カテゴリー別アーカイブ: 01 旅・街

イタリアとスペインの旅④ <ブリオン・ベガ編>

 8月13日(日)は、朝から電車に乗って、カステル・フランコという街へ。

 ヴェネツィアのサンタ・ルチア駅でチケットを買うとおよそ4ユーロ。往復で800円程です。

 1時間ほど電車に揺られ駅に着きました。

 ここからバスに乗るのですが、何故か駅からバス停までが歩いて20分。近くのBARでチケットを買うと往復で4ユーロでした。

 バスの運転手に「ブリオン・ベガに行きたいので、着いたら教えて欲しい」というと「分った、分った」という感じ。

 日本人が時々くるので全て心得ているよう。とってもフレンドリーな感じでした。

 S・VITOというバス停から、さらに歩いて15分くらい。

 まずは公共の墓地がみえてきました。

 その奥にあるのがブリオン・ベガ。

 イタリアの大手電機メーカーの創業家、ブリオン家の墓なのです。

 2つの円が重なったその開口部からは、傾斜した壁が見えます。

 その上には限りなく青い空。

 反対に回ると、赤と青のタイルに縁どられた様子が、良く分かります。

 写真を見ると裏表の色が反対になっているのが良く分かります。お盆前のこの時期、墓地を照らす太陽は強烈です。

 陽が芝生を焼き付け、むせ返るような草のにおいは、日本のものと全く変わりませんでした。

 写真で分らないのはにおい。妙なことが気になるものだと自分でも思うのですが。

 全体がブリオン家の墓地ですが、ブリオン夫妻の墓はこのアーチの下にあります。

 2つ石の棺が並んでいました。


 アーチの裏はブルーとグリーンのタイルで彩られています。

 芝生と空に抱かれ2人は静かにの眠っているのです。

 カルロ・スカルパは、素材の

 使い方と、その装飾形態に長けた建築家です。

 しかし、それらがテクニックにとどまっていない感を受けるのは何故なのでしょうか。

 1906年、彼はヴェネツィアに生まれました。フランク・ロイド・ライト、デ・ステイル、日本文化という順に影響を受けたと言われます。

 そして生涯、この地方の方言しか話さなかったと言います。

 その時々の影響を作品にみる事が出来るのですが、いずれも模倣のレベルではありません。

 今回私が見て回ったのは、概ね1950年から1970年までの仕事です。

 まさに円熟期に入ったと言って良い頃の作品なのです。

 スカルパは1978年、旅先の仙台で亡くなります。

 そしてその墓は、このブリオン・ベガの一角にあります。

 CARLO SCARPA の文字が刻まれています。

 いつ火がともされたのか、金色のろうそくにも文字が刻まれていました。

 そこには亡くなった1978年7月6日と1993年2月23日という日付が。後の日付は何を意味するものなのか。

 墓は人が人生を終え、永遠の眠りにつくところ。

 ピラミッドも墓なら、サン・ピエトリ大聖堂も墓と言えます。タージ・マハルは王が愛妃に送った墓。

 ブリオン・ベガはスパカルパのブリオン夫妻への愛と感謝の結晶と言えなくはないか。

 ブドウ畑と、トウモロコシ畑に挟まれた道を歩きながらしばし考え、ヴェネツィアに戻ったのです。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
■■■『大改造!!劇的ビフォーアフター』■■■ 7月8日(日)「匠」として出演しました

