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積年の澱‐1289‐ 

前回は、熊本に到着したところまで書きました。

私が担当したのは熊本市の東隣、嘉島町です。災害時の支援活動は以下の流れです。

① 応急危険度判定

② 被害状況調査(1次調査)-外部からの簡易なもの

③ 被害状況調査(2次調査)-内部、外部とも測定等が伴うもの

災害対策本部のある、町民会館。宿泊もここでさせて貰いました。

立派な建物で、山下設計の仕事とのこと。

各班は7名ずつくらいで、嘉島町役場の人をリーダーに、熊本県庁、広島や静岡の町役場の人も参加していました。

市町村はこういった時、互いに助け合うシステムが構築されているようです。

熊本県庁から来ている女性が「普段はデスクワークなので、毎日足がパンパンです」と言っていました。

一日で、大きな会社を2つと住宅の調査をしましたが、暑い中、なかなかの重労働です。

それぞれの班に、日本建築家協会(以下JIA)から参加している私達2人が入ります。

そして、基礎、外壁、屋根、柱などの被害の程度をチームで判定していくのです。

嘉島町から東に益城町や橋が落ちた南阿蘇村があります。

やはり断層が直下に通っている線上に、大きな被害は集中しているとのことでした。

同じ町内でも、被害の集中度が全く違います。

これらの判定で、半壊、全壊と判断された場合、助成金が出るという側面もあり、当然のことながら、責任のある仕事です。

この判断を、役場の方がしているケースが多いのです。

役場の中にも建築士の資格を持っている人がいるのかもしれませんが、やはり専門家が判断するほうが、精度が高いのは間違いありません。

JIAや建築士事務所協会などから、組織的にスピーディーに調査員を派遣するシステムが間違いなく必要だと感じました。

これはJIA九州の人から聞いたのですが、JIAとしては仮に費用が一切でなくても、判定員を派遣すると、早々に結論を出したそうです。

非常時に無報酬でも支援活動をするというのは賛成です。

しかし、それらの詰めがされていないという事実は問題です。

嘉島町に限らないのですが、本当にこのあたりは水が豊かです。

水田の水でさえ、澄み切っています。

川の中でもいたるところから湧き水があります。

そこで泳ぐ人も沢山見かけました。

帰りは、JIA九州の方が、福岡まで帰るので車で送りますよと言ってくれました。

JR博多駅前にあるのは、西日本シティー銀行で1971年、磯崎新の設計です。

博多は2年前の夏に来ましたが、本当に雰囲気のある街です。

まもなく山笠祭りが始まるとのことで、街中に山笠を見かけました。

博多駅前にはかなり大きなものも。

夜の8時過ぎに博多を新幹線で出発しました。

すると8時半頃に熊本で震度3の余震が。またその翌日にも震度4の地震がありました。

私が一人で出来ること等たかがしれています。また、仕事がなければ、ボランティアも不可能です。

その関係に正しい比率などありません。

地震国日本において、建築の専門家でありながら、公には何の貢献も出来ていないという、積年の澱は少しだけ流すことが出来ました。

しかし、地震に終わりなどありません。

豊かな水田、祭りに活気づく若者、そして震度7の地震。いずれもこの日本です。自分に出来る貢献とは……そんな事を考えながら大阪まで帰ってきました。

要請があればすぐに駆けつけられるよう、日々の仕事を頑張るだけだと思っています。

熊本へ‐1288‐ 

昨晩、熊本入りしました。

夕方の便で伊丹を発ち、熊本空港からバスを乗り継いで2時間。夜の8時頃に災害対策本部のある嘉島町民会館に到着しました。

熊本市街を上空から見ると、キラキラと輝き、「水の国」熊本が視覚的に理解できます。

市内にある水前寺江津湖公園 は、阿蘇山系に降った雨水が、豊富な湧水となって出来たものだそう。

市の水道の多くが地下水で供給されているというから驚きます。

地震から3カ月経ちましたが、ブルーシートで屋根を覆っている家が、まだまだ残っています。

目的のバス停に着きましたが場所が分からず、通りがかりの人にたずねました。

上品な感じの女性で「遠いから乗せていってあげる」と。キャリーバックを引いているから、支援活動の人かなと思ったと仰っていました。これまでに沢山の人がボランティアに来ていたのです。

今日は朝8時半から、建物の被害認定調査をします。

今年のゴールデンウィーク前、大阪府建築士協会からの要請で、危険度判定活動に参加する予定でした。

しかし、直前になって「受け入れ態勢が整わず」とのことで中止に。

今回は日本建築家協会(以下JIA)からの要請でした。

色々なプロジェクトが進行するなか、かなりの時間を使い、また、それ相応の出費も必要で、大阪を離れて良いものか迷いましたが、参加することにしました。

この日本に、幸せな建築を求める人が居り、仕事をさせて貰うことで、私は育てて貰いました。もし授業料を払っての勉強なら、これだけの長い期間、一つのことを続けることは不可能です。

