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草葉の陰から‐2031‐

■■■プールのある「ささき整形外科 デイケアセンター」8月1日オープン ■■■

朝のジョギングコースに材木屋があります。

材木を保管するため天井は高く、かなり大きな建物です。

裏口を見ると、かなり年期が入っていることが分かります。

祖父が材木屋をしていたので、少しのぞいていると従業員に声を掛けられました。

事情を話すと、「中も撮ってくれていいですよ」と。

土間はたたきで、子供の頃によく行った、祖父の仕事場と似たつくりです。

従業員の方が「築70年以上は経ってるんじゃないかな」と。

「材木は本当は縦置きしないほうがいいんだけど、スペースの問題で仕方ないんですよ」とも言っていました。

自然光が材木を照らす風景と、木の良い匂いが、一気に記憶をフラッシュバックさせるのです。

父方の祖父は、岡山で材木屋を営んでいました。

最後に祖父の仕事場をのぞいたのは2005年の8月。

祖父は93歳まで生きましたが、その1年前に亡くなっています。

ちょうどデジカメに移行した頃で、フィルムの写真は見つけることができませんでした。


夏になると、仕事場にある井戸で自分が作ったスイカを冷やし、よく食べさせてくれたのです。

この時、祖母は89歳。長男との初対面でした。

祖母もこの4年後、2009年に93歳の生涯を終えたのです。

生命はつながっていることに重要な意味があるんだ。

両親から私へ、私から息子へと。

このつながっている全体をさして人生というんだ。

- ブルーザー・ブロディ- プロレスラー

私が大好きだった、プロレスラー「インテリジェンス・モンスター」ブルーザー・ブロディ-が残した言葉です。

間もなくお盆。

人手が足りないにもかかわらず、多くのオファーを頂き、本当に有難い限りです。

今年のお盆も、目一杯働くつもりで、墓参りは叶いそうにありません。

それでも、鬼籍に入った4人の祖父母は、草葉の陰から応援してくれるという確信があるのです。

先述した ブルーザー・ブロディ- は新聞記者出身で「インテリジェンス・モンスター」の名に恥じない論客でもありました。

それもあってか、プエルトリコのブッカーでもあったレスラーに、口論の末ナイフで刺され、非業の死を遂げるのです。

祖母と初対面時には0歳だった長男が、今年から大学生です。

働くということが、どういうものか、命ある限り行動で示したいと思うのです。


■■■4月6日 『かんさい情報ネットten.』 浅越ゴエさんのコーナー に出演

■ 『ESSE-online』にコラム連載

10月11日「テレワーク時代の間取り」
9月18日「冷蔵庫の位置」

■11月28日『homify』の特集記事に「回遊できる家<リノベーション>」掲載
■11月17日『homify』の特集記事に「下町のコンクリートCUBE」掲載

メディア掲載情報

およそ65年

 先週の木曜日、大正6年(1917年)生まれ、父方の祖母が亡くなりました。

 お通夜には間に合わず、週末の告別式からになりました。岡山県の児島まで、大阪から、車で2時間半です。

 祖母は愛媛県岩城島の出身で、この街に働きに出て来ました。そこで、5年前に亡くなった祖父を紹介され、結婚したのです。

 2人は戦争前に結婚。その頃、祖父は三井造船で船大工として働いており、戦争には行かずに済みました。次男だった父は戦時中の昭和20年に生まれたのです。

 終戦後はこの地で、材木屋を始めました。商売は上手く行ったようで、住居とがつながる店は今も残りますが、結構な大きさです。自分の趣味である、果樹園をするための裏山も持っていました。

 祖母は、3年前に足を骨折するまで、考えられないくらい元気でした。5年前、妻と墓参りに帰った時には、サンダル履きで、花と水を持ち、裏山への坂道では、妻の足元を心配してくれるほどでした。

