錦帯橋です。

 会場のホテルもすぐ近くで、見に行って来ました。

 5連の反り橋は、日本三名橋に数えられます。

 蛇行する錦川は山城である岩国城の堀の役割も果たします。

 この川幅200mの錦川に掛けられた木造の橋が錦帯橋。初代岩国藩主・吉川広家が完成させました。300年前の技術の粋を集めたものなのです。

 「おはん」で有名な作家・宇野千代もこの地の出身。昭和の女流作家のさきがけと言えます。

 生家が復元されていました。

 初めは通り過ぎるつもりでしたが、塀越しの紅葉に誘われ立ち寄ってきました。

 今年の紅葉は美しいという話ですが、間違いなさそうです。

 紅葉は赤きをよしとするものですが、淡い赤になる種が数本植わっていました。

 これが非常に上品な色づき加減で、大変美しい庭でした。

 一番楽しみにしていたのが「岩国徴古館(ちょうこかん)」。

 佐藤武夫の設計で1945年(昭和20年)3月に竣工しています。

 戦時下の傑作と言われて、そのサイドストーリーがなかなか興味深いもの。

 鉄が貴重だった為、鉄筋でなく「竹筋」の入った、竹筋コンクリート造という話があるのです。

 内部の柱も独特のフォルム。

 竹が入っているからこうなるのか、戦時下で、自分の意思を通したものなのか……

 やはり建築は条件が厳しければ厳しい程、傑作が生まれるものなのか……

 講演は問題なく終わりました。

 その日は岩国駅前のホテルに泊まり、帰りは山陽本線で、広島まで移動する事にしました。

 瀬戸内を望む鈍行の旅。なんとも贅沢な時間、と思っていたら高校生の集団が乗車してきました。

 修学旅行でしょうか。

 山陽の言葉の通り、このあたりは山に日の当たる地です。とても明るいイメージを受けました。

 明治維新は、薩摩、長州、土佐、肥後などの地域の藩が中央の政権を倒したものです。

 日本の近代化は、地域の力によって実現されたものなのです。

 革命は小より起こる。さて、この年末「小」は日本を変えれるのか。

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梅田のこれから、これからの買い物

 先週の木曜日は10月25日。現場の帰りに梅田を通りました。

 長らく工事中だった阪急のコンコースが、ようやく開かれていたのです。

 少しのぞくと、阪急百貨店も結構賑わっている感じです。

 広角カメラを持っていたので、写真を数枚撮りました。

 このコンコースは、初代、阪急梅田駅のホームだったところです。

 映画「ブラック・レイン」では、松田優作がバイクで登場しました。

 梅田の発展と共に、変遷を遂げて来た場所なのです。

 今回の工事に入った時に、その歴史をまとめてみました。興味のある方は2005年10月31日の記事を。この風景が、梅田の、大阪の顔となりえるのか。また7年経ってから、何か書いてみたいと思います。
 
 翌日、新聞を読んでいると、百貨店のリニューアルオープン初日だったと知りました。

 記事には、朝早くから多くの人が列を作り、かなりの混雑だったとあります。しかし、私が通った夕方は、そこまでの特別感はありませんでした。

 JR大阪駅界隈は、百貨店のオープンが相次ぎ、人出は増えましたが、実際の消費は目で見てとれる程、冷え込んでいると感じます。

 人口が減り、高齢化社会が進み、安い労働力を求め企業が海外移転を進める中、以前のような消費型社会に戻る可能性はないはずです。では、日本はどこへ向かうのか。

 作家、曽野綾子が新聞に以下のような発言をしていました。

 自立の気構えが全ての基本。自分達にかかる費用は払い続ける。シルバー割引を使わない。健康保険も使わない。

 ここまで出来る人が、何パーセント居るかは別にして、その考え方には惹かれるところがあります。彼女の考えは、高齢者をイメージしての事だと思いますが、これまでの「買う」に対しての警鐘とも言えます。

 相応の対価を、納得して払う。得をするから、今買わないと損をするから、ではない。

 そんな事だと感じるのです。

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岸和田だんじり祭り

 昨日の台風17号は、日本列島を縦断。午前中に三陸沖へ抜けたようです。

 土曜、日曜はイベントがあり、ASJの岸和田スタジオに行っていました。その前を、だんじりの試験曳きが通りました。

 台風が最も近畿へ接近した昨日の昼過ぎ。

 雨であれ、風であれ、祭りの男たちには関係ありません。

 交差点をかなりのスピードで曲がる「やりまわし」。

 岸和田だんじりならではのハイライトです。

 屋根の上で舞っている人は、大工方と言います。彼らが踊る間は、直進。曲がるときに合図を送るのがその役割だそうです。いわば、指揮者なのです。

 考えてみれば数トンもあるだんじりに、ハンドルがついる訳ではなく、曳き綱をだけでコントロールするのが、簡単なはずがありません。方角は「山、海。大阪、和歌山」で表現するそうです。

