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8月24日(木)朝5時、あの事件を目撃す‐2038‐

■■■プールのある「ささき整形外科 デイケアセンター」8月1日オープン ■■■

小学5年生の時の写真です。

少年野球をしてたのですが、2列目、右から3番目が私です。

大阪南部は特に野球が盛んでしたが、結構強いチームでした。

体は小さかったですが、3番サードを任されていました。

これは小学6年生の時。

ソフトボールの平野区大会で準優勝した際の写真です。

ソフトボールでは地域でも、学校選抜でもエースでした。打順は3番。

小学校内では圧倒できましたが、区大会の決勝では打ち込まれ、負けてしまいました。

最前列の左から2番目です。悔し泣きをし。メダルを首に掛けていません。

野球、ソフトボールは兎に角好きで、自信もありました。無類の負けず嫌いでしたが、その分練習も沢山しました。

野球は中学校まで続け、ショートでレギュラーでしたが、坊主頭が嫌で高校では続けませんでした。

今の世の中なら、高校も続けていたかなと思うことが時々あります。

長らくグローブも触っていませんでしたが、つい引っ張り出してきたくなったのは、やはり大谷翔平選手の活躍です。

ちょっと素振りをしてみたバットは近鉄のロゴ入り。これはかなりレアなはず。

この3年、歴史的活躍を続けてきた大谷選手ですが、あの事件をリアルタイムで目撃してしまいました。

先週木曜日。追い込みの仕事があって、早朝からアトリエで仕事をしていました。

大谷翔平選手が二刀流出場するロサンゼルス・エンゼルス戦をサブモニターに映しながら。

メジャーリーグ・ベースボール はNHKの衛星放送、U-NEXT、ABEMAなど、何か契約していなければ、自由に観ることはできません。

また、舞台はアメリカなので時差が14時間~17時間。

深夜から午前中に試合があるので、普通に働く人は時刻的に厳しいものがあります。

しかし大谷選手の二刀流出場の際は、ABEMAが無料配信してくれることがほとんどです。

また、天候の影響でダブルヘッダーに変更となり、第1試合がデーゲームとなりました。この日は色々な条件が重なり、早朝から観戦することができたのです。

アメリカの著名な起業家、ジョー・ポンプリアーノ氏はこう言ったそうです。

「エンゼルスだろうが気にしない。オオタニがプレーする試合は全て全米中継すべきだ」

「彼はとても特別なので、子供たちに彼が実在するのだと納得させないといけない」

この日記を書いている時点で、打者・大谷は本塁打44本⇒1位(両リーグ合わせて1位)、打率3割5厘⇒3位、打点92⇒3位、OSP⇒10割7分5厘⇒1位(両リーグ合わせて1位)。

投手・大谷は、10勝⇒9位、防御率3.14⇒5位、奪三振率11.39⇒2位、被打率1割8分3厘⇒1位(両リーグ合わせて1位)。

2021年は本塁打46本、防御率3.14、9勝2敗。満票でMVPを獲得した成績を超える勢いの活躍です。

2022年も、本塁打34本、10勝、防御率2.33。野球の神様、ベーブルース以来、100年振りに二桁本塁打、二桁勝利を達成。アーロン・ジャッジ選手のアメリカンリーグ新記録の本塁打62本がなければ、MVPだったはずです。

野球界において100年に一度、もしかすると今後は二度と目にすることができないかもしれない、神話レベルの活躍を、アメリカの子供だけだなく、私も観たい。ポンプリアーノ氏の意見に100%同意するのです。

3年連続MVPレベルの活躍を続ける大谷選手が、人間であることを多くの人が忘れていたかもしれません。もしかすると、本人も……

日本時間、8月24日(木)朝5時。

シンシナティ・レッズとの今季2試合目が始まりました。

1回表、投手・大谷は二者連続三振を含む三者凡退でレッズ打線を無失点に抑えます。

投手としての活躍への期待も高まる一方。

そして、その裏の攻撃。先頭打者がフォアボールで歩くと、打者・大谷は初球をフルスイング。

乾いた打球音を残して、149km/hのストレートを右中間スタンドに叩き込みました。

44号ホームランは、両リーグあわせての単独ホームランキングとなる一発でした。

歌手の小田和正さんが「大谷君がホームランを打つと一日中、元気」と言っていましたが、良く分かります。

リアルタイムで、大谷選手の活躍を観れることは稀なので、本当に幸せな気持ちになります。「すっごいなあ~っ!」と思わず感嘆の声を洩らすだけですが。

しかし2回表の途中、違和感を感じた彼は自らトレーナーを呼び降板。

そのまま精密検査に直行すると、右ひじの内側側副靱帯の損傷がわかり、投手としては今シーズン登板しないことが発表されました。

それでも、ダブルヘッダーの第2試合には2番指名打者として出場し、2塁打を記録しました。

全く関係のない、私が落ち込んでしまうくらいの状況ですが、出場を続け、その後も結果を出し続けているのは報道の通りです。

今季のエンゼルスは、主力選手が怪我で続々と離脱。プレーオフ出場を目指し、夏の補強をしたにもかかわらず、連敗を続け、勝率5割を切っています。

春のWBC(ワールド・ベースボール・クラッシック)から、怒涛の活躍を続ける大谷選手は、ひとりで多くのものを背負い、限界まで体を酷使。ここに至ってしまったのでしょう。

