アメリカの旅② <タイムズ・スクエア、グッゲンハイム美術館編>

 この日も快晴でした。

 2日目は、唯一1日中ニューヨークにいる日。朝から気合を入れてゲストハウスを出ました。

 チェルシーというエリアを出て4ブロック北に上がり34th Stへ。

 ここを東に歩くとエンパイヤー・ステート・ビルが見えて来ます。

 キングコングに愛されたビルは、1931年完成で高さ381m。

 クライスラー・ビルを抜いて、ワールド・トレード・センターに抜かれるまで、40年の間、世界で最も高いビルだったのです。

 ニューヨーク・シティーパスは79$で、多くの美術館、観光地のチケットが綴られています。

 86階から、北東方向にあるクライスラー・ビルを見ます。

 南の摩天楼群までは5kmほど。

 最も高いのが建設中のフリーダムタワー。以前のWTCの410mを超え、541mになる予定です。

07 2011_1104_60モーガンライブラリー - コピー

  2ブロック南東へ移動するとモーガン・ライブラリー・ミュージアム。2006年。イタリア人建築家、レンゾ・ピアノの設計です。

 こちらは時間の都合で、外観を見ただけ。

 北へ7ブロックほど移動します。

 クライスラー・ビルは42th St沿いに建っています。 

 42nd Stとパーク・アベニューの交点にグランド・セントラル・ターミナルがあり、クライスラー・ビルはそのすぐ東。ここがマンハッタンの中心と言って良いようです。

 中心街を歩いていると、常にクライスラー・ビルの尖塔部が見えるので、迷う事はありません。まさにランドマークと言えます。

 1930年に完成したこのビルは、ニューヨーク・アール・デコの最高峰で、頭部のアールと三角窓を組み合わせた部分は、ステンレスで作られています。

 42nd Stを西に6ブロック程行くと、タイムズ・スクエア。

 馬に乗った警官が、旅情を盛り上げてくれます。

 「世界の交差点」とはよく言ったもの。

 最高のキャッチフレーズです。

 ただ、規模は思いのほか小さく、渋谷109をワンサイズ小さくした感といえば、ちょっと怒られるでしょうか。

 本日のメインと考えているのが、シーグラム。今度は地下鉄で北に移動します。

 ミッドタウン・イーストというエリアの5番街と53rd Stでおりて、まずはセント・パトリック教会へ。

 ドイツのケルン大聖堂を模した、美しいゴシック建築で1888年の完成。


 そしていよいよシーグラム・ビルへ。

 ミース・ファン・デル・ローエのニューヨークにおける唯一の作品で、内装はフィリップ・ジョンソンが担当。1958年の完成です。

 今回のニューヨーク行を決めたとき、初めに浮かんだのがこの建築でした。

 I型のマリオンと言われる、外壁を構成する部材はブロンズ製。ガラスも特注のブロンズ色。

 写真で見ると、もしかするとその差異は伝わらないかもしれませんが、私にとっては最も感激した瞬間でした。「愛しの人にやっと会えた」という感じなのです。

 “ Less is more ”の美学を持つミースは、装飾的なものを一切排除し、金属やガラス、コンクリートといった無機質な素材で、限りなくストイックで、しかし自由な空間の創造を目指していました。