メディア掲載情報

一級建築士事務所 アトリエ m
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

イタリアとスペインの旅③ <ヴェネツィア編>

 8月12日(日)は朝フィレンツェを出て、10時半にヴェネツィアに着きました。

 サンタ・ルチア駅を降りた瞬間、その旅行者の数に圧倒されました。

 ここは世界の京都。観光地の中の観光地なのだと、実感したのです。

 街の中央をS字に蛇行しながら流れる運河が、何と言ってもヴェネツィアのハイライトです。

 私達は水上バスの12時間チケットを買いましたが、運河の上の密度もかなりのものです。

 リアルト橋は付近は川幅も狭く、水陸共に最も混みあうところ。

 それでもゴンドラはゆらゆらと、川を横切ります。

 ボートのホーンがなっても「こっちも仕事なんで」と言う感じで、そう慌てる様子もなく。

 元は侵略者の攻撃から逃れ、干潟に住まざる得なくなったのががヴェネティアの起源と言われます。

 そんな地理的条件から、至るところに水路が張り巡らされたのでしょうが、これが後の貿易による繁栄を支える事になります。

 路地のような細い水路に目を奪われるのは何故でしょうか。

 大阪は八百八橋と呼ばれた時代もありました。多くの水路は埋め立てられましたが、ヴェネツィアのような選択肢は無かったのかとも思います。

 水上バスでサン・マルコ広場まで来ました。

 辞世の句は「もっと光を」。ゲーテも愛したというカフェもあり、旅情は高まります。

 このサンマルコ広場に面した店舗に「オリベッティ」のショールームがあります。

 この旅の目的、カルロ・スカルパの仕事に初めて触れる事になります。現在ショールームは閉鎖され、ナショナルトラストが管理していますが、15.5ユーロで見学できます。

 ずっと写真でしか見たことのなかった、そのデザインに直接触れる事ができました。

 彼はヴェネツィア出身なのです。

 概ねそうなのですが、第一印象は「思ったより小さい」です。

 しかし、それは建築写真の性格上仕方のないものなのです。

 細部を見て回りました。

 その仕事を見て、彼の日本文化へのリスペクトを感じる事が出来ます。このあたりの詳細は、次回ブリオン・ベガ編で。

 運河の最下流部にある、プンタ・デッラ・ドッガーナ。

 もとは海の税関だった建物を活かしながら、安藤忠雄が改修した美術館です。

 安藤は海外での仕事の大変さと、面白さをあちこちで語っています。

 この歴史あるヴェネツィアの街に、日本の建築家の仕事がある事だけでも勇気を持てる気がします。

 いつかイタリアで……夢を描くのです。

 こちらは夜の9時くらいになって、ようやく日が暮れ始めます。

 アドリア海に沈む夕日を眺めながら、通りに面したBARで一杯。

 ヴェネツィアの夜は、遅くまで賑やかなのです。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
■■■『大改造!!劇的ビフォーアフター』■■■ 7月8日(日)「匠」として出演しました

