絵日記は続く

 8月もあと一日。子供達の夏休みも終ります。

 9月1日が土曜日なので、3日(月)から登校するのかと思っていたら、8月31日(金)から始まるそうです。

 掃除や準備だそうですが、正直、なんと無粋な、と思います。その一日にどれ程の価値があるんだろうと。最終日に、行く夏を惜しむんじゃないか、と言いたくなるのです。

 日曜日の宿題についても、全く同じ。日曜日は丸一日掛けて使うものです。この辺りはいつも納得できていません。まあ、共感が得れるかはさておいて、夏休みの宿題についての思い出を。

 小学1年、2年の担任は、当時30代後半の女性、N先生でした。

 N先生は非常に厳しい先生で、叱る時は相手が子供であっても、真正面から目を見開いて、烈火のごとく叱ります。6、7歳の私にとっては、非常に怖い先生でした。

 結局、小学6年生も担任して貰ったのですが、読書感想文などは、生徒の書いたものをしっかり読み、細やかにその感想を書いてくれていました。私は、赤いペンで書かれたそのコメントを楽しみにしていました。

 いま書いているこの日記が絵日記だとすれば、これを続けているのも、先生のおかげかもしれません。2年生の夏休みも、絵日記の宿題が出ていました。

 休みの間は、毎年母の実家に弟と行っていました。香川の祖父母が預かってくれていたのですが、その庭先で羽化前のセミを幼虫を見つけ、書いた頁があります。

 手元に返ってくると、一文字づつ沢山の〇が付いていました。





 長男が、宿題の絵日記を書きたがらないので、実家から持ち帰ってきました。小学校から大学まで、ほぼすべてのノートなりは捨てましたが、この日記は置いていたのです。

 8月から、当事務所に新しいスタッフが加わりました。ようやく4人態勢になり、現在はオープンデスクの学生も2人参加中。人口密度はかなり高い状態です。

 スタッフを含め、その若者達に言いたいのです。

 N先生は、決して褒めるベースの人ではありませんでした。とても怖かったN先生が、褒めてくれたのは、本当にそう思ったからだと、私は感じていました。また、最終頁のコメントを見て、真剣に読んでくれた事をひしひしと感じたのです。

 怖いは本気の証だとも思います。

 例えば、本田宗一郎が、スティーブ・ジョブズが、いつも社員を褒めて回っているとは、聞いた事がありません。

 「褒めれば伸びる」は、ニンジンがないと走れない馬に近しいとも思うのです。とはいえ、時には結果が出なければ、人はなかなか頑張れないもの。良い仕事が出来れば、いつでも褒める準備はしているつもりです。

 ここは、人生の道場。覚悟を決めて、頑張って欲しいと思います。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
■■■『大改造!!劇的ビフォーアフター』■■■ 7月8日(日)「匠」として出演しました

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■9月17日(月・祝)ジュンク堂京都店 13:00~15:30
JIA×JUNKUDO 共催「住宅無料相談会」に参加
■9月1日~9月31日までハービスPLAZA(大阪)4階にて
「加美の家」のパネル、模型を展示

【News】
『MY HOME100選 Vol.11』8月27日発行に「サロンのある家」掲載
■『建築相談ハンドブック』6月1日発行に「Shabby House」掲載

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一級建築士事務所 アトリエ m
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