 しかし、苦労も多かったと思います。商売が上手く行った祖父は、遊びのほうも派手だったようで、祖母は50歳の時に、ガンで胃を全摘出しています。

 60歳の頃には2、3ヶ月、大阪の私の家に滞在していた事もありました。この時代の女性は、耐えることが多かったのだと思います。

 5年前の祖父の出棺の時、祖母は小さなビンを3つ入れていました。後で聞くと、祖父の好きだった、日本酒、養命酒、はちみつでした。

 祖父の命日は5年前の10/28。祖母の命日は2日違いの10/30。共に93年の生涯を終えました。

 愛とは時間という言葉もあります。連れ添っておよそ65年。35歳で結婚した、私には体験できないであろう時間を共に過ごした事になります。

 仏教では、現世を終えるとみな仏です。仏となった2人は、2人の息子。4人の孫。7人のひ孫を、見守ってくれるでしょう。何の揉め事もない世界から。

7回忌

 先週の土曜日、久し振りに母の郷里に帰りました。祖父の7回忌だったのです。香川県満濃町は、瀬戸大橋を渡れば車で30分ほど。

 祖父母4人はみな本当に元気でした。6年前に初めて祖父を亡くします。87歳でした。

 祖父は、7人兄弟の次男に生まれます。比較的大きな農家でしたが、14、5歳の頃、弁護士を目指して東京へ。書生しながら勉強し、東京の大学に進みます。

 これからは何をするにも学が必要と考えていました。昭和5年頃の事、日本は戦争への道をひた走っていました。

 在学中に第二次世界大戦が勃発。中国大陸に出兵されますが、なんとか生還。戦後は通産省で働き、マッカーサー率いるGHQと、政府の橋渡しの仕事をしました。しかし過労もあり、結核を患います。療養の為、故郷に戻る事になったのが、昭和30年。祖父37歳、、長女の母が5歳、叔父3歳の事でした。

 結核の為、最終的に肺を一つ切除することになります。その前後10年間は、働く事が出来ませんでした。祖母は子供2人を育てるのに懸命に働らき、随分苦労をしたようです。

 やっと体調が戻りはじめた祖父は、電気屋を始めます。都会で使った便利な家電を、重労働に苦しむ農村の女性へと考えたのです。

 その理想を実現する為、起こした会社は”生活改善社”。金毘羅さんに通じる参道に今もあります。

 祖父の生い立ちについては、何となく知っていました。

 しかし、10年も働けなかった事、肺を失った理由が結核だった事、それによって、祖母、母、叔父は働きづめだった事は、初めて知りました。90歳になる亡き祖父の妹が、教えてくれたのです。

  祖父は今、讃岐富士を望む墓地に眠ります。孝行したい時に親はなし。祖父母も同じでしょう。十分孝行できたかと聞かれれば、やはり首をかしげざるえません。

 しかし祖父なら”そんな事を悔やむより、り、一生懸命働き、真面目に生きなさい”と声を掛けてくれると思います。

 そんなことを想う、秋晴れの7回忌でした。

続・およそ一世紀 

 亡き祖父は、結構おしゃれな人でした。

 口髭はいつも手いれしており、出かけるときはスーツに広ツバ帽を被っていました。メガネをかけており、少し汚れが見えたので洗ってあげようと思い、手にとってみると、あまり度がきつくありません。「これで、良く見えるの?」と聞くと、あまり変わらないと。よくよく聞いてみると、ダテ眼鏡もかけていました。

 毎年、年始に岡山にある祖父宅を訪れると、食べきれない程のご馳走を用意して待ってくれていました。なかでも、食後にストーブで焼きながら食べる「へき餅」という手作りのお餅が美味しかったことを良く覚えています。

 ついた餅に卵、砂糖、練乳などを混ぜて、一旦乾燥させます。味付け海苔くらいの大きさを、厚さ5ミリくらいに切り、ストーブの上で、焼いて食べるのです。やや甘めなので、少しこげ色がつき、プーと膨らみだしたら食べ頃です。時間がたちすぎて乾燥しすぎたものは、油で揚げても食べていました。

 裏山にある果樹園をこよなく愛した祖父は、そこからの眺めが大好きでした。果樹園へ向かう山道の中程に、先祖代々のお墓があります。

 自らが愛した、山と小さな港町を眺めながら、ゆっくりと過ごすことでしょう。

およそ一世紀

 一昨日、明治45年(1912年)生まれの祖父が、93年の生涯を閉じました。

 祖父は明治、大正、昭和、平成と生きた93年の間に、第一次、第二次世界大戦を体験し、戦後の激動期を生抜いてきました。

 材木の販売で身を起こし、働き通しだった祖父の晩年の楽しみは、家の裏山にある果樹園で、桃、柿、スイカなどの、手入れに出かけることで、入院する半年前まで元気に出かけていたようです。

 年に2回ほどの親戚の集まりでは、お酒を飲んではご機嫌なようすで頬を真っ赤にしていた姿を思い出します。お酒をこよなく愛した祖父の棺に、祖母が小さなビンを3つほど入れていました。

 日本酒、養命酒、はちみつ、だったそうです。天国でも、ご機嫌で晩酌していることでしょう。

 告別式の日、祖父の暮した瀬戸内海の港町は、雲ひとつ無い快晴でした。

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