カテゴリー別アーカイブ: 04 建築

子供も楽しくなければアートじゃない‐1372‐

 先日の墓参りと合わせて、香川県の豊島(てしま)へ行ってきました。

 「ベネッセアートサイト直島」のwebサイトには、直島、豊島、犬島を舞台に、展開しているアート活動の総称とあります。

 この活動が始まってから、島を訪れたのは初めて。

 岡山県の宇野港から高速船で25分ほどですが、ちょっとした船旅が旅情をもりあげてくれるものです。

 豊島は周囲20km、人口900名の自然豊かな小さな島です。

 1970年代には不法な産業廃棄物の投棄が社会問題になりました。

 島の北西、家浦港のすぐそばにある「豊島横尾館」。

 画家・横尾忠則の美術館ですが、到着時にはまだオープンしておらず、今回は残念ながらパス。

 島の南側に移動して、まずは「遠い記憶」という作品から。

 廃校の中央を、窓で作られたトンネルが貫きます。

 木製建具で出来たトンネルが、訪れる人たちの記憶を呼び戻すのか。

 「心臓音のアーカイブ」という変わった作品もありました。

 海沿いに建つこの建物の中には、真っ暗な部屋があります。

 そこで世界各国の様々な人の心臓音が鳴り響くのですが、子供たちにはちょっと怖かったよう。

 アートは観る人に全て委ねられるものなので、解釈は常に自由です。

 島の北東にある唐櫃港エリアまで移動する途中、海に飛び込んでいくような坂道があります。

 電動自転車を借りている人が多く、西も東も多くの外国人が写真を撮っていました。

 一番小さい24インチが娘にはちょっと大きく、私たちはレンタカーにしましたが。

 島の中央は山になっているため、棚田が多くみられます。
 

 それらを通りすぎると、山の斜面に「豊島美術館」が見えてきました。

 水滴をイメージしたデザインで、右の大きなものが美術館、左の小さなものがショップです。

 ショップの前を通り過ぎ、海を見下ろす小道がぐるりと巡らされ、美術館に導かれます。

 撮影は入り口まで。内部は撮影禁止でした。

 中に入ると、白いシェル状の空間に、2つの開口が穿たれています。

 そこにガラスなどは入っておらず、直接日の光が差し込み、風が流れるのです。

 床には、1mm程の小さな穴が多数あり、そこから少しずつ水が湧き出してきます。

 それらは、概ね光の差す開口部の下へ向かって、ゆっくり、ゆっくりと、緩い勾配にそって集まっていきます。

 来場者は、座ったり、寝転んだりして、その様を静かに見守るだけ。

 いくつかの水滴が集まっては動き出し、そしてまた止り。

 離合を繰り返しながら、ゆるゆると動く水滴が、アートとなることに感動します。

 美術館に行こうというと、いつも「え~」という子供たちも興味深々で、飽きることなくかぶりついて見ていました。

 これらはアーティスト・内藤礼と建築家・西沢立衛がコラボレートしたもので、建築、空間の全てが作品です。

 ショップも西沢立衛の設計。

 こちらは撮影可能でした。

 天窓の大きさこそ違え、シェルの中に光が差す様は同じく美しいもの。

 もっとも、こちらの開口部にはアクリルガラスが入っていましたが。

 産廃問題でうけた痛手を、アートの力で応援しようという試みは、成功しているといえそうです。

 西沢立衛は、自らの師である妹島和世とSANAAを共同設立し、2010年には建築界のノーベル賞と言われるプリツカー賞を受賞しました。

 2010年には、中辺路美術館を訪れました。

