先月下旬に、小学校で学習発表会がありました。
2年に一度の開催だそうです。
長男は小学6年生なので今年で最後。合唱、合奏でした。
こんな時、一所懸命に歌えるのが彼の良いところでしょうか。
下の娘は小学3年で「大阪の宝物」という劇を演じました。
阪神タイガース、粉もん、通天閣、大阪のおばちゃん、大阪弁……
大阪の宝は何かを考察しながら劇は進行して行きます。最後は人だという結論で、とてもよくできた劇でした。
四季は日本の宝と書きました。果たして大阪の宝とは。
この季節は銀杏並木が美しい御堂筋。
幅44mの道路が、4kmにわたって2つの街を結んでいるのは、都市計画上も大変珍しいものです。
八百八橋で表される、水の都。車社会以前は、水運こそが流通の要でした。
土佐堀川は表川と呼ばれたそう。
60周年を迎える通天閣。
エッフェル塔周りの都市計画を参考にしているので、ここが大阪のシャンゼリゼ通り。
久し振りに日本橋を歩いてきたのですが、その変わりように驚きました。
中学生のころ、マクセルのUDⅡというカセットテープを少しでも安く買おうと、歩き回った電気屋街。
当時は閑散としていた裏通りでさえこの人出です。
北にあるグランド花月へ抜ける道具屋筋も賑わっていましたが、黒門市場はまるで東南アジアのマーケットのようでした。
「夫婦善哉」で知られる無頼派作家、織田作之助。通称織田作(おださく)。
彼がお金を無心してもらったという波屋書房は、なんば南海通りにあります。
彼の愛した洋食屋・重亭。
そして「夫婦善哉」に登場する、ライスカレーの自由軒。
織田作は大阪人をこう表現しました。
確かに大阪は伝統を守って来た都だ。今日を以って伝統を守るだけなら、骨董屋のおっさんにも出来よう。大阪人を大阪人たらしめるものは、大阪人が永遠の新人という一事だ。
更にこうも書いています。
大阪人に共通の特徴、大阪というところは猫も杓子もこういう風ですなという固着観念を、猫も杓子も持っていて、私はそんな定評を見聴きするたびに、ああ大阪は理解されていないと思うのは、実は大阪人というものは一定の紋切型よりも、むしろその型を破って横紙破りの、定跡外れの脱線ぶりを行う時にこそ真髄の尻尾を発揮するのであって、この尻尾をつかまえなくては大阪が判らぬと思うからである。
そしてその点が大阪の可能性である……
彼の大阪評は実に鋭いと思います。
例えば出勤する前、お向かいの奥さんと挨拶を交わします。
「おはようございます」だけでなく、何か一言加えてくれますし、私もそうします。
寒いね、晴れたね、お兄ちゃん頑張ってるね、娘さんは愛想がいいね等など。
娘の劇と同じ結論では芸がありませんが、こうして大阪に旅行者が訪れるようになったのは必然かもしれません。
悪い側の印象の多くは、やはり人の応対です。
旅行者の多くが訪れるところはチェーン店ではありません。人が求めるのはやはり人だという証明ではないかと思うのです。