カテゴリー別アーカイブ: 05 芸術・エンターテイメント

希望のHIKARIを!‐1019‐

 来春、全面開業を迎えるあべのハルカス。

 天王寺公園とで「あべの・天王寺イルミナージュ」が開催されています。


 こういったイベントは初めて。

 感想は、想像以上にいいものだな、です。


 ハルカスにはカウントダウンの数字が浮かび上がります。

 2014年3月7日がグランドオープン。


 公園内は、光の動物で埋め尽くされています。

 後ろに見える、張りぼてのお城はイベン外。

 茶臼山だからこそのご愛嬌です。


 かなりの寒さのなか、大道芸のパフォーマンスがありました。

 Mr.オクチというパフォーマーだったのですが、このショーがなかなか素晴らしく……


 場所だけを借り、出演料なないそうです。

 ショーが終わり「45歳になりますが、これ一本で生計を立ててきました」と。

 差し出した帽子へ、小銭を手に走る子供達。

 次々と投げ入れられ、大人からは5千円札もありました。

 感謝の対価を報酬とするなら、大道芸人ほど真剣勝負をしているは少ないかもしれません。

 本当は、誰もが気持ちよくお金を払いたいのです。
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 テーマは「希望のHIKARIを!」となっていました。

 光とは、根源的に言えば、炎であり、熱です。

 どうせなら、希望の炎を燃やし、情熱をもって生きたいと思うのです。

 園内に響くのはワムの「ラスト・クリスマス」。続いて「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」そしてマライア・キャリーへ。

 やはり、冬の夜は恋人たちのものです。

締切は創造の父‐1007‐

 振り替え休日の今日、大阪は朝方雨でした。日中は晴れそうです。

 昨日、現場近くで、干し柿を見つけました。

 亡くなった祖母が、軒先に吊るしていたのを思い出します。
 
 干し柿は保存食ですが、渋柿の渋抜きのためでもあります。

 焼酎漬けという方法もありますが、今考えると子供が食べて良かったものだったのか。

 ドラえもんの作者は藤子・F・不二雄こと、藤本弘。

 ’96年に62歳で亡くなったことを考えても、露出の機会は少なかったように思います。先日ドキュメンタリー番組で、初めて話している姿を見ました。

 ドラえもんは世界中で愛されるキャラクターです。

 1970年連載開始で、私と同い年。

 その誕生は、かなりの難産だったようです。

 安孫子素雄とのユニットで『オバケのQ太郎』を大ヒットさせた藤本は、続く人気漫画を求められます。

 なかなかヒット作が生まれず、苦しんでいました。

 思い悩んだ末、やはり自分が本当に描きたい漫画を、という考えに至ります。そして、人気少年誌の連載を断わるのです。

そして、小学生だけに向けて描き始めたのがドラえもんでした。

 これは、母が孫に作ったもの。

 多少問題もありますが、誰もが自分なりのドラえもんをもっているのです。

 身体が弱く、引っ込み思案だった藤本は、のび太そのもの。モチーフはすぐに固まりました。
 しかし、ドラえもんの方はなかなかで、締切が迫ってきます。

 いざ連載の告知という段になっても、まだ描けておらず、おおきな?でその場をしのいでいました。そんな時、娘のダルマのようなフォルムのおもちゃを見つけました。そこに普段は煩いと思う野良猫の鳴き声。

 これらが合わさり、ようやくイメージが出来あがりました。言うなれば、偶然の産物です。

 ドラえもんがそうなら、我々など当然です。

 先週も、一番若いスタッフの田坂は、締切に追われていました。
「必要は発明の母」という言葉がありますが、現実はもっと積極的です。
「締切は創造の父」くらいの感じでしょうか。