 1998年の完成で、SANAAがはじめに手掛けた作品です。

 金沢21世紀美術館は2012年のゴールデンウィークに訪れました。

 プールの中に入り水面を見上げるという作品、レアンドロのスイミング・プールは子供にも凄い人気でした

 誤解を恐れず言えば、これまでの成長時代、押しの強いアーティスや建築家が結果を残してきた気がします。

 しかしSANAA自体が自らの師とのユニットで、コラボレーションといえます。

 認め合えれば、自らの弟子とユニットを組む妹島和世の度量も凄いのですが、これからの高度情報化社会では、全ての分野に置いてボーダレス化が進んで行くはずです。

それを最も体現しているのがSANAAだといえます。

 コラボレートといえば聞こえはよいですが、調整、集約、決断と簡単ではないことが想像できます。それらを含めて、実現力が問われる時代なのだと思うのです。

 人は生まれながらに「真・善・美」を求めるといいます。

 中でも「美」ほどあやふやなものはありません。

 子供にあれだけ興味をもたせる作品を創り上げた、内藤礼と西沢立衛の仕事に脱帽しました。

 これまでに、子供たちも、ゴッホ、カンディンスキー、岡本太郎は十分楽しんでいました。 

 面白くなければ、感激できなければアートに意味はありません。彼らこそ、本物の現代のアーティストだと思うのです。

さすが江戸っ子‐1369‐

 「さかたファミリー歯科クリニック」の現場へ行くのに、JR学研都市線に乗る機会が増えました。

 今日はポカポカと気持ちがよく、気づくウトウトと居眠りを……

 春眠暁をおぼえずで、気持ちのよい季節になりました。

 春になったので、そろそろ船を出そうと免許をみると、有効期限が切れています。

 小型船舶操縦免許は5年に一度、講習を受ける必要があり、失効講習を受けてきました。

 会場は新大阪にある大阪市立青少年センター。

 旧称は 大阪市立青少年文化創造ステーションで、佐藤総合計画の設計。2003年の作品のです。

 ユースホステルが入っていますが、外観はまさにホワイトベース。

 ややがらんとした印象でしょうか。

 講師の話によると、車の運転免許証は都道府県公安委員会が発行している公文書。

 小型船舶操縦免許は国土交通省が発行している公文書。よって、罰則などは小型船舶操縦免許のほうが重いそうです。

 2時間半の講習を受け、ようやく操船できるようになりました。

 帰りに新幹線の高架沿いを歩いていると、フリーマッケトが催されていました。これがなかなかの活気。

 格好良くて清潔より、ラフで猥雑なところに人が集まることはよくあるものです。

 先月のことですが、 以前オープンデスクに参加していた女の子から、長男の合格祝いにと、本と手紙が届きました。

 合せて、手作りクッキーまで同封してくれていましたが、これは子供達がすぐに食べてしまいました。

 本のタイトルは「銀の匙(さじ)」。

 なかなか歯ごたえのある本で、これは腰を落ち着けて読まなければなりません。

 早速、子供2人にお礼の手紙を書いてもらいました。

 娘はクッキーのイラスト付きですが、私の手紙が最も遅く、ようやく4月の初旬に郵送したのです。

 手紙の中には彼女の近況報告もあり、「昨年、念願の一級建築士を取得しました」とありました。

 働きながら資格をとるのは大変だと思います。ひとまず肩の荷がおりたでしょう。

 資格とはそもそも何でしょうか。

 まずは最低限の能力を担保するものです。しかし、担保は成長を生まないのがこの世の鉄則。