 山→東、海→西。北→大阪、南→和歌山。

 なるほど、この街と限定すれば、そので暮らす人が聞けば、最も間違いがなさそうです。曲がり角手前で一旦待機。合図と共にスタートし、見事成功させました。

 時にはけが人が出る程で、緊張感が漂っていました。方角の表現も、間違えば大事故となりかねないからこそ、伝統が息づいているのでしょう。一度本番を観てみたいものです。

 常に危険と隣り合わせ。そんな緊迫感が、より生を強く感じ、人を熱狂させるのではないかと思います。

 経営コンサルタントの石原明氏は「一生懸命仕事をすれば成長し、より多くのお金が貰える。成果を出さないとお金を貰えなくなるのが資本主義社会の良い所」と発言していました。

 実社会では「わりまわし」のような場面はなかなか無いとも言えます。反対に、いつもそうだとも言えそうです。

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人生の晩秋を向える時& 讃岐うどんの名店Ⅴ

この連休は墓参りに帰っていました。

まずは岡山県倉敷市へ。

父方の祖父母は亡くなりましたが、共に92歳まで生きました。

今は瀬戸内海を見下ろす墓で、静かに眠ります。

瀬戸大橋を渡り、今度は母方の里、香川県まんのう町へ。

祖父の入る墓は、船の神さま、金毘羅山(こんぴらさん)を望む田の中にあります。

曲がった事が大嫌いな人でした。

自分で言うのも何ですが、私が一番その気質を受け継いでいると思います。

香川に来た時、うどん店めぐりはかかせません。

今回寄った店は「純手打ちうどん よしや」。

名店も多い、飯野山(いいのやま)別名讃岐富士の麓にあります。

麺が冷たい、だしが熱い「ひやあつ」としょうゆうどん。

ゲソとレンコンの天ぷらに、おにぎりとおでんのスジ。

これで1050円程。

「純手打ちうどん」の看板通り、手打ち麺を包丁で切るこだわりの店長。

「大将」と呼ばれていましたが、まだ若い感じでした。

一時のブームは去ったとは言え、連休の昼時は店外まで列ができていました。

その表情にはやや疲労の色も。

「気長にやりなよ」と声を掛けてあげたい気持ちもありましたが……

味の方は間違いないものでした。

母方の祖母は88歳で健在です。

今は年に1回くらいですが、小学生の頃は夏休みを一緒に過ごしました。

段々と仏さんのような顔になってきました。

愛おしいと思えるのは我が祖母だからでしょうか。

子供たち、そして私もあと何回会えるのか。

人生の晩秋を迎えた時、果たして私はどんな顔をしているのか。

そんな事を考える時間が彼岸なのだと実感するのです。

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話して観て食べる広島 

 昨日は、広島でのセミナーで、8:45amの新幹線で大阪をでました。

 案内には、さくらの表示も。

 今更ですが鹿児島まで新幹線が繋がっている事を、改めて実感します。

 会場につくと、まず主催者、関係者に挨拶。その後、控室に案内してくれました。

 卓上には弁当も。

 武蔵という店の人気弁当とのことでした。味付きご飯のおにぎりが美味しかったのです。

 会場を見下ろす位置に窓があり、なかなかの盛況ぶりがうかがえます。

 セミナーは12時からと3時半からの2回。この開催期間中、多くのセミナーがあります。

 この2回はスペシャルセミナーと告知されていると聞いていました。

 また唯一事前申し込みが必要とのことで、どの位の方が来てくれるのか気にはなっていました。

 1回目は満席で、2回目は9割方という感じ。

 事前申し込みをして貰っているという事もあり、参加者の意識も非常に高かったです。

 話しに対して頷いたりしながら反応を示してくれるのです。

 聴いている時は分かりませんでしたが、その情報があるのとないのとでは、話す側は全く違います。

 先日「上手くやるのではなく全力で」という方針に変更したばかりですが、ちょっと笑い話を交えたりもしてみました。

 反応は、そこそこでしたが、そんなトライも話す楽しみです。

 リフォーム・エクステリアフェアという事だったので、実例で改修の可能性を中心に話をしてみました。少しでも、前向きな気持ちになって貰えたらと思います。

 1回目と2回目の間には、近くにある広島現代美術館へ。竣工は1988年。

 黒川紀章の設計で日本建築学会賞をとった作品なのです。

 かなり期待をして見に行ったので、正直に言えば少し物足りなさを感じました。

 2回目の講演も無事終わりタクシーで広島駅に向います。

 途中「八昌(はっしょう)」というお好み焼き屋さんに寄って貰いました。

 クライアントに非常に詳しい方がいて、かなり並んでいるので持ち帰りがいいですよ、とアドバイスを貰っていたのです。

 会場を出る前に予約し、1時間後に行ったのですが、夕方5時ですでに40人以上の行列。

