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滋賀はシカ、石の国だった‐1348‐

 初期相談があり、先週も滋賀へ。

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 「地名由来辞典」によると、滋賀は「シカ(石処)」の意味で「石の多い所」を指すとありました。

 「石山寺」は、巨大な岩盤の上に建つため「石山」と名付けられたそうです。

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 JRの新快速で大阪から1時間ほど。

 面談は初めてでしたが、気が付けば3時間が過ぎていました。

 「建築」を間に挟めば、興味のある人とならいくらでも話ができるものなのです。

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 天気が良かったので、帰りは京都で途中下車しました。

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 東山七条にある京都国立博物館は、2014年に平成知新館をオープンさせました。

 美術館の名手、谷口吉生の設計です。

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 それまでは、東隣に建つ明治に建てられた建物が使われていました。

 こちらは赤坂迎賓館などを設計した片山東熊の作品です。

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 長いアプローチを歩くと、南面するエントランスが見えてきます。

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 西をみると、水盤に浮かぶ列柱、カーテンウォールの単調な繰り返しが続きます。

 それがさらに奥行き感を際立たせるのです。

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 内部にはそれらが反転したアトリウムがあるだけ。

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 展示室は撮影禁止でしたが、修復にもちこまれた仏像などもあり、なかなかに見応えがありました。

 建築においては、一見単純に見えますが、この抑えが効いたたデザインは谷口吉生だけのものです。

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 ニューヨーク近代美術館の新館をはじめ、これほど多くの美術館を設計している建築家はそういません。

 その実績が、実力を何より顕著に表しています。

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 材こそ違えど、深い軒、長い縁側、そして開口部の障子と、三十三間堂を正面から見た景色とに非常に近いと感じます。

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 ここを訪れる前に、向かいにある三十三間堂にも立ち寄ってきました。

 技術の進歩により建築は自由になりましたが、つきつめていくと750年前の木造建築に重なっていくのは、不思議でもあり、必然とも感じます。

 日本人としての遺伝子が発露しているとでも言えばよいのでしょうか。

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 大きなカメラを持っていたからか、館の人が声を掛けてくれました。

 「正面の石積みは、穴太衆(あのうしゅう)によるものです」と教えてくれました。

 穴太衆とは大津市坂本穴太あたりに安土桃山時代から暮らすという、優れた石工集団の末裔です。ここは延暦寺と日吉大社の門前町でもありました。

 先の地震で崩れた、熊本城の石垣改修にも彼らが参加するという記事がありました。

 僅かな高さの石垣ですが、それを谷口吉生が望んだそうです。

 どんな時代であれ、建築は土地とは切り離せません。

 地産地消などという言葉を使うまでもなく、その地にある材で建築は構成されて、人はそこで暮らしました。

 この自由な時代に戻るべきところがあるとするなら、土地や環境、または先祖から引き継いだ記憶だとすれば、納得できる気がするのです。

 そういう芯の太い物創りを、私もしたいと思うのです。