メディア掲載情報

一級建築士事務所 アトリエ m
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

イタリアとスペインの旅② <フィレンツェ編>

 翌日、8月11日(土)は朝からイタリアの新幹線で移動です。

 チケットは日本で予約していましたが、旅の移動は早めが基本。

 駅まで歩いて1分で、40分前はちょっと早すぎました。子供はややだれ気味。

213

 ローマのテルミネ駅からフィレンツェまではイタリアの新幹線で、1時間半程です。

 車窓から見る景色から感じる事は、何と起伏の少ない国なのか、という事です。

 街を少し離れると延々と続く農場の風景。

 現代なら重機もあり、平地を作ることはたやすい事と言えますが、古代にはこの平地を取り合う為、多くの血が流されたのです。

 フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅に到着。

 まずは高台にあるミケランジェロ広場まで、バスで行くことにしました。

 フィレンツェの象徴は何と言っても、ドォーモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)です。

 これが最も美しく見えるのが、ここと言う事なのです。その看板に偽りなしでした。

 フィレンツ最古の橋、ポンテ・ヴェッキオも、良く見えます。

 橋の上には宝石店等が建ち並びます。

 これが近くで見るとかなり危ういのです。

 橋からはみ出して建っているその支えは、細い木のつっかえ棒。

 ローマは完全に石の街という感じでしたが、フィレンツェに近付くにつれて、少しずつ森が見えるようになりました。

 そんな事も影響しているのか、軒などは木で出来ているものが目につきました。

 いくら地震が少ないとは言え、日本人の私としては心もとなく映ります。

 再び街中に戻り、ドォーモの屋根上まで登る事にしました。

 この階段が初めこそ良いのですが、上に行くごとに細くなり、最後は上り下り兼用の階段になり……

 大変でした。救われたのは、4歳の娘が、何とか自分の足で登り切ってくれたこと。

 登りづめで20分くらいは掛かった気がします。

 屋根上の塔の部分出るのですが、高さ100mくらいあるでしょうか。

 その景色は最高で、私以外の3人ははしゃいでいました。

 が、正直私は生きた心地がしませんでした。

 階段の途中、どう見ても剥落したのではと思う穴がいくつもありましたし、先日イタリア北部で地震が会った事も頭にありました。

 500年もこの場に建っているんだからと自分に言い聞かせても、数枚シャッターを押すのがやっと。

 もしかすると高所恐怖症なのかもしれません。

251

 この日の宿は、唯一の4つ星ホテル。

 久々に数部屋あるホテルに泊まりました。

 従業員の雰囲気も良く、調度品は落ち着きがあり、いい感じです。

 子供が「こんな所にも絵が描いてある」と引出しを持って来ました。メディチ家の紋章が入っています。

 ルネサンスを支え、ミケランジェロを育てた大パトロンの影響は絶大だったと想像できます。

 このホテル「APRILE」は朝食もとっても美味しく、169ユーロでした。

 行きのアリタリア航空のCAからも、このホテルのスタッフからも娘を指し”She is so beautiful.”と言われました。

 娘なので勿論可愛いと思っていますが、イタリア人はこんな子供が好きなのかな、と思っていました。

 後に泊めてもらうミラノの友人にこの話をしました。

 「イタリア人は、博多人形みたいな切れ長の目に憧れてるところがあるかも。無いものねだりって言う感じかな」と。

 腑に落ちたような、落ちないような。でも、悪い気はしてません。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
■■■『大改造!!劇的ビフォーアフター』■■■ 7月8日(日)「匠」として出演しました

