ついに『24 -TWENTY FOUR-』ファイナル・シーズン

 初めて「24」を観たのは2005年の9月。日本でのレンタル開始は2003年でした。

 今回のファイナルシーズンを含めて、24話完結を8シーズン全て観終えました。

 合計192時間に、外伝が数時間あるので、約200時間を費やしたことになります。映画化もされるようですが、ひとまずこのドラマは終わり。一抹の寂しさを感じます。

 CTU(テロ対策ユニット)に協力するジャック・バウワー。

 今回もならず者、卑怯者、そして大統領までを敵に回し、超人的な働きを見せます。

 国と大統領に忠誠をつくしてきた彼が、大統領のテーラーと意見をたがえる場面があります。

 世界各国を迎えて平和条約締結を目指すテーラーは、その目標を達する為、重要な事実を隠ぺいしたまま、調印を進めようとします。勿論架空の話。
大統領は「私が目指すのは平和」と。条約締結の為には、事実隠ぺいもやむなしという主張です。

 対するジャック・バウワーは「私が目指すのは正義です」と反論。
自身の利優先の為、行動を起こさない人が多い中、そんなセリフに観る者は痺れるのです。

 最終章の最終話を見終えた今の感想。「終わる気はないな」です。誰も納得できないはずです。

 今後の軸が映画になるのか、それとも違う展開を考えているのか。ジャック役のキーファ・サザーランドはプロデューサーも兼務しています。

 プロデューサーとしての手腕に注目です。

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センター試験にまつわるエトセトラ

 今朝の新聞で、センター試験の平均点が発表されていました。

 共通一次、センター試験、合わせて3回受けた私としては、少々心がざわつく時期です。

 私が通っていた高校は6年一貫の私立で、進学校でした。しかし大して勉強もしておらず、270人中267番とかそんな調子。高校3年の時は一校も受からず、勿論浪人です。

 予備校時代は精一杯頑張りましたが、何とか受かったのが近畿大学の建築学科だけ。私は相当にしつこい性格で、もう一年仮面浪人することにしました。バブル景気が終焉に向かう1990年のことです。

 大学の友人に協力してもらい、最低限の単位を取り、近くの下宿に帰っては一生懸命受験勉強しました。回りの飲み会にも目をくれず。明けて1991年の1月、3回目の受験が始まりました。

 まずセンター試験で8割以上の点数をとり、2次試験の比率が低い大学を抑える計画を立てました。2次試験の比率が2割だった、広島大学建築学科の前期日程を保険にして、後期日程で目
指す大学にチャレンジしようと考えたのです。

 2次試験の日程が、近大の学末試験と重なり、受験する事は留年する事だったからです。

 20歳で迎えた3度目のセンター試験。会場は大阪府大だったと思います。配点は、英語、数学、国語が200点満点。世界史、物理が100点満点のトータル800点満点。8割の640点が広島大
学の合格ラインです。出だしは順調でした。

 苦手だった英語を137点で乗り切り、国語は上出来の161点。物理は狙い通りの100点満点、世界史は71点だったと思います。この4教科の合計は469点。数学で8割5分の171点とれば、640点に届きます。20年前のことですが、たぶん点数もあっているはずです。

