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人間なんだからナ‐1180‐

 食、自然、ルアーフィッシングをこよなく愛した作家、開高健。

 1930年生まれで、1989年59歳で亡くなりました。今年で生誕85年。幼少期は大阪市東住吉区で過ごしています。

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 現在、西長堀の中央図書館で、生誕85年を記念して「オーパ!世界の旅人 開高健」展が開催されています。

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 「オーパ!」シリーズは、世界の巨大魚を釣り歩く旅行記です。

 雄大な風景を写す為にプロの写真家を、最高美味しく獲物を食する為に、プロの料理人を伴っての旅で、釣りファン以外にも人気のシリーズとなりました。

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 友人で辻調理師専門学校の創設者、辻静雄に料理人を求めたところ、選ばれたのが谷口博之教授。

 展示のほとんどは、「オーパ、オーパ!!」の取材に同行した、谷口教授の物です。

 アラスカで吊り上げたオヒョウの姿造りを、ドアに乗せて食している写真は圧巻です。

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 氏は、開口から釣りの指南も受けました。

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 多くの道具をプレゼントして貰ったそうです。

 開口がこよなく愛した、スウェーデンの釣具メーカー、アブ・ガルシア。

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 ルアーは、ラパラのスウィッシャーでしょうか。

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彼の釣り冒険記は、ブラジル、アラスカ、コスタリカ、カナダと各地にわたります。

 モンゴルで吊り上げた「淡水の女王」イトウの剥製もありました。

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 ヒットルアー、メップスのスピナーが口に付けられています。

 モンゴル釣行は、1986、87年とあったので、亡くなる3年前です。

 この回は、テレビ放送もありました。後にビデオが発売、すぐに購入しましたものです。

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 サントリーの宣伝に使われたこのカットは本当にかっこよかった。いつも憧れの人でした。

 自由な後半生を送る前、1958年、27歳の時に「裸の大様」で芥川賞をとっています。

 この時点では壽屋(現・サントリー)でコピーライターをしていたのです。

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  「人間」らしく
  やりたいナ

 トリスを飲んで
  「人間」らしく
  やりたいナ

 「人間」なんだからナ

 柳原良平の描く「アンクル・トリス」と共に、開口健のコピーは新聞広告飾ります。その広告活動が、1958年毎日産業デザイン賞を受賞。

 広告を、文化にまで高めたと評価されたのです。

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 「オーパ!」シリーズでは、谷口博之教授へ、旅ごとにエプロンへサインをしました。

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 心に通ずる道は 胃を通る

 1986年6月、下北山村大字上池原とありますが、私も愛する池原ダムです。

 「オーパ、オーパ!!」番外編でここを訪れたのです。

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 アメリカ等の、大物ブラックバスで有名な湖を釣り歩いたもの、釣りあげることが出来ず。

 50cmオーバーを求めて、国内の「聖地」にやってきました。その際に、カヌーで案内したのが、ロコアングラー浜松光さんです。

 この方は、1996年私が大物を釣り上げた時、釣り新聞、釣り雑誌に紹介してくれた人です。

1996_08basser3のコピー

 後で知ったのですが、私と開口を繋ぐ唯一の糸で、もっと話を聞いておけば良かったと、歯噛みしたのです。

 開口は、数こそかなり釣り上げましたが、20cmクラスの小物ばかり。落ち込んで帰って行きました。

 20cmクラスなら、うちの娘でも釣り上げます。

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 あの大きな体を丸め、しょぼりと帰る姿を想像すると、ちょっと笑っていまいます。

 幾ら文豪といえ、何でも上手くいく訳ではありません。

 人間なんだからナ。

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 しかしこんな笑顔の50代、そうはいません。

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 人前で、豪快に食うことをためらわない人もそういません。

 木のように立ったままで私は頭から腐っていく。部屋の壁が倒れかかってくるように感じられる瞬間がある。

 白い紙が鋼鉄の罠に思えてくる。空白と沈殿で指一本持あげることもできなくなる。指紋で意識が混濁し、萎えきってしまう。そんなときである。

 だからだ。おおいなる野外へ出ていくのは。

 -開高健- 『オーパ、オーパ!! 国境の南』より

 今回の展示で、中学まで住んでいたのが駒川1丁目と知りました。事務所から自転車で10分くらいの所です。

 早朝から釣りをして、早目の昼休憩。

 車のバックシートを倒し、蚊帳を吊るして昼寝。

 全ての喧騒を忘れて眠りに落ちる。これより、幸せな時間を私は知らない。

 だからだ。おおいなる野外へ出ていくのは。

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六畳一間、風呂無しアパートから始まった‐1178‐ 

 年末の新聞には、訃報の項があります。

 「国外」のところに、12月23日ジョー・コッカー(歌手)が70歳で亡くなったとありました。

 「愛と青春の旅立ち」の上映は1982年。リアルタイムの記憶はありませんが、主題歌「Up Where We Belong」は、年代を問わない名曲です。

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 エアギターよ永遠に……

 今年の4月末には作家、船戸与一が71歳で亡くなりました。

 1979年のデビュー作「非合法員」から「蛮賊ども」「山猫の夏」「猛き箱舟」、直木賞をとった2000年の「虹の谷の五月 」まで。

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 志水辰夫と共に、彼の冒険小説を何冊も読みました。日本では在りえないような話ばかりですが、兎に角ワクワクしたのです。

