カテゴリー別アーカイブ: 04 建築

今日の屈辱を耐えて、明日のために生きろ‐1341‐

 この連休、子供をどこにも連れて行けずで。

 午前中、娘と堺にある「ビッグバン」という施設に行ってきました。

 遊びをテーマに設立された大型児童館です。

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 名誉館長の松本零士が創作した「壮大な旅物語に沿った、ストーリー性のある非日常空間を演出」とあります。

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 UFOのようなフォルムをしているのは4階部分。

 なかなか夢のある建物です。

 完成は1999年。松本零士といえば、「銀河鉄道999」の作者です。そこに合わせて、竣工させたのかもしれません。

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 内部も、その世界観に基づいてつくられています。

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 自分で書いたイラストを取り込み、架空の世界で遊ばせるという「電子動物園」。

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 宇宙戦艦ヤマトの中にいるような気分になります。

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 かと思えば、大阪にいたという古代ワニのアスレッチックあり。

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 また、正面右に見えるガラスのタワーは、4層を貫いた巨大ジャングルジムになっていました。

 小3の娘は満足していましたが、小1くらいまでが、一番楽しめるかもしれません。

 3年ほど前ですが、松本零士のインタビューが新聞に載っていました。

 彼の父は軍人で、太平洋戦争の際、陸軍士官学校の同期の中で、唯一生きて日本に戻ったそうです。

 部下の多くを失い、自決したかったのではと思う。それでも、家族の為に生きて帰ってきてくれたことに感謝するとありました。

 監督をつとめた「宇宙戦艦ヤマト」の沖田十三艦長はその父がモデルです。

 「今日の屈辱を耐えて、明日のために生きろ。死ぬな古代」いうセリフも、そういう意味のことをしょっちゅう聞かされていたからこそ生まれたものでした。

 生命を讃える考えが、全作品を貫く彼のテーマなのです。

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 施設の前に市民会館があるのか、成人式終わりの若者が集まっていました。

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 あでやかに着飾ったその姿は美しく、人生の中でも最も素晴らしい時間だと思います。

 松本零士の父はいつもこう言っていたそうです。

 「人は死ぬために生まれてくるのではない。生きるために生まれてくるのだ」

 生きるということは、たやすいことではありません。日々屈辱ということはありませんが、それでも困難の連続です。

 一人前とは、逃げないと決めること。大人の覚悟で頑張って欲しいと思います。

 そう言う以上、先輩の大人が逃げていたのでは話になりませんが。

当たり前にあるもの‐1340‐

 当社は今日が仕事初めでした。

 仕事初めは、昨日、今日が多かったでしょうか。

 1月3日に京都へ行く用事があり、平等院に寄ってきました。快晴に雪なら金閣寺ですが、青空で無風の平等院も捨て難いのです。

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 平等院は1052年、関白藤原頼道によって創建されました。

 今から千年近く前、頼道の考えた浄土をこの世に再現したのが鳳凰堂です。

 水面に映る姿まで愛でた、日本人の美意識がここに結実しています。

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 軽やかに持ち上げられた、両翼は軽快、かつ繊細。

 平安時代の人が見た時の驚きはいかばかりのものだったのか。

 昨年末にスタッフが2人退職し、人出不足がゆえ現行スタッフは大晦日も、元日も出社してくれていました。

 これは私がお願いしたものではありません。

 しかし、私が若いスタッフを育成できなかったからに他ならず、本当に有り難いという気持ちしかありません。

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 昨年末の12月29日は、現場からの希望で、昨年最終の打合せがありました。