 その一つの到達点と言える、記念碑的な建築なのです。

 中に入ろうとすると、エントランスホールに居たセキュリティーに止められました。

 旅行者が簡単に入れる訳もありませんが、僅かに内部空間を体感できたことに、単純喜びを感じていました。

 交差点の対角に建つのが、レバー・ハウス。SOM(スキッドモア、オーウィングス&メリル)の1952年の作品です。

 ブルーブリーンのガラスに覆われたこのビルは、まるで宝石のようです。

 高層棟の下に低層棟がロの
 字方にめぐらされており、中庭があります。

 ハイ&ローの美しさです。例えば、大阪駅前の第1ビルから第4ビルがこの建物のコピーだったことが分かります。

 非難からは何も生まれないが、オリジナリティーというのはこういったものを指すというのが良くわかるのです。

 昼を過ぎたので、シーグラムの前にある屋台で、ハンバーガーを買い、前庭で食べました。

 このお姉さんがとっても陽気な人で、待ってる間にやたらと話しかけてきます。なので「写真をとってもよいか」と聞くと、もちろんと。

 「でもお化粧するから待ってネ(多分)」みたいなことを言ってふざけていました。

 ベーコン・レタス・バーガーとミネラルウォーターで5$くらい。美味しかったです。

 まだまだ移動です。

 ミッドタウンエリアから、アッパー・イースト・サイドまで北へ向かって4km程地下鉄で移動。

 グッゲンハイム美術館へ着きました。1959年フランク・ロイド・ライトの設計。彼の遺作でもあります。

 スパイラル状のフロアはプランがそのまま形態となっているとても有機的でシンボリックな建築です。

 ここから3つ美術館を回りますが、本来ならどれも半日、もしくは1日は掛けて観たいようなところばかり。

 今回は街と建築を見るのが主の目的ですが、気になっている主要な作品だけは見て回りました。

 グッゲンハイムでは、モディリアーニとカンディンスキーが充実していました。ミロ、シャガール、ピカソも揃っています。モンドリアンも見逃せないところ。

 アメリカではどこでもそうなのか、撮影禁止は一切無視して皆写真を撮っていました。

 後ろ髪を引かれる思いで、今度はセントラル・パークを横断します。

 ニューヨーカーの憩いの場所セントラル・パーク。

 先週は雪が降るほど寒かったそうですが、私の滞在中は意外に温かかったです。

 アメリカは華氏48度のような表現なので、実際に何度あったかはよくわかりせんが。

 中央には大きな池。

 これは自然のものなのか、人口のものなのか。ジャクリーン・ケネディ・オナシスがこの周りを良く走っていたという事で、その名前がついています。

 海沿いでは釣りをする人もいましたが、ここでは見かけませんでした。

 セントラル・パークを横断した理由は、ハーレムへ行く地下鉄に乗るため。

 ハーレムは黒人が多く住む街です。前市長のジュリアーノは強硬な姿勢で、ニューヨークの治安改善に努めました。

 その手法には賛否があったものの、治安が良くなったのは事実です。実際に、ハーレムの目貫通り、125th Stにある、ブラックミュージックの殿堂アポロシアターあたりは、全く平穏な感じでした。