 青春期のやりきれなさ、無力感から、現実逃避させてくれたのかもしれません。

 安らかに眠れ、キングオブ非合法。(かっこよくない!)

 6月初め、中高の同級生が、父が69歳で亡くなったとFacebookにUPしていました。

 「○○家は、昭和45年、六畳一間の風呂無しアパートから、我が家は始まった。……」

 父への感謝のメッセージに、お世話になった同級生が多くのコメントを寄せていました。

 そうか、彼の家も風呂無しからスタートだったのか、と。

 我が家のスタートも、同じようなものです。仕事場にしていた土間があった分は広いのですが。

 その六畳一間に両親と私、そして仕事を手伝ってくれた父の従兄弟が暮らしていたそうです。

 現在なら、不法滞在者でも、もう少し良いところに住んでいるかもしれません。

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 母がこんな話をしていました。

 0歳児だった私を銭湯に連れて行った際、湯船の中でウンチをしてしまったそうです。プカプカと浮かぶウンチを急いでタオルで隠したと。

 1歳になる前、風呂有りの四軒長屋の一角に越しました。それで、風呂がなかった記憶はないのですが、それでも長屋。しかし、特に苦労をした記憶はありません。

 たったと40年と言うべきか、40年も昔と言うべきか。これらの景色が、大阪の下街に普通に存在したのです。

 Learn as if you will Live Forever,
 Live as if you will Die Tomorrow.

 永遠に生きるかのように学べ、
 明日死ぬかのように生きろ。

 糸井重里が「ほぼ日」に投稿された言葉として紹介していました。彼は、この相反する2つの言葉は、矛盾するようで矛盾していないのではないか、と書いていました。

 真理とはいつも相反するものを内包しているようです。光と影、男と女、そして生と死。

 人の死は、近しい人へ生の活力を与えるのも事実だと思うのです。

 この事務所も、今年20年目を迎えます。天王寺の4畳のワンルームマンションを借りてから19年が過ぎました。

 仮に70歳まで生きるなら25年。これまでの仕事人生より長い時間があります。それが長いのか、短いのか……

 勿論自分の行き方次第で、どちらにでも成り得るのですが。

ごて地蔵‐1177‐ 

 連日紙面をにぎわす「大阪駅前地下道」の立ち退き問題。

 村野藤吾デザインの換気塔を横目に、地上の工事は滞りなく進んでいるようです。

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 梅田換気塔は1963年の作品で、有機的なフォルムをステレスで表現しています。

 遊び心漂う作品ですが、同じく紙面を賑わしている新国立競技場とは一線を画します。

 この押さえのきいた表現は、日本人のみに分るものなのか。そのあたりはザハ・ハディドに聞いてみたいものです。

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 あたりから、東の路地に入ると「ごて地蔵通り」という看板が見えます。

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 突き当たりにあるのが「ごて地蔵」。

 昭和の初め頃、梅田界隈で悪病が流行した。不動時の住職が「この地に埋没放置されている地蔵尊がある奉祀せよ」とのこと。発掘し、誰かの庭に奉祀すると災いは収まった。

 しかし、ここは梅田の一等地。街の移り変わりも激しく、地蔵さんの場所が変わるたびに災いが起こった。

   最終的には曽根崎警察が預かることになったが、昭和48年の建替え工事の際、この地に祭られることになった。

 何か起こるたびに「お地蔵さんまたごててはる」からごて地蔵となったとか。

 今回の立ち退き問題は、阪神百貨店建替えにともない発生した話ですが、色々な立場、思惑が見えてきます。

 紙面からの情報によると、地下道拡幅は市の計画としてあったようです。それが、今回工事にともない、民のお金で実行するという機会がやってきました。

 家賃が安すぎる。適正な競争が行われていない。いや、市のほうにも誤解があったなど。二転三転、様々意見が聞こえてきます。

 スナックパークに続いて、愛用の立ち食い蕎麦まで無くなるのは寂しいですが、「ごねてる感」があるのは否めません。

 「ごねる」は御涅槃(ごねはん)から来たもので、本来は死ぬという意味だそう。

 思い通りにしろと文句をつけるが「ごてる」で、混同、誤用されていることが多いのです。(ここでも間違って使っているのですが)