 席に着くまでに3時間は掛かるかもしれません。

 出来上がったお好み焼きを受け取り、店を出ました。その時、痛いほどの視線を感じます。悪い事をしている訳ではないのですが……

 雨が降り出したこともあり、正直、後ろめたい気持ちもありました。しかし、本来はお店で食べる方が美味しいに決まっています。

 どう見ても超人気店ですが、お持ち帰りに対しての対応も非常に丁寧でした。お好み焼きは回転率が悪いというのもあるかもしれません。

 大阪で言えば豚モダンが840円だったと思います。

 新幹線の待ち時間に、食べました。

 生地は薄目、キャベツが沢山で、ややコショウが強め。

 かなり大きめですが、キャベツが多いので見た目程のボリュームは感じません。一気に食べてしまいました。

 セミナーの司会をしてくれていたタレントはとっても感じの良い方で、グルメレポーターもしていたそうです。

 「広島でも100軒は回りましたが、やっぱり八昌が一番美味しいと思います」と言っていました。勿論、期待を裏切らない味でした。

 広島駅のすぐ南東に、新しい広島球場が見えます。

 新幹線からも、球場の中まで良く見えるのです。

 こちらの設計は仙田満。2010年の日本建築家協会賞を受賞しています。

 今回は遠目からしか見れませんでしたが、非常に美しい、また視覚的に開かれた球場の見えます。

 是非中に入ってみたい球場です。

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 この日は試合があったようで、多くのカープファンが、真っ赤なユニフォームを着ていました。

 タクシーの運転手さんも、先日引退を発表した金本選手が「心残りはカープで優勝できなかったこと」の発言にグッと来たと言っていました。

 旅の思い出に大きく残るのが、地元の人とのコミュニケーション。

 そう考えると、タクシーの運転手は街の第一印象を決定づける、最も重要な職業と言えるかもしれません。

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イタリアとスペインの旅⑦ <バルセロナ編>

 “Have a nice trip!”

 寝台電車で同室だったブラジル人に別れを告げ、8月16日(木)の朝、バルセロナに降り立ちます。最後の街になりました。

 まずは、リキテンテンスタインの「バルセロナヘッド」に挨拶を。駅のすぐそばにあるのです。

 バルセロナを3日間で見尽くしてやるという意気込みです。

 ガウディのライバルとも言われる、ドメネク・イ・モンタネール設計の、カタルーニャ音楽堂へ。

 世紀末に起こった芸術運動、アールヌーヴォーはスペイン南部のカタルーニャ地方の建築にも影響を与えました。

 それをモデルニスモ建築と呼ぶのですが、その初期の代表作がこの音楽堂です。

 装飾技術の粋を尽くされた天井中央にあるステンドグラスのシャンデリア。

 問答無用の迫力でした。ドメネク・イ・モンタネールはガウディの先生でもあったのです。


 そのまま、ピカソ美術館とサグラダ・ファミリアを見に行きましたが、あまりの行列で、一旦退散してきました。

 他のガウディ建築をと、まずはカサ・ミラへ。1910年の作品なので築100年です。

 何度も写真で見たものですが、思った以上に突飛な感じは受けませんでした。ごく普通にそこにあるというか。


 内部も観れますが、やはり特徴は屋上です。

 2つの吹抜けを囲む床は、激しく上下しています。

 この自由な屋上または屋根形状を成立させる為、ガウディは薄いレンガのアーチを幾重にも重ねるという工法を考え出しました。

 一番最後の、コロニア・グエルで見れるので、ひとまず進みます。

 アントニ・ガウディは1856年生まれで、1926年にバルセロナの市電に
はねられ亡くなります。

 カサ・ミラは後期の作品になるので、その作品群の中でも非常に洗練されていると感じます。

 リチャード・マイヤー設計のバルセロナ現代美術館まで歩き、次はバルセロナ・パビリオンへ。

 1929年バルセロナ万博の際、ドイツ館としてミース・ファン・デル・ローエによって設計されました。

 それが、1986年に同じ場所で復元され、ミース記念館とされたのです。

 ガウディが亡くなったのは1926年。ほぼ同じ時代に、建築のふり幅がここまであるのは驚きです。

 世紀末の有機的な形態を持つ建築、モデルニスモ建築が、ミース・ファン・デル・ローエの考える、モダニズム建築の反対項であったのは間違いありません。

 これらを見比べる事によってミースの“Less is more”の思想は、より迫力が増してきます。

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 バルセロナ2日目、8月17日(金)は、電車で1時間半ほどの、フィゲラと言う街へ出掛けてみました。

