「境内の中の家」という作品が完成したのがこの2月。
昨日、その神社へ長女の初宮参りに行って来ました。クライアントとして色々な話をしましたが、神職者としても尊敬できる方だったからです。
長女が生れて3ヵ月。初宮参りが遅くなったのは入院があったからです。
一般的に出産後は5日ほどで退院です。生れて一週間経った頃、24時間の看護体制があるところに移った方が良いという事になりました。
ある数値が不安定だったのです。即日救急車で移送されることになりました。
急なことだったので、妻も動転しています。私も一緒にバタバタしてしまってはと、自分にまあ落ち着けと言い聞かせました。
それから1ヶ月過ぎた頃に2つ目の病院を一旦退院。一週間後の検査でまた安定せず再び転院。そこは市内でも有数の規模を誇る総合病院でした。
結局原因は分からずじまいでしたが、数値が徐々に安定しだした4月の中頃、3つ目の病院を退院したのです。
これだけ医療が進んでも、分からないことは沢山あるそうです。それを聞いて何かホッとする部分もあります。しかし進んだ医療のおかげで、原因が分からないことが分かったのです。
3歳未満の子供の医療費は、概ね月額の上限があります。保護や保険はバイタリティーを奪うという気持ちは変わりませんが、その手厚い補助は、必要に迫られタクシーに乗ったりと、出費がかさむ私達にとって、有り難いものでした。
娘が入院している間に、気付いた事がありました。
3つ目の病院には、重篤な子供も多く入院していました。両親は寝泊り出来ない規則なので、夜の8時に帰らなければなりません。
2、3歳の子供は、母親が帰る時には勿論泣きます。そんな光景を見るのは辛いですが、それが日常である彼らにとって、いちいち悲観している暇など無いのです。どんな状況であれ、泣き笑いしながら逞しく生きているのです。
「かわいそう」はあくまで、人事と感じての視点です。それはそれでも良いのですが、私も入院する娘を持つ身となり、初めてそれが分かったのです。
それから「~でなくて良かった」とは考えなくなりました。また考えないようにしました。誰かと何かを比べることで、自分を納得させている姿は、恥ずかしいと感じたのです。
在る、だけで幸せ。不幸と感じても幸せ。在れなければ、そう感じることさえ出来ないのですから。
「何故生きるのか」という問いにはいくつもの答えがあります。しかし今はどんな状態であれ、人は生きる為に生きるのだと思っているのです。