 廃墟も僅かに残るだけ。


 ハーレムには、大小の教会が多くあります。

 このようなところで歌われるゴズベルは、ソウルミュージックに大きな影響を与えています。

 少し散策し、東へ移動します。

 125th Stと5th Aveの交差点より東の地区はスパニッシュ・ハーレムと呼ばれます。

 メキシコ、ドミニカなど中南米の人が多く住むようです。

 一本裏通りまで歩いてみましたが、少し廃墟が増えて来たので、ここで引き返しました。

 どれ程の治安状態か分かりませんが、貧しいということはより原始的な生活が営まれていることになります。

 そこに暮らす人の目は、ギラギラしているか、無気力になっているか、概ね2つに分かれます。

 そのにはむき出しの生があります。友人のアドバイス通り、危険かどうかは自分で感じれる、は本来人には備わっている感覚だと思うのです。

 自分の歩いた場所がどんなところだったのか分かりませんが、本来私は、とても慎重な人間なので、おそらく全く問題のないエリアだったと思いますが。

 夕暮れが迫るなか、アッパー・イースト・サイドに戻り、メガ美術館、メトロポリタンへ。

 ここも残念ながら、絞った作品のみ。フェルメール、レンブラント、ラ・トゥールといった光りと影を描く作家と、ドガ、ロートレック、ピカソ、ゴッホまで。

 ここをしっかりみようと思えば、1日半は欲しいところです。

 ニューヨーカーはMET(メット)と呼んでいるようです。メットを後に南へ下ると、ホイットニー美術館。

 ここは残念ながら外観を見るだけ。設計はバウハウス出身のマルセル・ブロイヤーの設計。1966年の作品です。

 ブロイヤーは家具のデザインでも知られ、ワシリーチェアは傑作と言って良いでしょう。

47 2011_1104_23MoMA - コピー

 ほぼ日の暮れた6時頃、ようやく最終目的地、ニューヨーク近代美術館へつきました。別名MoMA。

 設計は谷口吉生。2004年の作品です。谷口は日本における美術館でもその力量をいかんなく発揮しています。

 丸亀市現代美術館、豊田市美術館は傑作と言え、その先にあるのがこのMoMAです。

 中央に設けられた吹抜けには自然光が注ぐはずなのですが、夜になってしまいそれは体験できず。

 ウォーホール、リキテンシュタイイン、ジョーンズ、ピカソ、マティスそしてゴッホ。もう十分に堪能したのです。

 その後この日ニューヨークに到着した、友人と合流。朝方まで飲むことになるのです。

 翌日はもう大変で……

アメリカの旅① <マンハッタン・下町編>

 一昨日まで出掛けていたアメリカ旅行。ちょっと変則になりますが、今日から5日連続でUPしたいと思います。

 11月3日(祝・木)に1:30pmに関空を発ち、ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港まではおよそ13時間。

 日本との時差は、夏時間で-13時間。NY時間の1:00pm頃、初めてのマンハッタンを見下ろします。

 初めて見る印象は、そんなに大きくないな、という感じ。初めに全体像が見れるのは、とても助かります。

 左が北で、セントラルパークが見えます。摩天楼はそのすぐ南のミッドタウンとワールド・トレードセンターのあった南端部、ロウアー・マンハッタンの2ヵ所に集中しているのが良くわかります。


 島の南を飛ぶので、ぽっかりと空いたグランドゼロも見てとれます。


 海外へ出るのは9年振り。

 空港に着くとまずは入国審査です。あの感じを好きな人はいないと思いますが、何とも落ち着かない時間です。

 2、3の質問ですんなりとパス。

 公衆電話からまずはゲストハウスへ確認の電話。バスで行くつもりでしたが、宿の近くにあるペンシルバニヤ・ステーション(通称ペンステーション)行きはないとのこと。

 よって公共の交通機関、エアトレインとロングアイランド・レールロードを乗り継いで行く事に。後で調べると、はやりバスはあったのですが。

 エアトレインに乗っていると、いきなり横を通過しました。

 1962年ジョン・F・ケネディ国際空港、TWAターミナルはエーロ・サーリネンの設計です。

 エアトレイン、ロングアイランド・レールロードはそれぞれ5$と6.25$で1時間弱でペンステーションにつきました。

 ここから私の宿までは歩いて5分程。現地スタッフが来てくれて、チェックインを済ませました。

 公衆電話を探し、ニューヨークに住む友人に電話すると、ウエスト4thという駅の上で待ち合わせる事に。

 緊張感を持ちながら、悪名高かった地下鉄へ。乗ってしまえば、東京の地下鉄よりは単純な路線で、すぐに目的地に着いたのです。

 そこで落ち合い、ノリータというエリアを案内してくれました。

 比較的新しいショップが立ち並ぶ、おしゃれな街でそのまま南へ歩き、今度はチャイナタウンへ。
11 2011_1103_17チャイナタウン - コピー

 しかし、中国人のバイタリティーには恐れ入るしかありません。

 どんな国へ行っても、と言っても良いくらいチャイナタウンはあり、しかも活気があるのですから。

 このエリアから更に南に歩くと、ロウアー・マンハッタン。

 ユナイテッド・ステイツ・コートハウス、連邦裁判所がその入口あたりでしょうか。グランドゼロまで歩き、反ウォール・街運動をしているズコッティー・パークへも行ってきました。