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 この時期の現場は、本当に寒いのです。

 若い大工がベニヤのお盆に載せて、暖かいコーヒーを持ってきてくれました。それを棟梁にわたす姿が、何とも微笑ましく。

 「若い人が育って、いいチームなってるね。ウチはなかなか……羨ましいよ」と言いました。

 すると棟梁が「何言ってるんですか、ここにチームがあるじゃないですか」と。

 「そうやね、こうやってやる気のある人が集まってくれることに感謝しないといけないね」と返したのです。

 「当たり前にあるものほど、本当は一番大事」

 これは、ダウンタウン松本のブレーンであり、構成作家・高須光聖の言葉です。

 当たり前とは、自分が選び続けている現実ともいえます。また、人は知らない人を応援することはありません。

 組織も個の集まり。まずは自分に近しい人を大切にするしかありません。

 この単純な真理をどれだけ実行できるか。

 今年一年、いや今後の人生、本気でやろうと思うのです。

近くて遠い街、堺にて‐1337‐

 大阪市のすぐ南にある堺市。

 私にとって近くて遠い街でした。今まで本格的に訪れたことがありませんでした。

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 仁徳天皇陵を訪れるのも初めて。

 横は数えきれないくらい通っているのですが。

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 3重の堀に守られた、長さ約500mの日本一大きな古墳。地元では「御陵さん」と呼ぶそうです。

 世界遺産の暫定リストにも記載されています。

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 その大きさは俯瞰しなければ、ピンときません。

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 北西にある、堺市役所の21階に展望ロビーから見下ろすことができます。

 観光マップあり、各所にボランティアのガイドを配したりと、堺も観光に本腰を入れているのが分かります。

 昨日は快晴で、明石大橋まで見えました。

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 展望ロビーには、鉄砲も展示されていました。

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 堺は水運によって発展した都市です。

 旧堺港の入り口に立つ灯台は、明治10年に建築されたもの。

 所在を変えずに現存する洋式木造灯台としては、最も古いもののひとつだそうです。

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 備前の国の石工が建造したという石積みは、有機的なフォルムで、現代には見れない美しさがありました。

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 旧堺灯台から東に1kmほど内陸にはいると、ザビエル公園があります。

 中央あたりにある段差は、中世における海岸線だったそうです。

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 公園のすぐ海側には環濠が残っています。

 さすがに日本一大きな環濠都市だけあり、濠の規模が違いました。

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 環濠都市の中央付近ある千利休の屋敷跡。

 利休は1522年、堺のこの地に豪商の長男として生まれました。

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 17歳の時から茶の湯を学び、のちに武野紹鷗に師事。わび茶を大成させます。

 現在は、井戸が残るのみでしたが、井戸屋形は大徳寺の山門改修の際にでた古材でつくられたものだそうです。

 大徳寺は秀吉との確執で切腹においこまれた、因縁の寺でもあります。

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 利休は茶人として粋を極めた結果、発言力を持っていきます。

 しかし「利休好み」の言葉もある通り、質素な茶の湯を旨としました。

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 利休が設計したと言われる、現存する唯一の遺構は、大山崎にある「待庵」です。

 わずか二畳の茶室に、一畳の床を設けています。

 壁は藁すさのみえる荒壁で、そこに一輪の野の花を活ければよいと考えました。

 高価な物を飾るのではなく、亭主のもてなす心を表現するために、床に一畳をさいたのです。

 黄金の茶室をつくった秀吉と、精神的な部分で交わることはなかったのだと思います。

 利休は、師である武野紹鴎に「詫びとは慎み深く奢らぬ様」と教えられました。

 読めば読むほど、深く、迷宮に入ってしまいそうな言葉です。

 茶の湯という、伝統ある精神文化を高めた利休が、堺の地に生まれたのは偶然ではないと思います。

 新しい文化が次から次へと入ってくる堺だったからこそ、利休は深く根源をみるようになったのではないかと思うのです。

 「伝統」とは「起源」の忘却のことである
-エドムント・フッサール- オーストリアの数学者・哲学者

 現在の伝統文化も、もとは前衛的だったはず。今に固執せず、より深く精神世界を突き詰めてみたいと思うのです。

 この日記も、今年は残すところ1回となりました

 過去をなどってはいないか、前を向けているか、根源をみようとしているか。自戒、反省の念が次から次へと湧いてきます。
 
 しかし、この1年を良い形で締めくくるため、残る1週間を利休のように精一杯考え、働くのみです。

動機善なりや‐1334‐

 先日、初期相談にみえた方が、新築かリノベーションかをかなり迷っていました。

 候補の物件を見せて貰ったのですが、その1つが建築家・石井修の作品だったのです。

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 氏の作品は今まで5つほど見たことがありますが、大阪市内にも2つほど知っています。

