再考、「煮込む」

 日記は同じものをmixiにもUPしています。前回の日記についてコメントを貰いました。「煮込む」には、違う意味があったのです。まとめてみるとこうです。

 「煮込む」と素材自体の単純な水分は飛び、旨みや甘みは凝縮される。旨みで外に出たものも、他の旨みとも合わさって、さらに煮込むことで凝縮される。煮込みが足らないと、冷めて行く過程でも味を吸い込みきらず、水っぽくなる。

 肉や魚は煮込みすぎると旨みが出てしまう。加えてタンパク質の水分を吸収しにくい性質も旨みが素材に入っていかない要因かもしれない。なので、粉をはたいて旨みが出ないよう閉じ込めてしまえば良い。

 ということでした。意味があったのです。失礼しました。

 しかしこれは納得です。私の大好きなエビフライは、衣があったから旨みが逃げてなかったのです。

 コメントをくれたのは、食の歴史には拘るが科学的根拠には拘らない、タレントさんで、料理研究家。こうもありました。「やっぱり料理は一手間」

 もちろん納得です。

 話は少し変わって、少し前の休日。実家でのこと。母の友人が数人遊びに来ていました。母がお昼ご飯を振舞いながら、

 「いつも大体で味付けしてるから、どうかな」と。
 

 よく聞くセリフに、若干言い訳がましさを感じ、それを良しとしない私は、

 「なら、美味しかった時の数量を控えとけばいいやン」と。

 「まあそうなんやけど」と母。

 横から

 「家庭料理は、味が違うから飽きへんのヨ。いつも完璧やったら飽きてしまうンやで」と母の友人。

 「う~ん……」
 
 ぐうの音も出ませんでした。根本が違います。いつも美味しい必要がなかったのですから。でも半分納得です。この母の友人。ああ言えば、こう言う、正統派大阪のおばちゃんなのですが。

 料理のことは何故か気になります。