 数学の点数は……100点程。200点満点の半分でした。

 理系の私にとって、数学は点を取りやすい科目です。ところが、序盤の数一で単純なミスを連発し、慌て、無残な結果に終わったのです。ここで私の大学受験は終わりました。

 クライアントのお子さんが受験と聞き、つい思い出しました。

 今思うと、大学生と受験生の2足のわらじでは、たかがしれていたと思います。受けるならスパッと大学を辞めるべきだったのです。

 それからこの失敗を教訓にしました。中途半端な決断は、悔いばかり残る。今後、そんなことだけは辞めようと。

 未だに、新聞にセンター試験の問題が載っていると、ちょっと解いてみたりするのです。

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ホテル・ カルフォルニア

 ビートルズが世界を席巻していた60年代後半から70年代にかけて。もちろんトータルセールスも全米ナンバー1でした。

 その座を初めて奪い取ったのがイーグルスだった、とテレビで解説がありました。イーグルスは1976年にビートルズの牙城を初めて崩したバンドなのです。

 1971年ロサンジェルスで、Vo&Guのグレン・フライ、Vo&Dsのドン・ヘンリーが中心となり結成されます。

 グレン・フライは、スタイルに縛られず、曲によってヴォーカルが変わるビートルズを見て、ぞれぞれがリードヴォーカルを取れるメンバーを集めたと語っていました。

 ’72年「テイク・イット・イージー」でデビュー、’73「ディスペラード」とヒットを重ね、「ベスト・オブ・マイラブ」で全米1位に。

 そして’76年、全米で1000万枚を売り上げた、「ホテル・カルフォルニア」で文字通り頂点を極めるのです。

 ベトナム反戦運動を中心に、若者達がムーブメントを起こした60年代後半から、70年代に入ったアメリカは、’76年に建国200年を迎えていました。

 隆盛を極める国家とは対照的に、物質主義、熱を失っていく若者、社会を批判した歌詞になっているのです。

 曲は、物悲しげなギターサウンドで分厚く作りこまれた、アメリカン・ロックの最高傑作と言われます。アルバムジャケットも、曲の将来を知っていたかように、美しく寂しげな夕景となっているのです。

 その後は、多くのバンドが経験したように、大ヒットが過密なスケジュールと、過剰な期待を生み、メンバー同志のいさかいがおこります。そして’82に解散。

 この後、’85年にソロ活動を始めた、ドン・ヘンリーの「ボーイズ・オブ・サマー」は、最も好きな曲です。このあたりから私にとってリアルタイムで、反対にイーグルを遡って行きました。

 皆がボーカルを取れるというメンバーが奏でるハーモニーは「ワン・ワン・オブ・ディーズナイト」で最高点を極めていると言えます。汽笛のような物悲しいコーラスが時々耳に蘇るのです。

 94年にあるテレビ番組をきっかけに、イーグルスは復活。現在ワールドツアー中で、3月に日本でも公演があります。

 一昨年のマイケル・ジャクソンの事もあったので、何とか見に行きたいと思っているのです。

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奥飛騨

昨年末、新聞に竜鉄也さんが74歳で亡くなったとありました。

「奥飛騨慕情」がヒットしたのは1980年(昭和55年)。私は小学5年生でした。

歌詞もメロディーも思い出せないのですが、その頃読んだ、彼の半生を描いた本は覚えています。

彼は病気の後遺症で盲目になりました。

マッサージ師を経て、流しの歌手となり「奥飛騨慕情」がヒットしたのが40歳半ば。

スナックで流しをしていた頃、見えないのを良いことに、パートナーがギャラをピンハネしていたり、酔った客だかその筋の人だかトラブルになった時、ビール瓶の底を叩き割り、彼が凄んでいる場面もありました。

鋭利な刃物より、割れた瓶のほうが始末に悪いと知っていたのです、というくだりがあったと思います。もう30年以上前で、子供だった私はゾッとしたのを覚えています。壮絶な人生描かれていました。

70年代、80年代は歌番組が多く、演歌も根強い人気がありました。普段は聞かないのですが、銭湯などで流れてくると「演歌もいいよな」と思います。当時は、暮らしの中に演歌があったのです。そいえば未だ現役続行、サッカーのカズはトレーニング時に聞くのは「都はるみがいいよね」と言っていました。