先日紹介した、大念佛寺の前にこんな言葉がありました。

死の無常を忘れると

生がぼやけてくる

「無常」は仏教用語で、全てのものは絶えず変化し、少しの間も同じ状態にとどまっていないことを意味します。

私もいつか死を迎えます。そして、大谷選手もいつか現役を終えることになります。

現在29歳になったばかりで、野球選手としては間違いなくピークの時期にあります。それだけに、もっともっと二刀流の活躍を見ていたかった……多くの世界中のファンが思っているでしょう。

大谷選手はこんなことを言っていました。

「自分で二刀流と言ったことはありません。投げるのも打つものもどちらもするのが僕のスタイルなので」

そもそも、二刀流ですらないと言っているのです。

前例のない状態でフル出場を続ける大谷選手に、参考になるものは何ひとつありません。

まさに孤高の道を突き進む彼の姿に、多くの人が心動かされます。

好きな光景があります。

どんな球場へ行っても、大谷選手が塁上にやってくると、名だたるメジャーリーガーが集まって来て、声を掛け、笑いあっています。

誰もが彼に興味を持ち、話したいのです。

言葉も、人種も、全てを超える活躍が生む、素晴らしい光景。そんな景色を私も見てみたい……

おこがましい望みですが、大阪の下町で、50歳を過ぎた男が、本気で感動し、喜び、高い目標を掲げます。

この現実も、彼の神話レベルの活躍が生む効果のひとつです。

異才、異次元の活躍、この惑星一の選手、ユニコーン……

後に「史実」となるであろう現実を、見逃す訳にはいきません。良いことも、そうでないことも。

遅ればせながらどこかと契約し、大谷選手をいつでも観れるようにしようかなと思案中です。

■■■4月6日 『かんさい情報ネットten.』 浅越ゴエさんのコーナー に出演

■ 『ESSE-online』にコラム連載

10月11日「テレワーク時代の間取り」
9月18日「冷蔵庫の位置」

■11月28日『homify』の特集記事に「回遊できる家<リノベーション>」掲載
■11月17日『homify』の特集記事に「下町のコンクリートCUBE」掲載

メディア掲載情報

大リーグ養成ギブスじゃなかった‐1993‐

■半地下の音楽室がある「没頭できる家」オープンハウス開催■

場所:大阪府南部
天王寺駅から電車で30分
日時:2023年 3月26日(日)10:00~16:00
詳しい場所はお申込み後にメールでお送りいたします。

昨日は早起きして、阪神電車で三宮へ。

6時台にも関わらず、かなりの人出です。

高速バスで淡路島へ向かいました。

明石海峡大橋を渡る時、何故これ程ワクワクするのでしょうか。

岩屋の町が見えてきました。

目的は3月上旬に視察した建築計画の調査でした。

計画地は西浦ですが、担当行政機関が集まる洲本までやってきたのです。

洲本は何度か来たことがありますが、歩き回ったのは初めてです。

勿論海もあり。

レトロ通りあり。

山が近くに迫るのもいい感じです。

またしっかり書いてみたいと思います。

行きの高速バスに乗っている間に、WBCの決勝戦が始まりました。

ネット配信で、アメリカの初回攻撃を今永が抑えたところだけ観ることができました。

いい試合になりそうだなと思いながら、アポイントを取っていた行政機関へ向かいました。

濃いピンクはアーモンドでしょうか。汗ばむほどの陽気です。

打ち合わせすると課題がでてくる。その課題を解決するために他の行政機関への移動。これを繰り返します。

移動中にアメリカ戦を観ようとするも、回線が混んでいるからか繋がらず。

これは「あなたも自分の仕事を頑張れ」という事かなと思い、ギアを上げて洲本市内を駆けずり回りました。

多くの課題は解決方法が見え、予約していた帰りのバスに何とか駆け込みました。

三宮から再び阪神電車に。

ようやく梅田に戻ってきたのです。

するとこんな看板が。

春の高校野球に合わせてでしょうか。

私の世代なら、「巨人の星」より「ドカベン」でしょうか。

中学、高校時代はやっぱり「タッチ」です。

中学野球を描いた「キャプテン」と、高校へと続く「プレイボール」も含めて、全巻コミックで読みました。

思い入れとしては「キャプテン」 が一番強かった気がします。

家に帰ってから、録画していたWBCの決勝戦を観ました。

「漫画でもこういうストーリーは描かない」という言葉が冠される大谷翔平選手。

オールスター軍団と言ってよいアメリカを破り、日本を世界一に導く原動力となりました。

最後の場面は、ダルビッシュの後を継いでリリーフ登板。

MVPを3度受賞のエンゼルスの同僚、マイク・トラウトを三振に切ってとりました。

投手と指名打者でベストナイン、そして大会MVPを受賞。

投げては星飛雄馬、打っては山田太郎、恰好よさは上杉達也。完全に漫画の世界のヒーローを超えています。

侍ジャパンのメンバーも、キャラクターが立っていました。

陽気で熱血漢のヌートバー。憎めないルックスと裏腹の打撃力、近藤健介。小柄ながら、信じられない破壊力と正確さを備えた、吉田正尚。最後の最後に爆発した、最年少三冠王村上宗隆。おっとり顔から想像できない長打力の岡本和真。ここ一番は何とかしてくれる山田哲人。骨折しながらも出場を続ける守備職人、源田壮亮。どこにでもいそうな雰囲気で打ちまくった中村悠平。

