カテゴリー別アーカイブ: 07 食

大阪の宝‐1333‐

 先月下旬に、小学校で学習発表会がありました。

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 2年に一度の開催だそうです。

 長男は小学6年生なので今年で最後。合唱、合奏でした。

 こんな時、一所懸命に歌えるのが彼の良いところでしょうか。

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 下の娘は小学3年で「大阪の宝物」という劇を演じました。

 阪神タイガース、粉もん、通天閣、大阪のおばちゃん、大阪弁……

 大阪の宝は何かを考察しながら劇は進行して行きます。最後は人だという結論で、とてもよくできた劇でした。

 四季は日本の宝と書きました。果たして大阪の宝とは。

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 この季節は銀杏並木が美しい御堂筋。

 幅44mの道路が、4kmにわたって2つの街を結んでいるのは、都市計画上も大変珍しいものです。

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 八百八橋で表される、水の都。車社会以前は、水運こそが流通の要でした。

 土佐堀川は表川と呼ばれたそう。

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 60周年を迎える通天閣。

 エッフェル塔周りの都市計画を参考にしているので、ここが大阪のシャンゼリゼ通り。

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 久し振りに日本橋を歩いてきたのですが、その変わりように驚きました。

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 中学生のころ、マクセルのUDⅡというカセットテープを少しでも安く買おうと、歩き回った電気屋街。

 当時は閑散としていた裏通りでさえこの人出です。

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 北にあるグランド花月へ抜ける道具屋筋も賑わっていましたが、黒門市場はまるで東南アジアのマーケットのようでした。

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 「夫婦善哉」で知られる無頼派作家、織田作之助。通称織田作(おださく)。

 彼がお金を無心してもらったという波屋書房は、なんば南海通りにあります。

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 彼の愛した洋食屋・重亭

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 そして「夫婦善哉」に登場する、ライスカレーの自由軒。

 織田作は大阪人をこう表現しました。

 確かに大阪は伝統を守って来た都だ。今日を以って伝統を守るだけなら、骨董屋のおっさんにも出来よう。大阪人を大阪人たらしめるものは、大阪人が永遠の新人という一事だ。

 更にこうも書いています。

 大阪人に共通の特徴、大阪というところは猫も杓子もこういう風ですなという固着観念を、猫も杓子も持っていて、私はそんな定評を見聴きするたびに、ああ大阪は理解されていないと思うのは、実は大阪人というものは一定の紋切型よりも、むしろその型を破って横紙破りの、定跡外れの脱線ぶりを行う時にこそ真髄の尻尾を発揮するのであって、この尻尾をつかまえなくては大阪が判らぬと思うからである。

 そしてその点が大阪の可能性である……

 彼の大阪評は実に鋭いと思います。

 例えば出勤する前、お向かいの奥さんと挨拶を交わします。

 「おはようございます」だけでなく、何か一言加えてくれますし、私もそうします。

 寒いね、晴れたね、お兄ちゃん頑張ってるね、娘さんは愛想がいいね等など。

 娘の劇と同じ結論では芸がありませんが、こうして大阪に旅行者が訪れるようになったのは必然かもしれません。

 悪い側の印象の多くは、やはり人の応対です。

 旅行者の多くが訪れるところはチェーン店ではありません。人が求めるのはやはり人だという証明ではないかと思うのです。

無邪気なもんだ‐1283‐

 昨日は、朝からある現場の敷地調査へ行っていました。

 ファーストコンタクトはとても大切にしています。

 直観は、自分の全人生が導き出したたった一つの答え。どんなことを感じたかは、その建物が無事建った際に。

 調査を終え、娘と2人で滋賀県の琵琶湖博物館へ向かいました。

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 希望は水族館でした。しかし、海遊館をはじめ、近畿の水族館は概ね複数回行っています。

 探してみると、博物館と水族館を合わせたようなこの館を見つけました。淡水の水族館も面白いだろうと。

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 到着すると、水族館エリアは7月14日にリニューアルオープンとのこと。

 大変残念な結果になりました。

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 しかし、それはそれで楽しんでしましたが。

 昼ごはんをと、車で探したのですが辺りになかなか店が無く……

 仕方なく「すき屋」に入ることにしました。(別に言い訳することはないのですが……)

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 で、好きなものを頼んでいいよと言うと「これ」と。

 上うな丼だったか、すき屋で1000円以上の物など、私は頼んだことがありません。

 そこはたまにの娘との食事。にっこりOKしたのです。

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 長男は塾終わりが夜の7時と言うので、大阪に戻り、ミナミで待ち合わせました。