葬式は彼の出身地、岐阜の高山でとありました。書きながら、曲の最後を思いだしてきました。

♪ ああ……奥飛騨に雨が降る

曲:奥飛騨慕情 作詞・作曲:竜鉄也

なんと憂いを秘めた曲題か。

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建築家と一緒につくる家

 ハッピーマンデーで、なかなか馴染めないのが今日と体育の日でしょうか。

 とは言え、街で晴れ着姿を見ると、ふと頬が緩むものです。

 現在の日本で、最も和服が着られる日かもしれません。

 出来るならこの習慣は守り続けて欲しいと思います。自身が参加していない、少しの後悔も込めて……

 1月7日(金)、大阪ガスの住宅情報誌『住まうvol.44』が手元に届きました。

 「池を望む家」が「建築家と一緒につくる家」という特集の、巻頭9ページで紹介されています。

 昨年の10月、丸一日の撮影、取材を経て出来上がったものです。

 家づくりのきっかっけ、なぜ建築家と家を建てようと思ったか、なぜ私を指名してくれたか。

 要望はどんなものだったか、課題をどうやって乗り越えたかまで、クライアントと私にインタビューする形で構成されています。

 今回の写真は、建築写真家ではなく、情報誌などを専門にするカメラマンが撮影してくれました。

 その写真が、誌面にとても合っています。

 販売はなく、大阪ガスのショールーム「ディリバ」で配布しているそうです。良ければお問い合わせ下さい。

 当事務所にも、多めに届いたので、住所とお名前を教えて頂ければ郵送します。

 メディアに取り上げて貰うのは、本当に有難いことですが、取材スケジュールの調整、校正など骨の折れる部分もあります。しかし、出来上がった誌面を見るとやはり励みになります。クライアントが、これも記念になるからと言ってくれると更に嬉しいものです。

