毎日かあさん

 先週の金曜日は、建国記念日で祝日。

 朝起きると白銀の世界、の一歩手前くらいでした。

 2006年もかなり積もったので、4年振りの大雪です。

 咲いたばかりの梅には災難か。しかし一層美しく見えます。

 紅白のコントラストは、日本人が最も好む色かもしれません。

 2月5日に封切られた映画「毎日かあさん」

 こちらの監督、スキー部時代の先輩なのです。

 もう4年も会っていないので、よく知っていると言うと語弊がありますが、5年前に初めて長編を撮った際にはスキー部でも集まり、お祝いしまいた。

 関大のスキー部で(私は近大ですが)、学年は1つ上。当時から、音楽、ファッション、スキーの道具にも、かなりこだわっていました。いつもニコニコして、とても面白い人だったのです。

 しかし現在、webサイトで紹介されるその姿は渋く、最高にかっこいい!やはり立場がその人を磨くのでしょう。

 人気の女性漫画家と、元戦場カメラマンの結婚、離婚、日常の喜怒哀楽を描いたストーリー。監督は「広い意味でのコメディー」とインタビューで答えていました。

 小泉今日子と永瀬正敏の元夫婦が、夫婦を演じるというキャスティングが話題を呼び、注目度も抜群です。前作の日本映画監督協会の新人賞を上回る、素晴らしい結果が出ることを期待しています。

 関大のスキー部には変わった人が多く、2つ下の後輩は、ハワイで鍼灸院を開業するため夫婦で渡米中。なにか州の認可を取るのに、猛勉強中らしいのです。もう少しの所までこぎ着けたと、年賀状にありました。

 大学を出て17年。本気で夢を追いかけてきた人は、それを実現するステージに立ち始めています。ビリー・ワイルダー監督の『麗しのサブリナ』でヘップバーンはこう言います。

 「生きがいのある生涯を送るには、傍観者でいてはいけない。人生は自分の手でつかむのです」

 もちろん傍観者でいるつもりはありません。ただ悔いのない毎日をおくるだけ。

 しかし映画は観に行かないと、と思っているのです。

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建築日和

 先日友人が、ブログで面白い事を書いていました。テーマは、カレー日和

 チロルは大阪の四天王寺から飛騨の清見町へ移転したカレー屋さんで、スキーを通しての友人でもあります。

 昨年の春に新店舗がオープン。冬期は通信販売だけになるのですが、何故か注文が集中した日がありました。それがカレー日和。

 このお店が四天王寺にある時は、改修の手伝いもさせて貰いました。飛騨牛が入ったカレーは絶品です。加えて、お菓子も凄く美味しいのです。気になる方は是非一度。

 これを自分の仕事に置き換えてみると、建築計画がスタートする時期にも傾向があります。それは年末から春にかけて。理由はこう考えています。

 家を建てる、店舗を立ち上げる。これは大きな決断です。どんな建て方で、誰と建てるか。気楽に決められる人はいないはず。

 ましてや、知らない設計事務所に連絡を入れて……となってくると、どうしても後押しが必要だと思います。それが「今年中」や「今年度中」だと想像しているのです。

 その傾向があるなら、先に準備をしておけば良いはず。対策としては、やはりスタッフの採用です。本気で人の役に立ち、一緒に泣き笑いできるようなスタッフと働きたいと思っています。

 ただし「泣き笑い」は例えではありません。情熱にあふれた若者をお待ちしております。


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相談員

 先週の木曜日、ハービスPLAZA(大阪)で相談員をしていました。

 毎月1日から7日まで、大阪府建築士会「住宅を設計する仲間達」の「設計相談会」が催されているのです。

 結構あちらこちらで告知してきました。

 そして迎えた当日。

 私の担当時間は3:00pmから6:00pmの3時間です。

 意気揚々とハービスのエントランスをくぐります。

 見学者こそちらほらありますが、結局相談はゼロ。

 良く考えてみれば、平日の昼間に動ける人は限られています。

 少なくて当たり前なのかもしれません。

 帰りはすっかり日が暮れ、ライトアップも若干むなしく……

 少ないとは聞いていたのですが、やってみないと分からないだろうと思っていました。

 しかし、結果は従来通り。ただ収穫が2つありました。

 1つは私の前の時間を担当していた建築家と話しを出来たこと。

 同業は大学時代の友人しか知らないので、色々と情報交換をでき、楽しかったのです。もう1つは、模型の前に置いてある事務所紹介のリーフレットを、かなりの人が持って帰ってくれたこと。