 ナンバヒップスは高松伸の設計で2007年の完成です。

 中央のフリーフォールは現在休止され、クライミングウォールになっています。

 この日は誰も登っていませんでしたが、実際に登れるのでしょうか。

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 戎橋商店街はさすがの活気。

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 りくろーおじさんもこの行列でした。

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 皆の意見を聞いた結果、高島屋にある小籠包の鼎泰豐(ディンタイフォン)に決まりました。

 娘と先に行き30分程並び、妻と長男を迎えたのです。何と出来た父親。

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 こちらは勿論外れなし。

 小6になり、かなりの量を食べるようになりました。

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 娘がアイスを食べたいと言うので、帰りに北極のミルク味を買うと、娘は「これじゃない」と。

 私には十分美味しかったのですが、最近のアイスクリームは、確かにもっと濃厚です。結局コンビニで別のものを買うはめに。

 高島屋で「父の日」という広告を見て、初めて気づきました。結局今年は何もせず。

 自分がしていない以上、子供達からのプレゼントを期待するのは諦めます。健康で、笑顔であってくれればそれで十分ですから。

 前回、「ハリー・ポッターのような魔法は現実にはないよね」と伝えたと書きました。

 娘に「好きなことに、ひたむきに打ち込んでいたら、必ず誰かの役に立てるから」と言うと、「それって魔法なんじゃない」と。

 J・K・ローリングの描く魔法ってそういう意味だったのかも、と一瞬立ち止まってしまいました。

 無邪気であること。それは何よりの強みです。

 未来を背負う子供達が、無邪気で居れるような世の中であれるよう、一つでも行動を起こさなければと思ったのです。

ゲイは身をたすく‐1239‐ 

 土曜日の夜は、大学時代の集まりがありました。

 店は西天満にある「エクウス」

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 古い一軒家を改修してあるのですが、マスターの世界観が独特でした。

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 トイレの中がかなり良かったのですが、ちょっと、ここには上げにくものばかり。

 猥雑、混沌、ダダイズム。

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 先日亡くなった、柳原良平のアンクルトリスも。

 押さえるべきところは押さえてあります。

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 料理は本格的です。

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 この石焼ごはんも名物のよう。味、演出とも繊細でした。

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 最後まで見送ってくれたマスターは、明るく、中性的な感じの人。

 こういった仕事には、そんな感性がストロングポイントになるのだと思います。

 お勧めの店です。

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 二次会は、東通り商店街まで戻り、裏路地へ。

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 「ドン」はゲイバーです。

 強調しておくのですが、私がこういった店が、特に好きな訳ではありません。(別に好きでも全然良いのですが)

 この集まりは、二次会ここに来る事が多いのです。

 初めて連れて来て貰ったのは25歳の頃だったか。

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 もう20年になりますが、会員制だったとは知りませんでした。

 長いと言っても、私が来たのは10回位ですが。

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 右は、正真正銘のママ。

 「あらア~、久し振りじゃなア~い」

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 「本当に覚えてるの」とからかうと

 「あったり前じゃなア~い。この人でしょう」

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 タバコの煙でか、変色していましたが、「白馬の山小屋」のポストカードです。

 1999年の年賀状に使いました。当時は少しでも自分の事を知って貰いたく、持ち歩いていたのです。 

 「俺は必ず安藤を超える」とか言って手渡ししたのだと思います。

 ざっと見渡しても、貼られているポストカードはこれ一枚だけ。まず、感激しました。

 そして、この20年、精一杯生きてきたのだろうかと自問してしまいます。

 「ドン」は今年で30年だそう。

 この場末のゲイバーが30年続き、仕事の顔とは言え、楽しく働き、そして暮らしているという事実。

 世界的には同性婚も認められていく流れです。

 しかし、彼らがマイノリティーであるには変わりはありません。少数派であるが故に分かる、人の心の機微。

 更にそれを芸として生き抜く逞しさ。

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 皆と別れたのは2時頃でした。何となくそのまま帰る気分でなく、北新地の友人の店をのぞいてみまいた。

