カテゴリー別アーカイブ: 01 旅・街

名は体を表す

 昨日は、ASJの建築家展に参加していました。
 

 会場は、和泉佐野市役所すぐ南にある泉の森ホール。

 泉佐野市は、今朝の新聞でもネーミングライツ問題で取り上げられていました。

 「時の市」とも言えるでしょうか。

 土地の名前、読み方、漢字などは、その変遷やストーリーに意味があるもの。

 今、財政難だから名前を売ります等、あり得ない話です。

 ヨーロッパのサッカーチームや、メジャーリーグのように、日本の野球やサッカーのチーム名から、企業名を外してはという論議まである中、完全に倫理観が逆行していると感じます。

 話題だけでも注目度が上がったという評価が、正しい経営をしている市町村の評価がを上回るなら、誰が真面目に仕事をするのでしょう。

 この件は賛否のレベルではない気がするのです。

 さて。建築家展は今回で4回目。

 大分慣れてきました。

 しかし慣れた時が何とかで、この日はあまり当事務所のブースに人が止まりませんでした。

 やや課題が残りました。

 森の泉ホールでも、キンシバイが咲き始めていました。

 この花は公共建築物にもよく植わっています。

 公共建築物に植わっているという事は、比較的タフで、手間がかからず、金額もそこそこという事です。

 そういった花は総じて葉が分厚く、風にそよぐというタイプではありません。

 好みと言ってしまえばそれまでですが、その中で、キンシバイは一際目をひきます。花弁の色が鮮やかで、初夏の訪れを伝えてくれる花。

 ただし、見ごろが過ぎれば、次は梅雨がやってきます。

 キンシバイはおしべが金の糸のように見えることと、梅ににている事からその名がつきました。

 名は体を表す、です。

 京都が財政難になったとして、ニンテインドウ京都市を名乗ったら、古都めぐり気分は台無しです。

 関空が、世界とつながる窓口だという事も含めて、泉佐野の市長はよく考えたほうが良いと思うのです。

和歌浦はインカとつながる

 5月12日、13日の土日。和歌山へ行っていました。

 ASJという「建築家と家をつくろう」というネットワークがあり、各地でイベントを開いているのです。

 ビッグ愛という施設での開催でした。

 泊まりだったので、朝は和歌山城までジョギング。知らない街を走るのは楽しみの一つです。

 8人の建築家がパネルや模型を展示し、チラシなどを見た来場者にその家づくりについて説明します。

33 - コピー

 私は今回で3回目。ようやく慣れてきました。

 今回は和歌山スタジオが主催するイベントだったのですが、面白い話を聞きました。

 一緒に参加していた建築家の1人は和歌浦近くに事務所を構えています。その地名の由来のことです。

 和歌浦は、ポリネシア語の「ワカウルワ」が語源で「小舟の多い入り江」という意味だそうです。他にも、御坊(ごぼう)、由良(ゆら)などもポリネシア語から来ているとか。

 遥か遠方の南洋から渡って来たポリネシア人が、太平洋沿岸部に住みついたからという話でした。

 その証拠に、和歌山は当て字で、江戸時代までは若山と併用されていたそうです。

 ポリネシアとはハワイ、イースター島、ニュージーランドあたを結んだ三角形内を指します。

 子供頃読んだ本に「コンチキ号漂流記」がありました。ポリネシア文明は南米のインカ文明と共通点が多いことから、同じ起源をもつのではないかという仮説を証明する話です。

 その説を唱えた考古学者は、帆をつけただけの筏で、チリからポリネシアにたどり着きます。その可能性を実証したのです。

 途中、筏をより大きなジンベイザメがゆらりと登場する場面に、ドキドキしたことを今でも覚えています。小学校3年生ころだったでしょうか。

 これらの話が全て事実なら、太平洋湾岸部に住む人々は、南米に起源をもつ人もいることになります。
 
 船で渡って来た人々は当然操船にも長けていたはずです。その子孫が、熊野水軍、九鬼水軍、村上水軍、根来衆などを形成していたとすれば……