スピーチが得意か

 昨日、夏休みの旅日記を全てUPしました。

 7都市に分けて書いてみたので、良ければのぞいてみて下さい。

 飛行機で家族が一緒なら、やむ得ず中央の4人席を希望します。

 しかし、一人なら断然窓際です。バルセロナからローマは早朝の一人移動。夜と朝の境界線がくっきり見えました。

 日常が、これ程ドラマティックなこのだと改めて気づきます。

 これが日々の写真に戻ると、全く違うのに愕然とします。何と絵力がないことか……と言えば一緒に写っている人に失礼ですが。

 昨日の日曜日は、セミナー講師を務める予定でした。

 しかし、参加者が思いのほか集まらなかったとの事で、中止になりました。準備もしていたので、それはそれで寂しいのですが、無いなら無いで、ほっとするのが正直なところ。

 「ビフォーアフター」に出て、一番増えたのが講師という仕事だと思います。オファーを多く貰うようになりました。

 これまでにも何度か、講演なるものをした事はあります。なかなか簡単でない、というのが正直な感想。

 持って行く資料なども色々工夫をしてみました。どうしようもない、という程ではありませんが、自分のイメージからは程遠いものが大半です。

 自分が聴いて、上手だなと思う人にコツを聞いてみたりするも、アドバイスは当然それぞれで、なかなか上達したという実感はありませんでした。

 結婚式のスピーチなども、何回か引き受けましたが「意外と下手やん」と言われた事もあります。基本的に話し好きなので、上手いと思い頼んでくれるのです。

 今月のはじめにも、そんな機会がありました。

 その際も色々シュミレーションしてみたのですが、90分時間があった事もあり、今回はど真ん中直球勝負で行こうと、方針を決めました。

 結果、手ごたえの一端のようなものを感じました。優秀なセミナー講師の方は、飽きさせない展開、この情報を知れて良かったというお得感、かつ随所に笑いなどもちりばめられ、流石という仕事をします。

 その外枠だけを追いかけてみても、技術がない中で、上手くいくはずなど無かったのです。それなら「今までの仕事人生を聞いてくれ」というようなスタンスの方が、よほど自分を出しやすいと気付きました。

 基本的に、真面目に一生懸命が好きなのに、何故か人前にでると、スマートに話をしている講師像に憧れる。これが、一番の失敗だったような気がします。

 この秋に、今までとは一桁違うキャパの会場での講演を引き受けました。どのくらいの人が来てくれるのか分かりませんが、やった事の無い事には必ずチャレンジしたいと思います。

 また詳細が決定すればお知らせします。

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イタリアとスペインの旅⑦ -バルセロナ編 -

 “Have a nice trip!”

 寝台電車で同室だったブラジル人に別れを告げ、8月16日(木)の朝、バルセロナに降り立ちます。最後の街になりました。

 まずは、リキテンテンスタインの「バルセロナヘッド」に挨拶を。駅のすぐそばにあるのです。

 バルセロナを3日間で見尽くしてやるという意気込みです。

 ガウディのライバルとも言われる、ドメネク・イ・モンタネール設計の、カタルーニャ音楽堂へ。

 世紀末に起こった芸術運動、アールヌーヴォーはスペイン南部のカタルーニャ地方の建築にも影響を与えました。

 それをモデルニスモ建築と呼ぶのですが、その初期の代表作がこの音楽堂です。

 装飾技術の粋を尽くされた天井中央にあるステンドグラスのシャンデリア。

 問答無用の迫力でした。ドメネク・イ・モンタネールはガウディの先生でもあったのです。


 そのまま、ピカソ美術館とサグラダ・ファミリアを見に行きましたが、あまりの行列で、一旦退散してきました。

 他のガウディ建築をと、まずはカサ・ミラへ。1910年の作品なので築100年です。

 何度も写真で見たものですが、思った以上に突飛な感じは受けませんでした。ごく普通にそこにあるというか。


 内部も観れますが、やはり特徴は屋上です。

 2つの吹抜けを囲む床は、激しく上下しています。

 この自由な屋上または屋根形状を成立させる為、ガウディは薄いレンガのアーチを幾重にも重ねるという工法を考え出しました。

 一番最後の、コロニア・グエルで見れるので、ひとまず進みます。

 アントニ・ガウディは1856年生まれで、1926年にバルセロナの市電に
はねられ亡くなります。

 カサ・ミラは後期の作品になるので、その作品群の中でも非常に洗練されていると感じます。

 リチャード・マイヤー設計のバルセロナ現代美術館まで歩き、次はバルセロナ・パビリオンへ。

 1929年バルセロナ万博の際、ドイツ館としてミース・ファン・デル・ローエによって設計されました。

 それが、1986年に同じ場所で復元され、ミース記念館とされたのです。

 ガウディが亡くなったのは1926年。ほぼ同じ時代に、建築のふり幅がここまであるのは驚きです。

 世紀末の有機的な形態を持つ建築、モデルニスモ建築が、ミース・ファン・デル・ローエの考える、モダニズム建築の反対項であったのは間違いありません。

 これらを見比べる事によってミースの“Less is more”の思想は、より迫力が増してきます。

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 バルセロナ2日目、8月17日(金)は、電車で1時間半ほどの、フィゲラと言う街へ出掛けてみました。

