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じゃりン子チエのいる風景‐1387‐

 敷地調査へ行った帰り、板張りの長屋をみかけました。

 昭和40年代以前、街はある程度の統一感があったはずです。

 私はこれを「じゃりン子チエのいる風景」と言っていますが、家は概ね瓦、杉板、などで構成されていました。

 「じゃりン子チエ」の舞台は、昭和50年代の大阪の下街となっています。

 しかし漫画の中の風景は、おそらく作者の幼少期、昭和30年台前半から、40年代前半までの西成区の街並みでしょう。

 私は昭和45年生れですから、50年代の下街で育ちました。その風景とも少し違うのです。

 外壁がモルタルに変わった文化住宅は、昭和40年代中盤から50年代にかけてのものか。

 この時代以降、新建材の発達と流通の進歩により、建築に対しての選択肢が急速に増えていきます。

 素晴らしい点も多くありましたが、日本の街並みはカオスへと陥って行きました。

 カオスは混沌を意味しますが、日本の街並みを語るとき、必ずでてくるのがこのキーワードなのです。

 流通が発展していないということは、その場でつくるということです。

 左官職人の遊び心なのか。

 はっきり言えば、高級でなないが味わいがあるのです。

 今週から築80年の長屋のフルリノベーションが始まりました。

 昭和10年代の建物です。

 壁は土壁。

 中には竹の下地、竹小舞が入っていました。

 隣家との界壁の土壁は、それを残しながらの工事になります。

 屋根裏から出て来た電線。

 現在なら樹脂ですが、昭和10年代はニクロム線に布状のものを巻いて絶縁していたのでしょうか。

 板金もあちらこちらで使われ、そして錆びています。

 80年前の手跡がそこかしこに見てとれるのです。

 効率化をはかるなら、工場で作ったものを現場で組み立てる方が優れています。また安定感もあるのでしょう。

 これをプレファブリケーションといいますが、建築がまるでプラモデルのように作られることに、一抹の寂しさを覚えるのです。

 モダニズム建築の巨匠、前川國男はこう言いました。

 人間は所詮滅びるかもしれず、せめて抵抗しながら滅びようではないか。

 そして、そうならないようにしよう。

 時代の流れは、いかんともし難いものがあります。

 しかし、じゃりン子チエのいる風景、もしくは小京都などと呼ばれる景色をみると、ノスタルジーを覚える人が多くいるのもまた事実です。

 現場に組み立てロボットしかいない時代が来たら、私の役目などあろうはずがありません。

 そうならないよう、ただただ抵抗して生きるしかありません。

 そしてその役割を、僅かながらも担っていると思っているのです。

チエちゃんの住んだ街

 先週の新聞だったか「じゃりン子チエ」の母校が無くなるかも、という話題がありました。

 勿論モデルになった、です。

 大阪の下町にあるホルモン焼き屋を小学生が切り盛りするという人情漫画。

 アニメ版は時々観ていました。

 その程度ですが、テツ、小鉄、アントニオ、ヒラメちゃんなどスッと名前が出てくるものです。

 舞台は通天閣のすぐ近く。今でも新世界のシンボルです。

 近くを通ったので一枚撮ってみました。

 近くにはホルモン焼き屋まで。漫画の世界とは随分趣が違いますが。

 このあたりも、数少ない街の景色を持っている場所と言えます。作者のはるき悦巳氏は大阪市西成区出身で1947年(昭和22年)生まれ。

 記事には、自身が通っていた萩之茶屋小を想像させるのでモデルとみられる、となっていました。

 舞台は昭和50年代の設定となっていましたが、漫画の中の街の風景は、おそらく作者の幼少期、昭和30年台前半から、40年代前半までの記憶だと思います。

 私は昭和45年生まれですから、幼少期が昭和50年代の中盤。この頃の景色とそれまでの景色は大きく違いがあります。

 具体的に言えば、万博のあった昭和45年以降に建った家は、多くが木造モルタル塗りの家。それ以前は、板壁か、土壁に漆喰の家が主なのです。

 さほどの分岐点には見えませんが、この間に街の風景は大きく変わったはずです。小学校だった私も、自分の暮らす街より、漫画の中に出てくる街のほうに惹かれていた気がするのです。

 工場で出来た既製品と、職人が手仕事で作ったものとでは、絶対後者のほうが好きです。自然界に均質なものなど無いからです。

 手仕事で作ったものでも、工業製品からと、自然の素材からでは圧倒的に自然素材のほうに心は惹かれます。

 万博のあった昭和45年頃を境に流通が発達し、家の外壁なら土、漆喰、木から工業製品のモルタルやペンキが主役に変わって行ったのだと思います。

 それは、何の知識も持たない子供の目にも大きな違いだったのです。