靭公園&Ohana

 昨日は、クライアントとショールームめぐりに本町へ。

 早く着いたので、近くにある靭公園を歩きました。
 
 天気こそ曇りでしたが「秋の散歩道」という言葉がぴったりです。

 

 イチョウの葉は、本当に独特の形をしています。

 先週の金曜日は、9月末に竣工した、写真スタジオの1ヵ月点検でした。

 そのOhanaのページをUPしました。http://www.atelier-m.com/works_ohana.htm

 楽しいスタジオになったと思いますので、七五三がまだの方は是非。

fan

 11月も後半に入り、何かと気ぜわしい季節になりました。

 今頃になって言うのも何ですが、私は松井選手のファンでした。

 NYヤンキースの松井秀喜選手です。

 先ごろのアメリカのメジャーリーグのワールドシリーズで、チームを世界一に導き、MVPを獲得しました。

 ところでファンて何でしょう。

 調べてみると、熱心な支持者や愛好者、ひいき、とあります。語源はfanatic(熱狂者)でした。

 芸能人にしろ、スポーツ選手にしろ、言うなれば赤の他人で、直接的な利害関係はありません。それでも見たくなる、応援したいのですから、熱「狂」というのがぴったりです。最高のパフォーマンスを見せて欲しいという、勝手な要望に応え続けてきた人を、狂おしいほど応援したくなる訳です。

 しかし、成果だけが支持を集めるのではないのも、面白いところです。判官びいきという言葉もありますし。そこには、人格、人間性も大きく影響しているはずです。ファンはその人、そのチームの良い結果を、我が事のように喜べるのですから。

 松井選手は、契約やケガを理由にNYヤンキースを出るかもしれません。日本にいるときから、ずっと王道を歩いてきた彼が、全く違った状況でどんなプレーをするか、とても興味があります。

 古巣ヤンキースとの一戦に燃える、松井を見てみたい気がします。そうはならないかもしれませんが、感情的になっている松井を。

茶室

 現存する日本最古の茶室は、という問いには、2つの答えがあります。

 一つは大山崎にある千利休による待庵、もうひうとつは銀閣寺の東求堂内にある同仁斎です。

 待庵は1582年、千利休によって建てられた日本最古の草庵茶室です。

 東求堂は室町時代の将軍、足利義政の書斎で、1482年に完成しました。その中にある小間、同仁斎(どうじんさい)は、四畳半茶室の源流といわれています。
 
 平安時代、平等院鳳凰堂に代表される寝殿造り、室町時代、銀閣寺に代表される書院造り、戦国時代を経て、安土桃山時代には、待庵に代表される数奇屋建築と建築様式には大きな流れが出来ました。

 一方、茶の世界も貴族の求める豪奢なものから、利休が完成させた侘び茶の世界へと変化、昇華して行くのです。

 今日は混雑を限り避けるため、朝一番から銀閣寺へ行ってきました。

 アプローチには、静寂と秩序が。

 いわゆる銀閣、観音殿は修復工事中で、1階は構造体がむき出しでした。

 東求堂は、別途拝観料が1000円掛かりますが、係りの人が40分掛けて解説してくれます。

 内部の撮影は出来ませんが、中なら外は撮影可です。

 同仁斎の違い棚の横には書院(勉強机)があります。

 その上にある障子を開けると、庭の一部が切り取られ、掛け軸のようでもあるのです。 

 帰りには哲学の道を散策しました。

 今まで、桜と紅葉の京都は人があまりにも多いので避けて来ました。

 しかし全国、世界から人が集まるだけあります。

 秋の京都は、やはり風情があります。できれば朝一番で。

最も大切な3つのこと 

 親が子供に教えるべき「生きるうえで最も大切な3つのこと」は、

①愛すること ②責任 ③人の役に立つ喜び

 と「子供の心のコーチング」菅原裕子(PHP文庫)にあります。とても分かり易い本ですが、抜粋してまとめてみます。

①愛すること

 まずは母親からの絶対愛で始まります。無条件に愛される事で、自分はここにいて良いのだという事を知ります。愛情が自己の存在肯定に繋がるのです。

 その対極は自己否定で、ここからは何も生まれません。その行き着く先は悲惨な結果さえあります。

 もし、愛される為に、自分の素晴らしさ、優秀さを証明しないといけないなら、「傲慢さ」を生むことになります。愛されていないかも、自分は存在しても良いのだろうか、という恐れが傲慢さを生むのです。

②責任

 責任は英語でresponsibility。

 response(反応)とability(能力)からなり、反応すべき事に正しく反応する能力という意味です。これを学ぶには、自分の判断で行動し、良い結果も、悪い結果も全て受け止めなければなりません。

 そんな時に、子供が恥をかくのがかわいそうとか、親が自分の体裁の為にヘルプばかりすると、自分の得る結果は自分次第と言う考えが育たず、耐える力も育たないのです。

 耐える力がないと、問題を解決する事も出来ないので能力も伸びません。伸びないと、現実を見る勇気を持てず、成長しようという意欲が沸いてこないのです。

③人の役に立つ喜び

 全ての動機は、怒られるからとか、褒められるからとか、外から働きかけるものでなく、自分の中から湧き上がってくるべきものです。

 人の役に立つ喜びは、行動自体が喜びに繋がるので、何かの見返りを求めません。例えば「お手伝いをしてくれてとても助かった。お母さんはとても嬉しい」と伝えると、子供も嬉しいはずです。そうして、役に立つ喜びの種を植えていくのです。