 これは、昨年の11月に『建築ジャーナル』に掲載されたものを、再度刷りなおしたものです。2005年から2009年までの作品を8ページのカラーでまとめてあります。

 生き物にとって一番辛いのは無視される事だそうです。何であれ関わってくれることが一番幸せなのです。

 気が付けば立春も過ぎ、庭先では梅が咲き始めました。

 人が寒い寒いと言っている間も、花は当たり前に準備を進めていました。

 毎年、咲き始めの、梅と桜を見るたびにそんなことを思うのです。

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海外で評価を受けるには

 先週の土曜日、サッカーのアジアカップ決勝戦がありました。

 日本はワールドカップドイツ大会で苦杯を喫したたオーストラリアを破り優勝。放映は深夜にも関わらず、視聴率は30%を越えました。日本代表はその期待に応えました。
 
 週が明けて火曜日。日本代表のディフェンダー、長友佑都選手がインテルへ移籍すると発表がありました。インテルミラノは世界を代表する、セリアAの名門クラブです。

 彼が常日頃から口にしていた目標は「世界一のサイドバック」。ここがスタートなのかもしれませんが、大きな1歩を踏み出しました。

 このところサッカー選手の欧州移籍、活躍が立て続けに伝わってきます。移籍金がさほど高くないという背景もあるようですが、何より「勤勉さ」と「俊敏性」が評価されているとありました。

 メジャーリーグにおけるイチロー選手も同じことが言えます。その他アメリカに渡った日本のプロ野球選手も、一様に「勤勉さ」を評価され、選手内に良い影響を与えるとされるのです。

 これは、どんな仕事にでもあてはまるかもしれません。勤勉は良いと思います。では俊敏性は。

 決断力、決断のスピードと置き換えてみます。日本人は、意見を言わないとか、何を考えているか分からないと言われますが、論理的に、倫理的に、判断が出来ると考えています。

 決断は終わっているが、それを言うか言わないかだけの問題だと思っているのです。その仮説があっていれば、多くの人にかなりのチャンスが広がっていることになります。  

 長友選手の報道を聞き、アトリエmの目標もここに書きます。

「世界遺産」

 世界遺産に選ばれるには、10ある基準のうち、1つ以上に合致する必要があります。その一項目目は以下の通り。

 (i) 人類の創造的才能を表す傑作である。

 いちどある人に「生きている間にはかないませんよ」と言われました。それでも良いのです。この項を読んだ時はいつでも、力がみなぎるからです。

 リートフェルトのシュレーダー邸のように。

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『住まいの設計相談会』

 昨年、日本建築家協会(JIA)と大阪府建築士会に入会しました。

 入会しないと、参加できないコンペがあったからです。

 建築士会の方に「住宅を設計する仲間たち」という部会があります。そこにも参加することにしました。

 具体的な活動としては、毎月1日~7日までハービスOSAKAの4階で、作品展を催しています。

 更に「住まいの設計相談会」として、期間中は1日2交代で無料相談も行われているのです。

 初めてその相談員をすることになりました。

 私の受け持つ時間帯は下記の通り。他の時間帯は、別の相談員が居ます。良ければ遊びに来て下さい。

『住まいの設計相談会』
日時: 2011年 2月 3日 (木) 15:00~18:00
場所: 大阪市北区梅田2-5-25
ハービスPLAZA(大阪)4階リビングギャラリー
(エスカレーター横の円形ギャラリー)