1995年24歳の時の阪神淡路大震災から、2011年41歳の東日本大震災まで、実際に行動に移せたことはありませんでした。社員が成長した今なら何とかなるかもと思ったのです。

建築を生業にするなら、日本の風土を受け入れるところから全てが始まります。

まずは調査活動に汗を流します。そして受け入れ、向き合いたいと思うのです。

行動の出だしは自分で決められない‐1268‐

 月曜日、建築士会から熊本での「応急危険度判定活動に参加出来るか」という連絡がありました。

 国からの要請があったようです。午後2時に連絡あり、午後5時までに返事が必要との事。

 すぐに「参加出来る」と連絡しました。この短さの中で、46名の申し出があったそうです。

 応急危険度判定とは、こういった大震災時に「応急危険度判定士」の資格を持った建築士が、現地へ調査へ赴きます。

 そして、目視でそれらの建物の危険度を判定し、以下のようなステッカーを貼るという活動です。

「危険(赤紙)」 「要注意(黄紙)」 「調査済(緑紙)」

 できれば、職能で貢献したいとの思いで、この資格を取りました。

 しかし昨日、現地の受け入れ体制がまだ整っていないので、延期されるという連絡あったのです。

 少しでも役に立てると思っていたので、肩透かしに会った気分ですが、いたしかたありません。

 現地の人の状況を考えると、そんなことは全く大したことではありませんが。

 熊本大震災の後に、2011年の5月に熊本を訪れた際の写真を載せました。

 阿蘇を巡った日は、素晴らしい天気でした。

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 その際に、南阿蘇村の洋食屋さんが美味しかったと書きました。

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 写真を探してみると見つかりました。

 ハンバーグと思っていたら、ハンバーガーでしたが。

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 更に私は、熊本牛を食べたようです。

 日本のどこに出掛けても、街に特色があり、それぞれの豊かさがあると感じます。

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 翌日、熊本市を訪れた日は雨でした。

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 稀に見る余震と多さで、その不安はいかばかりかと思います。

 誰だったか「死ぬこと以外、大した問題ではない」と書きました。生きていれば、必ず何とかなるはずです。

 強い気持ちを持って貰うしかありません。

 2007年頃、こんな事を教えて貰いました。

 行動の出だしは、潜在意識が決めているそうです。

 潜在意識とは自分でコントロール出来ない意識で、無意識と置き換えても良いでしょう。

 例えば、朝起きてまず何を始めるか、仕事場に着き、初めに何に手をつけるか。ウンウンうなって決める人は居ないはずです。

 習慣と言い換えても良いかもしれません。

 この話も、裏を取れている訳ではありません。しかし、そうなのだろうと思っています。

 海に浮かぶ氷山に例えると、水面上が顕在意識(自分でコントロール出来る意識)で、水面下が潜在意識。

 その比率は1:9と言われています。よって、潜在意識の力が圧倒的に大きいのです。

 いつも前向きな人は、それが習慣になり、いつも不平不満を言っている人は、それが潜在意識化される。

 この話を聞いた時、ゾッとしました。

 自分はどちらの時間が長かったのか……

 更に、潜在意識は疲れないという特徴を持っています。

 車の免許を取る時は、あれほど疲れた運転が、2時間くらいなら全く疲れません。むしろ、気分転換になることさえあります。これも潜在意識化の結果です。

 今回は叶わなかったのですが、また要請があれば「参加」と即答したいと思います。

 行動の出だしは決められないとするなら、普段の暮らし、態度がそのままでるだけ。常に前向きで居たいと思います。

 というか、そうでない事を想像するのが恐ろしいというのが本音です。

火の鳥のように‐1265‐

 4月14日(木)21時26分に発生した熊本地震で亡くなられた方々へ、心らお悔やみ申し上げます。

 また、被災された皆さまへ、心からお見舞い申し上げます。

 最大震度7、震度6を超える余震が続くという、深刻な状況は変わりません。仕事人としては、応急危険度判定士として、所属団体の要請があれば、すぐに現地へ行きます。

 会社としては、精一杯働き、利益を出し、しっかり税金を納めることで、貢献したいと思います。

 これは、日本中、世界中のどこで地震が起こったとしても、変わりません。

 しかし、人には心情や思い出があります。

 フェリーの旅が好きで、九州は子供が生まれてからでも4回は訪れました。一番初めに行ったのが2011年のゴールデンウィークでした。

 今回、大きな被害が出ている阿蘇。

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 初めて訪れたのは小学生だったか。同じ日本とは思えませんでした。

 特に草千里の景色が印象的でした。

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 この旅は、愛車だったハイラックスサーフとの最後でもありました。

 あの自然の中を走らせてやりたいと思っていたのです。

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 火の国・熊本の象徴、阿蘇。

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 その景色も、およそ普段の暮らしでは見ることのないもの。

