竹内街道から古都の秘密にせまる‐1175‐ 

 この日記も10年を越え、正確には分かりませんが、200~300名くらいの方に読んで貰っているようです。

 しかし、アクセスの少ない回には傾向があります。

 その一つが歴史の話。前回も普段から比べるとやや少な目でした。

 前回、聖徳太子廟のある街、太子町について書きました。今回も懲りずに、古都・奈良の秘密に迫ってみたいと思います。

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 太子町には多くの古墳が残りますが、少し視野を広げてみれば、竹内街道周辺に多くが集っています

 堺から明日香村に至る竹内街道は、日本初の官道と言われます。

 山川出版の日本史によると、3世紀から4世紀にかけて、瀬戸内海沿岸から畿内にかけて、古墳が発生しました。

 これは、弥生時代の共同墓地とは異なり、権力者が多数現れたことを示します。

 多くの古墳がある大和を中心とし、4世紀中頃、豪族達が連合して大和政権が起こったと考えられています。前回書きましたが、皇室の祖先にあたります。

 魏志倭人伝に邪馬台国の卑弥呼が登場するのは3世紀のことで、その後の時代の話です。

 大和政権は、権力争いが絶えないなか、中央集権化を進めて行きます。

 7世紀初め、混乱の中即位した女帝、推古天皇は甥の聖徳太子を摂政とし、律令国家を目指しました。

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 そんな時代、小野妹子を隋に遣わせます。

 この時代、文化の進んでいた大陸と船で繋がり、シルクロードの終着点となったのが大和の地でした。

 東京オリンピックに際、新幹線の完成を急いだように、隋からの国賓を迎える為、急ピッチで進められた国家プロジェクトがが、竹内街道だったのです。

 では、なぜ都がこれほどまでに、畿内に集中していたのか。その訳は、旧石器時代にまで遡ります。

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 竹内街道のすぐ北にある二上山で、サヌカイトという石がとれました。この、矢じりなどに適した石は、二上山産が広い意地域で見つかっています。

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 更に、古墳時代に移ると、石室などに使う、加工しやすい凝灰岩が必要になります。

 あの2こぶラクダのような形状は、富士山と同じように、噴火によって形成される形です。

 古代、二上山は火山だったので、灰が固まった凝灰岩を多く産出しました。よって、多くの石切り場跡も確認されているのです。 

 7世紀中頃、大化の改新のあと、都は難波の宮、現在の大阪城南に移されます。

 その後、主なところでは、近江宮(大津市)、藤原京(橿原市)、平城京(奈良市)、紫香楽宮(甲賀市)、難波京(大阪市)、長岡京(長岡京市)、平安京(京都市)と、天皇が変わるたびに、都は移ります。

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 緑のエリアが都の跡ですが、大阪の難波宮、奈良の平城京、明日香、橿原の藤原京と、これらを結ぶように、大道が発達していったのです。

 明治を迎えるまで、概ねは日本の都は奈良、京都、大阪、滋賀と、常に畿内にありました。広辞苑には、畿=帝都から500里(200km)四方とあります。

 サヌカイト、凝灰岩が、人をここに集め、後に都へと発展して行ったと考えると、辻褄があいます。

 では、なぜ大阪平野より、奈良盆地、京都盆地に都が多かったのか。当時の地形を想像すると分り易いかもしれません。

 水都大阪というサイトにありました。

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 古代からの大都市は、ローマ、長安、パリ、ロンドンなど、全て内陸の大河沿いにあります。

 水は人が生きる為に必須で、水運の重要さは、現代の比ではなかったはずです。

 しかし、大阪平野なら、繰り返し水害をもたらした大和川を、秀吉が付け替えたように、水害の被害も、現代の比でなかったと考えられます。

 堺は急深の良港だったのが、この付け替え工事により土砂が堆積。港としての価値を急速に失って行ったのは皮肉なところ。

 利休を自害に追い込んだのも秀吉で、堺と秀吉は相性が悪かったのでは、というのが歴史のサイドストーリーです。

 京都の鴨川も、暴れ川だったとの記述もあるように、枯れることのない水量と、氾濫の頻度のバランス、そして外敵からの防御。

 それらの総合点が最も良かったのが、奈良盆地だったのではと想像しています。

 奈良はリニアモーターカーの駅で京都と綱引きをしています。

 勿論、駅が出来るに越したことはありませんが、何千年も日本の中心だった理由を探求し、もっと伝えていけば、世界一の観光都市、京都を凌ぐ可能性も十分にあるのでは。

 奈良の秘密に迫る。いかがだったでしょうか。