甲斐キャノン、2本塁打の牧、超オーバースローの湯浅。サイドからの剛速球、大勢。165km/hの佐々木朗希……

出きれば全員書きたいところですが、侍ジャパン自体が漫画を超えていたのかもしれません。

日本が誇るメジャーリーガー、ダルビッシュ有と大谷翔平が繰りかえした言葉は「楽しむ」でした。

一流のメジャーリーガーになる為に必要なのは、大リーグ養成ギブスではなかったようです。

星飛雄馬、山田太郎、谷口タカオに思い入れた世代は、ついつい歯を食いしばって、となってしまいます。

世界一となった2人の言葉を見習って「楽しむ」を心掛けたいと思います。

準決勝で辛勝したメキシコの監督の言葉も各所で取り上げられました。

日本が勝った。だが、今夜の試合は野球の勝利なんだ。

元野球少年だった私にとっても、夢のような2週間でした。

ありがとう侍ジャパン。そして野球。


『建築家・守谷昌紀TV』 ■

■■■6月9日 『住まいの設計チャンネル』 「おいでよ House」公開

■■5月13日『住まいの設計6月号』「おいでよ House」掲載

■6月16日 『ESSE-online』「おいでよ House」掲載

■ 『ESSE-online』にコラム連載

10月11日「テレワーク時代の間取り」
9月18日「冷蔵庫の位置」
6月18日「シンボルツリー」
6月5日「擁壁のある土地」
4月11日「リビング学習」
2月27日「照明計画」
2月14日「屋根裏部屋」
2月1日「アウトドアリビング」
1月4日「土間収納」

■11月28日『homify』の特集記事に「回遊できる家<リノベーション>」掲載
■11月17日『homify』の特集記事に「下町のコンクリートCUBE」掲載

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大谷翔平いよいよ登場‐1988‐

今日の日の出は6:22。

朝、空が白むのも早くなってきました。

ジョギングコース途中の公園では、日曜日は草野球の試合をしていることがほとんどです。

外野の後ろから少し見ているとこちらに打球が飛んできました。

小学校、中学校と野球をしていた私としては、たまにはキャッチボールでもしたみたいなと思ってしまうのです。

などと書いていたら、ワールド・ベースボール・クラッシク(WBC)の強化試合が始まったようです。

ロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平選手が、3番DHで出場とのこと。

昨日は、打撃練習だけで球場を魅了したというニュースが上がっていました。

今日は大阪の京セラドームでの試合なので、生で見れるチャンスがあったと思うと何とも……

松井秀喜、イチローが引退した時も、一度はアメリカで生のプレーを見ておきたかったと後悔しました。

世界最高の選手といってよい大谷選手が現役の間に、何とか本場の球場で観戦したいと思います。

その大谷翔平選手も心酔し、松下幸之助、東郷平八郎、そして私の尊敬する稲盛和夫さんも大きな影響を受けたのが、思想家の中村天風さん。

その著書が『運命を拓く』です。

「天風哲学」は、前向きな考え方で人生は全く違ったものになるというものです。

消極的な言葉も決して使ってはならないとあります。

しかし、凡人である私たちはつい使ってしまうもの。そんな時にはこうすれば良いそうです。

もし「ああ暑い、どうにもやりきれない」と言ってしまったとしたら、続けて「と昔は言ったけれど」とすぐに打ち消しておけばよろしい。

これなら私にもできそう、と思わせてくれるのが 「天風哲学」 の神髄かもしれません。

稲盛さんは、中村天風さんの言葉をもとに考えた、この言葉をこよなく愛していたと思います。

新しき計画の成就は、只不屈不撓の一心にあり。さらばひたむきに、只想え、気高く、強く、一筋に。

残念ながらシカゴ・カブスの鈴木誠也選手が怪我で辞退となりました。

それが痛くはありますが、今回は史上最強の呼び声も高い侍ジャパン。

何より、投手力は優勝候補のアメリカやドミニカ共和国を上回っているとも言われます。

気高く、強く、一筋に、世界一の称号を勝ちとって欲しいものです。

『建築家・守谷昌紀TV』 ■

■■■6月9日 『住まいの設計チャンネル』 「おいでよ House」公開

■■5月13日『住まいの設計6月号』「おいでよ House」掲載

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「いつも言うように、一番大切なのは家族」メッシ‐1967‐