 本町にある、1970年完成の「ジェー・ガーバー商会大阪支店」。

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 日曜日だったので、内部は閉まっていましたが、パイプ状のスリットからみえる階段は、緩やかなカーブを描いています。

 こういったデザインがオリジナリティがあると言うのでしょう。とても46年前の建築とは思えない自由さを感じます。

 独創性、柔らかさ、そして美しさを備えた建築です。

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 もうひとつは、新世界にある「ギャラリー再会」。

 さらに遡ること17年。1953年の完成です。

 当時は1階が純喫茶だったようです。

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 ジャンジャン横町から北にある通天閣を目指します。

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 通天閣の真下を抜け。

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 北東に少し歩けば、「ギャラリー再会」。本当に、通天閣のすぐ足下にあるのです。

 映画全盛のころ、劇場のオーナーからの依頼だとありました。

 「建築に外観はいらない」という言葉の通り、後に彼は植物に覆われた建築を多くつくります。この建築でも、その一端を垣間見ることができます。

 今から5年前、石井修の自宅、目神山の家1-回帰草庵-を見せていただく機会がありました。

 この時ほど、日本建築家協会(JIA)に入って良かったと思ったことはありません。その住宅は、完全に緑に埋もれていたのです。

 リノベーションの候補に挙がっている作品も、とても魅力的でした。

 しかし、相談にみえた方の希望を聞いていくと、ある点でその建物は合わないかもと感じ、そう伝えました。

 創り手として、彼の作品をリノベーションしてみたい、という気持ちは正直に言えば強くあったのですが。

 動機善なりや、私心なかりしか

 1984年、電気通信事業が自由化された際に、現・京セラ名誉会長の稲盛和夫さんは、毎晩自身に問うたそうです。

 自分がいい格好をしたいから、参入すると言っているだけではないか、と。

 しかし、ここで参入しなければ、日本の通信料金が適正な金額になることはない。日本国民のためにと思い決断したといいます。

 鉄道網や高速道路網というインフラを持った当時のライバル会社は全てなくなり、KDDI(当時・第二電電)だけが現在も残っています。

 お客さん第一主義、という言葉をよく聞きますが、これを貫くのは簡単ではありません。

 私心をゼロにするのは簡単ではありませんが、動機が人として恥ずかしいものではないかを問うことは、私にもできます。

 聖人君子ぶるつもりはありませんが、そうすることで、決断が随分シンプルになった気がするのです。

成功への片道切符‐1332‐

 昨日は、「羽曳野の家」の点検に行っていました。

 7月のオープンハウス以来で、5ヵ月振りです。

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 ダイニングには、ペンダントの照明も加わりました。

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 子供部屋に掛けられた時計は、奥さんのアイデア。

 ポスターを入れるフレームとして売られているものですが、とてもいい感じです。

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 「生活感がでる」という表現がありますが、家は人が幸せに暮らすためにあるもの。

 生活感はあって当たり前です。

 そこを楽しみながら、セレクトして貰えると、創り手としてはとても嬉しいのです。

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 ロフトのトップライトは、夏場はかなり暑かったよう。

 将来的には、ブラインドか、ロールスクリーンを付けたほうが良いかもしれません。これからの課題です。 

 2番目のお兄ちゃんと、3番目のお姉ちゃんは、ここがお気に入りの遊び場とのことでした。

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 こちらのご家族は、お子さんが4人。

 この日会えたのは、7月のオープンハウスから1ヵ月後に生まれた、末っ子の三男君。

 大変仕事が忙しいお父さんに、ミルクを飲ませてもらいご機嫌でした。

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 幸せな景色を見せてもらい、「ここまでになるとは、思ってもいませんでした」と感謝の言葉をいただき、本当に有り難いことだと思うのです。