 店じまいの準備をしていましたが、結局朝方まで話をしていました。朝まで飲んだのは何年振りか。

 自分のストロングポイントとは。強くありたい、しかし、心の機微の分かる人間でいたい。

 楽しく、そして、少し苦いキタの夜だったのです。

ミスター‐1200‐

 このところ、雨が続きます。

 昨日も雨予報で、予定を変更して墓参りへ帰ることにしました。

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 父の里、岡山県の児島。

 守谷家の墓は、瀬戸内海を見下ろす高台にあります。

 今回は、雨で景色のほうは今ひとつでした。

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 母の里は、香川県満濃町。

 海の神様、こんぴらさんの麓にある街です。

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 両親、弟家族も一緒で、雨なら雨で賑やか。

 祖父母も喜んでくれたはずです。

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 周りの田も、稲穂が黄色くなり始めていました。

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 ぶっかけうどんの元祖と言われる「山下」。

 まんのう町には、いわゆる有名店が沢山あります。

 前回行ったのは2006年3月でしたが、昨今のうどんブームでか、建物は新しくなりました。

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 1歳になったばかりの長男はいつも小食でした。

 9年前、ここのうどんを沢山食べたことを思い出します。

 「有名になったから味が落ちたとは言わせない」と、今回も子供達はズルズルと完食。人気店であり続けるには理由があります。

 世間を賑わし続ける東京オリンピックのエンブレム問題。

 先週のヤフーニュースで「佐野氏無関係の会社にイタ電」というものがありました。

 社名が同じ会社が東大阪にあり、無言電話、いたずら電話が掛ってきて、迷惑をしているという記事です。

 この方、私のクライアントであるOhanaのカメラマンの友人です。Ohanaのwebサイトも彼の仕事。

 先月も一緒に飲む機会があり「ウチの方が先につけた社名なのに、ほんとに困ってる」と言っていました。その社名がミスターデザイン

 初めて聞いた時、いい名前だなと思いましたし、そう彼にも伝えました。

 「見た目はジャイアン、ハートはのび太」とプロフィールにありますが、これを聞いた時は吹き出しました。まさにそんな人なのです。

 彼は、自分の仕事のコンセプトを思い至った時「これが自分のやりたかったことだったんだ」と涙が止まらなかったと言います。

 誰かの役に立つヒーロー、ミスターにはそんな気持ちが込められているのです。

 知り合いだから正しく、知らないから間違っているという話ではありません。

 法廷では疑わしきは罰せずと言いますが、仕事の世界では反対です。胸を張って即答できないことは、全てバツと見なされます。

 私もそう判断しますし、そう判断されているのは間違ありません。全ては時間と社会が判断を下すのだと思っています。

食べる喜び、生きる喜び‐1163‐

 昨日からゴールデンウィークが始まったという企業も多いようです。

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 今日も気持ちの良い一日でした。GWは前半天気がよさそうです。

 阪神百貨店の建て替え工事が着々と進んでいます。南にあった新阪急ビルとは、道路の上でつながる計画。

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 上からみると、新阪急ビルの上には重機が。クライアントいわく、どうやってあそこまで上げたのか。

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 この新阪急ビルの西隣に「E間ビル」が見えています。以前、この辺りに「まるい飯店」という中華料理店がありました。

 まるい飯店はラーメンが100円。金額が金額で、特に美味しい訳はありませんが、それでもカップラーメンよりはまし。

 浪人時代は特に有り難かったのを思い出します。

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 日曜日、滋賀に行った際にはお土産まで貰っていました。

 その場で掘った筍です。

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 加えて「木の芽」も、その場で摘んでくれました。

 筍の木の芽和えに使う際、手の平でパンと叩くと良い香りがするあれです。

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 妻作の筍ご飯。スタッフに持って帰って貰いました。穂先は柔らかく、春を食べるといった趣きです。

 究極の幸せは、全てに感謝しながら生きることだと言います。

 青空の美しさに感激し、美味しいものを食べたなら、感謝の念が湧いてくる。

 そこまではたどり着いていませんが、これは幸せな人生です。

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 今日も現場で打合せでした。

 学校帰りのお子さんは、現場の即席テーブルで宿題です。

 奥さんから「メルボルンって凄いですね~」と。勿論強要はしていませんが、クライアントは、私の日記を読んでくれている方が多く、その話題になることも多々あります。

 互いに敬意を持ち合え、感謝でき、笑い合える関係。これを仕事上で実現することを模索してきました。

 そんな幸せなクライアントに見送られ、GWは北海道へ行ってきます。おそらくフェリーでは最長の旅になるはず。

 来週月曜日は、北の国から。

たかがスナックパーク、されどスナックパーク‐1139‐ 

 2013年4月24日、大阪市は「大阪駅前地下道」の占用許可を打ち切ると発表しました。

 公正な競争なく、営業を続けているというのが理由です。

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 「大阪駅前地下道」は、JR、阪神、地下鉄を繋ぐ、梅田の目抜き通りです。