ワールドカップのカタール大会は、アルゼンチンの優勝で幕を閉じました。

延長、PK戦までもつれ込んだので、日曜深夜というよりは月曜の早朝でした。

前半にメッシが決めれば、後半終盤にエムバペが決めて追いつくというスリリングな展開。

全く目の離せない展開でした。

延長でも、共に1点ずつ決めましたが、最後はPK戦でアルゼンチンに軍配が上がりました。

ワールドカップ以外は全てを手にいれていたと言って良いメッシですが、代表戦では思うような結果を出しきれず、非難を浴びることもありました。

ワールドカップトロフィーを受け取ってすぐ、キスをしたのです。

大会中の新聞各紙には、元サッカー選手の評論が多く掲載されていました。話の展開がスムーズで、かつ表現が多彩。

こちらも楽しませて貰いましたが、元日本代表の宮本恒靖さんはこう結んでいました。

「神の子から神になった」

MVP、最優秀ゴールキーパー、得点王の3ショットです。

この時点で23歳のエムバペは、7得点のメッシを上回る8得点での受賞。

通算得点で言えば、35歳のメッシが13得点ですが、すでにあと1点と迫っています。

ワールドクラスの怪物が、どのような次元にいるかを、まざまざと見せつけました。

その怪物には失礼かもしれませんが、愛嬌のあるルックスがなんとも可愛いのです。


最優秀若手選手も交えた4ショットです。

何かとお騒がせなゴールキーパーとの距離感が、色々なことを物語っている感じもします。

チームの中心へと歩くメッシは、飛び切りの笑顔でした。

そしてトロフィーリフト。

試合後ではこのシーンがハイライトだったでしょう。

私はここまでで切り上げ、寝室に向かいました。

「いつも言うように、一番大切なのは家族」

メッシのコメントの中で、繰り返しでてきたフレーズで、ずっと頭に残っています。

桁違いの成功をおさめてきた選手だからこそ、最高の称賛を受けることもあれば、辛辣な批判を埋けることもあるでしょう。

結果に関わらず、常に応援してくれるのは家族だけ、ということなのだと思います。

大切にしたから成功したのか、成功の過程で大切にするようになったのか、それとも、ずっと大切にしてきたのか……

決して、家族を大切にしていないつもりはありませんが、仕事より家族を優先したことは無い気がします。

それが、プロとしての誠意だと思っていました。

それでなおさらメッシの言葉を考えてしまうのです。

18日(日)の夜、ふるさと納税の返礼品の河豚が届きました。

私はちょっと我慢をして、子ども達に沢山食べさせました。

ひとまず私は、このくらいのことから始めてみたいと思います。

今は、眠たくも、楽しい1ヵ月をありがとうございました、という気持ちです。

世界最高の舞台での真剣勝負。その場に日本が登場するときはいつかやってくるのか……

夢をみながら、まずは4年後を楽しみにしています。

■6月16日 『ESSE-online』「おいでよ House」掲載

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4月11日「リビング学習」
2月27日「照明計画」
2月14日「屋根裏部屋」
2月1日「アウトドアリビング」
1月4日「土間収納」
12月6日「キッチン・パントリー」

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世界最大の祭典開幕。50億人のモチベーション‐1959‐

11月20日(日)にワールドカップ、カタール大会が開幕しました。

世界人口80億人のうち、50億人が視聴すると言われる世界最大の祭典です。

昨日は日本代表の初戦。

ドイツ戦でいきなりやってくれました。

祝日の22時キックオフは大変ありがたい時刻。

普段はスマホにかじりついている子供たちも、テレビの前で一緒に応援しました。

開始早々の7分。いきなり見せ場をつくります。

右サイドを、伊東が得意のドリブルで持ち上がり、中央の前田大然へ。

決まったかに見えましたが、残念ながらオフサイド。それでも日本が得意の形を見せ、期待感は高まります。

しかし前半はここからが長かった。

日本の戦術、ハイ・プレスが全く機能せず、ドイツに面白いようにあしらわれます。

まるで子供扱いで、ここまで差があるとは想像していませんでした。

ゴールキーパーの権田は好セーブを連発し、最終的にはマン・オブ・ザ・マッチに選ばれるのですが、ゴール前でファールをとられてしまいます。

このPKを決められ、前半33分に1点を奪われました。

その後、追加点となってもおかしくない場面もありましたが、VAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)判定でオフサイド。