 サルバドール・ダリの故郷で、自らが設計したダリ美術館があるのです。

 かなり早めに出たのですが、到着した頃にはすでに長蛇の列。

 「女優メイ・ウエストの部屋」も横から写真を撮るのがやっと。

 この時期を外さなければ、ゆっくり見るのは難しいそうです。

 再びバルセロナに戻りガウディを訪ねます。

 住宅の傑作と言われるカサ・バトリョへ。1906年の完成です。

 この家は、海の家とも呼ばれます。外部タイルも、内部吹抜けに使われているタイルモ、青を中心としたものが多く、涼やかな印象でした。

 2階の広間の通りに面した窓も、青を基調としたステンドグラス。

 濃厚で有機的なデザインの中にも、一服の清涼剤といった感じでしょうか。

 2日目の最後は、市街地から少し西にある高台、モンジュイックの丘にあるミロ美術館へ。

 かなり歩き、汗だくになりましたが、屋外展示を見ながら日影にいると、すっと汗が引きます。

 バルセロナを愛した芸術家は、ミロをはじめ、ピカソ、ダリなどです。燦々と降り注ぐ太陽と、乾いた空気、陽気な人柄が、創作の場として魅力を持っているのでしょう。

 特にミロは好きな作家です。

 8月18日(土)のバルセロナ3日目。

 実質最終日なので、朝一番から再びサグラダ・ファミリアへ。9時の開門に対して1時間前に着きました。それでも40名程並んでいたでしょうか。

 平等院の鳳凰堂と全く同じように、サグラダ・ファミリアも池に映る姿まで含めて、デザインされていると聞きました。

 その写真を是非撮りたいと思っていたのです。

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 東面、生誕のファサードは、唯一ガウディの生きている間に完成しています。

 何度も何度もファインダーをのぞき、シャッターを押しました。彼と同じ景色を見ていると思いながら。

 やはりその規模、その装飾においてこれがガウディの傑作に間違いないでしょう。

 限りなく高い天井に向かって何本も生えるように建つ生き物のような、骨のような柱。それが複雑な陰影を生み、より荘厳な空間を創造しています。

 生誕のファサードの中央、塔の部分までエレベーターで登れます。

 未だ建築現場でもあるこの教会の、すさまじさを見る思いがしました。かつその高さに腰が引け、大した写真も撮れず下りてきたのですが。

 昼前にはグエル公園。1914年。

 そしてグエル邸。1889年、ガウディ37歳の年です。

 その名が示す通り、ミケランジェロにメディチ家があったように、アントニ・ガウディにはエウセビオ・グエルというパトロンであり、最良の理解者がいました。

 カサ・バトリョが後期の傑作なら、グエル邸は前期の傑作住宅と言えます。

 全ての制限を外したかのように、惜しみなくお金が掛けられているのが分かります。

 この家をガウディが30代に設計したことによって、その後の人生が変わったと言っても過言ではないでしょう。

 この3日間見た中で、最も刺激的だったのはコロニア・グエル教会です。
 
 グエルは、繊維工場をバルセロナ郊外に移し、生活に必要な建築全てを、ガウディとその弟子に造らせました。

 グエル邸とほど同時期、初めての工業コロニーが作られのです。バルセロナからカルーニャ鉄道で20分。更に駅から10分程歩きます。

 この教会は最終的には中央に40mの塔を備えた、立派なものになる予定でした。

 1890年に注文を受け、その実験だけに10年をついやしたガウディに、流石のグエルも1917年に計画の中止を命じます。

 その時点で出来上がっていたのは、地下部分の教会だけ。それが現在の、コロニア・グエル教会なのです。

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 ガウディが、サグラダ・ファミリアで実現するトウモロコシ状の塔は、この教会でも実現されるはずでした。

 また、カサ・ミラで触れた薄いレンガのアーチも良く見てとれます。この教会が、ガウディの最高傑作とする向きもあるとパンフレットにありましたが、私もそう思います。

 非常に原始的にも見える空間が、より強いメッセージを持っています。それは宗教弾圧によってできたカタコンベ(地下教会)や、原始の洞窟空間に似た、荒々しい、よりプリミティブなものと言えば良いでしょうか。