 相談予約は 阪神電鉄ハービスOSAKA 06-6343-7617 まで。(当日でも受付可能です)

 パネル展示も開催中で、今回のテーマは二世帯住宅。当事務所は、年始に大阪ガスの『住まう』で取り上げて貰った「池を望む家」を展示します。

 パネル展示期間: 2/1(火)~2/7(月)11:00~20:00

 なかなか無い機会なので、気軽にご相談下さい。というより、誰も来てくれないと時間を持て余すので、興味のあるかたは是非。

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-地元建築家がガイドする名建築-大阪編

 扶桑社から隔月で発売される『SUMAInoSEKKEI』。

 昨年は「サロンのある家」が掲載されました。webサイトでは現場日記の「四丁目の家」をコラムとして取り上げて貰っています。

 誌面には「地元建築家がガイドする名建築」というコーナーがあります。発売中の3・4月号は大阪編。私がナビゲーターを務めています。オファーが届いたのは9月下旬でした。

 大阪(市内)の近現代の建築を5件程度を選んで頂きます。写真は1つの建築について3~5点。イラストマップにまとめますので、なるべく中心部にあるもので。

 有名建築はもちろん、知られざる名建築、守谷さんが個人的に好きな建築、 影響を受けた建築などが入っていると望ましいです。ただし、住所とマップを入れますので、住宅は除外です。

 写真は自分で撮影します。迷惑駐車が多かったり、タイミングが合わずに、光がダメだったり。候補を絞るのに7、8回は街へ出ました。どの作品を選んだかは是非雑誌をみてください。

 それ以外の「名建築」をここに掲載してみます。竣工年月日/住所/設計者/施工者/コメントの順です。

 太陽の塔/1970年/吹田市/岡本太郎/大林組・竹中工務店・藤田組

 岡本太郎の傑作。強く元気だった大阪の象徴。塔と私は同い年。

 通天閣/1956年/大阪市浪速区/内藤多仲/奥村組

 現在は2代目。初代は凱旋門とエッフェル塔を重ねた強欲なデザインだった。

 高速道路から通天閣をが見えると、帰ってきたと実感する。

 日本綿業会館/1931年/大阪市中央区/渡辺節(担当:村野藤吾)/清水組(後の清水建設)

 清楚で美しい。日本建築家協会の近畿支部がはいる。

 芝川ビル/1927年/大阪市中央区/渋谷五郎、本間乙彦/竹中工務店

 無国籍な感じが、唯一無二のファサード。屋上がオープンテラスとして使われる。

 大江ビルヂング/1921年/大阪市北区/葛野壮一郎/直営

 作家の友人が個展を開いたことで知った。

 映画「ブラック・レイン」ではエントランスが警察署として使われる。建物中央に光庭がある。

 大阪マルビル/1976年/大阪市北区/フジタ工業/同左

 キタは通学路だったので、多くのニュースをこの電光掲示板で見た。

 現在はその部分が随分小さくなったのが残念。キタの高層ビルの先駆け的存在。

 ナビオ阪急(現在はHEP NAVIO)/1980年/大阪市北区/竹中工務店/同左

 建築の造形は自由なんだと感じた。

 現在はシネコンが入っているが、以前の雰囲気が好きだった。ナビオは「船」の意味。

 大阪弁護士会館/2006年/大阪市北区/日建設計/大林組

 中之島の北に建つ。

 単純なデザインの繰り返しが、美へと昇華している。

 懸魚のある製図工場/1984年/大阪市北区/出江寛/堀田工務店

 出江寛建築事務所。竹中工務店出身の大阪の重鎮。

 主な素材はスレート。安価な素材で高い精神性を表現する。

 出来れば取り上げたいと思っていたのが、安藤忠雄建築研究所。

 ライターの方に相談すると「広報に交渉してからになるので、ちょっと時間が掛かるかも」といったニュアンス。結局オファー出来ずでした。

 下見に行った日はすっかり夜でしたが、せわしなくスタッフが出入りしていました。ここから海外へも発信しているのだなと、思いながら。

 大阪の建築を一言ではくくれませんが、キーワードは自由と責任でしょうか。

 その気風はもちろん私の中にも流れていると思います。

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ついに『24 -TWENTY FOUR-』ファイナル・シーズン

