ひまは文化の第一歩‐1006‐

 昨晩は、遅くなったので東京泊。

 朝一番の新幹線で帰ってきました。

 昨晩、妻から「長男が骨折した」とメールが来ていました。聞くと、ウンテイの上から落ちたとのこと。

 休み時間、ウンテイや登り棒の上で、遊んでいると聞いていました。登り棒の高さを知っているので、あの高さから落ちたら大変だなと思っていました。

 子供に包丁の使い方を教える時、小さい時なら、小さな怪我で済みます。大きくなってから切った方が、傷は深くなるはず。出来れば怪我などして欲しくありませんが、早くに折れて良かったのかもしれせん。

 荷物を置きに一旦家へ戻ると、長男がいました。

 あまりにも痛いので、今日は学校を休んでいるとのこと。その割には読書三昧で、すでに4冊読んだそうです。

 週4回の水泳と、習字にサッカー。習い事だけでも、中々のスケジュールです。たまにはゆっくりするのも良いでしょう。

 「ひまは文化の第一歩」という話があります。

 生きる為、狩猟採集に追われた時代から、定住、農耕へと暮らしは変化して行きます。農具も鉄器へと進化し、労働以外の時間が生れました。ひまこそが、文化的な営みの第一歩と言う考え方です。よって、暇つぶしをするなどもっての他なのです。

 怪我をしてクラブの練習を休んだ時。台風で学校が休みになった時。何故あんなに得をした気分のなるのでしょう。

 しかし、それも目まぐるしい日常があってこそ。本当のぐうたらにならぬよう、やはり早く治して貰わねば。

手紙‐1005‐

 今日は朝から、梅田の阪急ビルオフィスタワーにいます。

 向かいに建つのは富国生命ビル。設計者はフランス人建築家のドミニク・ペローです。

 快晴の秋空に濃い色のガラスが映えています。

 北を見れば、HEPナビオの赤い観覧車。ほとんど乗客はいませんが、時々一人で乗っている人も。

 土曜日、事務所に戻ると手紙が届いていました。一昨年の夏休み、オープンデスクに来ていた女の子からでした。

 住宅会社に就職し、設計をしている。オープンデスクの後も、この日記を欠かさず読んでいる。1000回目の記事を読んで、いてもたってもいられず、手紙を送ったと。

 そして「私も-カミングアウト(宣言)-させて頂きます」とあり、これからの夢が描かれていました。

 勝利者の条件は、その場に居ること、そして行動に移せること。「タイミングが合えば」や「出来るようになってから」では、機会はめぐってこないからです。思い立ったら筆をとり、行動に移した彼女に見習うことが沢山ありそうです。

 切手の下には「わらびを持つ少女」とありました。それで、若草色の封筒を選んでくれたのでしょうか。

 実際の仕事が始まると、社会の理不尽さに悩まされることもしばしばと綴られています。それも含めて仕事。是非乗り越え、次のステージに進んで欲しいと思います。

 経験で言えば「皆通る道だから」と言われるのが一番嫌でした。

 しかし、結論で言うと、自分が特別な存在でないと心底分かった時に、それらは全て過ぎ行くと思うのです。

カゴ付き自転車買う‐1004‐

 自転車を買いました。

 実に18年振りのことで、ややワクワクしています。

 自転車は、まずは近所へ買い物に行く手段。事務所を平野に移してからは、通勤の手段にもなりました。

 正直、それ以上でも、それ以下でもありませんでした。しかし、若者の車離れが進む中、自転車にこだわる人は増えているようです。

 クライアントの中にも、自転車好きの人が多くいました。また、当事務所のスタッフも、なかなか格好いい自転車に乗っています。

 スタッフにの1人に、天王寺のムーブメントというショップを紹介してもらいました。

 そもそも、どんなメーカーがあるのかさえ知らないのでこんなリクエストをしました。「カゴがあっても成立する自転車」

 で、勧められたのがschwinn(シュウイン)というメーカーの1台。1895年にシカゴで設立されたメーカーです。

 真の自転車好きには、邪道なのかもしれません。しかし、コルビュジエは「住宅は住むための機械である」と言いました。カバンを持って通勤する以上、カゴは必須と考えてたのです。

 簡単にメンテナンスの方法も教えて貰いました。

 油をさすのに、いったん油をクリーナーでとるそうです。

 そこまでしなけらばならないとは。

 何度もパンクし、チェーンも外れ、父に直してもらいながら、乗って来た無印良品の自転車。天王寺で事務所を設立した際に買いました。18年の苦楽を共にしてきた戦友でもあります。