 更にその子孫である漁師に、目鼻立ちのはっきりした人が多いところまで、全て納得できるのです。

 日本人と言っても、大陸から渡って来たモンゴロイド、ポリネシア系と様々な先祖を持っている可能性がある訳です。

 週末、こんな事を考えていたのですが、考古学や人類学等、過去をたどるのは非常にロマンを感じます。

 そう言えば、本好きの長男には「コンチキ号漂流記」を勧めなければ。

ミュージアム in 北陸

連休明けの月曜日。ペースは戻ったでしょうか。

5月4日、5日のスケジュールが空いたので、急遽宿を探しました。北陸を中心に見ていると、和倉温泉に1部屋空きをみつけました。

4日(金)の早朝、大阪をでると、スムースに金沢まで来ました。

しかしかなりの雨量で、まずは能登半島を北へ移動することに。

かほく市にある「西田幾多記念哲学館」へ寄りました。

西田幾多郎の「善の研究」は、明治以後、日本人が初めて読む哲学書と言われます。

ここに来るまでには読んでおくつもりでした。持ってはいるのですが、まだ手をつけておらず……

館はの設計は安藤忠雄。今年で開館10年目とありました。

特に欧米では、哲学的とも言われる安藤建築。

館の目的に完全に一致していると感じます。

安藤設計のミュージアムは沢山見ました。

下階に向かう階段と吹抜けの空間は、ヴォリュームが心地よく、最も美しいと感じました。

人は少なく、満足して更に北上します。

能登半島の中央部にあたる能登島。

「のとじま水族館」はその北端にあります。

こちらは開園30周年。

子供の為に来たのですが、古き良きという感じで、好感がもてました。

直前にキャンセルが出たのはビジネスホテル。

よって食事ぐらいはという事になり、寿司割烹の店へ行きました。

和倉温泉街にある「又五郎」。

大将はとってもいい感じの良い人で、家族で7千円くらいでした。

寿司、焼き魚、茶わん蒸し、いずれも美味しかったです。

下の娘はいくらでも刺身を食べるのですが、長男はマグロ以外をあまり食べず。肉派なのです。

翌朝も早起きして、砂浜を車で走れる千里浜なぎさドライブウェイへ。

どうしても走りたかったのですが、波が高く侵入禁止になっていました。

仕方なく、皆で走ることに。

南下して8時頃には金沢市内へ入ります。

金沢市は「パークアンドバスライド」という試みを実施しています。

市の人に聞くと10年程になるとのこと。

高速のインターを降りると駐車場があり、そこから市内をバスが循環しているのです。

車一台につき1000円で乗り放題。施設の割引もついています。

これを利用して、金沢21世紀美術館へ行ってきました。

レアンドロのスイミング・プールは凄い人気で、開館と共に一杯になりました。

子供はかなりテンションが上がっています。

上からは無料、下からは入館した人だけ。

この無料開放ゾーンが多いのもこの館の特徴です。

設計は、妹島和世と西沢立衛の建築ユニットSANAA。

2010年にはプリッカー賞を受賞しましたが、この館の評価が最も大きかったと言えるでしょう。

開かれた美術館というコンセプトは、収蔵作品にも反映されています。

円形の建物回りに、数多くの作品があり、子供たちも遊具のように遊び、触れています。

来る前は「また美術館」と文句を言っていた子供の気分を、ここまで変えのは、凄い事です。

駆け足で回った、北陸の旅。2つのミュージアムは印象に残りました。

強く、固い建築に、制限した光を落とす安藤。薄く、透明感のある建築を、更に街へ開くSANNA。

西沢立衛のプリッカー賞受賞のコメントは以下のようなものでした。

「建築と街に係わるものとして、とても嬉しく思います」

この言葉は時々頭の中に蘇ってきます。とても素直で気持ちが良い言葉です。

次回北陸に来る際は、再度なぎさドライブウェイにチャレンジします。これは昨年、現在の車に乗り換えたときから持っていたイメージの一つなのです。

雨の街道を行く

 昨日は一日雨の予報。どこに出掛けるか迷っていたのですが、奈良の大宇陀へ行くことに。

