雪国長野‐1119‐

 11月22日(土)の長野県北部地震では、白馬村、小谷村(おたりむら)、小川村で被害がでています。

 幸いにも、亡くなった人が居なかったのは何よりでした。

 メディアは、被害が大きい部分を報道します。間違ってはいませんが、被害が少ないところも当然あります。

 これが観光を生業としている方々にとって、災害以上の被害となりえる。出来るなら、どちらも報道して欲しいという意見を読みました。

 仕事は求めてくれる人が居てこそ。その人達が潮が引くように去っていったらと想像したら……ようや実感が湧いてくるのです。

 1998年、2つ目の仕事が「白馬の山小屋」でした。

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 白馬としていますが、実際の住所は小谷村。白馬乗鞍にあるので「白馬の山小屋」としました。

 クライントは大阪在住で、建物が大丈夫だったのか、まだ確認がとれていません。

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 計画の話を貰った時点で、すでに築30年くらいだったと思います。環境の過酷さから、外部は結構傷んでいました。

 周りの建物を見て回ると、このような形(マンサード型)が多く、積雪に強い形だと分かってきました。

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 早くに雪を落とし、かつ側圧にも強いこの形が、過酷な環境の中、致命的なダメージを受けていなかった最大の理由だと思います。

 しかし竣工から16年、コーキング切れからか、雨水が浸入したと思われる部分の、改修工事もありました。

 今思えば、夏場にしておいて良かったと思うのと、この地震が積雪の時期ではなくて良かったと思います。

 この山小屋に限らず、冬季の積雪加重を計算して建てられている分、総じて他の地域より建物は頑丈。

 それでも、屋根上に加重の有る状態は、建物にとってより厳しいものになるからです。

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 関西と東京、神奈川、千葉の関東圏で仕事をしてきましたが、中部、信越地方では長野だけ。

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 雪国で唯一の仕事で、色々な事を学びました。

 ライフラインが未だ断絶されている地域もあるとのこと。早い復旧で、この冬少しでも多くの人が訪れることを祈っています。それなら、まず自分が行かねば…… 

 応急危険度判定士としても登録しているので、建築士会から要請があればいつでも駆けつけるつもりです。

足りなければ学べ in ROKKO‐1118‐

 今月初めまで、小4の長男は放課後はこんな感じでした。

 (月)サッカー、(火)-塾、(水)休み、(木)塾、(金)水泳、(土)(日)サッカー、時々模試

 凄くサッカーが好きなら、何とか頑張れと言うのですが、そうでもなく。結局サッカーを辞めることになりました。

 水泳は頑張るようで、それならと賛成したのです。

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 それで、休日は出来るだけ体を動かすようにと六甲山へ。

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 フィールドアスレチックは、小1の娘がちょうど楽しい盛りでしょうか。

 長男にとってはやや物足りないかもしれません。二人とも、猿系の遊びが、何故か得意なのです。

 「途中で辞めることは最も駄目なこと」と言われ、私は育ってきました。大阪の下町ですから、正確に書くと「男は途中でケツを割るな」と。

 それもあり、区切り以外で何かを辞めた記憶はありません。また、小、中、高と、すべて皆勤賞でした。

 しかし中学の時、友人が学校を休んだので理由を聞くと「お父さんとスキーに行っていた」と。

 彼のお父さんは「学校を休まないことより、お父さんとスキーに行く方が大切だ」と言ったそうです。

 次の言葉を聞いた時、その話を思い出したのです。

 一貫性というのは、 想像力を欠いた人間の最後のよりどころである   Consistency is the last refuge of the unimaginative. 
 -オスカー・ワイルド-

 簡単に投げ出さないことはとても大切です。しかし、それが何故なのかを考えることも併せて大事なはず。

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 帰りには六甲枝垂れ、山頂展望台へ寄ってきました。入場料は大人200円。

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 この日は「ROKKOU MEETS ART」の最終日だったようです。

 周りのアートワークは準グランプリの作品でした。

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 また、この展望台自体も、2008年に日本建築家協会近畿支部と阪神総合レジャー株式会社が共催したコンペによって決定したものです。

 参加条件が、40歳以下の若手建築家であること。


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 ステンレスのフレームに取りついた、ヒノキに冬は氷が付き、まさに樹氷となります。