優勝候補でもあるドイツに、何とか1失点で前半を折り返しました。

この時は「これは大敗するのでは」と、正直思ったのです。

森保監督がいきなり交代のカードを切ります。

後半開始から、久保に代わって怪我の心配もあった冨安を投入。

ビッグクラブ、アーセナルに所属する実力に期待が高まります。

このタイミングで3バックにシステムを変更しました。

日本代表戦しか見ないレベルのサッカーファンですが、日本人監督は基本的に動くのが遅い印象があります。

しかし、今大会の日本代表は凄かった。

続けて、後半12分に三苫と浅野を投入します。

システムの変更で得意のハイ・プレスが機能しはじめ、良い時間帯が増えてきました。

さらに後半26分に堂安、30分に南野を投入し、超攻撃的な布陣を組みます。

左サイドをイギリスのブライトンで活躍する三苫が得意のドリブルで突破。

そして南野へスルーパス。

後半30分、角度のない位置からシュート。

リヴァプールそしてモナコに移籍し、結果がでていないことに忸怩たる思いがあったでしょう。

しかしその技術は本物でした。

キーパーがはじいたこぼれ球を、尼崎の星、堂安が決めてくれました。

試合後のコメントも「絶対俺を使え!」という感じ。

このふてぶてしさも彼の魅力です。

そして後半38分。この浅野のトラップが全てだったでしょうか。

2ヶ月実践を離れていた彼を、森保監督が呼び寄せた訳です。

世界最高レベルと言われるノイヤーの、狭いニヤサイドから上に向かって撃ち抜きました。

早い交代、戦術の変更、流れの中からの2ゴールで逆転。

こんな胸のすくような試合は見たことがありません。

しかも相手はワールドカップ4回の優勝を誇る、強国ドイツです。

浅野のゴールも、ボランチ遠藤の貰ったファールからのフリー・キック1本で生まれたものでした。

ドイツ1部リーグで、対人の強さナンバーワンは伊達ではありません。

また、ヨーロッパ・チャンピオンリーグで3試合連続ゴールを決めている鎌田。

彼の実力もこんなものではないでしょう。本当に日本代表も多くのタレントが集まったものです。

日本代表は、1997年「ジョホールバルの歓喜」で1998年フランス大会で初出場を果たしました。

中田英寿のシュートをゴールキーパーがはじいたこぼれ球を、野人・岡野が流し込んだのがつい先日のようです。

私はアトリエmを設立して2年目の27歳の時でした。全く先など分からない、ただ夢しかない自分の人生を重ね合わせていた気がします。

名曲に人生の一場面を投影するように、50億人のサポーターもこの大会に人生を投影します。

それが年輪のように刻まれ、後の人生のモチベーションとなるのです。

ただそれは名曲でなくてはなりません。最高の試合を日本代表が見せてくれました。

次のコスタリカ戦でグループリーグ突破を決め、もう1本、深い年輪を刻ませて欲しいものです。

頑張れ日本代表。そしてそれ50億人。

■■5月13日『住まいの設計6月号』「おいでよ House」掲載

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主人公は人。素敵、自転車‐1949‐

前回、堺の三国ヶ丘にある、方違神社を訪れたと書きました。

TOTO堺ショールームのリサーチをしていた時に見つけたのですが、すぐ近くにシマノ自転車博物館もありました。

以前は仁徳天皇陵近くにあったのですが、今年の3月に移転、リニューアルオープンしていたようです。

場所は南海電鉄の堺東駅から北に200mほど。

以前から一度行ってみたいと思っていたのです。

方違神社からは車で1分ほどでした。

設計は、本社と同じく芦原太郎建築事務所。

外観は極めてシンプルですが、外壁については中に入ってから驚きました。

はじめに見る動画だけでも、かなり見応えがあります。

自転車の進化の歴史と共に、今すぐに自転車で出掛けたくなる映像が満載です。

2階には曲面壁にそって、時系列に自転車の歴史が分かるよう展示があります。

自転車の始祖となったのがこの「ドライジーネ」。

ドイツ人発明家が1817年に考案しました。

まだペダルはなく、地面を蹴って進むものです。

当時の乗り物と言えば、馬車か馬くらいしかなく、貴族以外は歩くしか移動の手段がありませんでした。

このドライジーネは、歩く3倍の距離を移動できるという触れ込みもあり、若者を中心にかなり流行ったそうです。

2輪の乗り物はここから進化を始めます。

1861年に発売された「ミショー」はペダルを備え、足が地面から離れます。

より早く走れるようになり、人々は旅や競争を楽しむようになりました。

よりスピードを求め、前輪が大きくった「アリエル」の進化型の「オーディナリー」。

「アリエル」 の金属製のリムとスポークがより大きな車輪を製作可能とし、現在にも受け継がれています。

しかし転倒の危険も大きく、1885年にギアとチェーンで後輪を駆動する構造が発明されます。

現在の自転車の原型が出来上がったのです。

ほぼ同じ頃、空気入りのゴムタイヤが実用化されます。

これによって劇的に乗り心地が改善されたのです。

あまり大きく取り上げられていませんでしたが、その名が現在まで残っていることがその偉業を物語っています。

この曲面壁の展示室の外周は、ギャラリーになっています。

白いパネル状の外壁は光を透過する素材でした。

壁面全体からの拡散光が、室内と展示物を優しく照らします。

非常に良い空間でした。

面白いところでは、1959年の皇太子御成婚時に献上された菊の御紋つき自転車。

1980年、人力で走る乗り物最速、時速91.19kmを記録した「ヒューマン・パワード・ビークル」などがありました。

世界最速のウサイン・ボルトが約時速45kmですからその倍。

テクノロジーの力を感じざるを得ません。

館名に「シマノ」と入っていますが、自社のPRなどは最小限で、あくまで「自転車」にスポットを当てています。