 甚大な被害が出ているという南阿蘇村では、ふらっと入った洋食屋を思い出します。

 手作りハンバーグがともて美味しかった。

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 加藤清正が築いた名城・熊本城。

 瓦が落ちている映像も流れていました。こうして、何度もの天災を凌いできたのです。

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 大分でも大きな被害が出ています。

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 別府では、火山国である恩恵を受けることが出来ます。

 それ故、繰り返される地震。

 この瞬間、自分の住む街に起こったとしても何の不思議もありません。

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 家族で47都道府県を訪れるというテーマを設けています。

 九州・沖縄地方は、沖縄を残すのみになりました。

 70億人全ての痛みを分かち合うのは無理です。反対に全ての喜びを分け与えて貰うことも出来ません。

 なら、少しでもそうあれるような心を持ちたいし、旅がその礎になれば良いなと思っています。

 司馬遼太郎はこう言っていました。

 何にしても日本人は働き者である。

 日本人は常に緊張している。理由は、常に公意識を背負っているからと断定していい。

 公を世間の目とするなら、謙虚さは自然から学ぶのだと考えています。

 厳しく、豊かな自然が「人の力の及ばないものがある」という事を教えてくれるのだと思うのです。

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 とは言え、私達の先祖は首を垂れていただけではありません。 

 働き者で謙虚な日本人は、何度も這いあがり、再建を繰り返してきました。熊本も必ず火の鳥のように蘇ります。

 自分の人生というスパンを超えて見れば、これは綺麗ごとではないと断言できます。

 今朝の新聞のスポーツ欄に「この地震に比べれば、私の悩みなど小さい」というコメントが載っていました。

 誰もが共感できる意見です。

 自分の為、クライアントの為、社員の為、家族の為、そして社会の為に今日も精一杯働くだけ。ただそれだけのことしか出来ないのです。

フェリーで行く九州

 今年のゴールデンウィークは、大分、熊本へ。

 妻、子供とは南港で待ち合わせ。

 私が着いた頃には「さんふらわあ」を前に子供のテンションは上がりきっていました。

 2段ベッドはただのジャングルジム。特に娘は得意げでした。

 夜の8時頃南港をでて、別府港到着は朝の7時半。約12時間の船旅です。

 1日目は晴れ予報だったので、まずは阿蘇を目指します。

 別府から阿蘇まで、やまなみハイウェイで1時間半ほど。

 大阪で暮らしていると、目にしない風景が延々と続きます。

 草原で遊んだり、昼食を食べたりで、阿蘇着は2時頃。

 世界最大級のカルデラの中心にある火口。それを見ると、この国が火山国である事、地球が生きている事を、十分に認識させてくれます。

 山頂付近は草木の育たない荒野。

 退避小屋とでも言うのか、まるでトーチカのような建造物が、妙にこの場に合っているのです。

 宿泊は少し北に戻った、久住(くじゅう)高原。夕食まで少し時間があったので、辺りで遊んでいました。

 このホテル、温泉からの眺めが素晴らしく、食事も満足できる良い宿でした。

 2日目は雨予報だったので、まず乗馬クラブへ。子供の唯一の希望でした。

 その後、久住高原をでて、今度は熊本市内へ向かいます。

 加藤清正による熊本城は、日本三名城の一つ。白と黒の対比と、石垣が大変美しい城でした。

 八代にも見たい建物があったのですが、季節がらの渋滞も加味して、4時頃別府へ立ちました。距離は約150km。

 渋滞を避け、峠越えの山中深くを走っていると、左3km「長湯温泉」の標識が。これは「ラムネ温泉」のあるところです。

 夕方の6時頃になっていたのですが、もう来る機会もないだろうと寄ってきました。

 ラムネ温泉は、温泉も勿論ですが建物も有名なのです。

 設計は藤森照信。

 氏の作品の特徴は有機的な造形でなんと建物に木が生えているのです。屋根一面に「ニラ」が生えていたり。自邸には「タンポポ」が生えているのです。

 こちらの温泉には「松の木」。とても優しい建物でした。

 湯は、世界でも有数の炭酸泉で、入っていると体に泡が付きます。とても良い湯でした。

 この日は鉄輪(かんなわ)温泉泊でしたが、到着したのは夜の10時前。その日はすぐに寝たのです。

 翌朝、内風呂がいいと妻に言われ言ってみると、こらがなかなか。

 急に探した素泊まりの宿でしたが、さすが「湯の国」大分という感じです。

 鉄輪温泉は、別府にある古き良き温泉街です。地獄めぐりにも力が入っていました。

 全部で8つあり全て回る共通券は2000円。まず、かまど地獄。

 鬼石坊主地獄。

 海地獄。

 街のいたるところから、湯気がもうもうと立ち上り、嫌が上のでも旅情は高まるのです。

 最後は体験型水族館の「うみたまご」で遊び、フェリーは夜7時に別府を離れました。

 道路脇にあった「九州行きフェリー」の標識を見て、ふと思い立った九州行き。果てしなく続く草原が頭に浮かんだのです。

 久し振りでしたが、船旅も良いもんだなと思えました。

 今度は南九州か、北九州か。フェリーの航路を探します。