 設計者の三分一博志さんは1968年生まれ。40歳を前に見事に最優秀作品に選ばれ、この展望台が実現されたのです。

 このコンペの際、私も38歳でした。作品を出せる条件を満たしていましたが、実仕事で手一杯と参加しませんでした。正直、微妙な気持ちもあり、今日初めて見てきたのです。

 六甲山頂という環境があるとは言え、お金を払い、ここまで足を運ばせるものがあると言う事実。

 訪れた人は景色が見たいだけと言うかもしれませんが、アートワークと記念撮影する姿を見て、建築と芸術の可能性も新たに感じました。

 昨日は勤労感謝の日でした。

 好きな仕事を続けてこれたことにまず感謝し、素直な44歳でありたいと思います。

 いいものはいい、足りなければ学べ、ベストを尽くせ、柔軟でいろ。

 Improvement is my hobby.

 改善こそが私の趣味です。

最期のメッセージ‐1117‐

■■■11月23日(日) 3:30pm~6:00pm 堂島アバンザ2F
ジュンク堂<大阪本店>にて「無料相談会」に参加■■■

 秋口から、近くの電柱にヒヨドリがやってきます。

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 木の実を電柱に打ちつけ、殻を割り中身を食べているのです。食べ損ねたものがいくつか下に。近所の人に聞くとマキの実だそう。

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 早朝から「カン、カン」と高い音が響き、目覚まし代わり。子供達はカンカン鳥と呼んでいますが、いつまでこの実が採れるのか。

 一昨日、高倉健さん亡くなると、報道がありました。

 実際の命日は11月10日。近親者のみで葬儀はとり行われ、最期も自身の美学を貫きました。

 遺作となった「あなたへ」の公開が2012年の夏。その時のドキュメンタリー番組を見て、初めて特別な俳優だと理解しました。

 「映画俳優っていうのは良い仕事で、こういうのはいい人間だよって、ずっと教えて貰ったのかもしれない。

 こういう人生もあって、みなさんどうですかって。こういう生き方も悪くないんじゃないですかってちょっと見せたい」

 「俳優という仕事には、生き方がやっぱりでているよね。テクニックではないんでしょうね。

 柔軟体操なら、いいトレーナーにつけば体を壊さずに柔らかくなる。いい本を読めば知識はつく。

 しかし、最もでるのは普段の生き方。偉そうなことを言うようですけど」

 2013年の文化勲章受賞が決まった際は、このようなコメントを発表しました。

 「今後も、この国に生まれて良かったと思える人物像を演じられるよう、人生を愛する心、感動する心を養い続けたいと思います」

 スタッフのマルコはイタリア人で、時々こんな事を言います。

 「日本人はよく、良く頑張って、と言います。イタリアならボオナ・フォトゥナ。(=グッド・ラック)

 日本には頑張る文化がある事と、頑張れば何とかなる国だと良く分かります」

 経済がややダウンしたとは言え、頑張れば、私も何とかなると思っています。当たり前の日常が当たり前なのか。

 感じる、感動する心は自分で養うものだというのが、高倉健のラストメッセージなのかもしれません。

 自分の使命を見つけ、ひた向きに生きた映画俳優83歳。どこまでも格好良く、そして寂しく。

光と色と美と女性‐1116‐

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 昨日は朝から、滋賀県の石山寺へ行っていました。

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 webサイトには見ごろとありましたが、七分くらいでしょうか。しかし、朝一番は人も少なく、冷えた空気が気持ちよく。

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 日が上がると、色の鮮やかさも増して行きます。

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 最近興味がある「源氏物語」。紫式部はこの寺で構想を練りました。

 執筆を勧めたのが上東門院彰子、「新しい物語が読みたい」とねだったのが選子内親王。女性の、女性による、女性のための物語だったようです。

 女性活躍大臣がいる現代ですが、日本最古のベストセラー小説は女性によるものでした。

 昼からは、子供たちと待ち合わせて、海遊館へ。娘が秋の遠足を喘息で休み、その代替だそうです。

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 一時、不在と聞いたジンベイザメも健在でした。

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最後のクラゲコーナーまで約4時間。隅から隅まで見て周り、帰る頃には日没となっていました。