 最南端のバッテーリー・パークまで行くとすっかり日が落ちていました。海にうかぶ自由の女神を見て散歩は終わり。

 今度は私の希望で、友人宅を見せて貰いました。

 一般的なアパートメントがどのようなものか、見て見たかったのです。

 現在暮らすのは、パートナーとネコ3匹。

 バスルームはとても良い感じに、ライトアップされています。

 リビングにソファーベッド、中央に玄関とつながるキッチンとダイニング、もう一部屋が書斎。40㎡前後といったところでしょうか。

 決して広くはありませんが、シンプルなライフスタイルがとても良いなと思うのです。

 家賃は1,200$くらい。10年程住んでいるのでこの金額で、現在の相場なら1,600$くらいかなと言っていました。

 この日は、近くのブラジル

 料理の店で、もう一人の友人も来てくれ、一緒に食事をしました。

 12時くらいまで飲んでいたでしょうか。

 NYは南北の通りを7th Ave(アベニュー)、東西の通りを31st St(ストリート)のように表現するので、とても分かり易いのです。

 街中では、ひっきりなしに

 クラクションが鳴っています。

 歩行者も信号を守らないのでこれは必然。関西の人が最もせっかちだと思っていましたが、世界一せわしないニューヨーカーは信号を守らないのです。

 この日は歩いて宿まで帰りました。初日の印象は「映画で見たまま」と「意外と安全」でした。

マンハッタンで暮らすということ

 こちらの時間で、現在は朝の4時。先ほどニューヨークの宿に戻りました。

 11月3日(木)に到着。翌日の4日(金)の2日は、とにかくマンハッタンを回りました。
 
  美術館は、グッゲンハイム、メトロポリタン、ホイットニー、MoMA。現近代建築は、エンパイヤーステートビル、クライスラービル、ニューヨーク市立図書館、シーグラム、レバーハウス、国連ビル。街はチャイナタウン、リトルイタリー、ハーレム、スパニッシュハーレム。

 5日(土)は朝から飛行機に乗ってシカゴへ。そこからタクシーで1時間半の田舎町にある、ミース・ファン・デル・ローエ設計のファンズワース邸へ。完全に一日仕事でした。

 そして今日6日(日)は、早朝からこちらに住む友人と、ペンシルバニアのの落水荘へ。設計者のフランク ロイド ライトは、ミースと同じく、近代建築の3大巨匠の一人です。

 こちらもかなりの田舎にあり、レンタカーをしてもらい、友人と一緒に行ったのですが、これが片道7時間強。それで先ほど帰って来たところです。

 友人の住むアパートメントのすぐ近く、リトルイタリーで、遅い夕食を取りやっと一段落しました。

 まだ旅は終わっていませんが、ニューヨークを中心に行ける可能性のあるところを、考えうるところ全て見て回ったつもりです。

 旅に効率などナンセンスですが、次の機会があるかどうかわからないという気持ちもあり、悔いのないプランにしようと思っていました。

 現在、学生時代からの友人2人がこの街に住んでいます。かれらのサポートなくしては、急に決めたこの計画を実現することは無理だったと思います。

 2人には同じ質問をしました。この街にやりたいことが有ったから来たのか、この街で暮らしたいから来たのか、と。
 
  答えはyesでありnoであり、という同じような答えでした。時差13時間。言えば地球の反対側で暮らす彼らに逞しさと、尊敬の念を抱きます。その上で、失礼を承知で聞いてみたかったのです。

 わずかな滞在期間でしたが、もちろんその一端を感じることが出来た気はします。

 もうすぐ夜明け。最終日も出来る限り色々なものを見て、感じたいと思います。

ニューヨーク

 今日の1:00pm発の便でニューヨークへ行ってきます。

 作家、開口健は「パリはいくつになってからでも良いが、N.Y.は若いうちに行ったほうがいい。そうしなかった事に後悔がある」と書いていまいた。

 あのエネルギーと混沌は若いうちに見る方が良いと。

 決して若くはありませんが、私の人生の中では今日が一番若い日。思い立ったが吉日、です。

 友人に「遊びにくれば」言われたのが12年程前。時間が出来た訳ではないのですが、先月もう1人のN.Yで働く友人が、帰国したのが直接の動機です。

 海外で仕事をしたいという夢があります。それがN.Y.なのか、ミラノなのか分かりませんが、はやり体感するのが一番のはず。5日間ですが、街、人を体感したいと思います。