 10年来気になっていた又兵衛桜を見に行く為です。結果は残念なものだったのですが……

 奈良盆地の南部を車で走ると、大和三山がどこからも見えます。

 その1つが耳成山(みみなしやま)。

 古代から神聖視してきたのが、現在でも納得出来る雰囲気があります。

 そのまま166号線を東に進み、桜井から山間部へ。

 この初瀬街道は奈良と伊勢を結んでいます。

 里山風景の中に、遅咲きの桜が所々に見えます。

 市のwebサイトに、半分散っていると出ていましたが、それでも少しの期待感を持ちつつ。

 ほぼ散り終っていました。

 又兵衛桜は大宇陀にある、樹齢300年、幹回り3mの枝垂れ桜です。

 その名は戦国武将、後藤又兵衛から取ったもの。彼は講談等でも非常に人気のある武将でした。

 司馬遼太郎や、池波正太郎等の歴史小説にも度々登場します。

 槍の名手という点では一致しますが、描かれ方は様々という印象。

 真田幸村らと共に、最後まで徳川方を苦しめ、夏の陣で自刃しました。しかし生き延びたという伝説も残っています。その地がここ大宇陀なのです。
 
 この樹があるのも、後藤家の屋敷跡と市のwebサイトにありました。
 
 2000年の大河ドラマのオープニングに登場したことで、有名になりました。私もそのニュースをどこかで見たのか、ずっと満開を見てみたいと思っていたのです。

 残念は残念ですが、来年の楽しみが増えました。

 奈良を訪れると、京都より過去を身近に感じます。太古のままとは言わないまでも、観光の香りがしないエリアが多く残っているからでしょうか。

 帰りは高速に乗らず、165号線、166号線と乗り継いで大阪に戻りました。これは奈良と堺、住吉を結ぶ古代の大動脈、竹内街道と重なります。

 車や重機など無い時代。必然的に高低差の少ない所が街道として発展します。よって、最短をトンネルに頼る今の道より、景色が優しいと言えます。

 至る所に歴史街道。これは関西の魅力と言えます。 

鶴橋

 今週の火曜日、初期相談があり鶴橋へ。この辺りは、かなり懐かしい所。

 大学を出てすぐに入った設計事務所は1年でクビに。その私を拾ってくれたのは、4、5歳上の若い建築家でした。

 その人も独立したばかり。自宅兼事務所のマンションが鶴橋にあったのです。

 鶴橋の駅は、JR、近鉄のガードが交差し、交点を中心に商店街が四方八方に伸びています。

 地下鉄もあり、初めて地上に上がって来た人なら「ここはどこ」という感じだと思います。

 戦後の闇市から発展したこの商店街は、通路の狭さ、密集度で他を圧倒しています。言葉にするならまさにカオス。

 未だに戦後の香りが残っています。

 商店街というよりは、商店街群とでも言うべきこのエリアには焼肉店、韓国料理店、またそれらの素材を扱う店舗が多くあります。

 店頭ではキムチ、チヂミが至る所で売られており、何とも言えない香りが漂っています。

 この迷路のような巨大な商店街を、そこそこ知っている事はちょっとした自慢でした。
 
 その歴史については、鶴橋商店街振興組合のwebサイトで。

 ところが、久し振りに訪れて、一番驚いたのは、その観光客の多さ。

 女性のグループ、家族連れがとても多く、かなりの人出で賑わっています。

 これは通天閣下のジャンジャン横丁でも、同じ傾向でした。

 私が良く来ていたのは15年ほど前ですが、鶴橋の商店街はもっと暗く、ちょっと怖い位のイメージを持っていました。

 街は変化して行くものなのですが、この商店街も、阿倍野の再開発のようにいつかは区画整理されるのでしょうか。

 特区という荒業があるなら、可能な限り残して欲しいと思います。
 
 もし焼肉へ行くなら、私のおすすめは「空」。ホルモンとバラック感が良い感じです。

 少し離れて良ければ「新楽井」。雰囲気は抜群ですが、店内はモウモウと煙が充満しているので服はジャージで良いくらい。

 と言いながら、5年以上行っていないことに気が付きました。久々に行くなら「アジヨシ」のタレも結構良かった、冷麺も懐かしい……

