コラムの真髄

 先週の事ですが、読売新聞大阪本社へ行ってきました。

 読売新聞が運営する、専門家サイト「マイベストプロ大阪」のセミナーがあり、参加していたのです。

 社屋は西天満にあり、初めて新聞社なるものに入りました。

 エレベータ前にはガードマンがおり、やはりセキュリティーは厳しいんだなと思う反面、建物は意外に小ぶりでした。

 会場のモニターに案内映像が流れており、発行部数は1千万部弱で世界一とのこと。

 これは知りませんでした。

 セミナーの内容は、専門家サイトの活用方や、コラムの書き方など。

 地域は限定、得意分野に特化する方が良い。

 最もで、良く分かるのですが、日本全国、または海外でも仕事をしたいと思っています。

 求められれば、どんな要望に対しても、自分の回答をだせる建築家で有りたいと思っているので、それは自分のやり方でやろうと思います。

 このあたりに対しては頑固に行きます。

 その帰り、北新地のはずれにある、「クアー」というショットバーへ寄ってきました。大学の同級生が店を出しているのです。今年で7年目ですが、今回は約1年振り。

 「時々はキタに出てこいよ」と言われました。出来ればそうしたのですが、そんな状況がいつになればやってくるのか……それ程望んでいないのが原因なのですが。

 新聞社は違いますが、1月26日の産経新聞に以下のような記事がありました。少し要約しています。

 長嶋茂雄は立教大学に入学した頃から、日本のプロ野球をどう変えて行くかで頭が一杯だった。

 ユニホーム、ギャラ、野球の技術、あらゆる面でアメリカ、メジャーリーグを手本にしていた。そんな「ミスタープロ野球」も時代の制約からは逃れられなかったと言える。もし今、現役の選手だったら「世界一の打者になる」と海を渡ったかもしれない。

 レンジャースに移籍するダルビッシュ有(25)は札幌ドームのファンの前で、初めてメジャーを選んだ理由を語った。日本では真剣勝負をする相手が見当たらず、モチベーションを保つのが難しかったと。

 高度成長も、バブル経済も知らない今の若者はかわいそうだという声をよく耳にする。反面、恵まれた才能を生かし、懸命な努力を続ければ、世界を舞台に活躍できる特権を持つ世代でもある。

 テニスの全豪オープンで錦織圭(22)は惜しくも準々決勝で敗れたが、世界一の座が夢でない事を示してくれた。時代に恵まれず、それ以上に才能に無縁だった中年記者にも、若者達の挑戦を見守る楽しみがある。

 事実を伝え、時代背景をふまえ3人のスポーツ選手を例に上げ、コミカルな表現も交えながら、読者を前向きにさせる。今年読んだ中で一番のコラムでした。

 私は最後の「読者を前向きにさせる」というところにこだわります。

 どんなに情報を的確にとらえ、豊富な知識で鋭い評論をしても、読んだ人に何らかのプラスの影響を与えなければ、全く意味がないと考えます。何が起こっても、より良い未来を求め、生きる他ないからです。

 このコラムの筆者は才能に恵まれずとありますが、いやいやどうして。名前が知りたいくらいです。

 雑誌売上1兆円割れのニュースもあり、紙媒体が置かれる立場は、これからも厳しさを増すでしょう。しかし、人、才能が急に無くなるものではありません。

 新聞の面目躍如といったところでしょうか。

思い出トランシット

 先週の木曜日。

 年末に続いて阪神山手にある住宅の調査へ行っていました。

 景色を楽しみにしていたのですが、この日はあいにくの雨。

 改修相談なので、まずは建物と敷地の測量から始めます。

 道路と敷地の高低差はおよそ3m。そこから生れる開放感は魅力的です。

 調査の際、平面的な位置関係はコツコツ測っていけば分かるのですが、高さ関係は意外と難しいのです。

 建築というのは水平や直角を基準にして造られるものですが、地面はそうでないからです。

 そこで使うのがこのトランシット。

 本来は、ポイントとポイントの角度、距離を測る為の物です。

 その性格上、水平に回転する望遠鏡がついているので、基準点を決め、その差を測っていけばそれぞれの高低差も分かります。

 このトランシットは精密機械なので、最新式なら40万円から100万円くらい。当事務所が持っている物は相当に古いのですが、それでも30万円から40万円はしたそうです。