 次回11月7日(月)の日記は現地から。携帯とPCは持っていかないので、さてどうやってUPしようかと。

愛おしの東京

 昨日は「四丁目の家」の現場監理へ行っていました。

 現場も終盤になり、監理に来るのも残すところあと僅か。

 朝一番の新幹線にのるには、4時半起きです。

 それを差し引いても、東京で仕事が出来るのは本当に嬉しいことです。

 10時頃に現場につくと、は内装の下地がほぼ終わり、部屋らしくなってきました。

 詳しくは現場日記にまたUPします。
 

 午前中は、先に現場監督と打合せ。
 
 会う機会が少ないので、時間はあっと言う間です。

 昼休みにして、私は子供部屋の収納上で15分昼寝をしました。
 
 ちょっと寝ると、頭がスッキリするので積極的に昼寝をします。

 しかし、ここで寝たのは私が始めてか、大工の誰かはすでに経験済みか……

 現場はとても綺麗に掃除されていました。

 この現場の大工は33歳くらいの人なのですが、とても仕事は丁寧です。
 
 残念ながらタイミングが合わず、まだ会った事はありません。

 設計事務所から転職してきた36歳の監督と、若い棟梁。このコンビで、とても良い関係が保たれているように感じます。

 工程が遅れ気味なのだけは、ちょっと不満が残りますが。

 何はともあれ、仕事の基本は整理・整頓です。

 美ししく保っていると、見えにくい問題点も単純に見えやすいのです。

 クライアントとの打合せが、昼から夕方の5時頃まで。

 帰りの新幹線まで少し時間があるので、まずは地下鉄渋谷駅へ向かいました。

 しかし、安藤忠雄の設計の渋谷駅は、正直期待以下でした。

 楕円の吹抜けが重なっていく空間も、工事用具が並んでおり、写真としてもあまりで。ちょっと残念でした。

 もう一度地下鉄にのり、表参道へ移動。

 何の気なしに、脇の道へそれて行くと、これも安藤忠雄設計のグンゼ直営店がありました。

 暗くて分かり難のですが、長い水平窓には男性用下着が並んでいます。

 かなり長さの窓で、6m位はあったでしょうか。この建物は確か鉄骨造だっと思います。

 こちらはチャレンジが見て取れる建物でした。

 この計画で、初めて東京に来たのが2008年の3月。

 こちらに来るたび、合間を縫って、色々な建物を見て回りました。

 昨晩もポツポツと降っていたのですが、この時はかなりの雨でした。

 傘を差しながら、見て回ったのですが、その時の写真でも、最も美しかったのは、ディオールだったのです。

 設計はSANAA。昨年プリッカー賞を受賞した妹島和代と西沢立衛のユニットです。

 建物全体が宝石箱のように光り、本当に美しいのです。光りの量、質が繊細に計画されているのです。
 
 帰りの新幹線では、ぼろ雑巾のように寝ています。

 この機会を無くしたくなければ、関東で仕事をすること。ああ、愛おしの東京という感じです。

 しかし今週木曜日から、東京よりせわしない街へ建築と街を見に行ってきます。これらはまた次回に。

一人前とは

 人の入れ替わりは世の常で、変化のない組織は衰退します。

 よって、実はということも無いのですが、9月に若い男性スタッフが退職しました。辞めるという結論を出したなら、何故とは聞かない事にしているので、本当の理由は分かりません。

 これは自分の経験から決めた事です。

 24歳の時、初めの事務所をクビになった後、ひらってくれた先輩がいました。その設計事務所で働いて1年ほど経った頃、ちょっとしたことで「辞めます」と言ったのです。

 止めてくれるだろうという気持ちが、いくらはあったと思います。しかし結果は「あっそう」という感じでした。

 辞めたいと言っておきながら、止めて貰うもないのですが、大方の若者は私と同じように、自分の発言に責任を持ったことがないと言えば言い過ぎでしょうか。

 いつも誰かが「考え直したら」とか「長い目で見たら為にならないから」とか正しい選択へ導いてくれたと思うのです。

 25歳の時に「辞めずにもう少し頑張ってくれよ」と言われていたら、私はまた違った生き方をしていたと思います。現実は1つしかないので、どちらが良かったを考えるのは全くのナンセンスですが。

 大学生の頃、下宿をしていた同級生が「一人前になるまで帰ってくるなと、父さんに言われている」とよく言っていました。

 しかし、やや違和感を覚えていました。一人前ってなんだろうと。

 「一人前とは逃げないこと」 
 
 出所を忘れていまったのですが、これより分かり易い言葉はありません。意地悪な言い方ですが、一人前は郷里には帰らないのです。

 新聞で、社会派小説家、城山三郎の言葉が紹介されていました。

 「1人のホンモノに触れれば、100人のニセモノを忘れさせてくれる。それが人間社会の有難さである」

 人間関係の問題が、一方にしかないことはあり得ません。勿論私も至らなかったのは間違いないのです。
 
 何度か紹介したのですが、社員の7割に知的障害を持つ人たちを雇用し、チョークを製造している会社、日本理化学工業の大山泰弘会長の言葉を書いてみます。彼は人としての、4つの究極の幸せを定義しています。