 さらに先を目指さなければ、成長を鈍化させることもあるかもしれません。

 東京で仕事をした施工会社の社長が、建築工事請負契約書を指して「こんなものは紙切れだと思ってるんで」と言いきりました。

 どうでもよいと言っているのではありません。

 クライアントに満足してもらえなければ、そんなものを振りかざしても何の意味もないと知っているのです。

 「さすが江戸っ子」と言いたくなりました。

 人生は攻め、攻め、攻め。そしてまた攻めです。常に前へ進むしかありません。

 彼女はこの日記を読んでくれており、「道標になっている」と書いてくれました。

 「よく頑張ったね、おめでとう」という気持ちと、「さあここからがスタート」という2つの気持ちがあります。

 20年の先輩として、少しでも役に立てるよう、なんとかそれを体現したいと思うのです。

なんてったって、はじめてですから‐1367‐

 先週末、「長田の家」の1年点検に行ってきました。

 竣工は2016年の3月。撮影は6月でした。

 コンセプトは「白いダイヤモンド」。

 東大阪市の長田は工場地帯です。この街に白いダイヤモンドを浮かび上がらせてみたい。そう思ったのです。

 敷地は角地で、トラックの往来が多いことから、1階北側は1mほどセットバックしています。

 音対策に加えて、トラックからの見通しも考えてのこと。

 道路側の窓は高い位置にきっていますが、これも音対策。十分期待に応えてくれているようです。

 南に高い社屋が建つこともあり、中庭型の住宅を提案しました。

 玄関前の長い庇は車の乗り降りの際、雨に濡れないよう考えたものでしたす。

 クライアントはメーカーの創業家に生まれ、何れは経営者となるでしょう。

 同じ街に住居を構えることを指し「働く覚悟」と言いました。

 子供さんたちは、いつかお父さん、お母さんの覚悟を感じてくれるでしょうか。

 撮影から10ヵ月経っても変わらず美しく、新たに加わった黄緑のソファと座布団がよく合っています。

 時計もシンプルなものを探してくれたとのこと。

 この家に愛情を注いでもらっているのが伝わってきます。

 以前の課題で、2階トイレで水を流すと、近くにある手洗いでウォーターハンマー現象が起こっていました。

 封水が引っ張られる現象ですが、これは手洗いに通気弁を付けることで解決しました。

 玄関ポーチ前の長い庇には、雨樋をつけようという課題もでました。

 いくつか改善点は上がりましたが、基本的にはとても楽しく暮らしていると言ってもらったのです。

 最後は、監督によるお掃除講座。

 汚れの取り方を、奥さんにレクチャーしてもらいました。

 この日、上2人のお子さんは外出中。

 一番下の次男君が途中で帰ってきてくれました。

 打合せ時は生後数カ月。いつもベビーカーに乗って、来社してくれたものです。

 彼がお母さんにおねだりしたのは、元祖ゴーストバスターズ。

 もう完全に大人です。

 クライアントと3時間は話していたでしょうか。

 その中で、一番記憶に残っているのが「なんてったって、はじめてですから」という言葉です。

 一生に一度、さらに最も高い買い物を、私達に任せてくれるというその期待と不安。

 こうしてクライアントの話を聞いていると、多くの気付きがあります。

 webサイトにも「長田の家」をUPしたので良ければご覧ください。

 「1年後の感想」も、かなり詳細に書いてもらいました。私が一番笑ったのは、訪れた方の感想です。

 芸能人のお家か!