 そうですと言うのは、貰い物で正確な金額を知らないのです。

 家業がガラス屋で、高校や大学生の時は、バイトで現場へ出ていました。それもあり得意先の工務店がどこかも分かっていました。

 その会社の社長も私に気を掛けてくれ、アトリエmを設立した時も「大変やろうけど頑張れ」と言ってくれたのです。それから少し経った頃、その会社に寄ると社長が「このトランシット要らんか」と。

 今は物を貰う事はしませんが、その時は1つ返事で喜んで持って帰りました。その後、工務店が店を閉めたと母から聞きました。

 「この家の半分以上は○○工務店からの売り上げで建っている」と良く聞きました。という事は、私の体の半分くらいは、その売上から捻出された食費で出来ている訳です。

 父の知人たちは、一様に私の独立を応援してくれました。「設計の仕事は道楽みたいなもんやから、親に感謝しなあかん」などと言いながら。

 有難いことです。ただ、この仕事を道楽で終わらせるつもりはありません。永続的に発展し続ける設計事務所にしたいと、15年間取組んできました。良い仕事をし、作品を発表し続けて
いれば、どこかで見てくれるかな、とも思っています。

 雨の中、傘をかぶせたトランシットを見て、15年前のことを思い出しただけなのですが。

伊賀忍者と日本の景色

 昨日の日曜日、忍者の森なるところへ行ってきました。

 場所は三重県の名張市。赤目四十八滝の入口あたりです。

 

 西名阪で奈良を抜け、名阪国道の針か小倉インターで降りて南下。

 大阪市内からは1時間15分くらいでしょうか。

 針インターには大きな休憩所があり、せんとくんと記念撮影しておきました。

 

 忍者の修行体験コースは午前1回、午後1回で予約が必要です。小学生未満は忍者衣装付きで1350円。

 この日の午前は私達だけで、クノイチによるプライベートレッスンでした。

 

 この辺りは現在でも棚田が多く残り、裕福な土地ではありませんでした。

 戦国時代には小国が乱立し、農民は僅かな田を守る為、自衛するほかありませんでした。

 そのゲリラ戦術を磨くうちに忍者と呼ばれる衆が現れたのです。一つ山を隔てた甲賀も同じような図式です。
 
 16世紀後半、全国統一を目指す信長は、伊賀の忍者を大変嫌いました。

 そして1579年から始まる、天正伊賀の乱でこの地を徹底的に壊滅します。僅かに生き残った伊賀忍者は、旅芸人に扮したりして全国へ出て行き、大名に自分を売り込み、何とか職を得たのです。

 

 本能寺の変の後、堺に居た家康を服部半蔵が案内し伊賀の山を越えて三河の国へ逃がしたのは有名な話。
 
 これは、信長への遺恨があったからの事なのです。

 下の子は、赤いクノイチに気おされたか、ほぼ何も出来ず。修行コースが終わってから、もう一度順に回りました。

 昼から、四十八滝と天然記念物オオサンショウウオも見て来ました。

 このオオサンショウウオ。コミカルというか、はっきり言えば気持ち悪いというか……

 およそ3千万年この姿で行き続けています。
 
 そのバイタリティーと図太さがこの姿を形作ったのかもしれません。

 