 「愛されること、褒められること、人の役に立つこと、人に必要とされること」

 いずれも他者が介在しています。この意味が分かれば、大切なのは自分の都合や考え方でなく、どれだけ誰かの役に立てるかこそが、自身の存在意義だと納得できると思うのです。

レディー・ジョーカー

 最近、低学年の子供が寝る時間は早まる傾向にあるそうです。

 共働きの家庭が増え、朝が早くなったのがその理由と新聞にありました。

 とても良い事ですが、我が家の長男は寝る時間が遅くなって来ました。起きている時間に帰ると、大概本を読んでいるのです。

 現在気に入っているのが「ヘンリーくんとゆかいな仲間たち」というシリーズ。

 横からのぞくと結構文字も小さいのです。

 朝起きてくると同時に読み始めるくらい、好きなようです。

 子供が本を読んでいる横で、テレビを付ける訳にはいかないので、私も食事を終わら一緒に本を読みます。

 おかげで、長らくカバンに入っていた「レディー・ジョーカー 高村薫著」をやっと読み終わりました。文庫本では上、中、下の3巻あります。

 ストーリーは、大手のビール会社、日の出ビールの社長が誘拐されます。

 数日拉致された後、開放。その間に、最小限の言葉で20億円の裏取引に応じるように言われます。

 レディー・ジョーカーを名乗る犯人グループからは「人質は350万キロリットルのビールだ」と脅され、ほぼ言いなりになる日の出ビールの社長。

 犯人グループは、薬局の老店主、競馬仲間の刑事、旋盤工、貸金達。

 事件を追う、警察、新聞社などが過去の事件、人間模様と絡み合いながら、物語は繊細に進行して行きます。

 特に、日の出の社長の日常、心理の動きが細やかに描かれているのですが、何の違和感もなく、実在する人物に見えてきます。

 とても面白かったのですが、読み終わった後、モチーフはグリコ・森永事件と知りました。

 80年代の半ば「かいじん21面相」「キツネ目の男」などで世間を騒がせたあの事件ですが、思い返せば同じような展開ばかり。一番違うのは犯人グループを誰だか知っているということだけ、と言えば言い過ぎでしょうか。

  小説では、警察には知らせないまま、犯行を収束させる為に日の出ビールは、要求通り20億円を犯人へ支払います。

 グリコ・森永事件は未解決のまま。高村薫が描いた犯人像が合っているのかは分かりませんが、こんな闇のストーリーがあったのかも、と思わせるには十分な展開でした。

 この本は知人に勧められ、作家、高村薫が男性か、女性かも知らずに読み始めました。この情報が多い時代、作家のことを全く知らずに作品を好きになるのは貴重なのかなとも思います。

 有名になれば、すぐにコメンテイターとして声が掛かるのでしょうが、発言している姿を見てがっかりしたことも多々あります。

 作家には、やや神秘性があったほうが良いと思っているのです。もしくは、そういう作家に私が憧れているだけかもしれませんが。

クラプトン

 先週末、録画していたエリック・クラプトンの番組を観ました。

 現在66歳。世界を代表するギタリスト、アーティストと言って良いでしょう。日本で公演があるようです。
 
 1945年生れのクラプトンは、祖父母に育てられます。もの静かで、シャイな少年は、8歳まで祖父母を生みの親だと思っていたそうです。

 13歳の時、祖父母はそんな彼にギターをプレゼントします。また、友人に勧められて聴いたブルースにすっかり魅せられ、それをお手本に腕を磨いていきます。

 20歳の頃、すでにギターの腕に絶対の自信を持っており、ビートルズのジョージ・ハリスンとも親交がありました。それをきっかけに、ビートルズのアルバムにギタリスととして参加。ギターソロも彼が担当するのです。

 ヤードバーズ、クリーム、デレク・アンド・ザ・ドミノスと歴史に名を残すバンドと関わってきましたが、いずれも短い周期で、入脱退、解散を繰り返します。

 麻薬中毒、アルコール依存症、そして親友ジョージ・ハリスンの妻、パティ・ボイドに恋いし、後に結婚という、波乱の人生を歩みます。大ヒットした「愛しのレイラ」はパティ・ボイドへの気持ちを歌った曲でした。