 浅田次郎の「メトロにのって」では地下鉄がタイムマシンになっていました。

 千日前線鶴橋駅で降りればそこは戦後の大阪。ちょっと大げさですが、かなり楽しめると思います。

木曽福島 出張模型教室

この土日は、久しぶりにスキーへ。

 木曽福島に義妹家の山荘があります。

 父、弟家族と合せて計10人。

 自炊なので合宿のようなものです。

 しかし、いくら騒いでも怒られない。広い。

 子供達にとって、これほど楽しい場所は無いはずです。

 初日は雪がちらつきましたが、2日目は朝から快晴。

 西に向かい合う御嶽山は3067m。冠雪した山頂がくっきりと見えます。

 時々こんな景色を見れるので、またゲレンデに立ちたいと思うのでしょう。

 子供達は全部で5人。上が7歳、下が2歳です。

 それなりに皆見ていますが、4歳の娘の上達がとても早い。

 中級コースくらいなら下りて来れるようになりました。

 合宿の楽しみは夕食です。

 早く遊びたいので、急かせる必要も全くなし。

 そう言うと、普段から面倒を見ているように聞こえますが、世の父親と同様、そんな機会は極めて少なく……

 こんな時くらいはと思い、模型作りの準備をしてきました。

 事務所で出た端材ばかりですが、彼らにとっては想像力をかき立てるはずです。

 道具を取り合いながらも、黙々と作っていました。

 遊びつかれて、1人寝、2人寝。

 何を作りなさいと言った訳ではありませんが、どれも家のようです。

 そういう私も、出張模型教室を終え、8時半には布団に入りました。

 旅情報で言えば、お土産ならJR木曽福島駅近くの「田ぐち」。

 「御嶽もなか」はおすすめです。

 甘党でない人も大丈夫だと思います。

 日曜日で東日本大震災から丁度1年。

 スキー場でも2時46分には黙とうが捧げられました。

 その時、自分へ何を問うのか。多くの人の答えは同じだと思います。自分に出来る事を、毎日全力で取り組む。

 ただそれだけの事ですが、それが世の中を良くすると確信します。

商店街

 日曜日は、初期相談のあった敷地の視察へ。

 大阪市内のある駅前商店街にあります。

 商店街自体は概ね公道です。

 行政が積極的に育てて行こうと考えているので、道にアーケードが掛けられるのです。

 普通なら、道路に何かを建築することは出来ません。

 あるというのは正確でなく、あることになる敷地なのです。

 駅の高架化にともない、近隣の区画整理が行われています。

 商店街は新たに生まれ変わるのですが、現在はアーケードを解体しながら、順次店舗が移転している真っ最中。

 大阪市内の駅前で、こんな光景が見れるのは、戦後すぐしかなかったのでは。

 区画整理事業の規模の大きさ、街を再構築する責任の重さについて考えていました。 

 どの店舗も、当然ながら自らの仕事の為の建てたもの。

 住居付が多く、愛着、歴史……言葉で表現しきれない程の思い出があるでしょう。

 事業対象外のエリアも含めて、辺りを歩いてきました。

 昔のショーケースには必ずあった、宙に浮いたフォーク。 

 仕事柄気になったのはガラス屋。

 どうやってこの商店街の中まで、大板ガラスを運んできたのか。

 駐輪問題はありますが、結構活気があるのです。
 
 商店街の低迷が取り上げられて久しいですが、例外はあります。
 
 当事務所のある平野区の隣は東住吉区。

 そこにある駒川商店街は、なかなか活気があります。

 私の母も結構な距離を自転車で買い物に出かけます。

 現在、JALの再生に挑む稲盛和夫さんはこう言っていました。

 よほどの事が無ければ、ぼろ儲けなどはあり得ない。

 どんな特殊な技術があっても、そこに時別な利益が出ていれば、多くの企業が参入してくる。

 少し長いスパンで考えれば当たり前の話。血のにじむような努力を繰り返し、無駄を無く、リーズナブルな利益をこつこつと積み重ねる以外、企業が永続的に反繁栄することはない。

