大阪市のすぐ南にある堺市。
私にとって近くて遠い街でした。今まで本格的に訪れたことがありませんでした。
仁徳天皇陵を訪れるのも初めて。
横は数えきれないくらい通っているのですが。
3重の堀に守られた、長さ約500mの日本一大きな古墳。地元では「御陵さん」と呼ぶそうです。
世界遺産の暫定リストにも記載されています。
その大きさは俯瞰しなければ、ピンときません。
北西にある、堺市役所の21階に展望ロビーから見下ろすことができます。
観光マップあり、各所にボランティアのガイドを配したりと、堺も観光に本腰を入れているのが分かります。
昨日は快晴で、明石大橋まで見えました。
展望ロビーには、鉄砲も展示されていました。
堺は水運によって発展した都市です。
旧堺港の入り口に立つ灯台は、明治10年に建築されたもの。
所在を変えずに現存する洋式木造灯台としては、最も古いもののひとつだそうです。
備前の国の石工が建造したという石積みは、有機的なフォルムで、現代には見れない美しさがありました。
旧堺灯台から東に1kmほど内陸にはいると、ザビエル公園があります。
中央あたりにある段差は、中世における海岸線だったそうです。
公園のすぐ海側には環濠が残っています。
さすがに日本一大きな環濠都市だけあり、濠の規模が違いました。
環濠都市の中央付近ある千利休の屋敷跡。
利休は1522年、堺のこの地に豪商の長男として生まれました。
17歳の時から茶の湯を学び、のちに武野紹鷗に師事。わび茶を大成させます。
現在は、井戸が残るのみでしたが、井戸屋形は大徳寺の山門改修の際にでた古材でつくられたものだそうです。
大徳寺は秀吉との確執で切腹においこまれた、因縁の寺でもあります。
利休は茶人として粋を極めた結果、発言力を持っていきます。
しかし「利休好み」の言葉もある通り、質素な茶の湯を旨としました。
利休が設計したと言われる、現存する唯一の遺構は、大山崎にある「待庵」です。
わずか二畳の茶室に、一畳の床を設けています。
壁は藁すさのみえる荒壁で、そこに一輪の野の花を活ければよいと考えました。
高価な物を飾るのではなく、亭主のもてなす心を表現するために、床に一畳をさいたのです。
黄金の茶室をつくった秀吉と、精神的な部分で交わることはなかったのだと思います。
利休は、師である武野紹鴎に「詫びとは慎み深く奢らぬ様」と教えられました。
読めば読むほど、深く、迷宮に入ってしまいそうな言葉です。
茶の湯という、伝統ある精神文化を高めた利休が、堺の地に生まれたのは偶然ではないと思います。
新しい文化が次から次へと入ってくる堺だったからこそ、利休は深く根源をみるようになったのではないかと思うのです。
「伝統」とは「起源」の忘却のことである
-エドムント・フッサール- オーストリアの数学者・哲学者
現在の伝統文化も、もとは前衛的だったはず。今に固執せず、より深く精神世界を突き詰めてみたいと思うのです。
この日記も、今年は残すところ1回となりました
過去をなどってはいないか、前を向けているか、根源をみようとしているか。自戒、反省の念が次から次へと湧いてきます。
しかし、この1年を良い形で締めくくるため、残る1週間を利休のように精一杯考え、働くのみです。