 このプロジェクトも、困難に困難を極めました。

 クライアントのOKが出れば、いつか全てを書いてみたいと思うのですが、コスト、ローン、現場と、次から次へと問題が噴出してきます。

 しかし、プロジェクトがスタートしたら、途中で逃げ出すという選択肢はありません。

 問題が起れば、そこに乗り込んで行き、何としてでも解決する。

 困難こそが、感謝や成功への片道切符なのだと仕事に教えてもらいました。多ければ多いほどよいのです(笑)

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 先月の20日で、2年半働いてくれたマルコが退社しました。

 その後にと思っていた若者は、1ヵ月半で退職しました。

 ちょっとストイックで、生真面目な私についてきてくれる人が沢山いるとは思っていません。

 1人でも2人でも、居てくれるだけで有り難いと思わなければならないのでしょう。

 もしIQが200あるのなら別ですが、私たちはもちろんのこと普通の人間です。

 困難やトラブルこそが、自分の存在価値を示すチャンスなのは間違いありません。

伏見の酒蔵いりませんか‐1331‐

 先週、ある施工会社の社長から電話がありました。

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 「伏見の酒蔵要りませんか?」と。

 写真も送って貰いました。この建物の解体を依頼されたそうですが、ただ潰すのはもったいない。

 「先生はいろんな仕事をされているので、こんな建物なら欲しいと言う方を、誰か知らないなかなと思って」と。

 折角なので見に行ってきました。

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 築後100年くらいは経っているでしょうかか。

 外壁はかなり傷んでおり、トタンで覆われています。

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 安土桃山時代に秀吉が伏見城を築城し、その際に外濠としての水路も整備しました。

 その水路が、建物裏手に流れています。

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 土壁がむき出しになっていましたが、元は焼き杉板だったようです。

 日本酒はあまり知識がないので、伏見酒造組合のwebサイトをみると、なかなか興味深いものでした。

 一升の酒をつくるのに、八升の水がいるので、酒づくりには良質で豊富な水が必要。

 桃山丘陵をくぐった地下水が、山麓近くで湧き出すのがここ伏見で、かつては「伏水」と書かれていたそうです。

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 酒蔵の名前も、聞いたところがずらりという感じです。

 河童でおなじみの黄桜も。

 400mほど南に下ると、坂本龍馬が難を逃れた寺田屋があります。

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 幕末には、維新の志士がこの地を度々訪れました。

 そのことからも、この地が京都と大阪を繋ぐ要衝であったことがよく分かります。

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 寺田屋前の水路を下れば、宇治川、大川とつながっていきます。

 先週木曜日は、大川沿いのホテルニューオータニで、稲盛和夫さんの講演を聴く機会がありました。

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 稲盛さんはこんな話をしてくれました。

 インドの聖典「ヴェーダ」には次のような言葉があるそうです。

 偉大な人物の行動の成功は、その行動の手段によるよりも、その人の心の純粋さによる。

 没後150年の歳月が経っても、龍馬が日本人の心をつかまえて離さないのは、この言葉の証明かもしれません。

 伏見の酒蔵。もし興味があるかたをご存じなら一報ください。

 これも、作り手の「もったいない」からきた、純粋な気持ちなのです。

偉そうな人は嫌いだけど、偉い人は好き‐1329‐

 11月25日(金)、「大改造!!劇的ビフォーアフター」のレギュラー放送終了という記事がでていました。

 出演した私が言うのも何ですが、終わるかもなと思っていました。

 記事には、東日本大震災や東京オリンピックの影響で、工期が遅れ気味になり、レギュラー放送が難しくなったとありました。

 それが一番なのでしょうが、番組製作費がどんどん削られる中、あれだけの人と時間を投入して、番組をつくるのは大変だろうな、と思っていたのです。

 民放に勤めている知人が、民放とNHKとの違いについてこう言っていました。

 「あの会社(NHK)は、お金とか時間のことは考えていない」

 これは羨望半分、敬意半分だと思います。

 となれば、あのような番組はNHKが製作するしかないのかもしれません。冗談半分、本気半分ですが。

 昨日は、奈良の学園前に行く用事がありました。 ついでに、駅の南にある大和文華館に寄ってきました。

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 学園前の南は歩いたことがなかったのですが、かなり大きな家が建ち並んでいます。