 初めて「24」を観たのは2005年の9月。日本でのレンタル開始は2003年でした。

 今回のファイナルシーズンを含めて、24話完結を8シーズン全て観終えました。

 合計192時間に、外伝が数時間あるので、約200時間を費やしたことになります。映画化もされるようですが、ひとまずこのドラマは終わり。一抹の寂しさを感じます。

 CTU(テロ対策ユニット)に協力するジャック・バウワー。

 今回もならず者、卑怯者、そして大統領までを敵に回し、超人的な働きを見せます。

 国と大統領に忠誠をつくしてきた彼が、大統領のテーラーと意見をたがえる場面があります。

 世界各国を迎えて平和条約締結を目指すテーラーは、その目標を達する為、重要な事実を隠ぺいしたまま、調印を進めようとします。勿論架空の話。
大統領は「私が目指すのは平和」と。条約締結の為には、事実隠ぺいもやむなしという主張です。

 対するジャック・バウワーは「私が目指すのは正義です」と反論。
自身の利優先の為、行動を起こさない人が多い中、そんなセリフに観る者は痺れるのです。

 最終章の最終話を見終えた今の感想。「終わる気はないな」です。誰も納得できないはずです。

 今後の軸が映画になるのか、それとも違う展開を考えているのか。ジャック役のキーファ・サザーランドはプロデューサーも兼務しています。

 プロデューサーとしての手腕に注目です。

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センター試験にまつわるエトセトラ

 今朝の新聞で、センター試験の平均点が発表されていました。

 共通一次、センター試験、合わせて3回受けた私としては、少々心がざわつく時期です。

 私が通っていた高校は6年一貫の私立で、進学校でした。しかし大して勉強もしておらず、270人中267番とかそんな調子。高校3年の時は一校も受からず、勿論浪人です。

 予備校時代は精一杯頑張りましたが、何とか受かったのが近畿大学の建築学科だけ。私は相当にしつこい性格で、もう一年仮面浪人することにしました。バブル景気が終焉に向かう1990年のことです。

 大学の友人に協力してもらい、最低限の単位を取り、近くの下宿に帰っては一生懸命受験勉強しました。回りの飲み会にも目をくれず。明けて1991年の1月、3回目の受験が始まりました。

 まずセンター試験で8割以上の点数をとり、2次試験の比率が低い大学を抑える計画を立てました。2次試験の比率が2割だった、広島大学建築学科の前期日程を保険にして、後期日程で目
指す大学にチャレンジしようと考えたのです。

 2次試験の日程が、近大の学末試験と重なり、受験する事は留年する事だったからです。

 20歳で迎えた3度目のセンター試験。会場は大阪府大だったと思います。配点は、英語、数学、国語が200点満点。世界史、物理が100点満点のトータル800点満点。8割の640点が広島大
学の合格ラインです。出だしは順調でした。

 苦手だった英語を137点で乗り切り、国語は上出来の161点。物理は狙い通りの100点満点、世界史は71点だったと思います。この4教科の合計は469点。数学で8割5分の171点とれば、640点に届きます。20年前のことですが、たぶん点数もあっているはずです。