 褒める、叱る、物やお金でつるのは、人が本来もっている、人の役に立ちたいという願いを殺してしまいますし、永続的には続かない動機なのです。

 親が本当に求めるのは、子供が幸せな人生を歩む事です。自立し、人生を切り開いていける、生きる力を育むサポートをする事なのです。

 全て共感できました。しかし自分と親の関係、自分と子供の関係と、出来ていないことばかりです。

 しかし、心配は無用です。同じ場面は、仕事を始めた時にまた訪れます。そんな時、自分や現実と向かい合うことが出来れば、必ず人は成長できると思うのです。

 例えば、学生の頃、親のせいにしたり、先生のせいにしたりする自分がいました。しかし、今は思いません。泣こうが喚こうが、全ては自分が行動した結果だからです。それは仕事が教えてくれました。

 何でも遅いということはありません。思ったらすぐ行動です。どんな事も今が最速なのですから。

長田

 昨日は神戸市の長田に行っていました。

 長男が新聞で、鉄人28号を見たのです。新聞には一週間ほど前から、足元の柵が撤去されたとありました。

 震災後、この街に来たのは初めてです。

 JRの新長田駅の南西すぐに、ありました。

 実物大、18mの鉄人の迫力はかなりのもの。
何よりかっこいい。

 マンションを背景にしても更にかっこいい。

 このあたりは震災時、火災による焼失が最も大きかった地域です。

 原作者、横山光輝が地元の出身ということで、鉄人が復興のシンボルに指名されました。

 駅の北側は、以前、靴の工場が軒を連ねていたそうですが、今はほとんどが住宅でした。

 近所のおばさんに聞いても、工場は数える程しか残っていないと言っていました。

 昼食には、この辺りの名物「そば飯」を。

 焼きそばに、ご飯を入れたものですが、なかなか美味しかったです。

 30歳くらいの店主のお兄さんが「お台場のガンダムは撤去されたけど、鉄人はずっと居るんです。そういう造りになっているんです」と誇らしげに教えてくれました。

 このイベントで、お客さんが随分増えたそうです。しかし震災時に、街を離れた人があまり戻ってきていないとも言っていました。

 災害に強い町をとの掛け声で、土地区画整理が行われ、道は広く整理されていましたが、正直に言うと街としての魅力は感じませんでした。

 ここが間違っているといえる部分はありませんが、人が戻らないというのは分かる気がします。

 これが正しいと言われても、愛着がもてないのだと思うのです。

生命誕生

 宇宙の始まり、ビッグバンが起こったのは137億年前とされています。

 地球の誕生は46億年前で、単細胞生物の誕生は40億年前。生命の誕生に水は不可欠で、その頃には海があったと考えられています。そして5億年前、生命は始めて陸上に上がったのです。

 それ以前の地表はマグマに覆われ、それを二酸化炭素、窒素、水蒸気等が包んでいました。地表は徐々に冷え、冷やされた水蒸気は雨となり、1000年にわたって降り続きます。これが海となったのです。

 その頃の海は強い酸性で、生き物が住めるものではありませんでした。その後、カルシウム、ナトリウム、鉄などが溶け、現在のような海に近づいて行ったのです。

 当時は、スープのような状態だったと考えられます。中でも、浅瀬で濃度の濃い所では、水分の蒸発が進み、表面に膜が張ったような状態になります。これが、細胞膜の原型と推測さているのです。