 前庭というか、小山の上に山があるというか。これは、正真正銘の豪邸です。

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 住宅街にある緩やかな丘を登って行くと、大和文華館はみえてきます。

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 写真で伝わりにくいかもしれませんが、東西にかなり長い建物で、40m近くあるでしょうか。

 広角レンズを持って行けばよかったのですが後の祭り。

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 吉田五十八の作品は、上野の日本芸術院会館くらいしか見たことがありません。

 数寄屋建築を自らの解釈で、近代建築に取り入れました。

 誰でも真似ができそうで、誰にも真似ができない。それが吉田五十八だという気がします。

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 展示室は撮影禁止でしたが、エントランスホールもガラスを使いながらも、和を強く意識させます。

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 展示室を抜けると、池に望むテラス。

 ここには出られませんでしたが、池を望むロケーションは素晴らしいもの。

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 裏に回るとテラスの形状が良く分かります。

 建物は持ち上げられ、中央が地面と接しているのですが、この部分に竹林があります。

 展示室の中央が外部となり、全方向からその竹が見えるというダイナミックなプランになっていました。

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 外壁のデザインは、漆喰によるなまこ壁を強調したとでも言えばよいでしょうか。

 これだけ思い切って単純化するのは、デザインを生業とするものとすれば、かなり勇気のいることです。

 エメラルドグリーンを選択しているにも拘わらず、奇をてらった感じは一切なく、逆に薄味な感じさえしてきます。

 昭和初期に活躍した吉田五十八は、その功績が称えられ、彼の名を冠した賞が創設されています。

 近代建築の発展に大きく寄与したことに加え、プロが尊敬できる建築家だったのではと想像しているのです。

 偉そうな人は嫌いですが、本物は大好きなのです。

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 アプローチには、雨に打たれて寒椿が寒そうに咲いていました。

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  現場近くでは、サンゴジュが赤い実を。

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 近所の公園に出るだけで、見事に色づいたイチョウが見れます。

 ある建築家が「これだけ多くの観光客が日本に来てくれるのは、四季があるからだと感謝しなければならない」と言っていました。

 同じ場所でも、四季によって違った景色を持っている。これは、そこに暮らす私達にとっても、大変豊かなことです。

 そう考えれば、日本人が偉い訳ではなく、日本の自然が偉いことになるのです。

一見さんお断り‐1326‐

 今日は天満橋から京阪電車の乗り、打合せに行っていました。

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 大川沿いの桜が、真っ赤に色づいていましたが、この季節の京都は、凄い人出でしょう。

 現在、京都で設計しているオフィスがあります。

 鉄骨3階建ての面白い建物なので、また時期がくれば紹介したいと思いますが、これまで京都では5件ほど仕事をしました。

 実施図面が完成し、さあ競争見積をスタートというタイミングで、2~4の建築会社に声を掛けます。

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 競争見積とは言え、私達は仕事を紹介する立場とも言えます。

 しかし京都の場合、初めて連絡をした際は、断りベースの会社が多いのです。

 祇園で言えば、一見さんお断り、といったところでしょうか。

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 それでも長く仕事をしてきたので、パートナーと思っている会社が、京都、滋賀にも何社か出来ました。

 中でも、一番多く仕事をしてきたのは、京都ではかなり大きな建築会社です。

 2000年に完成した「紫竹の家」を設計していた頃、同級生が就職していたという縁だけで電話を掛け、まず見積を引き受けて貰いました。

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 この見積を担当してくれたのが当時60歳くらいの方で、工事部長の肩書だったでしょうか。

 私は設計という立場だったので、常に柔和な笑顔を向けてくれましたが、仕事に厳しい、また、部下にも厳しい顔をもったプロだと感じていました。

 「紫竹の家」は私にとっては4作目。まだまだ分からないことだらけで、随分助けて貰ったのです。

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 私のクライアントには失礼な言い方ですが、それほど規模の大きくないマンションのリフォームや、その建築会社では安さのあまり伝説になっているという、1千万円台前半の超ローコスト住宅まで。