 最後にここへ来て、そんな事を思いながらバルセロナ市街へ戻ったのです。

 翌朝、6時半の飛行機で、バルセロナからローマへ。空港内で家族と落ち合い、8月20日(月)の朝、大阪に戻りました。

 関空快速にのりながら、次はオーストリアかスイス、もしくは北欧か、などと考えていました。これだけの休みをいつ取れるのか分かりません。でもまた出掛けたいと思います。

 知らない街へ下り立った時の、あのときめきを求めて。

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イタリアとスペインの旅⑥ -ミラノ編 -

 8月14日(火)の夕方、ヴェローナからミラノに移動しました。

 妻の友人は、ルカというミラネーゼと結婚し、ここで暮らしています。

 たくましいなあと思いますが、子供も3人居て本当に幸せそう。

 それに甘えて、我が家の家族は一足先にこちらで世話になっているのです。

 この日は、私も泊めて貰う事になっていました。

 駅まで、2家族全員が迎えに来てくれ、ジェラートなんかを食べながら街を散策。彼らの家に着いたのは夜の7時頃でした。

 旦那さんのルカと会うのは、これで5回目くらいでしょうか。

 ホスピタリティにあふれたナイスガイで、夕食は彼が腕を奮ってくれました。

 子羊の煮込み料理は、長女のアイリも手伝いしています。

 流石、肉を食べる歴史が違います。しっかりとした噛みごたえもあり、ワインも進みます。

 夫妻は一切飲まないにも関わらず、この料理に合うワインを4、5本用意してくれていました。

 子供達はもう慣れたもので、上の男2人はサッカーをして遊んでいました。

 彼のシュートを、いつかワールドカップで観れれば、とか思いながら……

 自宅はミラノの街中にあるアパートメントを数年前改修したもの。120㎡程あり、とても良い感じです。

 大きなジェットバスは、大きなバスタブを持たないイタリアの友人にも大人気と言っていました。

 翌15日(水)は、朝からルカと買い物へ行きました。

普通の市場を見たいとリクエストしていたので、男2人で散策に。
 
 そこで旅の不足品を2、3買っただけですが、非常に満足しました。しかしスイカもカボチャも大きい。

 朝食の後、皆で歩く先にあるのは、サンタ・マリア・デッレ・グラッツィェ。

 ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を観る予約をしていました。

 15分交代で、かなり少ない人数の予約しか取らず、セキュリティーチェックもかなり厳しい。

 日本語のオーディオガイドも借り、しっかりと向きあって来ました。

 ルカが言うには、以前全く覆いの無い状態で観たのは26年前。最近見たのはとてもラッキーだと。それだけの時間を掛け、修復作業をしていたのです。

 ダ・ヴィンチの業績を振り返る事はしませんが、この絵が、それまでの平坦な絵と全く違う次元の扉を開きました。

 奥行きのある、しかもある瞬間を切り取ったドラマチック絵は、これ以前には存在しなかったのです。

 ミラノの中心にあるドゥオーモ。この街の象徴です。

 ゴシック建築の傑作と言われますが、教会建築は、高さと大空間を求めた、その葛藤の歴史だと言えます。

 組積造でこれほどの大空間を作る為、フライングバットレスと言われる外部梁で支える構造が考え出されました。

 圧倒的な高さから僅かに差し込む光と、幻想的なステンドグラスこそが、神に最も近づける場所、教会の証なのです。

657

 最後に訪れたのは、ガッレリア。

 ドゥオーモのすぐそばにあります。

 アーケードの完成は1877年。そのガラスの大屋根の軽やかさは圧倒的です。

 もし、今の日本で同じものを作ったら、その鉄骨部材のサイズは少なくとも3倍にはなるのでは。

 夜の8時前、皆に別れを告げ、ひとりミラノ中央駅を発ちました。

 寝台特急で、最後の目的地バルセロナへ向かいます。

 1部屋に、2段ベッドが2組。男4人にはかなり狭い空間です。そこにブラジル人3人と日本人が1人。

 ベッドには仕切りのカーテンもなく、とっても親密なドミトリーと言う感じ。なかなかの好青年と感じたので、コミュニケーションをとってみますが、たまに使う英語では、話しのネタもすぐ尽きてしまいます。