 今月は下旬に、もう一冊雑誌に掲載の予定。またここでお知らせします。

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smail

 仕事始めから3日目。

 出し忘れていた年賀状も送り終え、そろそろ一段落という感じでしょうか。

 今年の年賀状、事務所用は11月に竣工した伊東内科クリニック。家族用は七五三にしました。11月にOhanaで撮ってもらったものです。

 昨日届いた年賀状に「今年一番の笑顔でした」とコメントがあったのです。

 順番は別にして、褒めて貰えると本当に嬉しいものです。

 撮影後、カメラマンの石井さんから「家族写真は、僕がいいのを選んでおきますから」と言われました。

 流石はプロ。とてもいい写真を選んでくれました。

 若いころから、生きていくのに精一杯の生活を続けてきたので、まさか家族で撮影に行くなど、考えたこともありませんでした。

 大して余裕ができた訳ではありませんが、仕事をきっかけに家族で写真を撮って貰う喜びを知ったのです。

 今年の目標の一つに、笑顔をあげました。使えば使うだけ増えるのが、勇気と笑顔。しかし笑顔は難しい。特に仕事中は。

 皆笑っているように見えますが、本当は「笑かされている」のです。

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明けましておめでとうございます

 新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い致します。

 この年末年始は全国的に寒く、私たちのいた木曽福島も朝方は氷点下10℃まで下がっていました。

 その分スキー場のコンディションは最高でした。

 長男に一歩遅れをとっていた甥っ子も、クリスマスプレゼントにスキー道具をお願いして、気合は十分。

 その甲斐あって、中級コースなら皆で滑れるようになりました。

 娘と姪っ子はまだソリ遊びですが、もう3、4年すれば皆で滑れるようになるのかなと思ったり。

 反対に、女の子たちがいつまで一緒に出掛けてくれるのかと思ったり。

 1月2日の朝、私たち家族だけ一足先に山荘を発ちました。

 木曽路には、宿場町の名残を留めた街が多くあります。

 木曽福島宿もそのひとつ。

 全国的に知られるのが馬篭(まごめ)と妻籠(つまご)。今回は妻籠に寄って来ました。

 馬篭のほうが規模も大きく、街の雰囲気はあります。

 妻籠は1968年の全国で初めて町並みの保存運動を始めたとありました。

 1月2日というのもあったのでしょうが、観光客も少なめで、静かな良い街で、大変好感を持てました。

 昼食に蕎麦を食べ、帰ろうかと歩いていると、信州名物「おやき」を売る店に、いろりが見えました。

 火に当たり、店主の話しを聞きながらヨモギ餡の入ったおやきを食べました。寒かったのと、雰囲気もあり、とても美味しかったです。

 昼過ぎに妻籠を出て、4時頃に大阪へ戻ったのです。

 今日で正月休みは終わり。

 明日の朝一番から、完全フル回転で仕事スタートです。

 皆さんにとって、私たちにとって、2011年も素晴らしい一年となりますよう。

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暮れは元気にご挨拶

 今日で2010年のゲツモク日記も終わり。

 長野県の木曽福島まで来ています。

 弟家族、父と母を合わせた親族11人で3泊4日のスキー旅行。子供達は着いた途端大騒ぎです。

 キリッと引き締まった冬山の空気、白銀の世界。大人でも心躍るもの。ある人からこんな話を聞きました。

 どのあたりから、人は人を信用し始めるのか。「今までに関わった人間のうちで、この人が一番深く関わってくれていると感じた時から」だそうです。

 これは簡単と考えるか、大変と思うのか。勿論前者のはず。

 分かってくれない、信じて貰えないという前に、ただ深く関わるだけで良いのですから。

 来年は、アトリエmを設立して15年目を迎えます。クライアントに求められる、信用される建築家で有りたいと心から願います。そして、そうあれるよう精進したいと思います。

 今年も1年、この日記、または現場日記にお付き合い頂き、本当に有難うございました。

 皆さんにとって、来年も素晴らしい1年となりますよう、心からお祈りしています。

 2010年12月30日 守谷昌紀

オリジナルであること

 いよいよ今年も最後の週になりました。

 昨日は子供の体調がもう一つで、家の片付けをしていました。休みは必ずどこかに行きたいのですが、叶わない時は皆でDVDを観ます。

 子供が5歳と2歳なので、ディズニー、ドラエもん、ジブリの映画など、ある程度限られてきます。何回も観たがる1位2位は「カーズ」と「アイスエイジ3」。特にアイスエイジ3は、大人が見ても楽しい傑作だと思います。

 昨日はちょっとチャレンジして「カリオストロの城」を観ました。

 宮崎駿、初の映画監督作品です。

 泥棒が主役でヒーローを、どう解釈しているのか分かりませんが、子供達は楽しんでいました。それはそうでしょう。ここまで痛快な冒険活劇はそうありません。

 その後の宮崎作品「天空の城ラピュタ」につながるような世界観もでてきます。

 この映画が発表されたのは1979年。画像こそ現代のアニメに劣りますが、それも安心できるのは、自分の子供時代に一致するからでしょうか。

 芥川龍之介は、古典を題材にしたもの方が、良い作品を残したとも言われます。自由にストーリーを考えるより、表現者に徹したほうがより作品性が高いというのです。

 宮崎駿も同じだとは言えませんが、才能がある人には規制があるほうが良いのかもしれません。オリジナルである事とオリジナリティーは違うと感じたのです。

 しかし、これが38歳のデビュー作品とは。巨匠は初めから違います。

サンタは見える

 今日は天皇誕生日で祝日。冬至の翌日でもあります。

 日が長くなって行く一日目。ともても前向きな日と言えます。しかも明日はクリスマスイブ。子供は散々盛り上がっているのです。

 昨日はOhanaへ。一年点検でした。

 つい最近まで七五三の撮影があったそうで、忙しいのは何よりです。

 壁の隙間が開いたところなどの補修点を、工務店の人と順にチェックして回りました。大きな問題はなし。

 店内はすっかりクリスマスの飾り付けになっていました。

 店の前には、メッセージボードが新設されています。

 奥さんと娘さんの合作だそうで「大人にもサンタさん来てほしいなぁ……」は、ちょっと笑えます。

 長男は保育園の年長ですが、すでに「あれはお母さんが、買って置いてんねんで」という子もいるそうです。

 その理由が、プレゼントの自転車に、近所のショップシールが貼ってあったからとか。

 子供に非は無いのですが、そこまで見なくてもという気もします。
 
 サンタはいるのと聞かれた時、あるクライアントはこう答えると言っていました。

 「大人にはもう見えないけど、信じている子供には見えるらしいよ」

 これはもう完璧な答えと、ちょっと感激したのです。

 この答え、仮にサンタを夢に置き換えたとすれば、あながち子供用の答えとは言えない気もします。

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