 色々な仕事を引き受けてくれました。

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 最後に仕事をしたのが、2008年の「切妻と中庭の家」

 その後も何度か見積りを依頼しましたが、金額が合わずなどで、以降仕事は遠のいていました。

 この建築会社は、本来はかなり大きなマンションや公共建築を施工する規模の会社です。

 マンションの施工だけでは、現場監督の力が付かないという思いもあったのだと思います。

 また、若かった私を応援してくれていたのだと今は思っています。

 今回も営業部長に見積を依頼すると、「人手不足で辞退させて頂きたいです」との返事でした。

 当社までお詫びに足を運んでくれたので少し話をしていると、その幹部の方がこの年末で勇退するとのことでした。それもあっての辞退だったようです。

 私の嘆き節は2パターンで、「友達が居ない」「先輩に可愛がって貰えない」です。

 友達はほぼ居ませんが、ライバルは沢山いますし、先輩に可愛がって貰った記憶はありませんが、京セラの名誉会長、稲盛和夫さんのような、尊敬する師を持つことは出来ました。

 しかし考えてみれば、今年で勇退されるこの方のように、それこそ「仕事の鬼」というような大先輩には、結構可愛がって貰ったのかもしれません。

 この方が現役の間に、京都でもう一件くらいは一緒に仕事をし「いや~先生、この建物は素晴らしいですねえ」と言わせたかったと言うのが今の気持ちです。

 人も社会も変化こそが常。また初心に戻り、新たな出会いを求めて行動を起こさなければなりません。

 「今忙しいので」と、軽~く断った建築会社の人達には、そちらの仕事が無い時に、頭を下げに来て貰うイメージです。

 言っていることが小さいかもしれませんが、反骨精神も、私のモチベーションの1つではあります。

人類は進歩などしていない‐1325‐

 11月も中旬に入り、山間部では紅葉が見頃でしょうか。

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 昨日は万博公園に寄りました。

 盛りの一歩手前というところでした。

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 それでも、日当たりの良い樹は見事な朱に染まっていました。

 現在太陽の塔を管理する大阪府から、内部公開を可能にする為、改修工事に入いるとアナウンスがありました。

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 最後の内部公開の様子が新聞に載っていましたが、出来ればオリジナルの内部をみておきたかったというのが本音です。

 後悔先に立たず、です。

 すでに、足下には柵ができていました。

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 太陽の塔には3つの顔があります。

 頭頂部の顔は「未来」を表現しています。

 特殊な金色のフィルムが貼られており、上に伸びるのは避雷針です。

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 万博開催時には、レーザー光線が目から出ていたそうです。

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 正面の顔は「現在」を表します。

 この顔は、先日も紹介した全自動洗濯物折り畳み機を発表したセブンドリーマーズのグループ会社、スーパーレジン工業が製作したものです。

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 赤のライントはイタリアのガラスモザイク。

 一体これが何を表しているのか分かりませんが、躍動感を与えています。

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 そして、背面の顔は「過去」を表します。

 こちらは信楽焼きのタイルで表現されています。

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 切れ長の目で、薄く微笑んでいるようにも、怒っているようにも見えます。

 過去の顔は、初めてまじまじと見てきました。

 控えめに盛り上がる鼻筋など、見入ってしまう程の美しさ。太陽の塔は大きいので、なかなか裏まで回る機会がなかったのですが。

 1970年、大坂万博のテーマは「人類の進歩と調和」でした。

 しかし、岡本太郎はこれを真っ向から否定しました。

 「人類は進歩なんてしていない」

 「縄文土器より、土偶より美しいものを現代人はつくっていない」

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 お祭り広場を設計した丹下健三は、すでに世界的な名声を手にしていました。

 巾150m、長さ350mの世界でも類をみない大屋根を設計し、その下にパビリオンを収める計画でした。

 現在もお祭り広場の位置に、その一部が保管されています。

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 しかし、岡本太郎はその屋根を突き破る、高さ70mの巨大な塔を提案しました。

