カテゴリー別アーカイブ: 08 友人・知人

六畳一間、風呂無しアパートから始まった‐1178‐ 

 年末の新聞には、訃報の項があります。

 「国外」のところに、12月23日ジョー・コッカー(歌手)が70歳で亡くなったとありました。

 「愛と青春の旅立ち」の上映は1982年。リアルタイムの記憶はありませんが、主題歌「Up Where We Belong」は、年代を問わない名曲です。

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 エアギターよ永遠に……

 今年の4月末には作家、船戸与一が71歳で亡くなりました。

 1979年のデビュー作「非合法員」から「蛮賊ども」「山猫の夏」「猛き箱舟」、直木賞をとった2000年の「虹の谷の五月 」まで。

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 志水辰夫と共に、彼の冒険小説を何冊も読みました。日本では在りえないような話ばかりですが、兎に角ワクワクしたのです。

 青春期のやりきれなさ、無力感から、現実逃避させてくれたのかもしれません。

 安らかに眠れ、キングオブ非合法。(かっこよくない!)

 6月初め、中高の同級生が、父が69歳で亡くなったとFacebookにUPしていました。

 「○○家は、昭和45年、六畳一間の風呂無しアパートから、我が家は始まった。……」

 父への感謝のメッセージに、お世話になった同級生が多くのコメントを寄せていました。

 そうか、彼の家も風呂無しからスタートだったのか、と。

 我が家のスタートも、同じようなものです。仕事場にしていた土間があった分は広いのですが。

 その六畳一間に両親と私、そして仕事を手伝ってくれた父の従兄弟が暮らしていたそうです。

 現在なら、不法滞在者でも、もう少し良いところに住んでいるかもしれません。

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 母がこんな話をしていました。

 0歳児だった私を銭湯に連れて行った際、湯船の中でウンチをしてしまったそうです。プカプカと浮かぶウンチを急いでタオルで隠したと。

 1歳になる前、風呂有りの四軒長屋の一角に越しました。それで、風呂がなかった記憶はないのですが、それでも長屋。しかし、特に苦労をした記憶はありません。

 たったと40年と言うべきか、40年も昔と言うべきか。これらの景色が、大阪の下街に普通に存在したのです。

 Learn as if you will Live Forever,
 Live as if you will Die Tomorrow.

 永遠に生きるかのように学べ、
 明日死ぬかのように生きろ。

 糸井重里が「ほぼ日」に投稿された言葉として紹介していました。彼は、この相反する2つの言葉は、矛盾するようで矛盾していないのではないか、と書いていました。

 真理とはいつも相反するものを内包しているようです。光と影、男と女、そして生と死。

 人の死は、近しい人へ生の活力を与えるのも事実だと思うのです。

 この事務所も、今年20年目を迎えます。天王寺の4畳のワンルームマンションを借りてから19年が過ぎました。

 仮に70歳まで生きるなら25年。これまでの仕事人生より長い時間があります。それが長いのか、短いのか……

 勿論自分の行き方次第で、どちらにでも成り得るのですが。

かっこいい大人‐1172‐

 昨日は、打合せの後グランフロントへ。

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 日本建築家協会の作品展があり、パネルを撤収しに行ったのです。

 夕日を背にするスカイビル。「世界を代表するトップ20の建物」に選ばれるだけはあります。

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 折角なので、家族も梅田に呼び、食事をすることにしました。

 先日見かけた「鼎泰豐(ディンタイフォン)」阪急うめだ本店

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 台湾料理の名店で「小籠包」(ショウロンポウ)が名物と聞きました。

 勿論、間違いの無い味でした。

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 しかし、子供が一番喜んだのはチャーハン。ご飯粒を飛ばしながら食べました。いつまでも、素直な人であって欲しいと思うのです。

 先週は、若者から2通メールを貰いました。

 1通目は、以前所属していた、建築家プロデュース会社のイベントに来られた、若い女性からです。

守谷 昌紀さま

 お久しぶりです!

 昨年の梅田での建築家展でお話を聞かせて頂きましたイラストレーターの、小笠原まりえと申します。

 実は嬉しいことがあり、ぜひご報告したくてメールさせて頂きます。鈴木成一さんという高名な装丁家の方のコンペに受かりました!