それらも含めて、非常に気持ちのよい博物館でした。

緑化スペース越しに仁徳天皇陵が見えています。

本当に市街地の中心にあるのです。

中世から包丁や鉄砲鍛冶が集まる堺は、明治に入ってから自転車部品の一大生産地となりました。

中でもシマノはスポーツ自転車部品の世界最大手です。

私にとっては、釣具メーカーとしての方がなじみがあります。

ベイトリール「アンタレス」は本当に使いやすいリールで、名器と言ってよいでしょう。

私の通勤用自転車は、アメリカのschwinn(シュウイン)メーカーのものです。

カゴ付き自転車の中で、一番美しいものをとサイクルショップで探してもらいました。

購入したのは9年前で、ほぼ毎日乗るのであちこち傷だらけですがとても気に入っています。

ブレーキを見てみると「SHIMANO」とありました。

縁の下の力持ちとは、こういった企業を指すのでしょう。

ディスクブレーキを修理してくれるショップがなかなか無いのだけが玉に瑕ですが。

自らが転がす車と書いて「自転車」と呼びます。つまり自転車を動かす主人公は「人」であり、その楽しみ方は人の数だけあるということです。

館のはじめに掲げられていた言葉です。

車やボートと、どちらかといえば動力派でした。

環境負荷が少なく、健康にも良いのですから、もう言う事無しの乗り物です。

限りなく自由で、素敵な自転車。

その歴史がわずか200年足らずということにも驚きました。

今週末にでも少し手入れをしてあげなくてはと思っています。

■■5月13日『住まいの設計6月号』「おいでよ House」掲載

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2月14日「屋根裏部屋」
2月1日「アウトドアリビング」
1月4日「土間収納」
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■■1月6日『Best of Houzz 2022』「中庭のある無垢な珪藻土の家」が受賞

■6月11日『homify』の特集記事に「R Grey」掲載
■1月8日『homify』の特集記事に「光庭の家」掲載
■1月7日『homify』の特集記事に「白馬の山小屋」掲載

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チャレンジ&アジャスト‐1879‐

先程、 『ESSE-online』 のコラム第4弾、「屋根裏部屋」が公開されました。

Yahoo!ニュースにもUPされています。

これまで設計してきた、屋根裏部屋を5件とりあげています。

まずは「阿倍野の長屋」

次は「碧の家」

そして「神戸の高台の家」

ここまでは3件はリノベーションです。


「千葉の家」

そして「おいでよ House」は新築です。

「おいでよ House」のこの写真は、奥さんに追加で撮影してもらいました。本当に有り難いかぎりです。

よく書けたかな?と思っているので、よければ一度読んでみて下さい。

日曜日は遠方の方との初期相談で、リモートで打合せでした。距離がある場合は特に助かります。

画像や資料は画面共有できるので、内容によってはリモートの方が合っている場合もあると思います。ただ画面は1つなので、基本的に見て貰えるものも1つになります。

リアルの面談なら、テーブルの上にいくつか資料を広げることもできますが、このあたりが力量を問われるところでしょうか。

何をどんな順番に見て貰うかで、密度が全く違ってきます。どんな話の展開になるかを、想像しておく必要もありますし、流れによって、いくつかのバリエーションを準備しておくことも大事です。

仕事は準備と想像力なのだなと最近つくづく思います。

北京オリンピックも中盤を過ぎました。環境に左右されやすいウィンタースポーツはその対応力が結果を大きく左右します。

それが空中でのこととなれば、素人にはもはや想像がつきません。小林陵侑選手に続き、平野歩夢選手も史上初への挑戦と見事な対応力で金メダルを獲得。

多くの国民が「さあ頑張るぞ」と思ったに違いありません。

コロナ下の社会になり、仕事のスタイルもどんどん変化していきます。「これまでこうだったから」は通用しないのです。


変化を柔軟に受け入れ、進歩していかなければならないと感じます。

寒い寒いと言っていたら、近所の梅はもう満開でした。

ある日、ウグイス色をしたメジロ(ウグイスではなく)が梅の花をついばんでいました。

今日はバレンタインデー。妻と娘から貰う(予定の)チョコレートをついばんで、ちょっとワインをいただく予定です。

チャレンジ&アジャスト

私も本気で金メダルをめざします。

■■■ 『ESSE-online』にコラム連載■■■
12月6日「キッチン・パントリー」
1月4日「土間収納」
2月1日「アウトドアリビング」
2月14日「屋根裏部屋」

■■ 8月17日『建築家・守谷昌紀TV』を開設しました ■■

■1月6日『Best of Houzz 2022』「中庭のある無垢な珪藻土の家」が受賞■

■1月8日『homify』の特集記事に「光庭の家」掲載
■1月7日『homify』の特集記事に「白馬の山小屋」掲載
■10月23日『homify』の特集記事に「阿倍野の長屋」掲載

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◇一級建築士事務所 アトリエ m◇
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

頑張れニッポン!‐1877‐

土曜日は敷地調査へ向かうために、車で家をでました。

阪神高速の松原線に乗るとすぐ目に入ってくるのがあべのハルカス。

そして通天閣。

ディープな南大阪に住んでいる証しです。

あまりにも天気が良いので窓を開けてみると、びっくりするくらい寒い!