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 先週末、子供と釣りに行く際、塾が遅いので、天王寺まで迎えに行きました。

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 塾終りでピックアップし、そのまま出発。私が子供の頃より、圧倒的に長い時間、勉強しています。

 それでも、成績を見て一喜一憂。ダラダラしていると文句の一つも言いたくなりますが、頭が下がる思いです。

 若い時の苦労は買ってでもしろと言うのに、大人になると、ちょっといい条件を取り上げられそうになると、ごねる。

 ずっとチャンスなどあり得ませんし、ピンチが無くて成長できる程、人は強くないと思うのです。

 ごてて、ごねると死に至る。

 そうならずに良かったですが、祠の一つくらいはあっても良いかもしれません。

生きる伝説‐1176‐ 

 昨日は、長男と一緒に奈良県の池原ダムへ。

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 大阪は良い天気だったそうですが、流石に日本一の降水量を誇る大台ケ原山系。

 予報は一日雨でした。

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 しかしこの季節の雨は、基本的によく釣れます。

 嬉しいとまでは言いませんが、嫌ではありません。

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 初心者でも釣りやすい仕掛けにはしていますが、長男も午前中5匹、昼から3匹。

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 全て自力で釣り上げました。

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 ダム湖がある下北山村はブラックバスを村の観光資源として輸入しており、公式webサイトにも紹介しています。

 そのサイトにあるトボトスロープという施設で、お金を払ってボートを降ろし、入漁料を払って釣りをします。

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 主要産業が林業しか思い浮かばないこの地域。

 自然を楽しみ、お礼としてのお金を払うことで、この環境が守られるなら、むしろ有り難い事だと思っているのです。

 バスフッシングの本場アメリカでは、ルアーで、誰が一番多くのバスを釣るかを競う競技が生れました。

 その試合をトーナメントと言うのですが、優勝すれば賞金が1億円という試合もあります。それらの試合に出る人たちをパスプロと呼ぶのです。

 日本にもトーナメント組織がいくつかあり、最もメジャーなのが、JB・NBC

 バスフィッシングに限れば、JBのTOP50というカテゴリーが、最高レベルの舞台です。

 簡単に言えば、連れた魚5匹の総重量を、3日間で競うというルールです。

 昨年の総合順位15位は山岡計文という選手。彼はこの下北山村の出身です。 

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 ボートを上げて貰い、船の片づけを始めると、山岡計文プロが(こういう呼び方をするのです)居ました。

 この日はガイドだったそうですが、今、日本で15番目にバスフィッシィングが上手い人と言えます。

 声を掛けると、とても礼儀正しく、気さくな人で、聡明な印象も受けました。34歳だそうです。 

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 彼はメーカーとタイアップして、ルアーをプロデュースしています。新発売したルアーを子供にプレゼントしてくれたのです。

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 バスフィッシングを始めて30数年。池原ダム、七色ダムに通うようになって20年以上。彼の名前はトッププロになる前から知っています。

 10年位前は、頻繁にこの湖に通っていたのですが、その頃は2月、3月から釣りに来ていました。

 他の施設でしたがボートを上げると、概ねがボーズの中(1匹も連れない事)、良いサイズを10本も上げた人が居ると聞きます。

 私は全く手も足も出なかった中、どんな釣り方なら、そこまでの魚が釣れるのか、と思ったものです。

 そんな事が何回かありました。その人が彼だったのです。

 トップカテゴリーへ行くまでは、下位の地域カテゴリーで勝ち抜いて行く必要があります。

 池原ダム、七色ダムで、彼は絶対王者という存在でした。自然環境が大きく影響するバスフィッシィングの中では稀有な存在と言えるのです。

 付いたニックネームが「リビングレジェンド(生きる伝説)」。あれよあれよと言う間に、TOP50にまで上り詰めて行ったのです。

 調べてみると2009年から参戦し、2012年の第1戦、早明浦ダムでは優勝していました。早明浦ダムも同じような山上湖で、条件が似ているのです。

山岡計文(やまおかかずふみ)

2015年 TOP50 年間成績 15位
2014年 TOP50第1戦 七色ダム 4位
2012年 TOP50 第1戦 早明浦ダム 優勝
2009年 TOP50 参戦