 3年ほど前、携帯電話を見ながら自転車に乗っていた女の子が、こちらに突っ込んで来ました。避けきれずに後輪に衝突。

 その後も、だましだまし乗って来たのですが、フレームがいがんでいるようで、これが致命傷になりました。ろくにメンテナンスもしない中、よくもってくれました。

 モンゴルでは馬は風の生まれ変わりとなっています。草原で馬を駆る姿、とまでは行きませんが、初乗りはかなり爽快でした。ギアの切り替えが出来る自転車は小学生の時以来か。

 無印の自転車は2万円くらいでした。それを考えれば、長い付き合いになりそうです。

これから雨の日は、カバーを掛けておきます。

ズルズルとうどん県‐1003‐

母の郷里、香川へ帰っていました。

生憎の雨でしたが、祖父の13回忌だったのです。

7回忌から、あっと言う間に6年が経ちました。

最近の自治体は、自らの売り出しに熱心です。しかし、うどん県は想像以上にうどん県。

法事の前、住職、来訪者にまずうどんを出すのです。

皆でズルズルとやって、初めて法事が始まります。全くお茶を出す感覚。

長い読経のあと、線路沿いの墓地まで歩きました。とても真面目な祖父で、87歳まで生きました。

時々うどんを打ってくれたものです。

今月初め、鞆の浦へ行きました。その際、デイサービスからお年寄りが「ふるさと」を合唱するのが聞こえてきました。

生まれも育ちも大阪の私にとって、故郷とは。毎夏休みを過ごした、香川と岡山でしょうか。

志を果たして帰らん。水は清き故郷。

間もなく90歳になる祖母も、ズルズルと。うどん県はうどん県なのです。

ブランドの魅魔力 ‐1002‐

 ブランド(brand)の語源は「焼印からきている」と、「試験によくでる英単語」にあったはずです。

 諸説あるようですが、やはり牛に焼印を押す(Burned)から派生したというのが、有力のよう。

 銀座でのプロジェクトは、かなり高額なものを売る店舗のデザインです。

 それで、いわゆる高級ブランド店を見て回る事になりました。

 リニューアルしたばかりの銀座松屋のルイ・ヴィトン。外装のデザインは青木淳、内装はピーター・マリノ。

 中央通りを隔て、向いにあるのがカルティエとシャネル。

 カルティエは外観がシルヴァン・デュビュイッソン、内装が ブルーノ・モワナー。

 シャネルは再びピーター・マリノの設計でした。
 

 晴海通りのディオールは外装が乾久美子で、内装はまたまたピーター・マリノ。ピーター・マリノの独壇場です。

 空間興味で入る事はあっても、あまりこのような店には入りません。どちらかと言えば、建築家・石井和紘が言った「モノを持たずに空間を持て」という言葉に惹かれるからです。

 しかし、じっくり見るからには、それでは辻褄が合いません。

 で、「結婚10年目のプレゼントを探す」という、仮のテーマを設定しました。すると会話も至ってスムーズ。

 銀座界隈のショップを6件回ったのですが、4時間掛かりました。
 

 中でも、応対が丁寧だったのがブルガリ。

 ルイ・ヴィトンの北隣にあり、店舗デザインは本国からの指示通りとのこと。しかし、出てきた飲み物にもストーリーがあり、ブランドの生い立ち、強味、ポリシー等、熱心に語ってくれます。

 夫妻で時計にされてはと、まず紳士物の時計を出してくれました。260万円を手首に巻いたとき、かなり心を揺さぶられるものもあり……

 まじまじとダイヤのネックレスを見ると、やはり非常に美しいものだな、とも。その晩は東京泊。安い夕食を食べながら「あのくらいのバックならありえるのかもな」と少し思う私。