 タレントさんの家も設計させて貰いましたし、決して芸能人を馬鹿にするつもりはありません。

 芸能人の方の家より、いいものになったのではと勝手に思っているのです。

あなたは絶対幸せになる‐1356‐

 土曜日はOhanaへ行っていました。

 私が設計させてもらった写真スタジオです。

 2009年の秋に竣工したので、現在8年目に入りました。

 京阪萱島駅から徒歩3分ですが、住宅街の中にあり環境はとても静かです。

 何度も通った京阪萱島駅。

 「近畿の駅百選」に選ばれています。

 この大クスノキは萱島神社の御神木で、神社と御神木ありきの駅なのです。

 元の店舗は、この駅の高架下にありました。

 丁度その向かいに、細い路地があります。

 そこを抜けるとOhanaが見えてきます。

 エントランスの黄色い扉も、床材のピンコロも、全てに思い入れがあります。

 竣工時は2m程度だったオリーブ。

 現在は4m程に成長しました。

 予算が厳しかったので、古川庭樹園までクライアントと一緒に買いに行き、一緒に植えたものです。

 「センスの良い知人宅のリビング」と設定したレセプション。

 緑も増え、まさにOhana色に染まっています。

 2階スタジオからもオリーブが見えるようになり、「ようやく背景として使えるようになってきたんですよ」と。

 クライアントは、保育園のアルバム撮影もしています。

 目指すのは、130名全員が笑顔のアルバム。

 撮影前の遠足では、笑わせるのが難しそうな園児と積極的に遊ぶそうです。

 そして撮影当日。

 その時の「仲良し」を武器に、懇親のギャグを連発するのです。

 同業の人が「どうやったら、全員笑顔の顔写真がとれるんだ」と聞いたそうです。

 これが私のクライアントだと胸を張りたくなりました。

 今回はある相談で伺いましたが、そのお題は、決して簡単なものではありませんでした。

 しかし「この人のためなら何とかしよう」と思います。

 そんな人とばかり仕事をしてきたので、私も成長できたし、幸せな仕事人生だと心から思うのです。

 その後、予約してくれていた京橋の焼き鳥屋さんへ移動しました。

 トイレへの通路は極めて狭いですが、最高に美味しい店だったのです。

 その席で、長男の合格祝いを頂きました。そして、この日がクライアントの誕生日だったことを思い出したのです。

 まったく、こういったことに気がつかない私ですがこれだけは言えます。

 あなたは絶対幸せになる。ならなければおかしい。

 偉そうですが本当にそう思うのです。

建築家にとって一番大切なもの‐1355‐

 今月の初め、建築家・高松伸さんとお会いする機会がありました。

 あるホテルで、フレンチをご一緒させて頂いたのです。

 高松伸さんは京都大学の名誉教授で、私達の年代から見れば、レジェンドと言ってよい存在です。

 2年前、母校での文化祭に呼んでもらいました。

「卒業生によるプロフェッショナル相談会」というイベントに参加するためです。

 そこに参加していた大先輩から「高松先生と食事をするけど、ご一緒してみる?」と声をかけて貰ったのです。

 先日行った沖縄の浦添市にある「国立劇場おきなわ」。

 2003年の作品です。

 何と言っても目を引くのが反りかえった外観です。

 竹を編んだような外皮はプレキャストコンクリート製で、軒下空間をつくっています。

 これは沖縄の民家をコンセプトに取り入れたものでした。

 2007年完成のナンバ・ヒップス。

 これは知っている、という人も多いのでは。

 現在は無くなりましたが、道頓堀と心斎橋筋商店街の交点にあった、キリンプラザ大阪も1987年の作品です。

 2015年のシルバーウィークは長崎、佐賀をまわりました。

 長崎港ターミナルは、1995年の作品。

 グラバー邸から見下ろした景色ですが、出島エリアでも存在感を放っています。

 島根県伯耆町にある、植田正治写真美術館も1995年の作品。

 2013年の夏季休暇旅行で訪れました。

 逆さ富士ならぬ、逆さ大山が水面に映ります。

 京都駅から歩いて行ける東本願寺。

 その参拝接待所は地下に埋められています。

 こちらも高松伸さんの設計で1998年の作品。