 非常に濃密な空気のまま、電車は西へ向かいます。

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イタリアとスペインの旅⑤ -ヴェローナ編 -

ヴェネティアで2泊し、8月14日(火)は朝からヴェローナへ移動です。

 ヴェネツィアから電車で1時間程。

 バラ色の屋根瓦が美しく、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の舞台となった街なのです。

 しかも「ジュリエッタの家」という館があり、観光スポットになっています。

 行列ができ、順に女性がそこに立ち、皆がシャッターを切るという構図。

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 その前にある中庭はごった返しています。

 しかし、シェイクスピアは実際にヴェローナを訪れた事はないそうで、あくまでもイメージのようです。

 しかし映画の撮影はここであったので、全くのフェイクという訳でもなく……

 微妙な感じもします。

 この街を訪れたのも、スカルパの作品に触れる為。

 街の中心にあるブラ広場から、少し歩くと川沿いの古城が見えてきます。

 カステルヴェッキオという名の城ですが、現在は美術館になっているのです。

 その設計をしたのがカルロ・スカルパ。1956年の仕事です。

 スカルパは生涯の仕事の多くが改修です。

 この城の改修も、出来る限り既存のものを活かし、試行錯誤した後が見えます。

 鉄製の格子戸も多様され、ここには日本文化の影響がみて取れるのです。

 この城は14世紀に移築されたものなので、型枠コンクリートが見えている部分は、スカルパの設計によって、加えられたものです。

 50年以上経っているとはいえ、全く違和感なく繋がり、かつ城のもっている空間を活かした動線となっていました。

 改修こそ、最も技術と知識と感性が必要とされる仕事だと、実感するのです。

 館には、美術品の他に、中世の鎧や槍など、武器の類も多く展示されていました。

 横顔がハッとするほど美しいのです。

 日本の多くのロボット漫画は、こんなところに着想を得ているのかもしれません。

 先輩建築家が以前「ヨーロッパの街は血の歴史」と言っていました。

 陸続きなので、芳醇な土地、平坦な土地、交通の要所などは、常に戦争の脅威にさらされていたと言えます。

 それを守るため、街を守る城壁ができた訳です。

 その話は先祖代々必ず語り継がれて来たはず。

 それによって、自分たちの街という認識と、街への愛着が生まれるのでしょう。

 この旅最後のスカルパは、ヴェローナ銀行です。

 こちらは1973年の作品。

 街の中心にある広場の前に面して建っていますが、現在は入る事が出来ませんでした。

 ファサードにある、段々形状の掘り込みのある大理石。

 彼、特有のデザインです。

 固い石にあえて、細やかな加工をすることによって、石はないような規則正しい陰影が生まれます。

 その固い石を自在に加工できるという、職人技を誇っているようにも見えるのです。

 これもミラノの友人に聞いた話です。

 ミラノの中心部は、今も御影石のピンコロが敷き詰められています。

 よって、街中に車で入ってくると急にガタガタしだします。

 しかし、それをミラネーゼ(ミラノっ子)は誇りに思っていると。車道の矢印も石でした。

 日本人の街に対する愛着が、ひとえに少ないとは思いませんが、勝っているとは言えません。

 日本は島国なので、内乱こそあったものの、非常に平和に国だったと言えます。

 私が回っているのは、概ね観光都市ですが、自分の主張より、この街にすむ事の方が優先順位が高い。それが私の感じた、市民の感覚です。

 建築家、吉村順三は「向こう三軒両隣に、恥ずかしくない設計をしないといけない」と言いました。

 自分ではないところに、どれだけ価値を置けるかが、ポイントになる思います。

 夕方ヴェローナを出て、ミラノへ向かったのです。

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イタリアとスペインの旅④ -ブリオン・ベガ編 -

 8月13日(日)は、朝から電車に乗って、カステル・フランコという街へ。

 ヴェネツィアのサンタ・ルチア駅でチケットを買うとおよそ4ユーロ。往復で800円程です。

 1時間ほど電車に揺られ駅に着きました。

 ここからバスに乗るのですが、何故か駅からバス停までが歩いて20分。近くのBARでチケットを買うと往復で4ユーロでした。

 バスの運転手に「ブリオン・ベガに行きたいので、着いたら教えて欲しい」というと「分った、分った」という感じ。

 日本人が時々くるので全て心得ているよう。とってもフレンドリーな感じでした。