 700人中10人ほど受かるもので、発売前の小説を読み、それを元に作品を描いて、勝ち抜いた人が本の表紙の仕事を頂けるというものです。

 最近、課題作品が送られてきたのですが、秘文書扱いなので作者名はあげられないのですが守谷さんの好きな作家陣と同じくらい高名な方の作品でした。

 まだ何も始まっていませんが、ここまで来れたのは、あの時に守谷さんとお会いしてプロとしての考え方を聞かせて頂けたからだと思います。

 無名の新人の私に、守谷さんは快くご自身の経験や考え方を話して下さり、とても感動したのを覚えています。

 日本には木が多くて、ヨーロッパは石が多かったから自然とその国に合った街並みができたこと、一つの家を建てるのに、大きな視野で街並みとの調和まで考えておられること、

 ジャンルは違いますが、私もプロになるなら自分の事だけでなく大きな視野で考えられるようにならなくては、と思いました。

 私には、今は夢のまた夢ですが、家を建てる際には守谷さんに設計して頂くという夢がありますので、

 今回のコンペも是非勝ち抜いて実績を積めるよう頑張ります!

 それでは、また何かありましたら、報告させて下さい!

 小笠原まりえ
http://lily22.sakura.ne.jp/

 そして2通目です。

一級建築士事務所アトリエm
守谷昌紀様

 突然のメールで申し訳ありません。

 私は2008年2月まで修業生としてお世話になっていた○○○○です。

 多くの方が学びにこられるのでお忘れになってるかもしれませんが。

 いまでも「若者は」というブログは壁にあった時に見返しています。

 私は辞めてから今日までゲツモク日記を一度も欠かさずいつもご活躍を楽しみ、時には励まされながら拝見させていただいてます。

 勿論「ビフォーアフター」も拝見させていただきました。いつも勇気をいただいております。

「いつもお天道様が見てると思って仕事をしなさい。」

この言葉は今の私の仕事のスタイルになってます。

 この度メールさせていただいたのは独立する事になったのでそのご報告をどうしてもしたかったからです。

(一方的で申し訳ありません)