「プロとは締切がある事」と言った人もいました。時間、プレッシャーこそが、創造の源であるのは、誰にとっても変わらないようです。

 最後に、藤本弘の漫画家像を語る言葉が印象的だったので、載せておきます。人気漫画をどうやって描いたらいいか。

 そんなことを一言で言えたら苦労しないのですが、ただ1つ言えるのは「普通の人であるべきだ」という事です。

 体全体からにじみ出した結果としての作品が、読者の求めるものと合致した時に、それが人気漫画になる訳でありまして。

 つまり、大勢の人々が喜ぶと言う事は、共感を持つ部分がその漫画家と読者の間に沢山あったという事です。

キッゾ ‐995‐

 先週火曜日、新幹線から桂川が見えました。

 新聞で見た被害は甚大なものでした。

 私の住む大阪市南部も、大和川の水位がかなり上がりました。避難勧告まで発令されたのです。

 そんな中でしたが、予約していたキッザニア甲子園へ。

 webから夕方4時かっらの部を予約していました。しかし、入場は整理券順とのこと。朝10時から並んできました。

 18番の番号札を確保。

 昼時になり、時間もあったので、久々にSPOON CAFEへ行きました。

 白い壁はややくすんで来ましたが、それも味わいと言えます。オープンして15年、ほぼ変わらず営業していることが、嬉しくもあります。

 休日の昼を迎え、お客さんも増えてきました。

 長男と甥っ子2人は、名物のハンバーガーを一気に食べてしまいました。

 パテから作っているハンバーガーは、全く変わらぬ美味しさです。しかし私のおすすめはアボガドバーガー。これは絶対的な美味しさです。

 夕方4時、再度キッザニア戻りました。開場とともに、目指すブースへ皆がダッシュ。

 番号札順ではありますが、これが成否を左右します。上の2人は森永のブースで、ハイチュウを作る予約が取れました。これが人気なのだそう。

 3つほど歳の違う甥っ子は2回目。比較的すいている所を回りました。

 宅急便のユニフォームも子供が着ると可愛いもの。

 人気の仕事体験は、開始と同時に予約でいっぱいになるものもあります。

 消防士、パイロット、歯科医師など等、午後9時まで5の時間、みっちり働き、遊びました。

 「働く」と、キッゾという場内で使えるお金が貰えます。また、それを貯金することもできるのです。本当によく考えられています。

 一番最後は、窓ガラスの割れ代え体験。

 ロープで吊られてはいますが、外壁を登って行きました。私の父はガラス屋だったので、同じようなことを体験することになったのです。子供達は寝る寸前まで楽しかったと、繰り返していたそうです。

 リピーターが多いのもうなずけますし、テーマパークとしては素晴らしいものです。

 この夏、建築学科の大学院生が何人か、インターンシップの面談に来ました。非常に申し訳ないのですが、会ったうえで全て断りました。何と言えばよいか、大学から話が通っているんだから「何でも教えてくれて当たり前」と感じたからです。

 一流企業ならいざ知らず、4人でフル稼働している設計事務所では、残念ながらそれができないのです。仕事と仕事以外では、水面の上と下ほどの違いがあります。それが、お金を貰うと払うの違いなのです。

 仕事体験は夢に出るほど楽しい。しかし現実の仕事に就くと……

 働くって楽しいんだなと、子ども達が思うような顔で働かなければ、と思うのです。

初めて映る絵 ‐994‐

 大きな爪痕を残した台風18号。

 嵐のあとは、台風一過の置き土産。週明けから気持ちの良い快晴が続きます。

 千葉の夕焼けを、足場から撮りました。自然の厳しさと美しさは、正比例するのかもしれません。

 少し前ですが、守山市の佐川美術館へ行きました。

 20代の頃は、琵琶湖へも釣りに来ていました。

 琵琶湖大橋の南東、木浜地区は埋め立てによってできたエリアです。

 その広大な土地の中にあるのが、この美術館。平山郁夫や佐藤忠良の彫刻が多く収蔵されています。

 大きな切妻の屋根が極めて美しい建物。

 新館の樂吉左衞門館は予約が必要です。この日は予約しておらず、入館でず。今度は是非見てみたいと思います。

 共に、竹中工務店の設計施工です。

 展示の中にこの絵本がありました。誰もが一度や二度は読んだことがある「大きなかぶ」。

 絵は、日本を代表する彫刻家・佐藤忠良によるものでした。何とも言えない迫力があった訳です。

 こちらも子供が読んでいた谷川俊太郎の絵本。絵は元永定正で、吉原治良が結成した、芸術運動グループのメンバーの一人です。

 仕事を始めて2年目。アルバイトで雇って貰った事務所の所長が、彼の作品を所有していました。

 ただ色のついた〇がランダムに描かれているだけの絵。それ以来、気になる作家になりました。気が付けば、子供の絵本として家にあったのです。

 子供の新鮮な目に、何を映すかはとても大切な事。絵本は子供が触れる初めてのアートでした。

 暑かった夏も終わりを告げました。明日は彼岸。嬉しいような、寂しいような……

宮崎と司馬 ‐993‐ 

 先ほど台風が愛知に上陸。大阪はようやく風が弱まり始めました。

 関東はこれからなお注意が必要です。大変な敬老の日になりました。それに合わせてと言えば少々不機嫌になるかもしれませんが、先週土曜日に引退を発表した宮崎駿について。

 「描くことに集中できる時間が減っている。僕の長編アニメの時代は終わった」

 引退の理由は、年齢によるものでした。ようやく「風立ちぬ」を見に行ってきました。

 評価はどちらも聞こえていました。

 最後の作品という事で、期待はかなりのものがありました。正直に言えば、私にとってそれを上回るものではありませんでした。

 しかし、期待を裏切られたということでもありません。今まで有難うございました、というのが素直な気持ちでしょうか。そして、彼の引退の会見が、十分に納得できました。
 ここでも、何度も彼の言葉を引用させて貰いました。