 サルバドール・ダリの故郷で、自らが設計したダリ美術館があるのです。

 かなり早めに出たのですが、到着した頃にはすでに長蛇の列。

 「女優メイ・ウエストの部屋」も横から写真を撮るのがやっと。

 この時期を外さなければ、ゆっくり見るのは難しいそうです。

 再びバルセロナに戻りガウディを訪ねます。

 住宅の傑作と言われるカサ・バトリョへ。1906年の完成です。

 この家は、海の家とも呼ばれます。外部タイルも、内部吹抜けに使われているタイルモ、青を中心としたものが多く、涼やかな印象でした。

 2階の広間の通りに面した窓も、青を基調としたステンドグラス。

 濃厚で有機的なデザインの中にも、一服の清涼剤といった感じでしょうか。

 2日目の最後は、市街地から少し西にある高台、モンジュイックの丘にあるミロ美術館へ。

 かなり歩き、汗だくになりましたが、屋外展示を見ながら日影にいると、すっと汗が引きます。

 バルセロナを愛した芸術家は、ミロをはじめ、ピカソ、ダリなどです。燦々と降り注ぐ太陽と、乾いた空気、陽気な人柄が、創作の場として魅力を持っているのでしょう。

 特にミロは好きな作家です。

 8月18日(土)のバルセロナ3日目。

 実質最終日なので、朝一番から再びサグラダ・ファミリアへ。9時の開門に対して1時間前に着きました。それでも40名程並んでいたでしょうか。

 平等院の鳳凰堂と全く同じように、サグラダ・ファミリアも池に映る姿まで含めて、デザインされていると聞きました。

 その写真を是非撮りたいと思っていたのです。

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 東面、生誕のファサードは、唯一ガウディの生きている間に完成しています。

 何度も何度もファインダーをのぞき、シャッターを押しました。彼と同じ景色を見ていると思いながら。

 やはりその規模、その装飾においてこれがガウディの傑作に間違いないでしょう。

 限りなく高い天井に向かって何本も生えるように建つ生き物のような、骨のような柱。それが複雑な陰影を生み、より荘厳な空間を創造しています。

 生誕のファサードの中央、塔の部分までエレベーターで登れます。

 未だ建築現場でもあるこの教会の、すさまじさを見る思いがしました。かつその高さに腰が引け、大した写真も撮れず下りてきたのですが。

 昼前にはグエル公園。1914年。

 そしてグエル邸。1889年、ガウディ37歳の年です。

 その名が示す通り、ミケランジェロにメディチ家があったように、アントニ・ガウディにはエウセビオ・グエルというパトロンであり、最良の理解者がいました。

 カサ・バトリョが後期の傑作なら、グエル邸は前期の傑作住宅と言えます。

 全ての制限を外したかのように、惜しみなくお金が掛けられているのが分かります。

 この家をガウディが30代に設計したことによって、その後の人生が変わったと言っても過言ではないでしょう。

 この3日間見た中で、最も刺激的だったのはコロニア・グエル教会です。
 
 グエルは、繊維工場をバルセロナ郊外に移し、生活に必要な建築全てを、ガウディとその弟子に造らせました。

 グエル邸とほど同時期、初めての工業コロニーが作られのです。バルセロナからカルーニャ鉄道で20分。更に駅から10分程歩きます。

 この教会は最終的には中央に40mの塔を備えた、立派なものになる予定でした。

 1890年に注文を受け、その実験だけに10年をついやしたガウディに、流石のグエルも1917年に計画の中止を命じます。

 その時点で出来上がっていたのは、地下部分の教会だけ。それが現在の、コロニア・グエル教会なのです。

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 ガウディが、サグラダ・ファミリアで実現するトウモロコシ状の塔は、この教会でも実現されるはずでした。

 また、カサ・ミラで触れた薄いレンガのアーチも良く見てとれます。この教会が、ガウディの最高傑作とする向きもあるとパンフレットにありましたが、私もそう思います。

 非常に原始的にも見える空間が、より強いメッセージを持っています。それは宗教弾圧によってできたカタコンベ(地下教会)や、原始の洞窟空間に似た、荒々しい、よりプリミティブなものと言えば良いでしょうか。