 私は現在静岡で一児の父として家庭をもっています。

 設計の仕事を頑張っています。日々悪戦苦闘の日々を送っています。

 実は守谷さんには後ろめたい気持ちが7年間ありました

 なので本当の事をお伝えしたくて・・・・

 退所した本当の理由は設計事務所で働くことに不安があり自信を失った事、親が私の安定を望んでいた事、つまりは怖くなったからという事です。

 その後ハウスメーカー、工務店で勤めましたがやはりもう一度ゼロからトライしてみたいという気持ちとタイミングがあって独立する決心をしました。

 決して今の会社に不満が多いわけではありません。安定もしてます。両親も安心してくれています。

 ただ、今の自分の仕事に対して、納得した事は一度もありません。

 あの頃事務所で見させていただいた景色は今でも鮮明に覚えています。自分の原点であると思っています。

 働く姿勢やひとりの人間として多くの事を学ばせていただき感謝しています。

 本当は直接ご挨拶したかったのですが。これを言わないと次にすすめないと思いメールさせていただきました。

 これまで何度かメールしようと思った事がありましたが嘘をついて辞めてしまった事に後ろめたい気持ちがありなかなかできませんでした。

 「人生とは何か。どう生きるべきかを知りました。傍観者ではだめだと。・・・もう人生からは逃げはしません」

 おカネもコネもありませんがこの言葉を胸に自分の納得できる仕事をしていきたいと思っています。

 本当に一方的なメールで申し訳ありませでした。

 また何かのご縁がある事を願って遠く静岡からご活躍を楽しみにしております。

 2人目の彼は、当時25歳くらいだったでしょうか。もう30歳を過ぎ、立派な大人になっていると思います。

 非常に優秀で、素直な若者だったので、彼が辞めた後、エールを送ったのです。

 人の最も影響を与えるのは、言葉ではなく、立ち振る舞いと言います。

 「お腹がとてもすいた」と言うより、ガツガツとご飯をかきこむほうが、伝わるのと同じです。

 先週は、世界最高峰に居る建築家の立ち振る舞いを、すぐそばで見ました。そのキャリアを知っていることを差し引いても、「本当にかっこいい」のです。

 友達に「いつもお天道様が見てると思って仕事をしなさい」と言えば、正気かと問われそうですが、仕事上なら言えます。

 かっこいい大人で居たい。かっこいいプロでありたい。見た目は今更変わりませんが、そう思います。

 最後に私の返信も載せておきます。

 メール有難う。そして、まずは独立おめでとう。

 多くの研修生を受け入れたけど、2、3日で辞めた学生は別にして、殆どの人は覚えています。

 特に、出来れば残って欲しいと思った修業生が、沢山居た訳ではないので、○○君のことは良く覚えているよ。

 東京で勝負したいと言っていたので、それ以上は言わなかったけれど。

 律儀にこうして連絡をくれて、○○君らしいなと思い出だしています。

 僕に悪いと思う必要は全くないし、そんな小さな事は微塵も気にせずに、全てのエネルギーを、仕事に注いで下さい。

 独立したら、世間の荒波を一番前で受けることになります。

先輩面して言うのは、スマートじゃないけど、びっくりするくらいに、厳しいはずです。

 そんなときは、ヘップバーンの台詞のとおり、絶対退かないと覚悟を決めて頑張って下さい。書きながら、自分の覚悟も再確認しています。

 人のことを、上から見れる余裕はないけれど、一緒に働いた時間が、人生を行動側に導いたなら、とても嬉しいです。

 お子さんが居るんやね。とてもいいお父さん像が目に浮かぶようだよ。

 当事務所も、今年で20年目に入ります。アドバイス出来ることも多少はあると思います。何かあれば遠慮なく連絡下さい。

 成功するのに必要なものは、やはり覚悟と情熱。それに比べれば、お金にコネも、おまけ程度だと思っています。

 素晴らしい船出になることを確信し、応援しています。

完・友達の本質‐1169‐

 前回は、友達と家族の違いを書いてみました。

 ・友達は、別に帰る場所がある。

 ・家族ではないので責任は負わない。

 更に友達との距離感を考えていると、思いあたることがありました。

 私が一番の友達だと思っていたのは、実家の斜め向かいに住んでいた同級生です。

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 私が越してきた1歳頃から8歳まで。ほぼ毎日顔を会わせました。

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 1970年代前半の大阪平野区は、田畑や空き地が沢山ありました。

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 袋小路になった家の前が遊び場。学校から帰ると、いつも誰かが居たのです。

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 斜め前の彼は、いつも青っ洟を垂らし、無類の生き物好き。のんびりした男の子で、家族以上に自然でした。

 ザリガニの卵を孵化させる為、水槽にストローを突っ込み、交互にブクブクと息を吹き込んだのが一番の思い出です。

 しかし小学3年生の春、彼は羽曳野へ引越して行きました。

 彼の父親は経営者で、会社が大きく発展。閑静な住宅街の豪邸へ越して行ったのです。

 小学3年生が一人で行くには遠く、中学、高校と多感な時期で、会う機会は徐々に減って行きます。そして社会人に。

 彼の親から、突然死したと連絡があったのが30歳の時。朝起きたら冷たくなっていたそうです。

 苦しんだ様子もなかったのが、せめてもの救いと聞きましたが、会いに行っておけばと、本当に後悔したのです。

 父と母は岡山、香川の出身で、大阪には親類が居ません。

 コンビニなどない時代で、醤油、味噌が足りないと、近所へ借りに行ったもの。一人だけでは生きていけなかったかもと、母が言っていました。

 1970年代、大阪の下街は活気と人に満ちていました。裕福ではないけれど、近所は大家族のようで、毎日が本当に楽しかったのです。

 あれから約40年経ちますが、私にとっての友達像は、あの時代の彼だったのではと、思い当たったのです。

 いつも近く居り、日が暮れるまで遊び、全く気を遣わないのが友達なら、ある年齢から友達を持つことは不可能になります。

 黒いトラブルで芸能界を去ってしまった、島田紳助はこんな事を言っていました。

 「人と人の関係は、メリットが無ければ成立しない。それは広い意味なので、一緒に居ると楽しいでもいいんだ」

 関係と言う以上、双方向でなければ不自然です。そう考えると、与えたいばかりで、与えて貰いたがらないのが、私の欠点なのではと思い始めました。

 勿論与えるものも、足りていないのでしょうが。
 
 彼が居なくなってから、どこか友達というものに消極的だった気がします。ある日突然(小3にとって)、与えてくれる友達が居なくなったことに関係があるかもしれません。

 更に言えば、ある年齢からは、それらを、彼女に求めていたような気もするのです。

 私の思う友達の本質に、3つ目の項を付け加えてみました。

 ・双方向の関係である。

 書くと当たり前ですが、少し自分が分った気がします。

 来週は彼の14回忌。久し振りに墓参りに行こうと思うのです。
 

友達の本質‐1168‐

 先週、ニューヨークで働く友人が帰省していました。

 中学からの友人で、集って飲もうとなったのです。

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 2011年11月初めのニューヨーク行きの際、色々サポートしてくれたのが彼。

