週末は久し振りにしっかり降りました。
明日からは、ようやく梅雨らしい天気が続くようです。
降らなければ心配だし、降れば降ったで文句をいい。
人の都合を聞いてくれないのが自然ですが、水を治めたものが、この国を治めたといえるでしょう。
大和川は奈良盆地の水を集め、大阪平野に流れ込んできます。
元の川筋は、生駒山地を越えてすぐ北上していました。大雨の度に氾濫していたと想像できます。
それを現在のように付け替えるようとしたのが秀吉です。そして江戸幕府によって付け替え工事が行われました。
2000年前の大阪平野をみると、村落が、谷か河口の低湿地帯に発展したのがよく分かります。
それには理由があります。
司馬遼太郎が「この国のかたち」で、こう書いていました。
谷こそ日本人にとってめでたき土地で、丘(岡)などはネギか大根、せいぜい雑穀しか植えられない。
江戸期の岡場所(正規ではない遊郭)という場合の岡は、傍(はた)とか第二義的な場所と言う意味だった。
田は水を抜かなければならないので、緩やかな斜面に棚のように田を造成し、低地へと下っていきます。
しかし底の地は、しばしば洪水で家なども一緒に流されます。二律背反の緊張の上に成り立っていたのが、日本の村落だったのです。
山手に人が住みはじめたのは、幕末から明治にかけて西洋人が横浜、長崎、神戸あたりで異人館を営んだことが始まりです。
○○ヶ丘が、少し時代をさかのぼれば、ネギしか育たない、傍(はた)扱いだったのは面白いところです。
甲斐の国(山梨)を、空からみると、さまざまな峡(かい)が割れ込んでいて、細流が多く、山国とは思えない程多くの人口を養ってきたことが分かる。
はじめて空から見たとき、感動を覚えたと司馬遼太郎は書いていました。
知らなければ、心が動くことはなかったはずです。
「知」が考察を深め、真理を見抜く。こういった人を本当のプロフェッショナルというのでしょう。
学ぶが先か、知りたいが先か。
今は、「知りたいが先」とはっきり分かりますが、最も時間がある学生時代に、これがなかなか見つからないものです。
司馬遼太郎は37歳のデビューですし、「ゲームの達人」で知られるシドニィ・シェルダンが小説を書き始めたのは50歳から。
流石に50歳まで持ちこたえられるのか分かりませんが、好きに妥協だけはしてほしくないのです。