 東端には、大阪市の説明に納得出来ないと、営業を続けるう串かつ屋。

 西端には「ぶらり横丁」があります。

 ここにある、そば屋の天丼のセットは500円。蕎麦のほうがお勧めですが。

 味にうるさい関西人は、安い、早いだけでは納得しません。結構いけるのです。

 競争を公正に戻すのは良いことですが、阪神百貨店の建て替えの為、この店舗スペースも無くなるようです。

 更に、2月21日(土)から始まる阪神百貨店建て替えにともない「スナックパーク」が無くなるようなのです。貼紙がありました。

 「阪神名物いか焼き」「浪速のお好み亭」「御座候」「元祖ちょぼ焼」は2月21日(土)から移転します。

 4店舗だけが、他の場所へ移動。テイクアウトのみの営業となります。その他の店舗は2月17日(火)で営業を終了します。

 テイクアウトって。

 ここで食べられる事に価値があるんじゃないかと、誰かしらに詰め寄りたくなります。

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 この日も、閉鎖を知ってか、いつも以上の熱気でした。

 味気ない蛍光灯。薄汚れた床のタイル。狭いテーブルにトレーを押し込んでくるおばちゃん。

 ここなら全て許せます。安いのですから。

 351円のラーメン+イカ焼きセット。131円のちょぼ焼きも、もう食べられなくなります。

 私の思う、最もコストパフォマンスが高いメニューは……

 「豆太郎」の「牛すじねぎ焼き丼」411円。と書いて有りますが実際は1円返してくれるので410円。

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お好み焼きとご飯を食べるのは大阪だけ、とは良く聞く話し。

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 しかも、ねぎ焼きをご飯の上にのせるなんて……ここではありです。

 前に並んだ人が、閉店の貼紙をみて「本当ですか?もったいないねえ」と話しかけていました。

 2005年の10月。阪急百貨店立替の際、コンコースが元ホームだった話。元改札の歴史を書きました。

 いつかは街の顔となることを望む、というメッセージを沿えて。

 しかし結論で言えば、当時の阪急百貨店に比べて、現在の建物が勝っている点は高く、大きくなっただけです。

 スナックパークが無くなると聞き、阪神百貨店の建て替えも、大いに危惧しています。

 海外の知らない街へ行った時、初めに行くのは市場です。その土地が良く分かるし、自分も食べなければなりません。また、同じものを食べてこそ、親近感が生れるものです。

 管理が難しいのは想像できます。しかし、大阪、日本が本気で観光都市を目指すなら、安く、気軽に立ち寄れる「スックパーク」の価値を熟考するべきです。

 タコ焼きも、イカ焼きも、ねぎ焼きも大阪ソウルフード。たかがスナックパーク、されどスナックパーク。

 一抹の寂しさ、以上のものを感じるのです。

うどんと建築、讃岐詣で & 讃岐うどんの名店Ⅵ‐1085‐

 母方の祖母が亡くなったのが今年の1月5日。

 初盆には少し早いのですが、岡山、香川へ墓参りに。


 父母、弟家族をあわせて11人の団体旅行です。

 宿は小豆島に取っていました。

 日曜日の朝食前、皆で釣りに出ました。バタバタしているうちに、カメラがボトリと水中へ。

 情けないことに定期的に水没させています。今回は1年半でした。


 よって、写真は弟からの貰ったデータです。

 しかしこの写真だけはwebサイトから拝借しました。

 道中の高松にある、香川県立体育館です。

 1964年、国立代々木競技場と同時期に完成した丹下健三の代表作。

 耐震補強の応札がなく、この9月で使用停止が決まりました。

 この日の四国は記録的な大雨。右端に突き出た鼻のような部分から、滝のように雨水が落ちていました。

 高度成長期の日本。丹下が一番前を走っていた時代がビリビリと伝わってきます。圧巻でした。

 保存か解体か、という論議になっています。これほどの建築が簡単に出来ることはありません。天井が低いなら、保存というよりは、用途を変更しリユーズするのが良いのではと思います。