 釣りが上手く、かつ一般の人にも釣らせる技術を公開できる人が、トッププロへの階段を上がって行きます。

 この日の私も、山岡プロが世に広めた釣り方がメイン。彼がプロデュースしたルアーでも釣りました。

 「どんどん技術を公開していくと、メーカーの人も“影響力のあるプロ”と認めてくれ、プロデュースの話なんかもくるんです」と言っていました。

 私は謙虚でない人を信用しません。たとえ、現在結果を出していたとしても、傲慢ならそこで成長は止まると思うからです。

 事実、素晴らしいなと思う人は一様に穏やかで、皆「柔らかい」という印象を受けました。

 今後は一層彼を応援したいと思います。しかしリビングレジェエンドになんて呼ばれてみたいものです。

 船上の写真で、5匹を水槽に生かしていたのが見えたでしょうか。

 プロを目指すつもりはありませんが、トーナメントに出て、自分の技術を試してみたいという気持ちは、以前から持っています。

 しかし、仕事中に心を奪われるような趣味を持っているようでは成功しないとも教えて貰いました。

 勿論そこまでではないのですが、彼を見て、出てみたい気持ちが少しグラリと……
 

竹内街道から古都の秘密にせまる‐1175‐ 

 この日記も10年を越え、正確には分かりませんが、200~300名くらいの方に読んで貰っているようです。

 しかし、アクセスの少ない回には傾向があります。

 その一つが歴史の話。前回も普段から比べるとやや少な目でした。

 前回、聖徳太子廟のある街、太子町について書きました。今回も懲りずに、古都・奈良の秘密に迫ってみたいと思います。

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 太子町には多くの古墳が残りますが、少し視野を広げてみれば、竹内街道周辺に多くが集っています

 堺から明日香村に至る竹内街道は、日本初の官道と言われます。

 山川出版の日本史によると、3世紀から4世紀にかけて、瀬戸内海沿岸から畿内にかけて、古墳が発生しました。

 これは、弥生時代の共同墓地とは異なり、権力者が多数現れたことを示します。

 多くの古墳がある大和を中心とし、4世紀中頃、豪族達が連合して大和政権が起こったと考えられています。前回書きましたが、皇室の祖先にあたります。

 魏志倭人伝に邪馬台国の卑弥呼が登場するのは3世紀のことで、その後の時代の話です。

 大和政権は、権力争いが絶えないなか、中央集権化を進めて行きます。

 7世紀初め、混乱の中即位した女帝、推古天皇は甥の聖徳太子を摂政とし、律令国家を目指しました。

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 そんな時代、小野妹子を隋に遣わせます。

 この時代、文化の進んでいた大陸と船で繋がり、シルクロードの終着点となったのが大和の地でした。

 東京オリンピックに際、新幹線の完成を急いだように、隋からの国賓を迎える為、急ピッチで進められた国家プロジェクトがが、竹内街道だったのです。

 では、なぜ都がこれほどまでに、畿内に集中していたのか。その訳は、旧石器時代にまで遡ります。

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 竹内街道のすぐ北にある二上山で、サヌカイトという石がとれました。この、矢じりなどに適した石は、二上山産が広い意地域で見つかっています。

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 更に、古墳時代に移ると、石室などに使う、加工しやすい凝灰岩が必要になります。

 あの2こぶラクダのような形状は、富士山と同じように、噴火によって形成される形です。

 古代、二上山は火山だったので、灰が固まった凝灰岩を多く産出しました。よって、多くの石切り場跡も確認されているのです。 

 7世紀中頃、大化の改新のあと、都は難波の宮、現在の大阪城南に移されます。

 その後、主なところでは、近江宮(大津市)、藤原京(橿原市)、平城京(奈良市)、紫香楽宮(甲賀市)、難波京(大阪市)、長岡京(長岡京市)、平安京(京都市)と、天皇が変わるたびに、都は移ります。

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 緑のエリアが都の跡ですが、大阪の難波宮、奈良の平城京、明日香、橿原の藤原京と、これらを結ぶように、大道が発達していったのです。