 スケール感、造形の自由さ。間違いなく日本の建築界を牽引してきたトップランナーです。

 子供みたいな質問をして、場をしらけさせないようにと思っていましたが、どうしても聞きたいことを質問してみました。

 「ご自身が一番納得しているのはどの作品ですか」

 「それは、今設計している作品ですね。未来の作品がそうだと思っています」

 即答でした。

 台湾でも、ビッグプロジェクトが完成、また進行中とのこと。

 そのヒストリーを聞くと、仕事の成功とは本当に青天井だと感じます。

 高松伸さんは食事会のあと京都に帰られましたが、会でご一緒した方と朝方まで飲んでいました。

 何をして成功と言うのかは、人によって違うかもしれません。

 しかし、誰がみても成功という成功は間違いなく成功です。

 カリスマやレジェンドという言葉を軽々しく使うつもりはありまあせんが、そういった人達のみに許される呼称なのでしょう。

 それらを分ける分岐点は、やはり日々の行いのような気がします。

 「仕事とは整理整頓に尽きると所員には教えていますよ」と仰っていました。

 もうひとつの質問です。

 「建築家にとって、一番大切なものは何ですか」

 「クライアントですね」

 クライアントの希望をかなえてこそ建築家だものね、と。

 成功、成長と感謝は同じカテゴリーにない言葉だと思っていましたが、どうもそうではないようです。

 トップランナーが発する言葉の中で「感謝」は最も頻度の高い言葉だと思います。

 最高にモチベーションが上がった夜だったのです。

必ず最後に愛は勝つ‐1351‐

 今日は朝から現場を回っていました。

 大阪も泣き出しそうな空だなと思っていたら、北摂では雪が降ってきました。

 つぼみをつけた桜の木も本当に寒そう。

 この時期の現場打合せは本当に寒いのです。

 家の形はしていますが、現場は基本外。7、8℃を下回ると足下からかなり冷えてきます。

 冬山に登るくらいの感じで着こんできてくださいねと、いつも伝えるのです。

 先週、「中庭のある無垢な珪藻土の家」の現場へ行くと、クライアントのお母さまが、ぜんざいを差し入れてくれました。

 塩昆布付きです。
 
 是非現場の方にと言っていただいたのですが、この日は大工さんが空けており……

 それだけが残念でしたが、その心遣いは現場の皆に届きました。

 今日は「北摂の家」だったのですが、3階キッチンの横に畳の小上がりがあります。

 その高さを詰める予定でしたが、出来ればクライアントにも見て頂きたいね、という話になりました。

 その場で「早い時期に打合せをお願いしたいのですが」とメールすると、「昼からなら伺えますよ」と。

 急遽、大工さんに式台をつくってもらったのです。

 その甲斐あって、明確に方針が決まりました。

 実は、現在ストップしていた現場があり、その近隣説明に同行しました。

 かなりの住宅密集地で、その分、互いの利害関係もより密接に発生します。

 私が一緒に回ることはあまりないのですが、役所の方からも「できれば建築士の人からの説明のほうが……」と言ってもらい、現場監督と廻ってきたのです。

 結論で言うと、一定の理解を示してもらい、工事を再開することになりました。

 家は幸せを叶えるために創るものです。

 その思いが純粋なら、さらに創り手がしっかりと愛情を注いでいれば、悪い結果になることはないと信じています。

 KANの唄ではありませんが、必ず最後に愛は勝のです。

 ガードマンは、雪が降るなか一日中立ち仕事で、本当に寒いはずです。

 それでもいつもニコニコと迎えてくれるのです。

 そんな彼には申し訳ないのですが、今週末は沖縄に行ってきます。

 私にとっては最後の日本。また週明けにUPしたいと思います。

キヤノンで観音様を撮ってみたい‐1350‐

 先週、京都に立ち寄ったと書きました。

04 - コピーのコピー

 海外からの旅行者の玄関口となる京都駅。1997年の完成です。

 梅田スカイビル等でも知られる原広司の設計です。

05 - コピーのコピー

 京都の碁盤の目をモチーフに、中央を谷に見立てたプランで国際コンペを制しました。

 景観論争にも発展し、最も高さが低かった原広司案が選ばれたと記憶しています。

 正直、京都にあっているとは思いませんが、そこに一つしか存在できないのが建築なのです。