 「私はマルチを信じない」
 「自我を満足させるために映画をつくってはならない。観客の為につくらなければ」
 「半径3m以内に大切なものはぜんぶある」
 

 そして

 「大事なことはたいてい面倒くさい」

 メルヘン、ファンタジーの作家とは思えない言葉が並びます。心情で表現するなら「不機嫌」が最も適当でしょうか。

 彼の事を考えると、よく司馬遼太郎のことを思い浮かべます。同じく白髪で、風貌は好々爺にも見えます。しかし中身は、信念の塊。

 7年前になりますが、司馬遼太郎記念館へ行きました

 その時にまとめた、彼が作家を目指すまでの話です。

 彼の本名は福田定一。

 青年期には第二次世界大戦が勃発。18歳で学徒動員され、終戦を栃木県の地で迎えます。この戦争での経験が作家としての人生を決定付けるのです。

 召集を受け、一旦は死さえ覚悟した福田青年は、戦争が劣勢になってくると理不尽な場面に出くわします。本土決戦を前にした日本の軍部は、命をかけて国民を守るどころか、最終的に自らの保身を優先するような命令を下すのです。

 その時に彼は「日本人というのは、こんな国民だったのか。いやそうではかったはずだ。戦国時代は、江戸時代は、せめて明治時代以前はそうではなかった……」と憤ります。それから日本が少しでも良くなればと、戦国時代、江戸、幕末の志士を描くことになるのです。坂本竜馬に思いを込めて……

 映像資料の中で、亡くなる9日前のインタビューが流れました。そこでも彼は、日本の未来を憂いています。収録が、丁度バブル期で、命を先人が命をかけて守ってきた土地を転がすことで、利益を得ようとする風潮を嘆き「このままでは、日本という国はなくなってしまう」と。

 司馬遼太郎が亡くなったのは1996年、現在の宮崎と同じ72歳でした。共に、日本を代表する才能、知性と言えるでしょう。

 初めて「梟の城」を読んだとき、初めて「カリオストロの城」を観た時。その感情は、唯一無二のものです。人だけでなく、作品との出会いも、一期一会なのです。

 人は順にこの世を去って行きます。またその順を守る事は、とても大切な事でもあります。この世の先にあるものが平穏な天国なら、年長者こそが、最も神や仏に近い存在。来月、祖父の13回忌があります。祖母に久しぶりに会えます。

~星の降る夜に~

近畿地方も、梅雨が明けました。

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週末は、岸和田の浪切ホールでの建築家展へ。

昨日も完全な夏空でした。

会場はショッピングモールのすぐ横にあります。

岸和田カンカンベイサイドモールはアウトレットモール。

イベントの前に、ちらとのぞいて来ました。

完全にバーゲンモードでしたが、今年の流行は、やはり浴衣のようです。

日曜は七夕。珍しく晴れました。

長男、長女とも、夢は「けんちくか」です。
多分に私が誘導しているのですが。

娘の短冊に、私も貼っておきました。

「世界一の建築家になれますよう」

イベントからの帰り。車でFMを聴いていました。

山下久美子の曲が流れてきました。

『Tonight~星の降る夜に~』 歌・作詞:山下久美子 作曲:布袋寅泰

tonight 星の降る夜に

願いごとが ただひとつだけ叶うなら

-中略-

tonight 世界で一番

輝いているよ

明日も今も 叶わぬ夢などみたくない

七夕にぴったりの曲です。

作曲は布袋寅泰。彼女の元夫で、BOØWYの元ギタリスト。現在は今井美樹の夫です。

「SINGLE」という曲も彼の作曲で、私はこの曲が更に好きなのです。布袋作曲、唄・今井美樹の名曲もありますが、何故か「SINGLE」に肩入れしたくなるのです。

甘えた歌声に、切ないメロディー。
両曲とも、布袋寅泰はあの独特の声で、コーラスとして参加しています。2人は曲の中だけで生き続ける……

山下久美子は、やはり七夕の夜にぴったりなのです。

999

 少し降ると、市街地でもかなり気温が下がります。朝方は寒い程。

 しかし、日本代表戦は残念でした。

 月曜日の新聞に、松本零士のインタビューが載っていました。

 言わずと知れた「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」の作者です。彼の父は軍人で、いつもこう言っていたそうです。