 明治を迎えるまで、概ねは日本の都は奈良、京都、大阪、滋賀と、常に畿内にありました。広辞苑には、畿=帝都から500里(200km)四方とあります。

 サヌカイト、凝灰岩が、人をここに集め、後に都へと発展して行ったと考えると、辻褄があいます。

 では、なぜ大阪平野より、奈良盆地、京都盆地に都が多かったのか。当時の地形を想像すると分り易いかもしれません。

 水都大阪というサイトにありました。

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2015_0608古代大阪湾 - コピー

 古代からの大都市は、ローマ、長安、パリ、ロンドンなど、全て内陸の大河沿いにあります。

 水は人が生きる為に必須で、水運の重要さは、現代の比ではなかったはずです。

 しかし、大阪平野なら、繰り返し水害をもたらした大和川を、秀吉が付け替えたように、水害の被害も、現代の比でなかったと考えられます。

 堺は急深の良港だったのが、この付け替え工事により土砂が堆積。港としての価値を急速に失って行ったのは皮肉なところ。

 利休を自害に追い込んだのも秀吉で、堺と秀吉は相性が悪かったのでは、というのが歴史のサイドストーリーです。

 京都の鴨川も、暴れ川だったとの記述もあるように、枯れることのない水量と、氾濫の頻度のバランス、そして外敵からの防御。

 それらの総合点が最も良かったのが、奈良盆地だったのではと想像しています。

 奈良はリニアモーターカーの駅で京都と綱引きをしています。

 勿論、駅が出来るに越したことはありませんが、何千年も日本の中心だった理由を探求し、もっと伝えていけば、世界一の観光都市、京都を凌ぐ可能性も十分にあるのでは。

 奈良の秘密に迫る。いかがだったでしょうか。 

餅屋は餅屋‐1173‐

 九州が梅雨入りかと思っていたら、西日本も梅雨入り。今日は良い天気でしたが、明日からは雨のようです。

 4月末に撮影した「滋賀の家」の竣工写真が届きました。

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 元、山城だった大きな敷地に母屋を残し新居は建っています。

 母屋の縁側は南西を向いていました。

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 南西向きの開口は、これからの季節、西日が辛いのです。

 そこで、新居は真南に向き、かつ母屋と同じ角度の壁も作りました。

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 南西面には出来るだけ開口を設けず、設けた場合は窓位置を壁の中に沈めました。

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 夕景でみると、窓が奥まっているのが分りやすいのですが、ここにテレビが埋めこまれているのです。

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 そうすることで、ほぼ西からの直射は防ぐことができます。

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 エントランスを右に曲がるとLDK。

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 キッチンは真南に向きますが、リビングエリアはヘの字に曲がっています。

 この部分も、西日を遮ってくれるのです。

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 キッチンから南の庭を望みます。

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 見返すと、吹き抜けを介してつながる寝室の小窓が見えます。

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 吹抜けの上にはセカンドリビング。

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 北向きの開口は光の入りすぎがありません。

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 庭にはドッグランがあります。

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 同じく犬を飼う友人が集った際、自由に遊べる需要なスペースです。

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 犬好きにとって、外と中の区別はそれほど無いようですが。

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 庭に張り出したサンルームは、庭に開放しお茶をするエリアですが、奥には、ブラッシングスペースもあります。

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 1階にある仏間。床柱は、旧宅から転用しました。

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 寝室は中央にあるウォークインクローゼットを介してつながります。


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 2階の子供部屋は、淡いグレーの壁に、白っぽいフローリング。

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 こちらは濃いフローリングにブラックの壁。


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 撮影には、奥さん、お子さん、そして愛犬にも協力して貰いました。

 ご主人にも参加して貰ったカットもあったのですが、皆さんの顔がしっかり映りすぎてNG。

 これだけが少し残念でしたが、奥さんからメールが届きました。

昨日、竣工写真が届きました。とても良い写真で感激しております。
さすが、プロの写真家の撮ってくださった写真はちがいますね!
とてもいい記念にもなり喜んでおります。

お天気にも恵まれて夕景のショットもとても美しいですね。
また、ホームページのWORKS楽しみにしています。

 撮影当日も本当に良い天気に恵まれました。

 私もプロ仕様のカメラを持っていますが、はやりプロの仕事はプロの仕事です。

 高度情報化社会になり、知識や、経験が、尊重されない時代に見えます。しかし、本当に大切なことは教えられないと思っています。

 その一歩手前までは教えられても、最後の壁は、自分が失敗したり、成功したりしながら越えるものだと思います。

 これにはかなりの時間が掛り、仕事として経験する以外に方法がないのです。

 写真家の平井さんは、飄々とした人ですが、今回も結果を出してくれました。餅屋は餅屋です。

 餅屋がほぼない中、このことわざが死語にならないよう、全ての職業人は、プロの仕事をしなければなりません。

かっこいい大人‐1172‐

 昨日は、打合せの後グランフロントへ。

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 日本建築家協会の作品展があり、パネルを撤収しに行ったのです。

 夕日を背にするスカイビル。「世界を代表するトップ20の建物」に選ばれるだけはあります。

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 折角なので、家族も梅田に呼び、食事をすることにしました。

 先日見かけた「鼎泰豐(ディンタイフォン)」阪急うめだ本店

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 台湾料理の名店で「小籠包」(ショウロンポウ)が名物と聞きました。

 勿論、間違いの無い味でした。

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 しかし、子供が一番喜んだのはチャーハン。ご飯粒を飛ばしながら食べました。いつまでも、素直な人であって欲しいと思うのです。

 先週は、若者から2通メールを貰いました。

 1通目は、以前所属していた、建築家プロデュース会社のイベントに来られた、若い女性からです。

守谷 昌紀さま

 お久しぶりです!