  京都駅前から東山七条くらいまで行くと、ようやく街並みにも雰囲気がでてきます。

 三十三間堂は、京都国立博物館の南向かい。

09 - コピーのコピー

 一間=約1.8mなので60mかと思いきや、長さは120m。日本で最も長い木造建築だそうです。

 柱間が三十三あるので、通称として三十三間堂と呼ばれるようになったそう。形態が通称となったのです。

 三十三間堂は平清盛が援助し、1155年に後白河上皇の院内に創建されたのがはじまり。

 しかし火災にあい、1266年に再建されました。

 よく知られる「通し矢」は、お堂の西軒下で行われました。

 高さおよそ2.5m、幅も1m強の限られた空間で矢を24時間射続けます。そして、何本の矢を射通せるかを競いました。

 120mを射抜くには強靭な体力と技が必要とされ、京都の名物行事となっていったのです。

 内部はさらに素晴らしい。

 国宝の千手観音坐像は3mはある見事なもの。それを取り巻くように、階段状になった10段ある壇上に1,000体の千手観音像がずらりとならんでいます。

 仏像のある空間をみて、これほど感激したことはありませんでした。まさに圧巻です。

 しかし、残念ながら内部は撮影禁止でした。

 私は何か撮りたいものがあるときは、CanonのEOS 5D Mark Ⅱにシフトレンズ(建築写真用)とズーム付きのレンズを持って行きます。

 海外では写真好きの外国人に、それらをきっかけに声を掛けられたことが何度かありました。Canonは世界中で支持されているのです。

 Canonのロゴについては、公式サイトにこう載っていました。

 1933年に精機光学研究所が設立され、最初の試作機は「KWANON(カンノン)」と名付けられました。

 観音様の御慈悲にあやかり世界で最高のカメラを創る夢を実現したい、との願いを込めたものでしたが、世界に通用するブランドが必要になりました。

 そこで、英語で「聖典」「規範」「標準」を意味する「Canon」となったのです。

 カナカナ表記なら「ヤ」は小さくせず「キヤノン」が正解です。

 当初の「KWANON(カンノン)」の際は、まさに千手観音と燃え上がるロゴがデザインされていたそうです。

 まさに世界標準となった「Canon」。キヤノンで観音様を撮ってみたかった。

 創業者の御手洗毅は元医師でしたが、共同経営者が出征したため、本格的な経営に取り組むことになります。

 世界一を目指し「打倒ライカ」を掲げ実力主義を徹底するのです。

 一方、いち早く週休2日を導入。また、家族あってこそ仕事ができると、早く家に帰ることを奨励したそうです。

 企業においての働き方が問われる時代です。

 キヤノンの御手洗さんのように、医師としても、経営者としたもスマートで、世界的企業に育て上げる人もいます。

 先日、あるゼネコンの社長と話しをしていたら「いまどき週休2日じゃないと、応募がこないんですよ」と言っていました。

 建築現場も、週休2日が標準となる時代へ向かっているようです。

 その社長は「私は24時間、年中無休で、いつでも電話してこいと言っているんですが」と笑っていました。

 観音様の御慈悲は、もちろん皆に注がれています。

 しかしながら、若干の哀愁を感じてしまったのもまた事実です。

滋賀はシカ、石の国だった‐1348‐

 初期相談があり、先週も滋賀へ。

00 - コピー

 「地名由来辞典」によると、滋賀は「シカ(石処)」の意味で「石の多い所」を指すとありました。

 「石山寺」は、巨大な岩盤の上に建つため「石山」と名付けられたそうです。

03 - コピーのコピー

 JRの新快速で大阪から1時間ほど。

 面談は初めてでしたが、気が付けば3時間が過ぎていました。

 「建築」を間に挟めば、興味のある人とならいくらでも話ができるものなのです。

07 - コピーのコピー

 天気が良かったので、帰りは京都で途中下車しました。

24 - コピーのコピー

 東山七条にある京都国立博物館は、2014年に平成知新館をオープンさせました。

 美術館の名手、谷口吉生の設計です。

08

 それまでは、東隣に建つ明治に建てられた建物が使われていました。

 こちらは赤坂迎賓館などを設計した片山東熊の作品です。