 その後パティ・ボイドと離婚。イタリア人女性と再婚。男の子が生まれます。その子が4歳の時、マンションから転落死するという悲劇に見舞われるのです。

 その時に書いた曲が「ティアーズ・イン・ヘブン」。1992年の作品です。

 この曲はアルバム「アンプラグド」にも収録され、アルバムと合わせて、グラミー賞6部門を獲得します。

 学生時代、車のCDチェンジャーに、絶えず入れていたアルバムでした。大学3、4年のことです。

 その頃、ここに書いたクラプトンの人生を、熱心に、繰り返し話してくれた後輩がいました。後に彼は家業に入り、門戸厄神駅前の「Spoon Cafe」チーフとなります。

 そして、1996年のリニューアルオープンの際、設計を私に任せてくれたのです。

 今考えれば、本当に申し訳ないのですが、その時は半分くらいしか話を聞いていませんでした。と言うより、彼の思い入れを受け止める許容量を、私が持っていなかったような気がします。

 全てをiPodに移行している最中ですが、久し振りに「アンプラグド」のCDを出してきて、ライナーノーツを読みました。

 アンプラグドは、コードを抜いたという意味で、電気楽器をなるべく使わない演奏です。MTVの人気プログラムですが、単純で、プリミティブである程、その人自体が伝わって来るのは、一流ミュージシャンも同じです。

 先日なくなった、スティーブ・ジョブズとエリック・クラプトンは、目が似ていると感じます。

 訳あって、生みの親と別れた2人。辛いことも、傷ついた事もあったでしょうが、それらを自分の人生の、仕事の糧にしています。その憂いを秘めた目が、私は嫌いではありません。

 今幸せならそれも幸せ。そうでなければ自分で掴みとるしかないはずです。

芸術→スポーツの秋

 医師はテニス、建設関係はゴルフ。皆ではありませんが、傾向があるのは事実です。

 もともと体を動かすのは大好きですが、この季節、朝から快晴だったりすると、じっとして居られない気分になるもの。

 子供も一緒にとなると……久しぶりに生駒山麓公園のフィールド・アスレチックへ行きました。

 季節がら、かなり賑わっていました。

 山頂部につき、平地より3度程気温が低く、19度でした。

 もうすでに色づいている木々も。

 長男はサル系で、この種の遊びは得意にしています。

 下の娘も、モノによってはチャレンジするようになってきました。

 長男は、ほとんどのアトラクションをクリア。

 成長した分、失敗のしかたも派手になり、何度か地面に叩きつけれらていました。

 しかし立ち上がりの早いのが、彼の一番良いところ。

 長男が3歳のころから行き始めたアスレチックですが、娘がその年齢になりました。

 男女の違いはありますが、クリアした時はやはり満足げです。

 わが子ながら、随分大きくなったなと感じます。

 夕方まで遊んだあと、実家に寄ると甥っ子たちが来ており、更に夕食まで盛り上がっていました。

 休日に大切なのは特別感、というのが私の主張です。夕食の後、DVDを借りてきて皆で観たのです。

 先週書いたジョブズをしのんでピクサー作品にしました。名作「カーズ」のスピンオフもので「メーターの世界つくり話」。並んで観ている姿を見ると、微笑ましくあります。

 これらの全てが、絶頂時でのアップル追放から始まったと考えると、彼の才能を埋もれさせなかったことは、全世界にとって幸せなことだったと言えるのです。

 先週の月曜日は芸術、今週はスポーツ、来週は本か食べ物かな、などと思っています。

ジョブズ

 先週の10月5日(水)。スティーブ・ジョブズ死去のニュースが流れました。

 私はヘビーなMacユーザーではありませんが、反対にMacファンがウィンドウズを使うのとは全く違う動機を持っているのが良くわかります。

 社名の由良も諸説あるようです。

1. 創立の時、かじりかけのリンゴがそこにあったから。
2. 尊敬するビートルズが設立した会社がアップルだったから。
3. 人類に大きな変革をもたらしたリンゴがいくつかある。1つ目はアダムとイブが口にした知恵の実。2つ目は万有引力を発見したニュートンが見たリンゴ。3つ目のリンゴでありたいと考えた。

 3番目の話をどこで聞いたか忘れましたが、ストーリーがあって私は一番好きです。世間並みですが、ジョブズの言葉には力を貰い続けています。
 2008年8月21日(木)、この日記でも有名なスピーチを引用させて貰いました。