 最終日は、2人でフランク・ロイド・ライトの落水荘へも行きました。往復15時間のドライブも今は楽しき思い出。
 
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 ニューヨーカーの選んだ場所は、何故か阪急百貨店の屋上ビアガーデン。

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 しかもスタートは6:00pm。ビールは自動です。

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 日が高いうちからビールを飲むなどいつ以来か。これはなかなか気持ちがいいもの。

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 食べ物は屋台感覚で、軽くお祭り気分。2時間半4400円でした。

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 日が暮れても話は続き、二次会は9人に増えました。

 朝のミーティングで、スタッフのマルコがこんな事を言いました。

 「高校までの友達はいつも近くに居る。それ以降の友達はいつも一緒にはいない」

 これは単純に時間のことを指しています。

 正直、私は友達付きあいが得意ではありません。その深さが分からないのです。

 高校くらいまでは少し悩みましたが、今は仕事があるので大丈夫です。クライアントはいつも本気で、関わりの深さを調節する必要など不要だからです。

 マルコと話していると、実に多くの気付きがあります。彼が勉強熱心だからですが、イタリア人だというのもあるようです。

 人の本質は変わりませんが、日本人とはアプローチが違います。

 像を浮かび上がらせるには、様々なアングルのカメラがあった方が良いように、対象を明確にしてくれるのです。

 友達は互いに家庭があり、帰る場所がある。すぐに別れの時間がやってきます。また家族ではないので、責任を負う必要はありません。

 これは、友達の本質を指しているのではと思います。

 私は、家族と友達を混同していたのでは……

 更に長くなりそうなので、続きは回を改めて書こうと思います。 

宇治の病院にて‐1147‐

 京阪の中書島で乗りかえ、宇治まで15分。

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 平等院にも寄ってきました。

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 1052年、藤原頼道によって、父、道長の別荘を寺院に改めました。それが平等院鳳凰堂です。

 十円玉にも描かれている通り、水面に写る姿を日本人は千年も愛してきたのです。
  
 この日は風が有り、残念ながらそれを見ることは適いませんでした。

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 汚い話ですが、ここのところ、トイレにいくと便器の中が真っ赤になる位の出血が続きました。

 家族の勧めもあり、JR宇治駅のすぐ前にある、友人の医院で検査をして貰ったのです。

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 どこまでの写真を載せても不快ではないのか……

 お尻から、管状のカメラが入ってくる訳で、あまり彼の手元を見る余裕はありません。

 が、思ったより苦痛は無かったです。恐らく彼が上手だったのだと思います。診断の結果、大腸内はとても健康とのこと。一安心です。

 こんな経験があります。

 壁には、ジョンホプキンス大学からの賞状もあり、優秀な医師だと分かります。治療も完璧でした。

 ただ「病状に関する会話以外は付き合いません」という感じが、ヒシヒシと伝わってきます。「兎に角僕は忙しいから」というオーラを全身から発散しているのです。

 診療報酬も下がる一方。あまり時間を掛けられないのも分かります。しかし、不安を抱えて皆病院にやってきます。

 症例という言葉の意味は理解できますが、人に例などありません。それぞれが、生身の人間なのです。

 私の診察が終ると友人は「じゃあ、今から往診があるんで」とすぐに出掛けて行きました。

 学生時代は、どちらかと言えば軽いのりのタイプでしたが、一生懸命働いてきたんだなと感じました。

 待合室にはサミュエル・ウルマン「青春の詩」が掛けてありました。院長のお父さんの物のようです。

 「そうそう、良く患者さんに聞かれるねん。でも、全然分からんねん」と。

 やっぱり、可愛気のあるヤツにはかなわないのです。 

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思い、気付き、悩み、そして繋げる‐1114‐

■■■11月23日(日) 3:30pm~6:00pm 堂島アバンザ2F
ジュンク堂<大阪本店>にて「無料相談会」に参加■■■

 昨日の日曜日、10:00amから「よーいドン!」という番組に、クライアントが出演されていました。

 整理収納アドバイザーとして出演された金城貞美さんは「光庭の家」のクライアントです。

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 このリノベーションの設計をさせて貰ったのは2006年。ご主人は私の中学・高校の同級生です。