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 光には、波長の要素があります。

 波長が最も短いのが青。太陽光が大気圏に入り、チリなどで早々に拡散するので、空は青く見えます。

 反対に最も波長が長いのが赤。低い太陽高度で大気中を長く横切り、赤だけが地上にたどり着くので、夕焼けは赤く見えます。

 また、物のフォルムを判断するのも光の陰影です。

 帝の子でありながら、一般市民として生きる運命となった光源氏。光るような君だったことから、光源氏と呼ばれるようになりました。

 才気、容姿とも飛びぬけた自由人。美の化身に相応しい名前です。フィクションなので、女性の理想が結晶化したものと言うべきでしょうか。

 美と光はかなり近しい関係にあると言えそうです。

過去という事件‐1115‐

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 先週の日曜日、義父の里で子供が柿とりをしてきました。

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 柿は果物としては珍しく、日本の固有種です。

 イタリア語でも複数は「カキ」。ただ、1つなら「カク」と言うそう。

 庭のセンリョウも、赤い実をつけていました。よく見ると、セミの抜け殻が。

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 セミの鳴き声が聞こえなくなり3ヶ月。殻が音を立てるはずもありませんが、全く気がつきませんでした。

  空蝉の 身をかえてける 木のもとに

 なほひとがらの なつかしきかな

 (蝉が殻を脱ぐように、衣を脱ぎ捨て逃げ去ったあなた
  その人柄が懐かしい)

 過去に一度だけ関係を持った光源氏と地方役人の後妻だった空蝉。慎ましやかな空蝉に、光源氏は惹かれ、更に迫ります。

 しかし、その身分や立場ゆえ悩み、上着だけを残し、音も無く逃げたと言う場面です。

 「源氏物語」は紫式部が平安後期に書いた小説です。このような光景をみて着想を得たのでは……

 千年の時を遡り、紫式部と私はつながりました。勝手な想像ではありますが。

 火曜日には、明治時代だろうという住宅の調査へ行って来ました。その古びた瓦、土壁の中で、確かに人は暮らしていました。

 梯子のように急な階段。電気もなく、背割り排水による汲み取りのトイレで、人々は確かに暮らしていたのです。

 未来は現在の”影”でしかないが、過去は現在を知る宝庫でもある。

 私は人の過去にふれてみたくなる。

 はるかに刺激的で魅惑的である”過去”という事件。

 -山本隆司- エディター

 百年、千年の時を越えて人の過去に触れてみたくなる。そういう自分が確かに居ます。

思い、気付き、悩み、そして繋げる‐1114‐

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 昨日の日曜日、10:00amから「よーいドン!」という番組に、クライアントが出演されていました。

 整理収納アドバイザーとして出演された金城貞美さんは「光庭の家」のクライアントです。

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 このリノベーションの設計をさせて貰ったのは2006年。ご主人は私の中学・高校の同級生です。

 更にその5年ほど前、奥さんから「インテリア、建築の勉強をしているのですが、「生野の家」を見せて貰えないですか?」と連絡を貰いました。

 奥さんと書きましたが、その時は私とご主人が同級生とは、お互い分かっていませんでした。

 「生野の家」を見たあと、少し話をしたのですが、その頃からアクティブに自身の夢を語っておられたのです。

 番組内で金城貞美さんは「カリスマ的存在」と紹介されていました。テレビ出演も多数あり、確実にステップアップされています。

 「光庭の家」はMBSの『住人十色』『新しい住まいの設計』にも取り上げられ、非常に露出の多い作品です。

 この住宅は、条件が非常に厳しく、北以外の3方を高い建物に囲まれています。何とか内部に光を取り入れようと建物をくりぬき、1坪の中庭を設けました。
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 この苦肉の策が、ビフォーアフターで担当した、『住之江の元長屋』へと繋がって行きます。その伏線でもあったのです。

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 NHKで放送されている、アメリカのプレゼンテーション番組「TED」。先日は「良いアイデアはどこからくるのか」というプレゼンテーションがありました。

 プレゼンターのアメリカ人作家は「皆突然ひらめいたと言うが本当は違う。ダーウィンも進化論は突然ひらめいたと言っているが、何年も前にその考え方はメモに残されている」と。

 また、GPSは学生が無線で人工衛星と通信をしようとした、遊びから生れたものだという挿話もありました。

 混沌の中から、何かと何かが結びつきあって出来た新たなネットワーク。これこそが、新しいアイデアとと結論付けていました。

 「バカの壁」の著者、養老猛は、脳にいつもトゲが刺さった状態が大切と表現しています。

 建物の条件は1つ1つ全く違いますが、私の人生においては大きな連続ドラマでもあるのです。まず思い、気付き、悩み、そして繋げる。繋がるではなく、繋げる。

 クライアントの活躍を見て、より強く思う、月曜日の秋の夕方。 

航海にでる理由‐1113‐

 月曜日の文化の日は、夕方まで友人家族と遊びました。

 別れてから、TOTOシーウィンドウ淡路へ。

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 洲本から26号線を北上すると、志筑の手前で、一瞬だけ車からも見えます。