 昨年の梅田での建築家展でお話を聞かせて頂きましたイラストレーターの、小笠原まりえと申します。

 実は嬉しいことがあり、ぜひご報告したくてメールさせて頂きます。鈴木成一さんという高名な装丁家の方のコンペに受かりました!

 700人中10人ほど受かるもので、発売前の小説を読み、それを元に作品を描いて、勝ち抜いた人が本の表紙の仕事を頂けるというものです。

 最近、課題作品が送られてきたのですが、秘文書扱いなので作者名はあげられないのですが守谷さんの好きな作家陣と同じくらい高名な方の作品でした。

 まだ何も始まっていませんが、ここまで来れたのは、あの時に守谷さんとお会いしてプロとしての考え方を聞かせて頂けたからだと思います。

 無名の新人の私に、守谷さんは快くご自身の経験や考え方を話して下さり、とても感動したのを覚えています。

 日本には木が多くて、ヨーロッパは石が多かったから自然とその国に合った街並みができたこと、一つの家を建てるのに、大きな視野で街並みとの調和まで考えておられること、

 ジャンルは違いますが、私もプロになるなら自分の事だけでなく大きな視野で考えられるようにならなくては、と思いました。

 私には、今は夢のまた夢ですが、家を建てる際には守谷さんに設計して頂くという夢がありますので、

 今回のコンペも是非勝ち抜いて実績を積めるよう頑張ります!

 それでは、また何かありましたら、報告させて下さい!

 小笠原まりえ
http://lily22.sakura.ne.jp/

 そして2通目です。

一級建築士事務所アトリエm
守谷昌紀様

 突然のメールで申し訳ありません。

 私は2008年2月まで修業生としてお世話になっていた○○○○です。

 多くの方が学びにこられるのでお忘れになってるかもしれませんが。

 いまでも「若者は」というブログは壁にあった時に見返しています。

 私は辞めてから今日までゲツモク日記を一度も欠かさずいつもご活躍を楽しみ、時には励まされながら拝見させていただいてます。

 勿論「ビフォーアフター」も拝見させていただきました。いつも勇気をいただいております。

「いつもお天道様が見てると思って仕事をしなさい。」

この言葉は今の私の仕事のスタイルになってます。

 この度メールさせていただいたのは独立する事になったのでそのご報告をどうしてもしたかったからです。

(一方的で申し訳ありません)