 数学の点数は……100点程。200点満点の半分でした。

 理系の私にとって、数学は点を取りやすい科目です。ところが、序盤の数一で単純なミスを連発し、慌て、無残な結果に終わったのです。ここで私の大学受験は終わりました。

 クライアントのお子さんが受験と聞き、つい思い出しました。

 今思うと、大学生と受験生の2足のわらじでは、たかがしれていたと思います。受けるならスパッと大学を辞めるべきだったのです。

 それからこの失敗を教訓にしました。中途半端な決断は、悔いばかり残る。今後、そんなことだけは辞めようと。

 未だに、新聞にセンター試験の問題が載っていると、ちょっと解いてみたりするのです。

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ホテル・ カルフォルニア

 ビートルズが世界を席巻していた60年代後半から70年代にかけて。もちろんトータルセールスも全米ナンバー1でした。

 その座を初めて奪い取ったのがイーグルスだった、とテレビで解説がありました。イーグルスは1976年にビートルズの牙城を初めて崩したバンドなのです。

 1971年ロサンジェルスで、Vo&Guのグレン・フライ、Vo&Dsのドン・ヘンリーが中心となり結成されます。

 グレン・フライは、スタイルに縛られず、曲によってヴォーカルが変わるビートルズを見て、ぞれぞれがリードヴォーカルを取れるメンバーを集めたと語っていました。

 ’72年「テイク・イット・イージー」でデビュー、’73「ディスペラード」とヒットを重ね、「ベスト・オブ・マイラブ」で全米1位に。

 そして’76年、全米で1000万枚を売り上げた、「ホテル・カルフォルニア」で文字通り頂点を極めるのです。

 ベトナム反戦運動を中心に、若者達がムーブメントを起こした60年代後半から、70年代に入ったアメリカは、’76年に建国200年を迎えていました。

 隆盛を極める国家とは対照的に、物質主義、熱を失っていく若者、社会を批判した歌詞になっているのです。

 曲は、物悲しげなギターサウンドで分厚く作りこまれた、アメリカン・ロックの最高傑作と言われます。アルバムジャケットも、曲の将来を知っていたかように、美しく寂しげな夕景となっているのです。

 その後は、多くのバンドが経験したように、大ヒットが過密なスケジュールと、過剰な期待を生み、メンバー同志のいさかいがおこります。そして’82に解散。

 この後、’85年にソロ活動を始めた、ドン・ヘンリーの「ボーイズ・オブ・サマー」は、最も好きな曲です。このあたりから私にとってリアルタイムで、反対にイーグルを遡って行きました。

 皆がボーカルを取れるというメンバーが奏でるハーモニーは「ワン・ワン・オブ・ディーズナイト」で最高点を極めていると言えます。汽笛のような物悲しいコーラスが時々耳に蘇るのです。

 94年にあるテレビ番組をきっかけに、イーグルスは復活。現在ワールドツアー中で、3月に日本でも公演があります。

 一昨年のマイケル・ジャクソンの事もあったので、何とか見に行きたいと思っているのです。

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奥飛騨

昨年末、新聞に竜鉄也さんが74歳で亡くなったとありました。

「奥飛騨慕情」がヒットしたのは1980年(昭和55年)。私は小学5年生でした。

歌詞もメロディーも思い出せないのですが、その頃読んだ、彼の半生を描いた本は覚えています。

彼は病気の後遺症で盲目になりました。

マッサージ師を経て、流しの歌手となり「奥飛騨慕情」がヒットしたのが40歳半ば。

スナックで流しをしていた頃、見えないのを良いことに、パートナーがギャラをピンハネしていたり、酔った客だかその筋の人だかトラブルになった時、ビール瓶の底を叩き割り、彼が凄んでいる場面もありました。

鋭利な刃物より、割れた瓶のほうが始末に悪いと知っていたのです、というくだりがあったと思います。もう30年以上前で、子供だった私はゾッとしたのを覚えています。壮絶な人生描かれていました。

70年代、80年代は歌番組が多く、演歌も根強い人気がありました。普段は聞かないのですが、銭湯などで流れてくると「演歌もいいよな」と思います。当時は、暮らしの中に演歌があったのです。そいえば未だ現役続行、サッカーのカズはトレーニング時に聞くのは「都はるみがいいよね」と言っていました。

葬式は彼の出身地、岐阜の高山でとありました。書きながら、曲の最後を思いだしてきました。

♪ ああ……奥飛騨に雨が降る

曲:奥飛騨慕情 作詞・作曲:竜鉄也

なんと憂いを秘めた曲題か。

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