 柳生、甲賀、伊賀。この辺りに来ていつも思います。

 棚田と里山が織り成す景色は、戦前とさほど変わっていないのではと。

 もしかすると、江戸時代ともそんなに変わっていないかもしれません。
 
 初めて訪れたのは何十年も前ですが、そのときから何か懐かしいと感じていました。

 この200年で世界は大きく変わりました。それ以前のずっと長い時間、日本の景色はおよそこのようなものだったと思います。

 自らの手で自衛せざる得なかったほどの寒村にその景色が残っているのだとしたら、それは至極当然の事だと思うのです。

媚びない、群れない、属さない。そして辞めない

 「あなたにとってプロフェッショナル」とは?」という質問で終わるNHKのドキュメンタリー番組。
 
 その世界で一目置かれている人がその質問に答えます。昨年末、ある町工場の経営者の答えはこうでした。

 媚びない、群れない、属さない。そして辞めない。

 実現を信じて諦めない、辞めないことが大切と続けていました。
 
 人は、無力だから群れるの ではない。群れるから無力なのだ。
 
 これは「反骨のルポライター」竹中労のことば。

 日本で使うプロフェショナルという言葉には、その道のエキスパートというニュアンスが含まれます。誰にも出来ない課題を、解決、改善していく専門家と考えれば、常に孤独なものだと言えそうです。

 エキスパートであるから、その困難な課題がそこに持ち込まれるのですが、鶏が先か卵が先かという話で言えば、元々困難を避けていた人がエキスパートになる事はありません。

 進んで困難と孤独を求める。

 文字だけ見ると、まるで修行僧のようですが、ここに真理があるというのが、竹中労のメッセージだと思っいます。

 困難を解決した時には確実に達成感がありますし、成長できます。そもそも、困難だと思っていただけで、向かい合ってみれば、大した問題ではなかったという事が、大半なのですが。

 先々週、友人の作家が事務所に遊びに来ました。彼は大阪の公園で気流部という一風変わった活動をしています。
 
 その時の写真をUPしていました。

 

 事務所は未だスタッフ募集中。

 進んで困難を求める人お待ちしています。もちろん仕事中だけですが。

続建築家展

 webサイトにも告知していたのですが、この土日は岸和田へ行っていました。

 建築家展に参加する為です。

 車で自宅を出ると、途中に「堺市立のびやか健康館」があります。

 設計は黒川紀章。年末に菊竹清訓が亡くなっていた、との報道もありました。

 くしくもメタボリズム運動の盟友が、同じ年に亡くなってしまいました。

 イベントは、ASJ(アーキテクト・シタジオ・ジャパン)という建築家プロデュース会社が主催するもの。

 会場は、岸和田ベイサイドカンカン横にある浪切ホールでした。

 参加するのは2度目で、前回は昨年の5月。

 この時も、行く前はやる気満々

 しかし現実は厳しいもので……

 人は失敗から学ばなければなりません。結論を言えば、満足はしていませんが、進歩はあったと思います。

 ある夫妻は、私が出るのを確認して会いに来てくれました。計画は少し先との事でしたが、とても嬉しい事です。

 一日7時間立っぱなしで2日間。

 足は筋肉痛ですが、進歩があればそれも心地よいものです。

 さて、また呼んで貰えるかどうか。

 先週現場日記に、加美の家へ行ったと書きました。

 ある番組の下見だったのですが、番組側の意向で「イタウバハウス」に変更する事になったのです。

 クライアントに急遽お願いした日程が今日でした。

 ディレクターと撮影スタッフが4人。

 テキパキと動き、道にレールを敷いたり、手動クレーンのよう機材を組み上げたり。カメラは独特の動きをします。

 撮影は夕方まで掛かりました。こちらは、日程が決まればまたここでお知らせします。

クリエイティブ

 昨年末ですが「イタウバハウス」へ1年点検へ行っていました。

 その際の現場日記に、光熱費のことを書きました。このタイメイングで、出来るだけ聞くようにしているのです。

 その時に教えて貰った金額が、調べてみると少し違ったと、クライアントからメールがありました。

 それで1年分の電気代、ガス代を整理して送ってきてくれたのです。

2011年 「イタウバハウス」
家族構成:夫婦、幼児2人、乳児1人
電気料金/ガス料金
1月  12,237円  /  8,899円
2月  10,864円  /  9,995円
3月  12,456円  /  9,078円
4月   7,870円  /  6,773円
5月   7,146円  /  5,416円
6月   9,134円  /  5,546円
7月  10,733円  /  4,113円
8月  11,081円  /  3,697円
9月   9,265円  /  4,116円
10月  6,699円  /  4,646円
11月  7,840円  /  5,272円
12月 11,445円  / 11,211円

