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信ずべき貴ぶべき、初詣‐2075‐

1月2日(火)の早朝。初詣に出かけました。

長男が帰省中です。

年末に体調を崩してしまい、残念ながら友人との予定は全てキャンセル。

ようやく熱も下がり、家族4人で出掛けることになりました。

娘のリクエストが景色の良い所で、探していると信貴山にある朝護孫子寺に行きつきました。

開運橋を渡っていると、朝日が昇ってきました。

眺めが良いだけに、本堂はかなり上に見えています。

朝護孫子寺は信貴山寺とも呼ばれ、一昨年の寅年は物凄い人出だったようです。

こちらは「世界一福寅」。

そう言えば一昨年、「おいでよハウス」のクライアントが、「信貴山の福寅をお迎えする」と言っておられました。

その時はこちらの存在を全く知らなかったのです。

朝護孫子寺(信貴山寺)のWebサイトにはこうありました。

今から1400余年の昔、聖徳太子がこの山で毘沙門天王をご感得され、大変にご利益をいただかれましたのが寅の年、寅の日、寅の刻であったといわれています。その故事から、信貴山の毘沙門さまに寅の縁日にお参りすると、聖徳太子にあやかって良いご利益を授かるとして昔から信仰を集めてきました。

それで、いたる所に寅が鎮座しているのです。

ポストまで虎柄。

本堂まで上がってきました。

娘の期待に十分応える景色で、ちょっと怖いくらいの高さ。

奈良盆地を雲海が覆い、神秘的な景色でした。

やはり古刹に絶景ありです。

三寅の福に与うることができるという「胎内くぐり」。

アトラクションと言っては失礼かもしれませんが、多くの人が参拝してくれるよう、努力していることも好感がもてます。

朝早かった分、屋台はまだ準備中で、そこは不満そうでしたが。

聖徳太子は、後に物部守屋に勝利したことから、自らが刻んだ毘沙門天を本尊とし、信貴山寺を創建しました。

「信ずべき貴ぶべき山(信貴山)」という意味が込められています。

長男が帰省したさいは、やはり将来の仕事の話になります。

就職活動は随分早くなっているようで、あと1年くらいで、大きな方針を決める必要があるようです。

信ずべき貴ぶべきものは……

人生の分岐点でもあるので、よくよく悩めば良いと思います。

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「白馬の山小屋<リノベーション>」掲載

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メディア掲載情報

太子が眠る王陵の谷‐1174‐ 

 久し振りに友人の墓参りに行って来ました。

 墓石を見ると亡くなったのは17年前。私の記憶は3年ずれていました。なかなか友達が出来ない訳です。

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 霊園は羽曳野の山手にありますが、園内には古墳があります。

 古代からこの地域は、墓地として最高の場所だったようです。

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 カーナビを見ると、少し南に推古天皇陵、小野妹子の墓がありました。

 推古天皇は、聖徳太子の母だったか。このあたりは太子町になるようです。

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 行ってみると、推古天皇陵は宮内庁管轄とありました。

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 小野妹子廟は科長神社の中に。

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 質素と言えばよいのか、巨大と言えば良いのか。

 木々と共に墓となるのが、日本の民族性でしょう。

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 近くに、竹内街道歴史資料館があると知り、寄ってみました。

 元、社会の教師だったという副館長が、このあたりの歴史をレクチャーしてくれました。これがなかなか面白かった。

 この時代の基礎知識としては、以下の3つ。

・603年 初の女性天皇、推古天皇は初の官位制を取り入れた。
・604年 甥の聖徳太子を摂政とし、初の憲法をつくった。
・607年、小野妹子が遣隋使として派遣された。

 更にその前後、また、国の起こりにまで話を広げてくれました。

・8世紀に編纂された古事記、日本書紀には、初代神武天皇(前660–前585)から9代までの記述があるが、10代崇神天皇(前97–前29)からは、史実の裏づけもある。

 知識として知っているつもりでしたが、皇室が2700年も紡がれていたことが、もうひとつ分って居なかったのです。

 聖徳太子が皇族であるということも。

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 近くの叡福寺に聖徳太子廟があると聞き、日が暮れる前にと寄ってきました。

 明治には石室にまで入れたらしく、富岡鉄斎のスケッチもあるそうです。

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 冠位十二制度は、確か色で区分けされていたはずです。

 紫が最上位だったでしょうか。菖蒲の姿がそのきっかけになったのかもしれません。

 推古天皇によって整備された大道(のちの竹内街道)が置かれました。

 遣隋使として知られる小野妹子はこの道を通って遠く大陸をめざし、また大陸からはるばるやって来た使者たちは逆にこの道を通って都のあった飛鳥へ向かったのでしょう。

 この頃、大和の飛鳥が“遠つ飛鳥”と呼ばれたのに対し、太子町周辺は“近つ飛鳥”と呼ばれ、町内には数多くの天皇・皇族クラスの古墳が築造されました。

 太子町一帯が「王陵の谷」と呼ばれる由縁です。

 大阪府南河内郡太子町のwebサイトより

 政治は斑鳩の里で行われたのですが、廟はここにと、生前から太子が決めていたそうです。

 何より、太子町の太子は聖徳太子を指すことがまったく分っていませんでしした。

 もう少し言えば、太子の墓があるが故、太子町なのです。改めてその偉大さを知りました。

 全てが事実かは別にしても、フェアを日本に持ち込んだ、推古天皇と聖徳太子。国際化の扉を開いた小野妹子。

 彼らが居なければ、また違った日本になっていたかもしれません。

 石器時代から、古墳時代まで、なぜこの地が日本の中心だったのか。この話がとても面白かったのですが、また回を改めます。