 岡本太郎は「本当の調和とは、フェアにぶつかりあうことだ」と考えていたのです。

 お祭り広場にある地下トイレは、おそらく当時のままだと思います。

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 46年の年輪を感じさせます。

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 壁に、当時の写真が飾られていました。

 現在、万博公園に残るのは太陽の塔だけです。

 建築設計に係るものとしては一抹の寂しさはありますが、丹下はそれも理解の上、岡本案を受け入れたのかもしれません。

 人の能力は石器時代より衰えているとも言います。

 毎日が生きるか死ぬかの戦いをしていた彼らより、現代人の能力が落ちるのは、至極当然かもしれません。

 当時より、生きることは容易くなったかもしれませんが、幸せや充実は増しているのか。

 岡本太郎が言いたかったのはそんなことなのかもしれません。

 情熱を爆発させるのに、条件も時代も場所も関係ないのだと彼の声が聞こえるようです。

 知った風なことを言うなと怒鳴られそうですが。

施政者、太閤・秀吉を見習うべき‐1323‐

 ブラブラ、タモリが歩くからブラタモリ。

 なんとも安易なタイトルですが、楽しみにしている番組です。

 先週土曜日は大阪でした。

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 NHKによる圧倒的なリサーチと、専門家によるアテンドで、面白いに決まっているのですが、私が理想とする街の歩き方でもあります。

 地形、歴史から街を解き明かしていく過程が、最高に面白いのです。

 大阪のスタートはあべのハルカスからでした。

 60階の展望台から、上町台地を望みます。

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 縄文時代の地形と合わせ、上町台地の両岸が海だったという説明がありました。

 大坂城は上町台地の先端に建っています。

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 この地形が分かると、大阪の街歩きは更に面白いのです。

 これらのことは何度が触れたことがありますが、ここからの展開が流石でした。

 秀吉が整備した城下町は、天満橋、北浜へと西へ広がっていきます。

 これらの町は、通りを挟んだ南北が同じ町名になっています。町の境界は建物の背中側になっているのです。

 通りとの反対、背の部分に町の境界があるので「背割」。

 そこに通っていた下水が「背割下水」または「太閤下水」というのです。

 言葉は知っていましたが、理由を聞きいて、「流石は太閤・秀吉」と膝を打ちたくなりました。

 向かい同士で同じ町名のほうが一体感がでるだろうし、見せたくないものを裏手に回す、都市計画だったのです。

 現在工事中で、このような条件の現場があります。

 元々通りの反対側に、下水があったそうです。

 その道の専門家ではありませんが、地域的にみても太閤下水だった可能性もあるのではと思っています。

 この建物、現在の法の下では新築もままならない中、何とか躯体を残しフルリノベーションをしている最中でした。

 しかし、市から「敷地境界を越境しているのではないか」とストップがかかりました。

 確かに公図を調べると、裏路地は市の所有となっています。

 しかしクライアントに聞くと、官民の境界など元々なく、慣習で路地を残しているとのこと。

 元の通り建てるだけなので勿論越境などありませんが、境界が明確でないのに越境とはどういうことなのか。

 最終的には、現状を説明し、問題なく工事を再開したのですが、行政とはいったい何なのかと思います。

 倒壊の危険がある建物を何とかしたいというクライアトを助ける為、現場は懸命に動いています。

 しかし、簡単にクライアントや現場を呼び出し、ストップをかけます。

 そもそも、税金を払っているのはこちら側で、足を運ぶのはそちらではないかと思うのです。

 豊洲市場の問題は、新聞以上のことは知りませんが、石原慎太郎が「東京は伏魔殿だ」と言ったとありました。

 また、田中真紀子元議員も「外務省は伏魔殿」と言いました。

 誰が正しいのかは分かりませんが、伏魔殿とは、広辞苑にこうあります。

 悪魔の隠れている殿堂。悪事・陰謀などが陰で絶えずたくらまれているところ。

 本当にそうではないと、市民、都民、国民が思えるとよう、本気で考えて貰いたいのです。

 繰り返しますが、その給料は一般市民が払っている税金からでているのです。

 信長も秀吉も、楽市楽座の通り、少しも多くの商人を、城下町に集める為、知恵を絞ったはずです。

 施政者、太閤・秀吉を見習うべきだと思うのです。