この家は、建築関係の金額だけでなく、土地、土地売買に係わる諸経費、ローンに掛かる費用、テレビ、エアコン、カーテンにかかる費用など、いえにほぼ全ての金額をwebサイト、雑誌に公開させて貰っています。

その動機は、これから家を建てる人の参考になればというもの。私がお願いしたからではないのです。

「感謝」という言葉しか思い浮かびませんが、この言葉をジョブズは一回り大きな視点で使っていました。

 何が僕を駆り立てたのか

 クリエイティブな人というのは、先人たちが残してくれたものに感謝したいと思っているはずだ

 僕が使っている言葉も数学も僕が発明したわけではない

 同じ人類の先人たちが作ってくれたものなんだ

 僕は全力で心の奥底にあるものを表現しようとした

 先人が残してくれたあらゆるものに感謝しようとしてきた

 そしてその流れに何かを追加しようとしてきた

 そう思って僕は歩いてきた

-伝記『Steve Jobs』-

「同じ人類の先人が残してくれてた」というくだりに、軽い衝撃を受けました。

 当然ですが、建築家という仕事は私が発明したものではありません。この仕事が現在あるのは、先輩たちが脈々と引き継いできたからこそ。そういったことへ感謝の気持ちは持っていました。

 しかし、言葉や数学をつくりあげて来た人類の先輩に、感謝の気持ちを持つなど考えたことさえ無かったからです。

 creative(クリエイティブ)は創造的という意。それはある日突然で生まれるのではなく、先人たちへの感謝の気持ちがベースにある。

 ジョブズはその理想の高さゆえ、部下へはかなり厳しい人だったようです。しかし、彼が最も革新的な創造者であったのは、誰より強い先人への感謝の気持ちがあったから。そうであれば、納得できる気がします。

来たれ!ラーメン好きの若者

 昨年の大晦日の事。阪神間の山手と呼ばれるエリアへ行っていました。

 12月29日に初期相談があり、近いうちに既存建物を見ることになりました。

 「もう休みですよね」と聞かれたのですが、この日の午前中が空いており、早速現地へ向うことになったのです。

 企画段階につき詳細は控えますが、流石に街の雰囲気、眺めは素晴らしいの一言に尽きます。

 また、初めての敷地を見る時、ワクワクとしか言いようのない気持ちになります。

 打合せ、既存建物の調査が終わると午後1時頃でした。所員と昼食をとることに。

 休日くらいは好きなものをと思い、聞くと大概、ラーメン、ハンバーグ、ハンバーガー……あたりがリクエストです。

 大学時代はスキー部の関係で、良くこの辺りに良く来ていました。

 そういえば石屋川沿いだったか、連れていって貰ったラーメン屋があったな。結構おいしかったような記憶が……ということで早速移動することに。

 山幹(正確には山手幹線)沿いをイメージして車を走らせると、何だか景色が違う。違ったかなと思い、もう少し南へ下ると「神戸の中華そば もっこす 石屋川店」の看板がありました。

 山幹ではなく2号線沿いでした。

 若い頃は、麺類だけでは頼りなく、好んでそういう店には入りませんでした。

 しかし、40歳になり少し量が少なくても我慢できるようになったのと(あくまで我慢しているのですが)、所員が食べたいのならと、ラーメンを食べる機会が少し増えたのです。