25 - コピーのコピー

 長いアプローチを歩くと、南面するエントランスが見えてきます。

29 - コピーのコピー

 西をみると、水盤に浮かぶ列柱、カーテンウォールの単調な繰り返しが続きます。

 それがさらに奥行き感を際立たせるのです。

30

 内部にはそれらが反転したアトリウムがあるだけ。

31

 展示室は撮影禁止でしたが、修復にもちこまれた仏像などもあり、なかなかに見応えがありました。

 建築においては、一見単純に見えますが、この抑えが効いたたデザインは谷口吉生だけのものです。

33 - コピーのコピー

 ニューヨーク近代美術館の新館をはじめ、これほど多くの美術館を設計している建築家はそういません。

 その実績が、実力を何より顕著に表しています。

34

 材こそ違えど、深い軒、長い縁側、そして開口部の障子と、三十三間堂を正面から見た景色とに非常に近いと感じます。

11 - コピーのコピー

 ここを訪れる前に、向かいにある三十三間堂にも立ち寄ってきました。

 技術の進歩により建築は自由になりましたが、つきつめていくと750年前の木造建築に重なっていくのは、不思議でもあり、必然とも感じます。

 日本人としての遺伝子が発露しているとでも言えばよいのでしょうか。

35

 大きなカメラを持っていたからか、館の人が声を掛けてくれました。

 「正面の石積みは、穴太衆(あのうしゅう)によるものです」と教えてくれました。

 穴太衆とは大津市坂本穴太あたりに安土桃山時代から暮らすという、優れた石工集団の末裔です。ここは延暦寺と日吉大社の門前町でもありました。

 先の地震で崩れた、熊本城の石垣改修にも彼らが参加するという記事がありました。

 僅かな高さの石垣ですが、それを谷口吉生が望んだそうです。

 どんな時代であれ、建築は土地とは切り離せません。

 地産地消などという言葉を使うまでもなく、その地にある材で建築は構成されて、人はそこで暮らしました。

 この自由な時代に戻るべきところがあるとするなら、土地や環境、または先祖から引き継いだ記憶だとすれば、納得できる気がするのです。

 そういう芯の太い物創りを、私もしたいと思うのです。

間合い‐1347‐

 アメリカにトランプ政権が誕生しました。

 近くの同種族とよい関係が築けなかった種は、衰退するのが生物界のことわりです。

 アメリカはどこへ向かっていくのか。

 建築家・黒川紀章は「共生」という思想を提唱しました。

60

 1970年の大阪万博では、タカラ・ビューティリオン、東芝 IHI館等を設計。

 現在、万博公園内にある国立民族博物館も彼の設計です。

 こちらは1977年の開館。

61 - コピーのコピー

 私がみた中では、最も規模の大きな作品でしょうか。

 黒川紀章は2007年に73歳で亡くなりましたが、日本だけでなくヨーロッパ、中東、中国と様々な国で大きなプロジェクトを手がけました。

 20世紀後半から、21世紀初頭にかけて、間違いなく建築界のトップランナーだったのです。

65 - コピー

 コーナー部の処理は独特です。

66 - コピー

 近未来的なデザインは黒川の真骨頂。

70 - コピーのコピー

 中庭はギリシャ風とでも言えばよいのか。

 無国籍とも言えるし、寄せ集めとも言えます。

 「建築家としての私の評価はともかく、思想家としては何かを残せたのではないかと思っている」という彼のことばがありました。

67 - コピーのコピー

 館内は世界中の民族についての展示があり、かなりボリュームがあります。

68 - コピー

 イースターのモアイ像。

69 - コピーのコピー

 こちらはインドネシアのものだったか。

 しっかり見るなら半日はかかると思います。

 共生とは読んで字のごとくですが、20年ほど前だったか、テレビで黒川紀章とビートたけしが対談している場面がありました。

 黒川がこんなことを言ったと思います。

 「日本人は間合いを大切にしますね。その間合いが分からない人を間抜けと言うんですよ」

 そうと言って、2人で笑っていました。

 物理的な距離感だけでなく、話しかけるタイミング、相槌のタイミング等など。間合いによって、多くの差異がでます。