 更にその5年ほど前、奥さんから「インテリア、建築の勉強をしているのですが、「生野の家」を見せて貰えないですか?」と連絡を貰いました。

 奥さんと書きましたが、その時は私とご主人が同級生とは、お互い分かっていませんでした。

 「生野の家」を見たあと、少し話をしたのですが、その頃からアクティブに自身の夢を語っておられたのです。

 番組内で金城貞美さんは「カリスマ的存在」と紹介されていました。テレビ出演も多数あり、確実にステップアップされています。

 「光庭の家」はMBSの『住人十色』『新しい住まいの設計』にも取り上げられ、非常に露出の多い作品です。

 この住宅は、条件が非常に厳しく、北以外の3方を高い建物に囲まれています。何とか内部に光を取り入れようと建物をくりぬき、1坪の中庭を設けました。
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 この苦肉の策が、ビフォーアフターで担当した、『住之江の元長屋』へと繋がって行きます。その伏線でもあったのです。

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 NHKで放送されている、アメリカのプレゼンテーション番組「TED」。先日は「良いアイデアはどこからくるのか」というプレゼンテーションがありました。

 プレゼンターのアメリカ人作家は「皆突然ひらめいたと言うが本当は違う。ダーウィンも進化論は突然ひらめいたと言っているが、何年も前にその考え方はメモに残されている」と。