 私は現在静岡で一児の父として家庭をもっています。

 設計の仕事を頑張っています。日々悪戦苦闘の日々を送っています。

 実は守谷さんには後ろめたい気持ちが7年間ありました

 なので本当の事をお伝えしたくて・・・・

 退所した本当の理由は設計事務所で働くことに不安があり自信を失った事、親が私の安定を望んでいた事、つまりは怖くなったからという事です。

 その後ハウスメーカー、工務店で勤めましたがやはりもう一度ゼロからトライしてみたいという気持ちとタイミングがあって独立する決心をしました。

 決して今の会社に不満が多いわけではありません。安定もしてます。両親も安心してくれています。

 ただ、今の自分の仕事に対して、納得した事は一度もありません。

 あの頃事務所で見させていただいた景色は今でも鮮明に覚えています。自分の原点であると思っています。

 働く姿勢やひとりの人間として多くの事を学ばせていただき感謝しています。

 本当は直接ご挨拶したかったのですが。これを言わないと次にすすめないと思いメールさせていただきました。

 これまで何度かメールしようと思った事がありましたが嘘をついて辞めてしまった事に後ろめたい気持ちがありなかなかできませんでした。

 「人生とは何か。どう生きるべきかを知りました。傍観者ではだめだと。・・・もう人生からは逃げはしません」

 おカネもコネもありませんがこの言葉を胸に自分の納得できる仕事をしていきたいと思っています。

 本当に一方的なメールで申し訳ありませでした。

 また何かのご縁がある事を願って遠く静岡からご活躍を楽しみにしております。

 2人目の彼は、当時25歳くらいだったでしょうか。もう30歳を過ぎ、立派な大人になっていると思います。

 非常に優秀で、素直な若者だったので、彼が辞めた後、エールを送ったのです。

 人の最も影響を与えるのは、言葉ではなく、立ち振る舞いと言います。

 「お腹がとてもすいた」と言うより、ガツガツとご飯をかきこむほうが、伝わるのと同じです。

 先週は、世界最高峰に居る建築家の立ち振る舞いを、すぐそばで見ました。そのキャリアを知っていることを差し引いても、「本当にかっこいい」のです。

 友達に「いつもお天道様が見てると思って仕事をしなさい」と言えば、正気かと問われそうですが、仕事上なら言えます。

 かっこいい大人で居たい。かっこいいプロでありたい。見た目は今更変わりませんが、そう思います。

 最後に私の返信も載せておきます。

 メール有難う。そして、まずは独立おめでとう。

 多くの研修生を受け入れたけど、2、3日で辞めた学生は別にして、殆どの人は覚えています。

 特に、出来れば残って欲しいと思った修業生が、沢山居た訳ではないので、○○君のことは良く覚えているよ。

 東京で勝負したいと言っていたので、それ以上は言わなかったけれど。

 律儀にこうして連絡をくれて、○○君らしいなと思い出だしています。

 僕に悪いと思う必要は全くないし、そんな小さな事は微塵も気にせずに、全てのエネルギーを、仕事に注いで下さい。

 独立したら、世間の荒波を一番前で受けることになります。

先輩面して言うのは、スマートじゃないけど、びっくりするくらいに、厳しいはずです。

 そんなときは、ヘップバーンの台詞のとおり、絶対退かないと覚悟を決めて頑張って下さい。書きながら、自分の覚悟も再確認しています。

 人のことを、上から見れる余裕はないけれど、一緒に働いた時間が、人生を行動側に導いたなら、とても嬉しいです。

 お子さんが居るんやね。とてもいいお父さん像が目に浮かぶようだよ。

 当事務所も、今年で20年目に入ります。アドバイス出来ることも多少はあると思います。何かあれば遠慮なく連絡下さい。

 成功するのに必要なものは、やはり覚悟と情熱。それに比べれば、お金にコネも、おまけ程度だと思っています。

 素晴らしい船出になることを確信し、応援しています。

苦労は半分に、幸せは倍にする方法‐1170‐

 「茶摘」の歌にある「八十八夜」は立春から数えて88日目。

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 更に3週間が過ぎ、今日は百一日目です。

 「野にも山にも若葉が茂る」の通り、入梅までが緑の最も美しい時期。勿論、野外で遊ぶにも最高の季節です。

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 先日出掛けた際は、シカもみかけました。この湖には、ニホンカモシカが降りてくることもあるのです。

 魚、哺乳類が自分達の祖先と、再認識する機会がありました。

 NHKスペシャル「病の起源 鬱病 ~防衛本能がもたらす宿命~」を観ました。

 以前から気になっていたのですが、NHKオンデマンドで、過去の番組を購入して見れると知りました。
 
 番組内では「鬱」発症のメカニズムを、脳の起源から説明しています。

 5億2千年前、節足動物繁栄の頃、我々の遠い祖先「魚類」が誕生しました。

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 魚は節足動物と違い、脳をもちます。中でも「扁桃体」という部分が発達していきます。

 この扁桃体は天敵が近付くと、ストレスホルモンを分泌し、全身の筋肉を活性化させます。運動能力を高め、素早く敵から逃れる為です。

 敵が去ると、この分泌は収まるのですが、過度のストレスを与え続けると、ストレスホルモンが分泌され続けます。すると、脳が萎縮した状態になります。これが鬱状態です。

 実験により魚も鬱状態になることが分りました。

 魚類、爬虫類から更に進化したのが、2億2千年前に誕生した哺乳類です。哺乳類は、狩や、外敵から身を守る為に群れを作るようになります。しかし、その社会性を身につけた為、孤独に弱くなって行くのです。

 哺乳類、人類へと進歩する中で「孤独」「恐怖の記憶」「それらを語る言葉」とストレスを感じる要因は増えて行きます。

 文明によって貧富の格差なども生まれ、人間関係が一変したことも「鬱」の要因を増加させました。

 しかし、現在でも太古からの暮らしを受け継いでいる狩猟民族には「鬱」は無いと言います。

 獲物は分けあい、共に助け合うという生活をしている人々は、皆が平等で、ストレスが少なく「鬱」という症状がないそうなのです。

 この日記でも1000回目に書いたのですが、私は28歳から30歳まで、重い鬱病に悩まされていました。

 自分が何故そうなったのか、良く分かりました。

 20代の私にとって、多くのお金を預かり、大きな期待を負うこの仕事は、希望に満ちたものでしたが、反面、大きなプレッシャーもありまして。加えて、全てを独り占めしようと思っていたからです。

 喜びと、苦労のどちらもです。1人で仕事をしていたので、物理的に分かち合う相手は居なかったのですが。

「苦しみは、分かち合えば半分になる。 楽しみは、分かち合えば倍になる」 

 こう教えて貰いました。至言だと思います。

 不平不満の無い社会。これを実現するには、苦楽を分かち合うしか、方法はありません。苦しみだけ、喜びだけ、では駄目なのです。

 つい「自分が我慢すれば済むのなら」となってしまいがちです。特に日本人は。

 どうやら、そこに幸せはないようなのです。

完・友達の本質‐1169‐

 前回は、友達と家族の違いを書いてみました。

 ・友達は、別に帰る場所がある。

 ・家族ではないので責任は負わない。

 更に友達との距離感を考えていると、思いあたることがありました。

 私が一番の友達だと思っていたのは、実家の斜め向かいに住んでいた同級生です。

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 私が越してきた1歳頃から8歳まで。ほぼ毎日顔を会わせました。