 ニッチ産業、オンリーワン企業、他社にはない技術。これらとは反対の話です。ウチはあてはまらないという会社もあるでしょう。

 しかし、この言葉を真に受けてしまえば、結構気楽な気分で、精一杯仕事が出来るのです。何か秘訣があれば教えるが、秘訣が無いのが秘訣というメッセージにも聞こえます。

 商店街にプラスの影響を与える建物を。そう考えるとワクワクしますが、後は考える時間、手数に掛かっていると思います。

伊賀忍者と日本の景色

 昨日の日曜日、忍者の森なるところへ行ってきました。

 場所は三重県の名張市。赤目四十八滝の入口あたりです。

 

 西名阪で奈良を抜け、名阪国道の針か小倉インターで降りて南下。

 大阪市内からは1時間15分くらいでしょうか。

 針インターには大きな休憩所があり、せんとくんと記念撮影しておきました。

 

 忍者の修行体験コースは午前1回、午後1回で予約が必要です。小学生未満は忍者衣装付きで1350円。

 この日の午前は私達だけで、クノイチによるプライベートレッスンでした。

 

 この辺りは現在でも棚田が多く残り、裕福な土地ではありませんでした。

 戦国時代には小国が乱立し、農民は僅かな田を守る為、自衛するほかありませんでした。

 そのゲリラ戦術を磨くうちに忍者と呼ばれる衆が現れたのです。一つ山を隔てた甲賀も同じような図式です。
 
 16世紀後半、全国統一を目指す信長は、伊賀の忍者を大変嫌いました。

 そして1579年から始まる、天正伊賀の乱でこの地を徹底的に壊滅します。僅かに生き残った伊賀忍者は、旅芸人に扮したりして全国へ出て行き、大名に自分を売り込み、何とか職を得たのです。

 

 本能寺の変の後、堺に居た家康を服部半蔵が案内し伊賀の山を越えて三河の国へ逃がしたのは有名な話。
 
 これは、信長への遺恨があったからの事なのです。

 下の子は、赤いクノイチに気おされたか、ほぼ何も出来ず。修行コースが終わってから、もう一度順に回りました。

 昼から、四十八滝と天然記念物オオサンショウウオも見て来ました。

 このオオサンショウウオ。コミカルというか、はっきり言えば気持ち悪いというか……

 およそ3千万年この姿で行き続けています。
 
 そのバイタリティーと図太さがこの姿を形作ったのかもしれません。

 

 柳生、甲賀、伊賀。この辺りに来ていつも思います。

 棚田と里山が織り成す景色は、戦前とさほど変わっていないのではと。

 もしかすると、江戸時代ともそんなに変わっていないかもしれません。
 
 初めて訪れたのは何十年も前ですが、そのときから何か懐かしいと感じていました。

 この200年で世界は大きく変わりました。それ以前のずっと長い時間、日本の景色はおよそこのようなものだったと思います。

 自らの手で自衛せざる得なかったほどの寒村にその景色が残っているのだとしたら、それは至極当然の事だと思うのです。

タイのペルソナ

 実家の階段にはお面が置いてあります。

 これは私が買ってきたもの。
 
 約10年前のこの時期。私はバンコクに居ました。

 事務所を立ち上げて5年。仕事は増え始めたのですが、精神的には疲弊しきっていました。一旦全ての仕事を終え、帰りの予定の無い旅に初めて出たのです。

 はじめに着いたのがタイのバンコク。空港からバックパッカーの街、カオサンストリートへ直行します。宿代は当時のレートで、1泊が1ドルか2ドル。その頃も、円が強い時期でした。