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 アプローチは山の裏側から。

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 およそ9m角の直方体が、崖の上から海へ向かって突き出しています。

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 低い天井のエントランスから中へ進むと、いきなり下へ向かって空間が開けて行くのです。

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 この建物は衛生機器のメーカーTOTOの研修センターとして設計されました。

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 しかし、現在は宿泊施設となり誰でも泊まることが出来ます。

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 一昨年にヴェネティアで見たプンタ・デラ・ドガーナを初め、各地で安藤建物を見て回りました。

 淡路島にも、淡路夢舞台、本福寺水御堂などの安藤建築があります。

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 その中でもこのロケーションは際立っています。

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 海側に回るとようやくその全景が分かってくるのです。

 90年代後半から2000年頃は、安藤が最も勢いのあった頃でしょう。この建物の竣工は1998年。

 その頃私は28歳で、長野県での山小屋の改修計画に取り組んでいました。規模こそ違え、希望に燃えていたのです。

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 必要なものを最小の手数で、仕上げるのが安藤の真骨頂。

 言ってみれば、日本料理で出される刺身のようなものです。そういった抑えの効いた美学が、海外でも高く評価されてきたのです。

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 どこに行っても、建物を見る楽しみがある幸せ。

 また、どこに行っても1つや2つはある安藤の凄さを感じながら、秋風吹く淡路島をあとにしました。

 未知の大海へ航海にでる時、海図やコンパスを頼りに進路を決めます。人生に例えるなら、教育だったり、先輩からのアドバイスにあたるでしょうか。

 しかし、航海にでる動機は、教えられたものではありません。夢や憧れがなければ、危険を冒してまで船を出す理由がないのです。

 正規の建築教育を受けずに、頂点まで上り詰めたのが安藤忠雄。言ってみれば落ちこぼれのヒーローです。常に憧れの存在でした。

 ふつふつとたぎるものを感じながら、また新たなプロジェクトに望みます。

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名人の心‐1112‐

 今日は友人家族と淡路島、洲本に来ています。


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 週中あたりまでは雨予報でしたが、何とか晴れてくれました。家族で会うのは約2年振りでしょうか。

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 昨晩は焼肉。何故か子供たちも大好き塩タンです。その後もホテルの部屋に戻り、遅くまで遊んでいました。

 何処に行くかも大事ですが、子供にとっては誰と行くかも同じくらい大事なのでしょう。

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 今日は、子供たちの行きたい所へ行くつもりなのでえ、昨日は自分の行きたいところへ。

 淡路島の南端の港町、福良へ直行しました。

 淡路人形座は遠藤秀平の設計で、2年程前に完成しました。

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 外壁は、凹凸をつけたエキスパンドメタルの上に、モルタルが塗られているだけ。

 メタルの通り、スチールなのですが、それが露出した部分は錆びていきます。

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 錆びるのを前提に、デザインされているのです。

 大阪城公園内の公衆トイレなども紹介したことがありますが、一貫した哲学が貫かれています。

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 人形浄瑠璃と聞くと、閑散とした場内をイメージしていましたが、8分方の入り。なかなか盛況なようです。

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 ここ、淡路の人形浄瑠璃は500年の歴史があり、大きさは1.5m程の大きなもので、3人で操ります。

 この日は、悪事を企む狐のお化けが、陰陽師に追われ討ち取られたのですが、その霊魂が夜な夜な現れ、様々な姿に変化して踊り狂うという話。

 7変化が最大の見せ場ですが、同時に演者の衣装も早変わりします。そのスピード約0.5秒。人形を操る技術はまさに名人技。

 想像はるかに超えるくらいに面白く、子供たちもかなり喜んでいました。

 館内に、頭の部分が飾られています。

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 生きているような、というのは常套句ですが、生きていないものにこそ、人の心は投影されるとも言えます。

 能の大成者、世阿弥は、女の舞は強い心で、鬼の舞は優しい心で舞えと言いました。

 喜び、悲しみ、怒りなど、一つの感情だけにフォーカスしすぎるなな、という意味だと思っています。

 感情という制御しにくいもの、コントロールできるようになった人を、名人と呼ぶのでしょう。