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 1970年代前半の大阪平野区は、田畑や空き地が沢山ありました。

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 袋小路になった家の前が遊び場。学校から帰ると、いつも誰かが居たのです。

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 斜め前の彼は、いつも青っ洟を垂らし、無類の生き物好き。のんびりした男の子で、家族以上に自然でした。

 ザリガニの卵を孵化させる為、水槽にストローを突っ込み、交互にブクブクと息を吹き込んだのが一番の思い出です。

 しかし小学3年生の春、彼は羽曳野へ引越して行きました。

 彼の父親は経営者で、会社が大きく発展。閑静な住宅街の豪邸へ越して行ったのです。

 小学3年生が一人で行くには遠く、中学、高校と多感な時期で、会う機会は徐々に減って行きます。そして社会人に。

 彼の親から、突然死したと連絡があったのが30歳の時。朝起きたら冷たくなっていたそうです。

 苦しんだ様子もなかったのが、せめてもの救いと聞きましたが、会いに行っておけばと、本当に後悔したのです。

 父と母は岡山、香川の出身で、大阪には親類が居ません。

 コンビニなどない時代で、醤油、味噌が足りないと、近所へ借りに行ったもの。一人だけでは生きていけなかったかもと、母が言っていました。

 1970年代、大阪の下街は活気と人に満ちていました。裕福ではないけれど、近所は大家族のようで、毎日が本当に楽しかったのです。

 あれから約40年経ちますが、私にとっての友達像は、あの時代の彼だったのではと、思い当たったのです。

 いつも近く居り、日が暮れるまで遊び、全く気を遣わないのが友達なら、ある年齢から友達を持つことは不可能になります。

 黒いトラブルで芸能界を去ってしまった、島田紳助はこんな事を言っていました。

 「人と人の関係は、メリットが無ければ成立しない。それは広い意味なので、一緒に居ると楽しいでもいいんだ」

 関係と言う以上、双方向でなければ不自然です。そう考えると、与えたいばかりで、与えて貰いたがらないのが、私の欠点なのではと思い始めました。

 勿論与えるものも、足りていないのでしょうが。
 
 彼が居なくなってから、どこか友達というものに消極的だった気がします。ある日突然(小3にとって)、与えてくれる友達が居なくなったことに関係があるかもしれません。

 更に言えば、ある年齢からは、それらを、彼女に求めていたような気もするのです。

 私の思う友達の本質に、3つ目の項を付け加えてみました。

 ・双方向の関係である。

 書くと当たり前ですが、少し自分が分った気がします。

 来週は彼の14回忌。久し振りに墓参りに行こうと思うのです。
 

友達の本質‐1168‐

 先週、ニューヨークで働く友人が帰省していました。

 中学からの友人で、集って飲もうとなったのです。

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 2011年11月初めのニューヨーク行きの際、色々サポートしてくれたのが彼。

 最終日は、2人でフランク・ロイド・ライトの落水荘へも行きました。往復15時間のドライブも今は楽しき思い出。
 
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 ニューヨーカーの選んだ場所は、何故か阪急百貨店の屋上ビアガーデン。

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 しかもスタートは6:00pm。ビールは自動です。

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 日が高いうちからビールを飲むなどいつ以来か。これはなかなか気持ちがいいもの。

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 食べ物は屋台感覚で、軽くお祭り気分。2時間半4400円でした。

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 日が暮れても話は続き、二次会は9人に増えました。

 朝のミーティングで、スタッフのマルコがこんな事を言いました。

 「高校までの友達はいつも近くに居る。それ以降の友達はいつも一緒にはいない」

 これは単純に時間のことを指しています。

 正直、私は友達付きあいが得意ではありません。その深さが分からないのです。

 高校くらいまでは少し悩みましたが、今は仕事があるので大丈夫です。クライアントはいつも本気で、関わりの深さを調節する必要など不要だからです。

 マルコと話していると、実に多くの気付きがあります。彼が勉強熱心だからですが、イタリア人だというのもあるようです。

 人の本質は変わりませんが、日本人とはアプローチが違います。

 像を浮かび上がらせるには、様々なアングルのカメラがあった方が良いように、対象を明確にしてくれるのです。

 友達は互いに家庭があり、帰る場所がある。すぐに別れの時間がやってきます。また家族ではないので、責任を負う必要はありません。

 これは、友達の本質を指しているのではと思います。

 私は、家族と友達を混同していたのでは……

 更に長くなりそうなので、続きは回を改めて書こうと思います。