 数週間ここに滞在し、それから近隣の国を放浪し始めます。沢木耕太郎の小説「深夜特急」のような旅をしたいと思っていたのです。

 気になる街へ行き、安宿を探す事を繰り返していました。ベトナムのホーチンミン市にやってきた時、丁度旧正月の時期でした。中華街ではそれを祝う花火が上がり、あちこちで爆竹が鳴っていました。それをゲストハウスの屋上から眺めていた時、やっぱり日本へ帰って建築設計がしたいと思ったのです。

 3月の終わりには日本に戻ろうと決め、再びバンコクに戻ります。その時に買ったのがこのお面。資金はほぼ使い切っていたので、勿論安物です。怖い顔の面は魔よけの意味。お多福のような面にどんな意味があるのか、説明を聞いても分かりませんでした。

 パーソンの語源はペルソナ。仮面というラテン語でだと言われます。

 人は色々な顔をもつもの。旅に出る前は、何とも暗い顔をしていたと思います。しかし、日本に戻ってから、落ち込むこと、暗い顔をする事を辞めました。私はその仮面を捨てたのです。

 今年も残すところ10日を切りました。大晦日には「今年も精一杯頑張った」と言えるよう、残された2011年を全力でいきます。

アメリカの旅⑤ <さよならニューヨーク編>

 前日の夜中から書いていた日記をようやく朝の5時にUP。

 7時にグランド・セントラル・ターミナル付近のレンタカーショップへ。友人に借りていたラップトップを返しに行く為です。

 概ねパッキンは済ませておきましたが、結局寝る時間はありませんでした。

 バックパックを背負って、北へ2km程でしょうか。

初日の初めに訪れた、エンパイヤー・ステート・ビル。あっと言う間の5日間でした。

 ミッドタウンにある、普通のショップ。

 微妙にかかっこいいのは何故でしょう。

 クライスラー・ビルのライトアップはとても上品。

 すぐ西にはグランド・セントラル・ターミナルです。

 最上部の彫刻は、まだ見えません。

 友人が車を返し、手続きを済ませた頃、ようやく日が当たり始めました。

 彼へラップトップを返し、これで一通りの用事は終わりました。

 駅の2ブロック西にあるブライアント・パーク。

 ここにはスケートリンクがあり、しかも無料なのです。それを見ながら朝食でも取ろうという事になりました。

 コーヒーとクロワッサンを食べながら、映画監督の友人と最後の最後まで、色々な話をしました。

 その後彼に礼を言い、マンハッタンからバスでジョン・F・ケネディ国際空港に向かったのです。

 現地時間、11月7日(月)1:30pmにニューヨークを発ちました。

 15時間かけて日本時間11月8日(火)の6:30pmに関西国際空港に帰ってきました。

 一つ目の感想は、思った程英語が通用しなかったな、という事。

 勉強もしていないので当たり前と言えば当たり前なのですが、もう少し話せるイメージでした。

 それを友人に言うと「英語の中で、一番嫌いなところから勉強すればいいよ。そこが、一番欠けてるところだから」と。

 なるほど。これはどんな場面にでも通用する名言です。

 旅の本質が、トラブルと自分との対話にあるなら、独りを最良とします。

 しかし今回のシカゴ行きにしろ、ペンシルバニヤ行きにしろ、現地で暮らす友人のサポートなしではありえませんでした。本当に有難いと思います。

 しかし、トラブルと孤独を求めた旅に、自分がもう出られなくなったこと
も改めて認識しました。

 何故なら、それらは多くの時間を要するからです。帰国した次の日に、予定があるようでは無理なのです。これが2つ目の感想です。

 それはとても寂しいのですが、それでもまた出掛けて行きたいと思います。

 独りで、初めて知らない街に降り立つ時。何とも言えない、昂揚感に包まれるからです。