 S・VITOというバス停から、さらに歩いて15分くらい。

 まずは公共の墓地がみえてきました。

 その奥にあるのがブリオン・ベガ。

 イタリアの大手電機メーカーの創業家、ブリオン家の墓なのです。

 2つの円が重なったその開口部からは、傾斜した壁が見えます。

 その上には限りなく青い空。

 反対に回ると、赤と青のタイルに縁どられた様子が、良く分かります。

 写真を見ると裏表の色が反対になっているのが良く分かります。お盆前のこの時期、墓地を照らす太陽は強烈です。

 陽が芝生を焼き付け、むせ返るような草のにおいは、日本のものと全く変わりませんでした。

 写真で分らないのはにおい。妙なことが気になるものだと自分でも思うのですが。

 全体がブリオン家の墓地ですが、ブリオン夫妻の墓はこのアーチの下にあります。

 2つ石の棺が並んでいました。


 アーチの裏はブルーとグリーンのタイルで彩られています。

 芝生と空に抱かれ2人は静かにの眠っているのです。

 カルロ・スカルパは、素材の

 使い方と、その装飾形態に長けた建築家です。

 しかし、それらがテクニックにとどまっていない感を受けるのは何故なのでしょうか。

 1906年、彼はヴェネツィアに生まれました。フランク・ロイド・ライト、デ・ステイル、日本文化という順に影響を受けたと言われます。

 そして生涯、この地方の方言しか話さなかったと言います。

 その時々の影響を作品にみる事が出来るのですが、いずれも模倣のレベルではありません。

 今回私が見て回ったのは、概ね1950年から1970年までの仕事です。

 まさに円熟期に入ったと言って良い頃の作品なのです。

 スカルパは1978年、旅先の仙台で亡くなります。

 そしてその墓は、このブリオン・ベガの一角にあります。

 CARLO SCARPA の文字が刻まれています。

 いつ火がともされたのか、金色のろうそくにも文字が刻まれていました。

 そこには亡くなった1978年7月6日と1993年2月23日という日付が。後の日付は何を意味するものなのか。

 墓は人が人生を終え、永遠の眠りにつくところ。

 ピラミッドも墓なら、サン・ピエトリ大聖堂も墓と言えます。タージ・マハルは王が愛妃に送った墓。

 ブリオン・ベガはスパカルパのブリオン夫妻への愛と感謝の結晶と言えなくはないか。

 ブドウ畑と、トウモロコシ畑に挟まれた道を歩きながらしばし考え、ヴェネツィアに戻ったのです。

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イタリアとスペインの旅③ -ヴェネツィア編 -

 8月12日(日)は朝フィレンツェを出て、10時半にヴェネツィアに着きました。

 サンタ・ルチア駅を降りた瞬間、その旅行者の数に圧倒されました。

 ここは世界の京都。観光地の中の観光地なのだと、実感したのです。

 街の中央をS字に蛇行しながら流れる運河が、何と言ってもヴェネツィアのハイライトです。

 私達は水上バスの12時間チケットを買いましたが、運河の上の密度もかなりのものです。

 リアルト橋は付近は川幅も狭く、水陸共に最も混みあうところ。

 それでもゴンドラはゆらゆらと、川を横切ります。

 ボートのホーンがなっても「こっちも仕事なんで」と言う感じで、そう慌てる様子もなく。

 元は侵略者の攻撃から逃れ、干潟に住まざる得なくなったのががヴェネティアの起源と言われます。

 そんな地理的条件から、至るところに水路が張り巡らされたのでしょうが、これが後の貿易による繁栄を支える事になります。

 路地のような細い水路に目を奪われるのは何故でしょうか。

 大阪は八百八橋と呼ばれた時代もありました。多くの水路は埋め立てられましたが、ヴェネツィアのような選択肢は無かったのかとも思います。

 水上バスでサン・マルコ広場まで来ました。

 辞世の句は「もっと光を」。ゲーテも愛したというカフェもあり、旅情は高まります。

 このサンマルコ広場に面した店舗に「オリベッティ」のショールームがあります。

 この旅の目的、カルロ・スカルパの仕事に初めて触れる事になります。現在ショールームは閉鎖され、ナショナルトラストが管理していますが、15.5ユーロで見学できます。

 ずっと写真でしか見たことのなかった、そのデザインに直接触れる事ができました。

 彼はヴェネツィア出身なのです。

 概ねそうなのですが、第一印象は「思ったより小さい」です。

 しかし、それは建築写真の性格上仕方のないものなのです。

 細部を見て回りました。

 その仕事を見て、彼の日本文化へのリスペクトを感じる事が出来ます。このあたりの詳細は、次回ブリオン・ベガ編で。

 運河の最下流部にある、プンタ・デッラ・ドッガーナ。

 もとは海の税関だった建物を活かしながら、安藤忠雄が改修した美術館です。