 大阪に戻り、そんな話を妻にすると「本当に買ってくれてもいいよ」と。

 完全冷やかしでは店員さんも気合が入らないと思い、仮のテーマを設定しました。しかし、丁度この秋で10年目でした。

 その位かもな、とは思っていたのですが、あながち冷やかしでは無かったのかもしれません。

 美しさの本質を見抜く、審美眼を持っていたいと思います。しかしブランドは、ある一定ライン以上を担保するものでもあります。

 この歳にして、もしかするとブランドの魅魔力を知ったのか……

走る、走る、俺たち、私たち ‐1001‐

 今日は体育の日。快晴が続いています。

 先週、今週と続けて運動会でした。

 先にあったのが長男の小学校。やはり運動会と言えば徒競走です。私の場合は3勝3敗くらいだったでしょうか。

 小学校は、遅い順に並び競うよう。最後から2組目のスタートは遅くはない証し。

 ギリギリではありますが、何とか1番になってくれました。だんだん生意気な口も聞くようになってきましたが、一生懸命はだれでもが素晴らしいものです。

 そして昨日は保育園の運動会。娘は年長組になり、保育園最後の運動会です。

 パレードという演技も、なかなか切れのある動きでした。2月生まれということもあり、身長は前から3番目です。

 しかし、意外にリーダータイプなのだそうです。

 そして運動会の最後は、クラス対抗リレー。

 娘は「初めは6番目に走って、最後にもう一回、たすきを掛けて走る」と言っていました。

 本番が始まるまで、アンカーと言うことが、もう一つ私達が分かっていなかったのです。

 1回目に走ったときは、バトンを落としてしまいました。しかし、拾ってからが早かった。

 短いスライドですが、その回転の速いこと。途中で靴が脱げ、それが中高く跳ね上げられました。そんなことは全くお構いなし。

 最下位から1人をぬきさりました。娘がこれほど速いとはつゆ知らず。ようやく、アンカーレベルだと確信したのです。

 最後に28番のゼッケンに付け替えているのが見えました。わずかにリードした一番の状態でバトンを受けます。

 運動場はこの日最大の声援に。

 「こけるな~!ぶっちぎれ~!はよいけ~いかんかい!」

 そこは大阪の下街。心温まる声援が飛び交います。その中を、小さいながら躍動感十分の走りで、1番でテープを切ったのです。

 2年間受け持ってくれた先生も、万歳!です。

 たかが地域の保育園の運動会。とは言え、誇らしい気持ちになります。また、自慢の一つもしたくなります。

 しかし本人は、いつも通り走っただけで、特別努力をした感もなく。

 「はやくご褒美袋の中を見たい」に興味は移っていました。

 大げさですが、娘を見て結果を出すアスリートのメンタリティーを見る思いがしました。

振り向くな、振り向くな、後ろには夢がない ‐寺山 修司‐

 もう終わったこと。次の目標へシフトしなければなりません。しかい、もう1回くらいは、家族でビデオを見ようかと。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
3月19日(火)■大阪の住まい力アップ:第1回 リフォーム・リノベーションコンクール ■で「住之江の元長屋」が戸建部門、最優秀賞を受賞しました

【News】
■1月6日(日)放送<「匠」が選ぶビフォーアフター大賞2012>
「住之江の元長屋」が空間アイデア部門2位に選ばれました
4月9日(火)リフォーム産業新聞「住之江の元長屋」掲載

メディア掲載情報

一級建築士事務所 アトリエ m
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

カミングアウト ‐1000‐

事務所にチルドの宅急便が届きました。

送り状を見ても、何が入っているのか想像できず……

お祝いでした。

この日記も今日で1000回目。

読んでくれる人が居たので、続けることが出来ました。

心から感謝しています。

日記の生い立ちについては、前々回書きました。

今日は、普段書かない事をカミングアウトしてみます。

この夏、長男がこんな質問をしました。

「お父さん、今までで一番大きな病気は何?」

「ん~、やっぱり心の病気かな」

’99年の2月頃から’02年3月までの約3年、酷い鬱に苦しんでいました。28歳から31歳にかけてのことです。

大学を出て設計事務所に勤めました。2年目の冬、幸いにも仕事の依頼を貰います。それを機に独立することにしました。’96年の6月にアトリエmを設立。25歳のことです。

色々な意見もありましたが、すぐに天王寺駅の近くに、ワンルームマンションを借りました。4畳1間で家賃4万5千円でした。

キャリア不足、実力不足は、自分が一番分っているので、懸命に働きました。毎朝、駅から始発のアナウンスが聞こえてきます。「もうこんな時間か、早く寝ないと」という毎日だったのです。

しかし、長く働く事を言い訳にしても、良い結果は生まれません。今は分るのですが、その頃はそれだけがクライアントへの誠意だと思っていたのです。

何とか1件目の仕事を終え、その後も知人から2つ仕事を貰いました。初めての事ばかりでしたが、何とかそれらも完成。

「羽衣の家」 「白馬の山小屋」 「SPOON CAFE」が出来上がったのです。更に続けて、仕事のオファーを貰いました。とても順調だと感じていました。

しかし、28歳の2月頃から、寝つきが悪くなってきます。動悸が収まらず、集中力を欠き……働くことが、ただ苦しい、辛いとしか思えないようになって行きます。

最終的には、息をするのが辛いと思うようにさえなりました。

事務所はマンションの5階にあったのですが、ここから飛び降りれば楽になるんだろうな。死んでしまえば……と考えるようになっていったのです。

心療内科というものがあると知り、診察を受けると「自立神経失調症」という診断でした。いわゆる「鬱」です。それから、切れの悪い頭で、何とか治す方法はないかと模索したのです。