日中で4℃とはかなりの寒さです。

何か雰囲気が変わったなと思っていたら、阪神高速は11月末にリニューアル工事を終えたばかりでした。

表示はかなり見やすいですが、車線が減っているところもあり、多少あたふたしました。

道を知っていてこれなので、はじめて阪神高速に乗る人は大変だろうなと思います。

運転しながらこの標識群を理解するのは、相当に難易度が高いはずですから。

北摂へ向かう時は、環状線から池田線に乗り替えます。

空港を過ぎたあたりの景色が気に入っていますが、「路外パーキングサービス」があることは十分認知されているのでしょうか。

池田線では、豊中南出入口付近の「ロイヤルホームセンター豊中」がそれにあたります。

2時間以内なら、ここに立ち寄っても通常料金で済むのです。

シオノギ製薬の医薬研究センターを過ぎ、名神とのJCTを越えるとすぐに見えてきます。

Webサイトで見ると3月末までの社会実験とありました。

都心部の高速道路はサービスエリアがあまりないので、出来れば続けて欲しいところです。

池田線を走っている時は、どこかで飛行機を期待しています。

帰りはグッドタイミング。

JALの鶴丸マークが見てとれました。

日曜日の夜、北京オリンピックでも見てみようかとテレビをつけると丁度スキージャンプの決勝。しかも小林陵侑選手の2本目直前でした。

20分くらいの観戦で、金メダルの瞬間を見せて貰うことができました。

個人に限れば長野オリンピックの船木選手以来の金メダル。ノーマルヒルにおいては札幌五輪以来50年振りの文字が踊ります。

JAL ではありませんが「日の丸飛行隊」の面目躍如です。

先のシオノギ製薬は、薬の町、大阪の道修町が本社。

コロナのワクチンでは海外の製薬メーカーに遅れをとりましたが、是非一矢報いて欲しいところです。「物づくりの国、日本」の面目躍如となるはずです。

微妙な時期に、微妙な国での開催ではありますが、やはり人類の頂点を見せて貰えるオリンピックは特別な機会です。

この日記を書いていて、ふと「麗しのサブリナ」でのヘップバーンのセリフを思い出しました。

人生とは何か。
どう生きるべきかを知りました。
傍観者ではだめだと。
……もう、人生から逃げはしません

ある若者にこの言葉を送ったことがあります。

読み返すと、我ながら偉そうなことを書いているなと思います。しかし本心です。

学びは必ず年長者から有る訳ではありません。若者から学ぶことも多々ありますし、時には我が子から学ぶこともあります。

その気持ちを忘れなければ、いつまでも成長できるはずですし、そう信じます。

頑張れニッポン!

ニッポンには勿論私も家族もある若者も含まれます。

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野球狂、水島新司‐1874‐

アトリエmのWebサイトには建築家プロフィールのページもあります。

その中に、BIOGRAPHY/おいたちのページもつくり、1970年、0歳から何枚かの写真を掲載しました。


1974年、4歳。

私のスポーツ歴はスキーから始まりました。

1980年、小学5年生。

しかし小学校で熱中していたのは野球です。

3番サードだったので、多少の自信は持っていました。

低めを打つのが得意でしたが、これはファール(笑)

並行してソフトボールもしていましたが、こちらではピッチャー。

春と秋に地域の子供会単位で優勝を競うのですが、区大会にでる時は小学校オールスターです。そこでもエースでした。

平野区は学校が多く、決勝まで6試合くらいあったと思います。準決勝までは完璧に抑えていたのですが、決勝は打ち込まれて結局準優勝。

前列左から二番目が私ですが、泣きはらしていたと思います。メダルを掛けていないのは悔しかったからかもしれません。

1984年、中学2年生。

中学に入っても野球です。後列の真ん中でチームメイトの頭にピースしているのが私です。

身長は一番小さい部類でしたが、2番ショートでした。実は坊主頭にするのが嫌で、高校は野球部に入りませんでした。

野球は大好きだったので、今の世の中なら野球を続けていたと思います。

1989年、予備校生。

今は無き大阪北予備校のクラス対抗ソフトボール大会。

十三に予備校があったので、淀川の河川敷で真っ黒になるまで練習していました。


なぜ予備校にそんな大会があるのか分かりませんが、5回戦くらいあるトーナメントで優勝。

決勝では文系のトップチームをやっつけました。練習量が違いますから。

1992年、大学3回生。

大学に入るとスキーに戻りますが、学生時代の中盤、一番好きなスポーツは野球でした。

先々週逝去された水島新司さんの漫画は沢山読みましたが、心に残っている作品があります。確か「野球狂の詩」の中にあったなと思い探してみると、見つかりました。

劇場版の映画にもなっていたようです。

製作会社のサイトに「ストーリー」がでていました。

北の狼南の虎 [劇場版]