 安藤は海外での仕事の大変さと、面白さをあちこちで語っています。

 この歴史あるヴェネツィアの街に、日本の建築家の仕事がある事だけでも勇気を持てる気がします。

 いつかイタリアで……夢を描くのです。

 こちらは夜の9時くらいになって、ようやく日が暮れ始めます。

 アドリア海に沈む夕日を眺めながら、通りに面したBARで一杯。

 ヴェネツィアの夜は、遅くまで賑やかなのです。

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イタリアとスペインの旅② -フィレンツェ編 -

 翌日、8月11日(土)は朝からイタリアの新幹線で移動です。

 チケットは日本で予約していましたが、旅の移動は早めが基本。

 駅まで歩いて1分で、40分前はちょっと早すぎました。子供はややだれ気味。

213

 ローマのテルミネ駅からフィレンツェまではイタリアの新幹線で、1時間半程です。

 車窓から見る景色から感じる事は、何と起伏の少ない国なのか、という事です。

 街を少し離れると延々と続く農場の風景。

 現代なら重機もあり、平地を作ることはたやすい事と言えますが、古代にはこの平地を取り合う為、多くの血が流されたのです。

 フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅に到着。

 まずは高台にあるミケランジェロ広場まで、バスで行くことにしました。

 フィレンツェの象徴は何と言っても、ドォーモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)です。

 これが最も美しく見えるのが、ここと言う事なのです。その看板に偽りなしでした。

 フィレンツ最古の橋、ポンテ・ヴェッキオも、良く見えます。

 橋の上には宝石店等が建ち並びます。

 これが近くで見るとかなり危ういのです。

 橋からはみ出して建っているその支えは、細い木のつっかえ棒。

 ローマは完全に石の街という感じでしたが、フィレンツェに近付くにつれて、少しずつ森が見えるようになりました。

 そんな事も影響しているのか、軒などは木で出来ているものが目につきました。

 いくら地震が少ないとは言え、日本人の私としては心もとなく映ります。

 再び街中に戻り、ドォーモの屋根上まで登る事にしました。

 この階段が初めこそ良いのですが、上に行くごとに細くなり、最後は上り下り兼用の階段になり……

 大変でした。救われたのは、4歳の娘が、何とか自分の足で登り切ってくれたこと。

 登りづめで20分くらいは掛かった気がします。

 屋根上の塔の部分出るのですが、高さ100mくらいあるでしょうか。

 その景色は最高で、私以外の3人ははしゃいでいました。

 が、正直私は生きた心地がしませんでした。

 階段の途中、どう見ても剥落したのではと思う穴がいくつもありましたし、先日イタリア北部で地震が会った事も頭にありました。

 500年もこの場に建っているんだからと自分に言い聞かせても、数枚シャッターを押すのがやっと。

 もしかすると高所恐怖症なのかもしれません。

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 この日の宿は、唯一の4つ星ホテル。

 久々に数部屋あるホテルに泊まりました。

 従業員の雰囲気も良く、調度品は落ち着きがあり、いい感じです。

 子供が「こんな所にも絵が描いてある」と引出しを持って来ました。メディチ家の紋章が入っています。

 ルネサンスを支え、ミケランジェロを育てた大パトロンの影響は絶大だったと想像できます。

 このホテル「APRILE」は朝食もとっても美味しく、169ユーロでした。

 行きのアリタリア航空のCAからも、このホテルのスタッフからも娘を指し”She is so beautiful.”と言われました。

 娘なので勿論可愛いと思っていますが、イタリア人はこんな子供が好きなのかな、と思っていました。

 後に泊めてもらうミラノの友人にこの話をしました。

 「イタリア人は、博多人形みたいな切れ長の目に憧れてるところがあるかも。無いものねだりって言う感じかな」と。

 腑に落ちたような、落ちないような。でも、悪い気はしてません。

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■■■『大改造!!劇的ビフォーアフター』■■■ 7月8日(日)「匠」として出演しました

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■8月1日~8月31日までハービスPLAZA(大阪)4階にて
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イタリアとスペインの旅① -ローマ編 -