 海底火山から湧き出る、温泉から原始生物が生まれたという説もあるそうですが。

 この話しは、日曜日に京都青少年科学センターへ行ったとき教えて貰いました。学者肌に見えた館長らしき人に質問してみたのです。

 とても丁寧に、注意深く教えてくれました。

 センターには、日本人で初めてノーベル賞を受賞した、湯川秀樹博士の色紙が置いてありました。

 「一日生きることは、一歩進むことでありたい」

 科学者は、時にとても詩的です。そして謙虚。

 唯物論を追求するとそんな世界があるのでしょうか。とても気になるのです。

滋味

 今日は私たちの結婚記念日。6年目を終え、7年目がスタートしました。

 昨日は朝から、長男が一番好きな京都青少年科学センターへ。もう4度目ですが、しゃべるティラノサウルスが大のお気に入りなのです。

 夜は両親に子供達を見てもらい、地下鉄谷町9丁目にあるモンテラートへ。

 野菜の美味しいイタリアンレストランです。前回は昨年の9月だったので、1年2ヶ月振り。

 妻は友人とランチに行っていますが。

 まずは、ポメリーの小瓶で乾杯。

 妻は、「ベジタベッラ」(野菜のコース) 3990円、私は「11月のシェフのおまかせコース」6090円を。

 野菜のコースはなんと言ってもパレット。こだわりの有機野菜をつかった料理がパレットのようなお皿に10種類。

 長ネギとニンジンに農園自家製味噌。オレンジと緑の色あいが食欲を刺激します。

 私の前菜にあった、ローストビーフはゴボウと菊菜のピューレで。

 菊菜の苦味と、ゴボウの甘み、歯ごたえが一体となり、素晴らしい味でした。

 デザートは柿を使ったパイに小豆のソース。もう完全に満足しました。

 パスタ、メインのバスク豚のロースト、ワイン等など全てに満足したのですが、余韻の残る一皿がありました。

 カブラのポタージュ フォアグラ風味トリュフの香り。

 真っ白な大きなお皿の中央にはクボミがあります。透明感のあるカブラのポタージュが満たされ、その中央にはフォアグラ。

 少しフォアグラを取り、スープと一緒に食べると、濃過ぎず淡白過ぎず、続けて口に運びたくなる、絶妙な味なのです。

 その抑えと対比の効いた味わいに、もう感激しました。何故か、カゼの時に食べる、梅干を浮かべた白粥を思い浮かべました。それを連想させる位、優しく、滋味溢れる味わいだったのです。

 帰り道、普段は倹約して、もう少し足を運びたいと思いました。せめて年2回くらいは。

狭山池へ

 一昨日は文化の日で祝日。朝から狭山池に行っていました。

 大阪狭山市は、大阪府の中央、やや南に位置します。このあたりは、早くから人が住み始めた地域ですが、水源の乏しい地域でした。

 狭山池は日本最古のダム式ため池で、7世紀には整備が始められています。

 その狭山池の歴史を紹介するのが狭山池博物館。安藤忠雄の設計です。

 飛鳥時代から平成に至るまで、推古天皇、行基、重源、片桐且元らによって改修を重ねてきた歴史が、紹介されています。

 池のほとりからアプローチすると、巨大な水盤が出迎えます。

 時間によっては、両側から滝のように水が落ちてくるのです。


 展示では、なんと言っても、高さ15m、幅60mの堤の断面を移築しての展示です。

 この施設は、無料。しかし、そういう場所にありがちな、退廃感は微塵もありません。

 駐車場は併設されていませんが、少し離れた公園の駐車場があります。こちらも無料。

 3階にはカフェがあり、食事も出来ました。

 牛スジのカレーは、サラダ付きで450円。かなり美味しかったです。ハヤシライスも同じ値段で、本格的な味でした。

 スタッフとして、知的障害者の方が、社会勉強をしているので、もし失礼があればお許し下さいとありました。

 しかし、むしろ清々しい感じさえありました。屋上庭園を見ながら、子供も完食。

 円形ホール、水盤、角度の触れたキューブなど、安藤の手馴れた手法です。

 しかし、非常に好感を持ちました。

 彼はインタビューで「我々のやっている建築は、現代建築の中では、もう古典の部類にはいる」と発言していました。

 無限の選択肢がある中で、選ぶ自由もあるし、選ばない自由もある。

 「直線とは人間の意志である」

 彼の言葉の中で、一番好きな言葉です。

 狭山池を一周歩きました。ここに来て、建築設計は本当に夢のある仕事だと思い、更に身の引き締まる思いがしたのです。

およそ65年

 先週の木曜日、大正6年(1917年)生まれ、父方の祖母が亡くなりました。

 お通夜には間に合わず、週末の告別式からになりました。岡山県の児島まで、大阪から、車で2時間半です。

 祖母は愛媛県岩城島の出身で、この街に働きに出て来ました。そこで、5年前に亡くなった祖父を紹介され、結婚したのです。

 2人は戦争前に結婚。その頃、祖父は三井造船で船大工として働いており、戦争には行かずに済みました。次男だった父は戦時中の昭和20年に生まれたのです。

 終戦後はこの地で、材木屋を始めました。商売は上手く行ったようで、住居とがつながる店は今も残りますが、結構な大きさです。自分の趣味である、果樹園をするための裏山も持っていました。

 祖母は、3年前に足を骨折するまで、考えられないくらい元気でした。5年前、妻と墓参りに帰った時には、サンダル履きで、花と水を持ち、裏山への坂道では、妻の足元を心配してくれるほどでした。

 しかし、苦労も多かったと思います。商売が上手く行った祖父は、遊びのほうも派手だったようで、祖母は50歳の時に、ガンで胃を全摘出しています。

 60歳の頃には2、3ヶ月、大阪の私の家に滞在していた事もありました。この時代の女性は、耐えることが多かったのだと思います。

 5年前の祖父の出棺の時、祖母は小さなビンを3つ入れていました。後で聞くと、祖父の好きだった、日本酒、養命酒、はちみつでした。

 祖父の命日は5年前の10/28。祖母の命日は2日違いの10/30。共に93年の生涯を終えました。

 愛とは時間という言葉もあります。連れ添っておよそ65年。35歳で結婚した、私には体験できないであろう時間を共に過ごした事になります。

 仏教では、現世を終えるとみな仏です。仏となった2人は、2人の息子。4人の孫。7人のひ孫を、見守ってくれるでしょう。何の揉め事もない世界から。