 最後にここへ来て、そんな事を思いながらバルセロナ市街へ戻ったのです。

 翌朝、6時半の飛行機で、バルセロナからローマへ。空港内で家族と落ち合い、8月20日(月)の朝、大阪に戻りました。

 関空快速にのりながら、次はオーストリアかスイス、もしくは北欧か、などと考えていました。これだけの休みをいつ取れるのか分かりません。でもまた出掛けたいと思います。

 知らない街へ下り立った時の、あのときめきを求めて。

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イタリアとスペインの旅⑥ <ミラノ編>

 8月14日(火)の夕方、ヴェローナからミラノに移動しました。

 妻の友人は、ルカというミラネーゼと結婚し、ここで暮らしています。

 たくましいなあと思いますが、子供も3人居て本当に幸せそう。

 それに甘えて、我が家の家族は一足先にこちらで世話になっているのです。

 この日は、私も泊めて貰う事になっていました。

 駅まで、2家族全員が迎えに来てくれ、ジェラートなんかを食べながら街を散策。彼らの家に着いたのは夜の7時頃でした。

 旦那さんのルカと会うのは、これで5回目くらいでしょうか。

 ホスピタリティにあふれたナイスガイで、夕食は彼が腕を奮ってくれました。

 子羊の煮込み料理は、長女のアイリも手伝いしています。

 流石、肉を食べる歴史が違います。しっかりとした噛みごたえもあり、ワインも進みます。

 夫妻は一切飲まないにも関わらず、この料理に合うワインを4、5本用意してくれていました。

 子供達はもう慣れたもので、上の男2人はサッカーをして遊んでいました。

 彼のシュートを、いつかワールドカップで観れれば、とか思いながら……

 自宅はミラノの街中にあるアパートメントを数年前改修したもの。120㎡程あり、とても良い感じです。

 大きなジェットバスは、大きなバスタブを持たないイタリアの友人にも大人気と言っていました。

 翌15日(水)は、朝からルカと買い物へ行きました。

普通の市場を見たいとリクエストしていたので、男2人で散策に。
 
 そこで旅の不足品を2、3買っただけですが、非常に満足しました。しかしスイカもカボチャも大きい。

 朝食の後、皆で歩く先にあるのは、サンタ・マリア・デッレ・グラッツィェ。

 ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を観る予約をしていました。

 15分交代で、かなり少ない人数の予約しか取らず、セキュリティーチェックもかなり厳しい。

 日本語のオーディオガイドも借り、しっかりと向きあって来ました。

 ルカが言うには、以前全く覆いの無い状態で観たのは26年前。最近見たのはとてもラッキーだと。それだけの時間を掛け、修復作業をしていたのです。

 ダ・ヴィンチの業績を振り返る事はしませんが、この絵が、それまでの平坦な絵と全く違う次元の扉を開きました。

 奥行きのある、しかもある瞬間を切り取ったドラマチック絵は、これ以前には存在しなかったのです。

 ミラノの中心にあるドゥオーモ。この街の象徴です。

 ゴシック建築の傑作と言われますが、教会建築は、高さと大空間を求めた、その葛藤の歴史だと言えます。

 組積造でこれほどの大空間を作る為、フライングバットレスと言われる外部梁で支える構造が考え出されました。

 圧倒的な高さから僅かに差し込む光と、幻想的なステンドグラスこそが、神に最も近づける場所、教会の証なのです。

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 最後に訪れたのは、ガッレリア。

 ドゥオーモのすぐそばにあります。

 アーケードの完成は1877年。そのガラスの大屋根の軽やかさは圧倒的です。

 もし、今の日本で同じものを作ったら、その鉄骨部材のサイズは少なくとも3倍にはなるのでは。

 夜の8時前、皆に別れを告げ、ひとりミラノ中央駅を発ちました。

 寝台特急で、最後の目的地バルセロナへ向かいます。

 1部屋に、2段ベッドが2組。男4人にはかなり狭い空間です。そこにブラジル人3人と日本人が1人。

 ベッドには仕切りのカーテンもなく、とっても親密なドミトリーと言う感じ。なかなかの好青年と感じたので、コミュニケーションをとってみますが、たまに使う英語では、話しのネタもすぐ尽きてしまいます。

 非常に濃密な空気のまま、電車は西へ向かいます。

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■■■『大改造!!劇的ビフォーアフター』■■■ 7月8日(日)「匠」として出演しました

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建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
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