 長い夏季休暇を終え、月曜から仕事を再開しました。

 今回の休暇中、12日間で7都市を回りました。明治維新までは国と言う概念が希薄だったように、古代では都市国家という考えの方が、自然だったのは容易に想像できます。

 それぞれの都市ごとに感じた事を、順にUPして行きたいと思います。まずはローマ。

 8月9日(木)の昼に関空を発ち、夜の7時にローマのフィウチミーノ空港に着きました。フライトは13時間。

 空港バスでローマ市内に入ったのは夜の9時頃です。

 全ての道はローマに通ず。そんな言葉が頭に浮かんできます。ファーストコンタクトというのは兎に角興奮するものです。

 写真はブレていますが、気持ちは入っています。

 初日、2日目の宿は、ローマの中心、テルミニ駅のすぐそばに取っていました。非常に便利が良かったのですが、夜の騒々しい事。

 私は耳栓を持っているので事なきを得ましたが、妻は寝不足気味でした。

 翌日は朝から、2階建てバスに乗って市内を回ります。

 初めのに行ったのはトレヴィの泉。

 世界の旅行者と同じく、私達も再び訪れたいと願うのです。

 ナヴォーナ広場に移動して、ひとまず昼食。

 ミナミでお好み焼きを食べているようなものなので、どんな店なのか全く分りませんが、ピッツァは十分美味しかったのです。

 気温こそ30℃を超えていますが、湿気の無い事がこれほど気分の良いものとは。

 日影に居れば本当に心地よいのです。

 ローマで一番見たいと思っていたのは、パンテオンでした。

 118年にハドリアヌス帝が再建したとあるので、1900年前とほぼ変わらぬ姿がそこにあります。

 天井最上部に空いた天窓は直径9m。

 そこから落ちる光は「全ての神の神殿」に相応しい、静謐な空間を醸し出していました。

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 その後は、ヴァチカン市国のサン・ピエトロ広場へ。

 ヴァティカン市国は世界最小の国で、カトリックの総本山です。

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 その東にあるサンタンジェロ城は、ハドリアヌス帝の廟として建造されたもの。

 しかし、サン・ピエトロ寺院と城壁で繋がっているのです。

 その城壁の上部には秘密の通路があります。

 非常時にここを通り、逃げ延びた教皇が実際にいるのです。流石、世界の中心は違うなと思います。

 ヴァティカンに来た本来の目的は、博物館にあるシスティーナ礼拝堂を見る為。

 ミケランジェロの最高傑作と言われる壁画「最後の審判」があります。

 写真不可なので画像はありませんが、薄暗い中にあるその絵の大きさと、反対にその細密さに、しばしその場で佇んでいました。

 ミケランジェロは若いころ、顔を殴打された際に鼻梁が曲がってしまい、そのコンプレックスが彼を創作に向かわせたとも言われています。

 その彼の最高傑作とは。ぜひとも見ておきたかったのです。

 初めて来た家族での海外という事もあり、独り旅と同じようには行きません。

 今回はコロッセオで終わりだなと歩いていると、ガイドブックがない。黄色の頼りになるヤツ「地球の歩き方」を、バスに忘れてしまったようなのです。

 すぐに次のバスに乗り、乗務員に私の怪しい英語で事情を説明しました。何とか通じたようで、営業所なのか、電話をしてくれました。

 横で待っていると、別の乗務員が営業所に持ち帰ってくれるとの事。ホッとしました。

 宿に帰ったのが夜の9時頃。こうして初ローマは終わったのです。

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バルセロナとガウディ

 先ほど関空に戻りました。

 旅の目的にあったのが、ガウディとスカルパ。少しガウディに触れてみたいと思います。

 アントニ・ガウディは1852年、銅器職人の子供として生まれました。16歳の時、建築を学ぶためバルセロナに移り住み、栄光の人生がスタートします。

 26歳の時、パトロンとなるグエルと出会い、その才能がいかんなく発揮されて行きます。3日間のバルセロナ滞在中出来る限り、作品を見て回りました。

 その建築は言わずと知れた有機的なフォルムが特徴です。しかしそれらが、構造的挑戦から生まれた過程を、見る事が出来ました。

 これらも、また整理したいと思います。私もそうですが、バルセロナにはガウディの建築を見るため、世界各国から多くの人が押し寄せます。

 ピカソ美術館、ミロ美術館、ガウディのライバルであった、ドメネク・モンタネールのカタルーニャ音楽堂、ミース・ファン・デル・ローエのバルセロナパビリオン等、見所は数あれど、やはり彼抜きには語れません。

 ガウディは73歳の時、この街の市電にひかれて亡くなります。しかし、その街で100年を超えてサグラダ・ファミリアは建築中という事実に、建築家、前川國男の言葉を重ねてみたくなります。

 「人は儚いものだから、せめて建築に永遠を求める」

 ヨーロッパの街並、通りの美しさが印象に残りました。しかし、私の仕事場は日本です。今日からまた、日々の葛藤が始まります。

 旅日記はまた追々。