 「人は死ぬために生まれてくるのではない。生きるために生まれてくるのだ」

 先の戦争の際、陸軍士官学校の同期の中で、唯一生きて日本に戻ったそうです。

 部下の多くを失い、自決したかったのではと思う。それでも、家族の為に生きて帰ってきてくれたことに感謝する、とありました。以下、抜粋してみます。

 宇宙のあらゆる生命は生きるために生れてくるという、生命を讃える考えは、私の全作品に反映されている一大テーマです。

 「宇宙戦艦ヤマト」の沖田十三艦長は父がモデル。

 例えば「きょうの屈辱を耐えて、明日のために生きろ。死ぬな古代」いうセリフも、そういう意味のことをしょっちゅう聞かされていました。

 いつか殺し合いのない世界に―。父の思いを受け継いで、作品に込めています。

 「世界の様々な思想、宗教、民族感情、それらは決して傷つけてはならん」。これも厳しく言いつけられ、今でも私の仕事を律しています。

 生き死にの狭間を経験することで、人はこうまで成長できるのかと思います。

 また、こんな言葉のある家庭から、松本零士が生まれたという事実……

 もう一方の代表作は「銀河鉄道999」。大人の1000になる前で未完成の青春の終わりという意味が込められている、とウキペディアにありました。

 松本零士75歳。どこまでも続く生命賛歌です。

 苦闘で鍛え上げられて楽観主義だけが、未来を切り開く。今日も1歩前へ。

土曜の5時

 先週土曜日、和歌山へ現場視察に行っていました。

 和歌山駅まで、天王寺から1時間強。

 紀勢本線に乗り換えさらに20分。

 和歌山市内を過ぎると、海沿いを走りはじめます。

 海が見え始めると、得をした気分になるのです。

 出来るだけ電車移動にしているのですが、最近は車移動も増えました。

 5月中旬の土曜日、スタッフと移動していました。

 時計を見ると夕方の5時。あの番組が始まるなと、FM大阪に合わせたのですが、違う番組が。

 「サントリー サタデーウェイティングバー アバンティー♪」
  
 東京、元麻布にあるレストランのウェイティングバー。常連客がおしゃべりするのを大学教授とバーテンダーが盗み聞きするという設定。そのお店は実在すると言っていますが本当かどうかは知りません。

 「東京一の日常会話」に聞き耳を立て続けて、この春で20年目。とFM東京のサイトにありますが、どうやら3月に終了したようです。

 教授、ジェイク、スタン……最近はあまり聴いていなかったのですが、最後くらいはと、悔いが残ります。

 初めて東京での仕事が始まった時、店があるとされる、元麻布の仙台坂を歩きました。真剣に店を探した訳ではありませんが、結構な時間、辺りをうろうろしていたのです。

 分らないことだらけで、かつ長い仕事時間。土曜日にこの番組を聞き、日曜日を迎えることだけを楽しみにしていました。

 番組は20年とあるので、ほぼ私のキャリアと一致します。かっこいい大人の会話に、どれだけ救われたことか。まさに仕事の恩人です。

 オープニングのグラスと氷が当たる「チリンチリーン」という音が聞こえてくると、いつも社会人1年目を思い出していたのです。

マルモッタンの思い出

 「美の巨人たち」という番組を、毎週録画しています。

 今月初め、クロード・モネが取り上げられていました。「サン・ラザール駅」や「睡蓮」の連作へ至るまでがクローズアップされていましたが、私にとってはやはり「印象・日の出」です。

