子を育て、孫を育て、ひ孫を育て‐1026‐

 1月5日の朝、祖母が亡くなったと母から聞きました。

 1923年、大正13年生まれ。90年の生涯でした。4人とも元気で長生きだった祖父母は、ついに居なくなりました。

 7日(火)の朝。家族で香川へ向かいました。

 晴れ渡る空に、生駒山から日が昇ろうとする瞬間。こんな時、一日一日がかけがえのないものだと、改めて認識します。

 まんのう町は香川県の南西部に位置します。

 こんぴらさんで知られる金刀比羅宮は、日本一の石段が有名です。像頭山の中腹から、船の神様が見下ろすこの地で、祖母は生まれました。

 地主の家系で、二男三女の末っ子。

 女学校を出て結婚するまで、百十四銀行に勤めていました。9歳年上の同郷の祖父と結婚。

 祖父は東京の大学を卒業し、戦後は通産省に勤めていました。

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 24歳で長女となる母を出産。3年後、叔父が生まれました。しかし祖父が肺結核を患い、昭和28年に郷里へ戻ります。

 結局祖父は肺を1つ切除することになります。

 家族4人が暮らす為、その分も祖母が働いたのです。母は寝ている姿を見たことがないと言う程、働き詰めの人生でした。

 葬儀場で「目に入れても痛くない、孫の世話をすることが、何より生きがいでした」と言うナレーションに、目頭が熱くなりました。

 初孫の私が生まれた時、祖母は47歳。本当に元気でした。子育てを終えた後は、5人の孫の世話。

 孫育てが終われば今度はひ孫。趣味などもなく、只々人の世話をするのが生きがいだったのです。

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 叔父によると、深夜2時には変わりなく、朝起こしに行くと冷たくなっていたそうです。眠るように、静かに息を引き取る。それは一つの理想です。

 誰もがそうありたいと思いますが、懸命に生きた人だけが許される最期だという気がします。

 手編みのチョッキ、卵入りの納豆、もち米から炊く赤飯。何故か、思い出すの日常の物ばかりです。大好きだったおばあちゃん、安らかに。

 「財を残して下、事業を残して中、人を残して上」とは元東京市長、後藤新平の言葉です。

  最上、と言って貰えるよう昌紀は懸命に働きます。