 戦国時代なら、生死を分けたかもしれません。剣豪・宮本武蔵などは、間合いの取り方が優れていたのでしょう。

 近すぎると動ける範囲が限られる。また、離れすぎると関係性が希薄になっていく。

 共に生きるが、べったりがよいわけでもない。

 これは国と国、人と人においても同じでしょう。

 黒川は共生という思想のなかで、受け入れる、多様性といったことが大切なのではと説きました。

 自国だけ。西側だけ。極東だけ。そういった単純な区分けと、幸せは対になっていない気がします。

 共生と間合い。

 思想家・黒川の言葉を解析するのは難しいのですが、ある種あやふやで、輪郭がはっきりしないものが実社会なのだと思うのです。

雪の延暦寺で宝の山をしる‐1346‐

 先週の寒波で、関西も北部はかなりの積雪があったようです。

 京都のクライアントは「まだ家の周りに雪がありますよ」と。

 それなら近場でも雪があるかなと思い、比叡山まで行ってきました。

01 - コピーのコピー

 入試も終わったので長男に「滑りに行くか」と声をかけると、友達と遊びにいくと。

 娘に聞くと、午前中は塾があると。

 重松清の「ビタミンF」にでてくる、悲哀に満ちた父親になっていないか、かなり怪しいところです。

03 - コピー

 昼過ぎに大阪を出て、午後2時頃に到着しました。

 比叡山延暦寺は、最澄によって創建された天台宗の総本山です。

07 - コピーのコピー

 世界遺産に登録されていますが、そこは娘には関係ありません。

 それで先に雪遊びですが、これだけ楽しんでくれたら来た甲斐があるというものです。

09 - コピーのコピー - コピー

 おきまりの雪だるまですが、納得の一品でした。

30 - コピーのコピー

 延暦寺にはかなり積雪がありました。

10 - コピーのコピー - コピー

 また、山頂だけあってアップダウンがかなり厳しい。

11 - コピーのコピー

 その分、有り難さが増すというものですが。

33 - コピーのコピー

 国宝の根本中堂が工事中だったのは残念でした。

13 - コピーのコピー

 総本堂とあるだけに、荘厳な建築でしたがこれは次回にお預けです。

15 - コピーのコピー

 比叡山は、京都と滋賀の境にあります。

 雪空でしたが、東の眼下には大津の街なみが広がります。

17 - コピーのコピー

 西には京都の市街地が。

 山頂は雪でしたが、京都市内は日が差しているようでした。

19 - コピー

 光を受けて、家々のいらかが金色に輝いています。

 沢木耕太郎の「バーボンストリート」は、私の中のベストワンエッセイです。

 その中に、高倉健の章がありました。

 彼は俳優という仕事を追求するため、度々延暦寺を訪れていました。そして住職にこんな質問をします。

 住職ほどの僧になられたら、京都の夜景をみても心は乱れないのでしょうね。

 すると、いえいえ、そんなことはありません。どれだけ修行をしても、ゆらめく街の灯をみていると、夜の街へ出てみたいといつも思います。人とはそういうものです。

 そんな話だったと思います。

 立派な人、歴史上の偉人を、別格として捉える傾向が日本人は強い気がします。

 これを、元サッカー日本代表監督のオシムは、中村俊輔らとの葛藤を語る際に「スターマニア」という言葉を使いました。

 天台宗の座主をばかにしたり、高倉健が普通の人だと言いたいわけではありません。

 同じ人間なのだから、諦めないと言い続けたいだけなのです。

 天台宗の開祖、最澄は自らの著書をこの言葉ではじめます。

 「一隅(いちぐう)を照らす」

37 - コピーのコピー

 続けて、「此れ即ち国宝なり」。

 社会の一隅に立ち、利己的な心を捨て、世のため人のために良いことを行う人こそが国の宝だと、最澄は言いました。

 そういう人たちに、スポットがあたりにくい世の中になってはいないだろうかと思います。

 華々しく、人前に立つ人だけで世の中はよくならないし、スティーブ・ジョブズは1人だけです。

 むしろ、地道に自分の仕事に打ち込む人こそが、宝なのだと平安時代に最澄は言ったのです。

 また、そういった人材を育てることを、一生のつとめとしました。

 国宝、市宝、社宝、家宝。

 まさに世は宝の山だったのです。