 大学生の頃、「ラ ミューズ」という雑誌が発刊されました。

 50回で完結するシリーズ本でした。続いて発売された「グレート・アーティスト」は100週で完結。どちらも全巻買い、今も事務所の本棚にあります。

 美術書と言えば分厚く、高価なものでしたが、これらの本は500円。週刊誌のように読みやすい構成で、発売を楽しみにしていたものです。

 作家の友人が「日本では<印象派>と言う文字が入っていないと、お客さんが来ないと言っていました。

 絵画展では、日本でも圧倒的な人気を誇ります。その始まりとなったのがモネの「印象・日の出」。

 「ラ ミューズ17」マルモッタン美術館 PARIS の6、7ページです。

 初めての海外旅行はパリでした。1年で設計事務所をクビになり、その失業保険が30万円ほどでました。即、フランスへ。

 まずはル・コルビュジエ設計の「ロンシャンの教会」を見るのが目的でした。

 しかし同じくらい、ルーブル、オルセー等の美術館で本物が見たかったのです。「印象・日の出」は最も楽しみにしていました。

 1874年、故郷ル・アーブルの港町を描いたこの絵には「日の出」という名前が付けられていました。

 それではあまりにも素っ気なさ過ぎると言う声に、モネは「じゃあ『印象』と付け加えてくれ」と答えます。彼が34歳の時です。

 この作品が、評価をされはじめたのはおよそ100年後。それまでは、酷評され、買い手が破産し、女性問題を引き起こし、あげくの果てに1985年には盗まれます。

 しかし、あまりにも有名すぎ、買い手がつかず、5年後にこの美術館に戻って来るのです。そんな絵を実際に見てみたい。

 24歳の私が、実際その絵の前に立った時、何を感じたか。全くもって記憶がないのです。印象の印象がない……

 覚えていないというより、舞い上がっていたと言うのが正確かもしれません。思い出のマルモッタン。是非また訪れたいと思います。2回目は落ち着いて見れるはず。 

こっそり見て、さっさと忘れる

 「機動戦士ガンダム」が始まったのは私が小学3年の時。1979年のことです。夕方の放送に急ぎました。

 ♪燃え上がれ~ 燃え上がれ~ 燃え上がれガンダム~♪

 オープニングの音楽は、すぐ耳に蘇ってきます。特別のファンだった訳ではありませんが、子供達はみな敏感に反応していたと思います。

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そのメカデザインをしたのが大河原邦男。「超大河原邦男展」に行ってきました。

 1947年生れ65歳。

 東京造形大卒業後、大手アパレルメーカーを経て1972年タツノコプロ入社。

 「科学忍者隊ガッチャマン」で初めてメカのデザインを担当し、以後メカデザイン専門に。「タイムボカンシリーズ ヤッターマン」(1977年)他。フリーになってからメカデザインを担当したのが「機動戦士ガンダム」です。

 会場は兵庫県立美術館。安藤忠雄の設計です。

 エントランスの打ち放しの壁に、大きく描かれたザク。この2月、新聞でのインタビューにこんな話が載っていました。

 主人公、アムロ・レイが操縦するモビルスーツが「ガンダム」です。これは模型にして発売するため、スポンサーの玩具メーカーの意向に沿ったデザインにする必要があった。

 しかし、敵メカの「ザク」はその予定がなかったので、自由にデザイン出来た。また、そのデザインは、前職のアパレルメーカーの研修中に、背広のデザインばかり描き続けていたからこそ出てきたデザインだった。

 ガンダムなど、地球連邦軍のメカは第二次世界大戦のアメリカ軍を、一方ザクなど敵役のジオン軍はドイツ軍をイメージしてデザインしており、いずれも、監督の富野由悠季の要求に応じながら描いたもの。

 更にメカデザインを追求していった結果生れたのが「装甲騎兵ボトムズ」(1983年)のスコープドッグ。

 こちらは鉄鋼アーティスト・倉田光吾郎が1/1スケールの実物?を制作、展示されています。

 また映画「機動戦士ガンダムⅡ 哀・戦士編」のポスター原画は、感激しました。

 何に感動したかと言うと「本当に人の手で描かれているんだ」という事なのだと思います。

 後にガンダムは伝説的アニメとなるのですが、放送する側の期待通りではなかったようです。

 視聴率の低さゆえ、放送期間は予定より短縮。このあたりの時間的誤差は興味深いものがあります。

 また、当事者(ターゲット)とも言える私達は何を思っていたのか。

 正確には覚えていませんが、それまでに観たアニメとは違うものを感じていました。 子供向けアニメには有り得なかった、狂気のようなものが描かれていたり、戦争によって生まれた孤児や、大人の恋愛感情に至るまでが正確?に描かれていました。

 良い意味でも、悪い意味でも「観る相手が子供だから」という部分は希薄でした。これはのちに、総監督の富野由悠季氏のインタビューを見て瓦解しました。

 「アニメや漫画は、子供が親に隠れてこっそり見るものであり、大人になればアニメはさっさと忘れなさい」

 私が描いていたアニメ監督とは、似ても似つかぬ人物像でした。創った本人はさっさと忘れなさいと言うが、ドム、ズゴック、グフと名前が出てくる私達はどうすれば良いのか。

 受験勉強をしているような顔し、色々な本を読みました。また、家族揃って恋愛映画を観るのはあまり健全とは言えません。

 こっそり見るものが大切なのは間違いなさそうです。