 スピーチの結びの部分を掲載したのですが、本来はもっと長いものです。ちょっとおこがましいのですが、段落毎に箇条書きにしてみます。

スティーブ・ジョブス、スタンフォード大学で卒業祝賀スピーチ
2005年6月12日

【1】  生い立ち
・私はリード大学を半年で中退したので、このスピーチが大学卒業に最も近い経験になる。 
・生みの母は、より良い教育環境を望んでおり、生まれてすぐに養子となった。
・実際のところ、育ての父親は高校を出ていなかったが、必ず大学に行かせるとの約束で、養子縁組は成立した。

【2】 大学中退 
・大学へ行き、半年で興味を失う。何がやりたいか全く分からなかった。
・大学を辞めてからは自分の直感の赴くままに生きた。これが後になって大変活きた。

【3】 点をつなぐ 
・大学は辞めたので、好きな授業だけにでた。哲学やカリグラフィー(西洋書道)の勉強をした。
・カリグラフィーは当時何の役にも立たなかったが、美しい書体を兼ね揃えた、10年後のマッキントッシュ・コンピューターへとつながる。
・ウィンドウズは単なるマックのパクリなので、この時カリグラフィーの勉強に寄り道していなかったら、美しいフォントを搭載したパソコンはこの世になかったことになる。
・未来を予測して、点と点をつなぐことは出来ない。その時点では、信じるしかない。信じることで全てのことは、間違いなく変わる。

【4】 アップルから追い出される
・人生の早い段階でやりたい事を見つけることができたのは幸運だった。
・実家のガレージでウォズとアップルを始める。10年後、社員は4千人になり、20億円企業になる。
・片腕として雇った優秀な人材とビジョンが合わず、また取締役会は彼を支持。30歳を前にして会社を追放される。
・大変落胆したが、やはりこれらの仕事が好きだと分かりピクサーを設立。世界で最も成功したアニメーションスタジオとなった。
・再びアップルに復帰することになるが、追放の経験がなければこれらの事は何1つ起こらなかった。今は最良の出来事だったと理解できる。
・成功者であることの重み、それがビギナーであることの軽さに代わり、人生の絶頂期に新たな1歩を踏み出すことができた。

【5】 死について 
・17歳の時「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」という言葉を聞いた。強烈な印象を与えるものだった。
・それから33年間、毎朝鏡を見てこう問い掛ける。「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定を私は本当にやりたいだろうか?」答えが“NO”の日が続くと、何かを変える必要があるなと悟る。
・死と隣り合わせにあることを忘れずに思うことが必要。何故なら、外部からの期待、己のプライド、屈辱や挫折に対する恐怖、こういったものは、死んだ瞬間きれいサッパリ消えていくものだと分かっていれば、自分が何か失ってしまうのでは、という思考の落とし穴は回避できる。これは私の知る限り最善の防御策。
・君たちはもう素っ裸。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。
              
【6】 ガンと診断される 
・今から1年ほど前(当時50歳)、治療不可能な癌と診断された。生きて3ヶ月から6ヶ月という見解だった。しかし手術で治せると分かり、現在も生きている。
・以前、死は概念だった。今は確信を持って、死にたい人などいないと言える。
・死は生が生んだ唯一無比の最高の発明品。古きものを一掃し、、新しきものに道筋を作っていく働きのあるもの。
・君たちの時間は限られている。他の誰かの人生を生きて無駄にする暇などない。自分の内なる声、心、直感は、君が本当になりたいことが何か、もうとっくに知っている。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。

【7】 STAY HUNGRY, STAY FOOLISH
・若い頃、”The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)”という出版物があり、同世代の間ではバイブルの一つになっていた。グーグルのペーパーバック版とも言うべきもの。
・その最終号にはこんな言葉が書かれていた。「Stay hungry, stayfoolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」。
・私は常に自分自身そうありたいと願い続けてきた。そして今、卒業して新たな人生に踏み出す君たちに、それを願って止まない。Stay hungry, stay foolish.
 Steven Paul Jobs

 CEO退任がニュースになったのが今年の8月25日でした。僅か1ヶ月程前です。56年の生涯全てを、革新、仕事に捧げたのです。

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