本の中に「自殺者の7割は鬱患者」という言葉をみては更に悲観。あのうっそうとした「鬱」という文字を見るだけで滅入ってしまうのです。そんな状態となり、当時付き合っていた彼女は去って行きました。

それでも迷惑を掛ける訳にはいかないと思い、引き受けていた仕事は完成させ、一旦事務所を閉めようと決めたのです。2001年の5月。30歳の時でした。この頃、知人を介し紹介されたのが、今の妻です。

事務所を閉め、急にやることが無くなったのですが、精神的には全く安定しません。

結婚前でしたが、妻が住むマンションへ行き、日がな本を読んだり、ゲームをしたり。昼間は近所の河川敷を走ったり。気ままに過ごしていたのですが、症状のほうはやはり変わらず。

事務所を閉める理由として、海外を見て回りたいと言っていました。鬱のときは決断力が乏しく、なかなか計画も進まないのです。

それでも、休業してから8ヶ月、ようやく旅にでました。2001年の12月、まずはバックパッカーの聖地、バンコクのカオサンストリートへ。

寒い日本から、腐臭ただよう蒸し暑いタイ。

30歳にして、初めて宿も、帰りのチケットもない旅に。街に着いた途端、何とか私から小銭をふんだくろうとするバンコクの人々。これは大変だなと、気を引き締めたのです。

それから3ヶ月。新しい街に着いては宿を探し、食料を確保。東南アジアをあてもなく彷徨いました。

それぞれの街で、決して裕福ではないけれど、人は逞しく生きています。

貧乏旅行とは言え、男性の日本人旅行者は、世界最高のカモです。こちらから話しかけずとも、あの手この手で、コミュニケーションをとってきます。それが面倒でもあり、楽しみでもあり。

旅の途中から、鬱のこと等すっかり忘れていました。

ホーチミンはフランス統治の影響か、安宿もなかなか良いのです。フォーで知られるように食べものも美味しく、屋上にはハンモックまでありました。

それに揺られ、旧正月を祝う花火をみていました。そして「日本に帰ろう。やっぱり建築設計しかない」と思ったのです。

日本に戻り、2002年の4月から仕事を再開しました。

年間3万人近くの自殺者がでてしまう日本。日に100人近くの人が、自ら命を絶つのです。私はその一線を越えていないので、自分が死の淵を見たのかは分かりません。

しかし、どうしようもなく死にたいと思った事があるのは事実です。もし身近に、そんな人がいたら、こう伝えたいと思います。

「あなたは本当に良く頑張った。何もかも投げ出して、一度自分を開放してあげたら。

一度や二度、何かを投げ出したからと言って、神様があなたを叱責するようなことはない。今まで十分に頑張って来たんだから。

仮に誰かがあなたを叱責しても良いじゃない。あなたの事を分ってくれる人は必ず居るから」

私は精神科医でも、セラピストでもありません。しかし、自らを追い込んでしまう人の気持ちは分るつもりです。

同じような悩みを抱えている人の、少しでも役に立てればとずっと思ってきました。何か行動を起こしている訳ではありませんが、そんな意思表示をしたいと思っていたのです。

そんな3年間を、自分なりに結論付けるなら、考え方の限界だったと思っています。当たり前ですが、嘆いても、落ち込んでも、前には進みません。どれ程消したい過去があっても、それも叶いません。全てを受入れ、今を精一杯生きるしかないのです。

人生、仕事は何にも替え難い経験です。全てをかけるに値します。しかし、命だけは別。人は生きる為に生きるのです。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
3月19日(火)■大阪の住まい力アップ:第1回 リフォーム・リノベーションコンクール ■で「住之江の元長屋」が戸建部門、最優秀賞を受賞しました

【News】
■1月6日(日)放送<「匠」が選ぶビフォーアフター大賞2012>
「住之江の元長屋」が空間アイデア部門2位に選ばれました
4月9日(火)リフォーム産業新聞「住之江の元長屋」掲載