 また、GPSは学生が無線で人工衛星と通信をしようとした、遊びから生れたものだという挿話もありました。

 混沌の中から、何かと何かが結びつきあって出来た新たなネットワーク。これこそが、新しいアイデアとと結論付けていました。

 「バカの壁」の著者、養老猛は、脳にいつもトゲが刺さった状態が大切と表現しています。

 建物の条件は1つ1つ全く違いますが、私の人生においては大きな連続ドラマでもあるのです。まず思い、気付き、悩み、そして繋げる。繋がるではなく、繋げる。

 クライアントの活躍を見て、より強く思う、月曜日の秋の夕方。 

一方的叔父‐1090‐

夏恒例、ゼッカ家が我が家にやってきました。

妻の親友が、ミラノへ嫁いで13年。現在帰郷中なのです。

一番上のシモネは12歳になりました。

一番下はうちの娘で5歳。

皆大きくなり、集合写真でないと納まらなくなりました。

今年は私の休みと合わず、どこにも連れて行けませんでした。

せめて帰りだけでもと、天理まで送ってきました。

今度会うのはまた1年後。

長男は1歳の時から、一緒に遊んでいます。

シモネに至っては、結婚前から知っています。

今では、カルチョの国イタリアで、州のMVPに選ばれるほどのサッカー選手。

一方的叔父としては鼻が高いのです。

一方的叔父とは、あるクライアントが、長男へ向けて言ってくれた言葉です。

血縁関係はないが叔父。素敵な響きだなと思っていました。

見返りを求めない父性とでも言えば良いでしょうか。私にも、ようやくそんなものが芽生えてきました。

叔父としては、時々はこちらからイタリアへ出向かなければなりません。また、ジェラートを買ってあげる日を楽しみにしているのです。

続・ミラン

 久しぶりの白浜は朝からいい天気。

 妻の友人がイタリアから帰省しており、一緒に来ています。

 昨夏の旅行では、妻と子供が一週ほど世話になりました。つかのまのミラネーゼを体験をさせて貰ったのです。

 彼らの帰省は我が家の年中行事でもあります。しかし今回、残念ながら旦那さんは帰らず。

 なんでもイタリア北部のリゾート地で、プライベートビーチのオーナーになったとのこと。念願だった事業家となりました。スケールの大きな話です。

 ミラノのスポーツ紙でもは連日「「ホンダ」の名前が踊っているそう。

 友人家は筋金入りのACミランサポーター。上の男の子は小学6年生で、ミランのジュニアチームから声が掛かった有望な選手でもあるのです。

 イタリア人と日本人の両親を持つ彼にとって「本田、ミラン入り!」は、私が楽しみにしてる比ではないのです。

 これだけ条件が揃えば、もうミランのホーム、サンシーロへ行くしかありません。今秋か来春か……

 この年中行事が良いのは、日本以外に目が向くところ。地球は大きく小さいものです。

 今日も1日、白浜でアテンドします。と言っても、子供達は一緒に居るだけで十分楽しいのですが。

祝いの言葉は3分で

  昨日、大学時代の後輩が結婚しました。

  昨年の9月にその報告を受け翌10月に奥さんを紹介して貰いました

 可愛い後輩の結婚ですから、いい式に決まっているのですが、それを差し引いても楽しい式でした。

  会場のフォーチューンガーデン京都は、元島津製作所の本社ビルで、武田五一の設計です。建物も良かった。

 9月の段階でスピーチをお願いするかも、と言われていました。妻に聞いても、弟に聞いても、スピーチは3分位がいいと。どう考えても10分は掛かるのです。

  ケーキ入刀、乾杯、と進み私の順番に。

  行きの電車の中で5分までは縮めたつもりでした。

 弟も出席していたので、後で聞くと8分掛かったそうです。

 飽きはしなかったとの事だったので、まあ良かったとしておきます。

 ホッとしたのもつかの間。大学を出て約20年。スキー部は未だに体育会でした。

 先輩らに、ワインまで「一気」で飲まされ、卓上で寝だす後輩も続出。私も式終盤の記憶がほとんどありません。

  気が付いたのは深夜2時、ホテルのベッドの上でした。財布、手帳、携帯電話などが入ったバッグは全て会場に置いたまま。手持ちの荷物は一切なし。

 月曜日は午前中から打合せがあり、朝一番の電車で大阪に戻らなければなりません。さあどうしたものかと。

  スーツのポケットを探ってみると「御車代」と書いた封筒が。お礼を貰っていたようです。

 これを電車代にあて、今朝京都から大阪に戻ったのです。スピーチは「人生ほど素敵なショーはない」という歌もあります……というくだりで結びました。

 その言葉に偽りはありません。人生ほど素晴らしいものはありません。

 結婚おめでとう。2人の幸せを心から願っています。

青春から朱夏へ

 昨日は福井県の敦賀半島まで行っていました。

 大阪は快晴だったようですが、日本海側は晴れたり曇ったり。

 9月に会った後輩から、婚約者を紹介して貰うことになっていました。

 それなら、よく行った海を見ながら昼食でも、となったのです。

 私達は朝一番に大阪を出て、食材確保に向います。

 例年、9月末に海へ来て、我が家の夏は終わりです。

 よって、この時期に来たのは初めて。

 波止に集まる魚も、感じが違うのです。

 釣り上げるとアイゴの群れでした。

 アイゴはヒレに毒があるので扱いは要注意です。

 しかし、トゲの部分だけ切り落とせば、とても美味しい魚。

 小さなグレを「こっぱグレ」と呼びます。

 こちらは年中居ます。

 彼らが来るまでに、釣った魚の下ごしらえを済ませ、炭がいこっているイメージでした。

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 まずはパスタ、次に焼肉。

 その後、トン汁と釣った魚の唐揚げ、最後にうどんでも、と考えていました。

 実際に、出来たのはパスタと焼肉だけ。

 子供の相手も含めてバタバタしており、写真を撮るのも忘れていました。 全ての片付けが終わり、帰る前に撮ったこの写真だけ。

 20歳の頃から、30歳頃まで、彼と良くこの海に来ました。

 

 潜って、突いて、釣って。

 食べて、飲んで。

 何をしていても楽しい年頃だったのだと思います。

 先日テレビで、PRINCESS PRINCESS 再結成、という番組を観ました。

 ちょっと引いて観ていたのですが、不覚にも涙してしまいまいした。1983年デビューで1996年解散。初めて武道館公演をし、最も成功したガールズバンドと紹介されていました。

 最大のヒット曲は「Daiamond」、その他「M」「19GROUWING UP」などありますが、やはり「世界でいちばん熱い夏」です。

 ♪ 世界で一番大きな太陽  いつまでも夏を焼き付けて ♪

 私は1970年生れ。後輩は2つ下。私達の青春時代と完全に一致します。夏になるといつもCDチェンジャーに入れていました。

 中国では、季節に色を付けます。青春、朱夏、白秋、玄冬。

 青春時代という言葉があるなら、現在私達は、朱夏時代真っ只中です。少し歳のいった新郎だけど、彼女を幸せにする為、全力で頑張れ。僕も頑張ります。

 婚約者の彼女には「貰ってくれて有難う」と伝えました。先輩風を吹かすつもりはありませんが、これが偽らざる気持ちです。

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■■■『大改造!!劇的ビフォーアフター』■■■ 7月8日(日)「匠」として出演しました

メディア掲載情報

一級建築士事務所 アトリエ m
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記