東京メッツのエース・火浦健には、父親の仇討ちをして逮捕され、野球を挫折した過去があった。しかし、甲子園の英雄・王島大介のプレーを見て再起を期す。メッツに入団した健はある日加代という女性と知り合うが、加代は幼い頃いなくなった母親だった。実は、健と大介はまだ赤ん坊だった頃火災に会い、母に捨てられ生き別れとなっていた双子の兄弟だった。真実を知った健は兄弟対決の末優勝し新人王を獲得し、加代を「かあさん」と呼ぶ。TVシリーズの「勇気編」終了後、好評だった前後編のエピソードを編集して映画化。


代表作「ドカベン」も大好きでしがたが、憂いを秘めたキャラクターが多く登場する「野球狂の詩」は、特に心に残っています。

そのひとつが「北の狼南の虎」です。上のストーリーを少し補足してみます。

北の狼こと火浦健。彼は赤ん坊の時、事情あって母に捨てられます。彼を道端で拾ったのは侠客でした。家族を失ったばかりの彼は、男手ひとつで赤ん坊を育てるのですが、その場面が何とも切ないのです。

成長した火浦健は、甲子園にでるため父に組を辞めて欲しいと伝えます。その結果、父は組に盃を返しに行くのですが、リンチにあい命を落としてしまうのです。

事情を知った火浦健は、父が封印していた日本刀をもち、組事務所へ仇討ちに向かいます。刑期を終えた火浦健は東京メッツに入団し、双子の兄弟と新人王を争うというストーリーです。

おそらく読んだのは40年程前だと思いますが、鬼気迫る表情だったり、悲哀に満ちたストーリーが忘れられません。

子供の頃、家業の手伝いで大好きな野球ができなかったことが、水島新司さんをここまでの野球狂にした動機になったそうです。

人、言葉、本、漫画、音楽、映画、スポーツ……

自分という人間が形成されるにあたって、どれだけのことが影響しているのでしょうか。

野球の面白さ、人生の悲哀を教えてくれた野球狂に心から哀悼の意を表します。

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大阪下町ダイバーシティ‐1871‐


1月7日『homify』の特集記事に「白馬の山小屋」掲載 されていました。

こちらは1998年完成。私にとって2つ目の作品です。

と思っていたら、翌1月8日『homify』の特集記事に「光庭の家」も掲載されていました。

こちらは2006年の作品。初めて『住人十色』『住まいの設計』にも取り上げて貰いました。

特に連絡もないので、SNSで偶然見かけて知りました。結構そんなケースが多いのです。

日曜日は打合せのあと、「セブンパークス天美」に初めて寄ってきました。

妻が車で行きたそうにしていたので、私としてはサービスのつもりです。

大阪市内からなら大和川を渡るとすぐ。

阪神高速の松原線、三宅出口から西に1kmあるなしの距離です。

夕方だったのでそれなりの車列でした。

しかし駐車場が大きく、待ち時間は苦にならない程度。

屋上から南東を望むと二上山も見えますが、畑の中にポツンといった立地なのです。

フードコートには「神座」。

ロフトや無印が入っているのが、イオン系との違いでしょうか。

天美スタジアムという大きなイベントスペースは、なかなか好感がもてます。

野菜の格安店らしく、凄い列でした。

時期が時期なのでこちらは避けておきました。

海産物の専門店もあり、エビが安かったので夕食はエビフライに。

私がこの世で一番大好きな食べ物なので、サービスした甲斐がありました。

と思っていたら、娘も卓球の大会で3位だったと連絡があり、ちょっとしたお祭り気分だったのです。

三宅出口とセブンパークスとの間にはスポーツパーク松原スケートパークがあります。

そこにはこの横断幕。

史上最年少金メダリスト、西矢椛(にしやもみじ)選手のホームグランドでした。

信号待ちでとまると、親子鷹なのか熱心に練習しています。

これがなかなかの迫力なのです。

今日「ドカベン」などの作者で知られる、水島新司さんの訃報が届きました。昭和50年代の大阪の下町。男の子は野球以外のスポーツは知りませんでした。

阪神の矢野監督もたしか出身が近所だったと思います。

それはそれで競争も激しく楽しかったのですが、現在の多様性と比べると、全く別の国のようにさえ感じます。

卓球、スケボー、野球……選択肢が無限だからこそ、決めることは大変だろうなとも思います。ダイバーシティの波は、確実に大阪の下町にも押し寄せていました。

すると先程、あるクライアントから「長男が第一希望の中学校に合格しました!」と、喜び溢れるメールが届きました。

設計をしていた時は、小学校に入る前だったはず。本当に時間が経つのはあっという間です。

阪神淡路大震災からも今日で27年。

選択肢は無限でも、選べる道は1本しかありません。そのことに置いて悔いはありません。

鬼籍に入った 水島新司さん追悼の記事は回を改めて書いてみたいと思います。

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