メディア掲載情報

一級建築士事務所 アトリエ m
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

潮待ちの街 ‐999‐

 10月4日(金)は、広島県の鞆の浦(とものうら)へ。

 瀬戸内海中央に位置し、潮の干満の分岐線にあたるそうです。

 よって、この港で「潮待ち」し、潮に乗って航海していました。街が繁栄して行ったのは、自然条件によるものとは面白いものです。

 また、2005年に宮崎駿が滞在し、「崖の上のポニョ」の構想を練った場所としても知られます。

 主人公宅のモチーフになったのが、写真中央の家。防波堤付け根にある、小高い丘の上にあります。

 非常に眺めが良い場所にあるのです。その光景が、テレビでも映っていましたが、一度そんな所で構想を練ってみたいものです。

 坂本龍馬が滞在した場所としても知られます。

 海援隊の「いろは丸」と紀州藩の「明光丸」が岡山沖で衝突しました。龍馬が紀州藩と直談判をしたのがここ。

  現在は御舟宿「いろは」として営業しています。

その間、龍馬が滞在していた家も残っています。幕府からも狙われていた為、屋根裏のような空間でした。

3時間程の散策を楽しみ、昼過ぎに福山へ戻ったのです。

 そもそもの目的は講演でした。

 アストモスガス株式会社は、エネルギーメーカーとして、エネオスより大きな会社だそうです。その関連会社、中国アストモスガスが、建築会社向けにオープンセミナーを開催する事になりました。

 その講師としてオファーを貰ったのです。広島市、岩国市と、講演は何故か中国地方づいています。

blog_import_5417c0f059a06

 約60名程の参加。持ち時間の1時間半を熱心に聞いて貰いました。

 初めは音声が出ず、少しバタバタしましたが、それも復旧。無事講演を終えました。

 初めて講師をしたのが2011年。その時なら、半泣きだったかもしれません。

 夕方福山駅まで送って貰うと、見事な夕焼けでした。福山城は駅のすぐ北にあるのです。

 「経験がものを言う」という言葉があります。しかし、いくら経験を積んでも、それだけでは同じ場面にしか応対出来ません。

 経験を通し、その原理原則を知る事が本来の目的なのでしょう。講演は時間が決まっています。時間が来ても機械が不調なら、フリーで話をするしかありません。

 私のフリートークを1時間半聞きたい人が居るかは別ですが、報酬を貰い、話をするという事は、そういう事だと思うようになりました。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
3月19日(火)■大阪の住まい力アップ:第1回 リフォーム・リノベーションコンクール ■で「住之江の元長屋」が戸建部門、最優秀賞を受賞しました

【News】
■1月6日(日)放送<「匠」が選ぶビフォーアフター大賞2012>
「住之江の元長屋」が空間アイデア部門2位に選ばれました
4月9日(火)リフォーム産業新聞「住之江の元長屋」掲載

メディア掲載情報

一級建築士事務所 アトリエ m
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

ほぼでは駄目だ ‐998‐

 少し前から、タイトルの後ろに通し番号を入れています。

 今回が‐998‐ なので、あと2回で1000回。節目なので、何を書こうか少し前から考えています。

 2004年の3月から、この日記を書き始めました。その年の9月、webサイトリニューアルを機に、「ほぼゲツモク日記」としてリンクを貼りました。

 糸井重里の「ほぼ日」を知り、軽い気持ちで名前をつけたのです。

 しかし、縁もゆかりもない人に読んで貰おうと思うなら「ほぼ」では駄目だと思うようになってきました。約束のつもりで2005年の12月「ゲツモク日記」に改めたのです。

 以来、月木の更新を欠かさないようになりました。

 先月は、電車の移動が多い月でした。

 彼岸花も車窓から。

 水も澄みだす和歌山の海。

 そして雲を見下す富士。

 キャリアの出だしに「白馬の山小屋」という、長野県での改修の仕事を貰いました。

 設計料もかなり安かったので、現場へは夜行列車で通いました。

 しかし、仕事で様々な地域へ行ける魅力を、その時感じていたのだと思います。

 最近は、年に1件程度ですが、関東圏の仕事も増えて来ました。10年前、色々な地域で仕事がしたいと思っていた事が、少しずつではありますが、実現してきました。

 今度は海外で仕事がしてみたいと思うのです。

 現在計画中の滋賀の家。

 現場に行った際、自家製のゴーヤを頂きました。

 目標を達成したいなら、現在のクライアントに喜んで貰える仕事を、積み重ねる他ありません。

 現在と未来が、一直線に繋がれていない限り、達成できるはずがないのです。

 スタッフに自分に、夢を語ります。「ほぼ」では駄目だと。