 小豆島は安価なフェリー料金を設定し、観光客を誘致しています。

 四国への橋ができ、何とか立ち寄って欲しいという事です。

 まずは壺井栄の「二十四の瞳」の舞台、岬の分教所へ。


 1日2回、干潮時に現れるエンジェルロード。


 150年は続く醤油蔵ヤマロク醤油

 醤油蔵内まで見せて貰えます。

 醤油は勿論、醤油アイスも美味しかったのです。


 小豆島を4:00pm頃でて、7:00pm神戸港に到着。

 天気はあいにくでしたが、その分スケジュールはゆっくりでした。


 今回の名店めぐりは、山越えうどん。噂に違わぬ繁盛振りでした。

 かまたま(釜揚げ卵いり)1玉250円。

 建築を学ぶ学生の間に「讃岐詣で」という表現があります。

 詣でるべき建築が沢山あるのですが、うどん名店巡りと共に、私の楽しみです。

青春のカップヌードルストーリー‐1043‐

 2月初め、宝塚へ行った帰りに、池田で途中下車しました。

 インスタントラーメン発明記念館へ行くと、マイカップヌードルファクトリーは100分待ちという表示。

 300円でオリジナルカップヌードルを作るというサービスが人気なのです。「100分待ち」と言われると行きたくなるのが心情。

 長男と再度訪れました。

 まずはカップに絵付け。

 そして、スープ、具材をセレクト。

 お土産は完成。

 日清食品の創業者、安藤百福(ももふく)が、「チキンラーメン」を発売したのは1958年。

 戦後の食糧難を体験し「食足りて世は平らか」という哲学に至ります。天ぷらをヒントに瞬間油熱乾燥法を発明。

 強い信念のもと、世界初のインスタントラーメンは池田の地で誕生しました。

 更に手軽に。お湯さえあればどこでも食べられるカップヌードルの発売は1971年。当初、売り上げは伸びませんでした。

 1972年2月、連合赤軍が人質をとり長野県の山荘に立てこもります。この「浅間山荘事件」の救出作戦は全国に生中継されました。寒い雪の中、隊員たちが湯気を上げながらカップヌードル食べる姿が映し出され、問い合わせが殺到。爆発的に売れ始めたのです。

 結果が出なかった頃、販売チームは、製品とお湯の入ったポットを持ち、警察、消防署という夜勤の多い所を回っていました。初めての顧客になったのが自衛隊。地道な営業が実を結んだのです。

 1985年、パリ・ダカールラリーの映像に、HOUND DOGの「ff(フォルテシモ)」が流れるCMがありました。最後に「ハングリアン民族、カップヌードル」というコピー。

 これによってHOUND DOGは人気バンドの仲間入りを果たします。

 世がバンドブームだったこの頃、サクセスストーリーを歩みだすその姿がかっこ良くみえました。高校の頃、彼らのコピーバンドをしていたのです。

 インスタントラーメンなど、食べないに越したことはありません。しかし、その裏に隠された膨大な努力と創意に満ちた物語を知ると、同じ年代を生きたことを、誇らしくさえ感じます。

 恥ずかしながら「ff(フォルテシモ)」は今も私の十八番。そして、ほんのたまにですが聴きたくなるのです。我が青春のカップヌードルストーリーでした。

みかんの名産地‐1010‐

 11月9日(土)は和歌山へ打合せに。

こちらでは、お義父さんから引き継いだみかん畑を、奥さんが切り盛りしています。

 みかんは冬の食べ物。

 しかし、11月初めの早生(わせ)から、最も遅い晩生(おくて)という種まで、収穫は長く続きます。収穫の始まった、倉庫を見せて貰いました。

 1カゴが20kgで、15カゴが300kg。

 みかん畑と呼びますが、完全に山です。

 週末は、ご主人、子供さんも手伝ってくれるそうですが、これは大変な仕事です。

 専用のハサミを持ち、摘み取りと収穫を片手で行うそう。

 その朝摘みの由良早生(ゆらわせ)という種を、その場で食べさせて貰いました。

 この時期のみかんは外皮も薄く、袋の皮も薄く、一番食べやすいという事でした。

 割ってみると、確かに袋の皮が破れてしまう程。流石、名産地のものは違います。ここまでみかんが美味しいと思った事はありませんでした。

 水上勉の「土を喰らう日々」にこうありました。

「ご馳走とは、旬の素材を探し、馳せ走ってもてなすことだ」

 旬の食べ物をその場で食べた事は勿論。朝から山に登り摘み取ってくれたことも含めて、ご馳走です。

ズルズルとうどん県‐1003‐

母の郷里、香川へ帰っていました。

生憎の雨でしたが、祖父の13回忌だったのです。

7回忌から、あっと言う間に6年が経ちました。

最近の自治体は、自らの売り出しに熱心です。しかし、うどん県は想像以上にうどん県。

法事の前、住職、来訪者にまずうどんを出すのです。

皆でズルズルとやって、初めて法事が始まります。全くお茶を出す感覚。

長い読経のあと、線路沿いの墓地まで歩きました。とても真面目な祖父で、87歳まで生きました。

時々うどんを打ってくれたものです。

今月初め、鞆の浦へ行きました。その際、デイサービスからお年寄りが「ふるさと」を合唱するのが聞こえてきました。

生まれも育ちも大阪の私にとって、故郷とは。毎夏休みを過ごした、香川と岡山でしょうか。

志を果たして帰らん。水は清き故郷。

間もなく90歳になる祖母も、ズルズルと。うどん県はうどん県なのです。