 それで思うのですが、ラーメンって本当に美味しいなと。もっとはっきり言えば「旨過ぎる」という感じです。

 これでもかと旨みがが濃縮されており、ほぼどんな店でも間違いない気がします。

 ただ、全てが濃すぎるのも間違いありません。これをしょっちゅう食べていたら、他のものを食べれなくなるんじゃないかとも。

 久し振りに食べたこの店のラーメンは、少し味が優しいと感じました。

 このあたりが、もう20年も支持されている理由かもしれません。

 探している時「チャーシューの代わりに、スジ肉が入っていて、ネギが沢山盛られていて……」と話していました。

 出てくると、細麺に王道のようなチャーシューの入ったラーメンでした。

 私の食への執着心はその程度なのです。

 2号線と石屋川の交点の北東角には御影公会堂があります。

 その西向いがこのお店。良ければ是非。

 今日は成人の日です。

 若者にとっては風当りの強い世の中ですが、いつの時代でも「少年よ大志を抱け」です。

 当事務所は慢性的な人手不足。大志ある若者を、いつも私は待っているのですが……

 休日の昼は、ラーメン付です。

原始的に、自然に、そして子供のように

 今年2回目の日記は、前回に続いて茅野、蓼科の旅から。

 初日の出を、名古屋あたりで見れました。

 「神長官守矢史料館」に着いたのが10:00am頃。

 この辺りは盆地なので、寒い時は本当に寒い。

 側溝の水は完全に凍っていました。

 屋根は天然石で葺かれ、外壁にはこの地域でとれた「サワラ」という木を、手割りしたものが張られています。

 壁はワラスサを混ぜたモルタル。

 スイッチプレート、取手などは栃木の鍛冶屋で作られたもの。ガラスは色なしのステンドグラス。

 簡素ではありますが、自然、手仕事に徹底的にこだわっています。

 諏訪神社上社の神官であった守矢家に伝わる古文書を保管するのがこの館の目的です。

 通常跳ね上げ階段は上がっており、蔵の役目を果たしているとの事でした。

 それまでは東京大学で、建築史家として教鞭をとっていた藤森照信氏は、この作品から建築家へと重心を移して行くことになります。

 この次に作られたのが自邸「タンポポハウス」。屋根にタンポポが植えられた、エポックメーキングな作品です。

 氏の進化はまだまだ続きます。屋根からニラの生えた「ニラハウス」。

 建物の頭頂部に木を植えた意匠の建築を発表し続けるのです。昨年の春、九州でみた、「ラムネ温泉」もその一つでした。

 原始的に、自然に、シンボリックに、まるで子供のように。

 実際に求められているからこそ、その場があり続けるのです。

 「高過庵(たかすぎあん)」は、守矢史料館の裏にある小山に建っています。

 誰もが入ってみたいと思う玄関は床の下に。

 同じく藤森氏の作品「空飛ぶ泥舟」が、すぐ横にあります。

 元々は茅野市美術館横に、企画展として作られたのですが、この地に移設されました。

 この場所は藤森氏の実家の敷地のようです。

 子供と話ていると「空飛んでないやん」と。 「だって横にヒモがついてるもん」

 なるほど、子供の意見ももっともです。しかし、単純に凄い建築です。

 その後は、蓼科へ移動してスキー場へ。

 ピラタス蓼科スノーリゾートは、ロープウェイで標高2200mまで一気に登れるのが特徴です。

 頂上付近は-14℃まで下がっていました。

 3歳の娘は、本格的なスキー板を履くのが初めてで。

 最終的には、何とかボーゲンまで出来るようになりました。

 それで、初めて4人でリフトに乗ったのです。

 当分遠出は出来ないだろうという気持ちもあり、休みの間は出来る限りスキーを教えました。

 今日から当事務所も仕事初め。事務所の目標は「新しき計画の成就」です。

 初日から全力でいきます。

茅野より

 新年明けましておめでとうございます。

 今年は2年ぶりに蓼科で年始を過ごしています。

 1月1日の早朝に大阪を出ました。午前中のうちに諏訪ICを出て茅野市宮川へ。

 この地域出身の建築家、藤森照信氏の作品があるのです。

 元は建築史家だった氏は、神長官守矢資料館がデビュー作。

 また、実家もすぐ近くで、そこに建つのがこの高過庵です。

 説明不要の刺激的な建築で、遊び心十分。しかも、おめでたい感じも。

 スタートにはぴったりなので、アップしてみました。詳しいは木曜日に書いてみます。

 それでは今年も宜しくお願いします。