メディア掲載情報

一級建築士事務所 アトリエ m
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

イタリアとスペインの旅① <ローマ編>

 長い夏季休暇を終え、月曜から仕事を再開しました。

 今回の休暇中、12日間で7都市を回りました。明治維新までは国と言う概念が希薄だったように、古代では都市国家という考えの方が、自然だったのは容易に想像できます。

 それぞれの都市ごとに感じた事を、順にUPして行きたいと思います。まずはローマ。

 8月9日(木)の昼に関空を発ち、夜の7時にローマのフィウチミーノ空港に着きました。フライトは13時間。

 空港バスでローマ市内に入ったのは夜の9時頃です。

 全ての道はローマに通ず。そんな言葉が頭に浮かんできます。ファーストコンタクトというのは兎に角興奮するものです。

 写真はブレていますが、気持ちは入っています。

 初日、2日目の宿は、ローマの中心、テルミニ駅のすぐそばに取っていました。非常に便利が良かったのですが、夜の騒々しい事。

 私は耳栓を持っているので事なきを得ましたが、妻は寝不足気味でした。

 翌日は朝から、2階建てバスに乗って市内を回ります。

 初めのに行ったのはトレヴィの泉。

 世界の旅行者と同じく、私達も再び訪れたいと願うのです。

 ナヴォーナ広場に移動して、ひとまず昼食。

 ミナミでお好み焼きを食べているようなものなので、どんな店なのか全く分りませんが、ピッツァは十分美味しかったのです。

 気温こそ30℃を超えていますが、湿気の無い事がこれほど気分の良いものとは。

 日影に居れば本当に心地よいのです。

 ローマで一番見たいと思っていたのは、パンテオンでした。

 118年にハドリアヌス帝が再建したとあるので、1900年前とほぼ変わらぬ姿がそこにあります。

 天井最上部に空いた天窓は直径9m。

 そこから落ちる光は「全ての神の神殿」に相応しい、静謐な空間を醸し出していました。

151

 その後は、ヴァチカン市国のサン・ピエトロ広場へ。

 ヴァティカン市国は世界最小の国で、カトリックの総本山です。

152

 その東にあるサンタンジェロ城は、ハドリアヌス帝の廟として建造されたもの。

 しかし、サン・ピエトロ寺院と城壁で繋がっているのです。

 その城壁の上部には秘密の通路があります。

 非常時にここを通り、逃げ延びた教皇が実際にいるのです。流石、世界の中心は違うなと思います。

 ヴァティカンに来た本来の目的は、博物館にあるシスティーナ礼拝堂を見る為。

 ミケランジェロの最高傑作と言われる壁画「最後の審判」があります。

 写真不可なので画像はありませんが、薄暗い中にあるその絵の大きさと、反対にその細密さに、しばしその場で佇んでいました。

 ミケランジェロは若いころ、顔を殴打された際に鼻梁が曲がってしまい、そのコンプレックスが彼を創作に向かわせたとも言われています。

 その彼の最高傑作とは。ぜひとも見ておきたかったのです。

 初めて来た家族での海外という事もあり、独り旅と同じようには行きません。

 今回はコロッセオで終わりだなと歩いていると、ガイドブックがない。黄色の頼りになるヤツ「地球の歩き方」を、バスに忘れてしまったようなのです。

 すぐに次のバスに乗り、乗務員に私の怪しい英語で事情を説明しました。何とか通じたようで、営業所なのか、電話をしてくれました。

 横で待っていると、別の乗務員が営業所に持ち帰ってくれるとの事。ホッとしました。

 宿に帰ったのが夜の9時頃。こうして初ローマは終わったのです。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
■■■『大改造!!劇的ビフォーアフター』■■■ 7月8日(日)「匠」として出演しました

メディア掲載情報

一級建築士事務所 アトリエ m
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

バルセロナとガウディ

 先ほど関空に戻りました。

 旅の目的にあったのが、ガウディとスカルパ。少しガウディに触れてみたいと思います。

 アントニ・ガウディは1852年、銅器職人の子供として生まれました。16歳の時、建築を学ぶためバルセロナに移り住み、栄光の人生がスタートします。

 26歳の時、パトロンとなるグエルと出会い、その才能がいかんなく発揮されて行きます。3日間のバルセロナ滞在中出来る限り、作品を見て回りました。

 その建築は言わずと知れた有機的なフォルムが特徴です。しかしそれらが、構造的挑戦から生まれた過程を、見る事が出来ました。

 これらも、また整理したいと思います。私もそうですが、バルセロナにはガウディの建築を見るため、世界各国から多くの人が押し寄せます。

 ピカソ美術館、ミロ美術館、ガウディのライバルであった、ドメネク・モンタネールのカタルーニャ音楽堂、ミース・ファン・デル・ローエのバルセロナパビリオン等、見所は数あれど、やはり彼抜きには語れません。

 ガウディは73歳の時、この街の市電にひかれて亡くなります。しかし、その街で100年を超えてサグラダ・ファミリアは建築中という事実に、建築家、前川國男の言葉を重ねてみたくなります。

 「人は儚いものだから、せめて建築に永遠を求める」

 ヨーロッパの街並、通りの美しさが印象に残りました。しかし、私の仕事場は日本です。今日からまた、日々の葛藤が始まります。

 旅日記はまた追々。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
■■■『大改造!!劇的ビフォーアフター』■■■ 7月8日(日)「匠」として出演しました

メディア掲載情報

一級建築士事務所 アトリエ m
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

建築の詩人

 一昨日は、ヴェネティアから電車で1時間程のカステル・フランコという街へ。

 昨日はミラノへの道中にあるヴェローナで途中下車しました。ともに、カルロ・スカルパの作品があります。建築の詩人と言われるその建築とは。

 カステル・フランコ駅からバスで20分。

 郊外にある、ブリオン・ベガ(ブリオン家の墓)は、私が今までみた建造物のなかで最も詩的、かつ静寂をたたえ、美しいものでした。一時、偉大な先人との対話を楽しんだのです。

 ある人に「建物を見る楽しみがあって、旅が楽しそう」と言われた事があります。旅の目的は、知らない街を歩いてみたい、と自分との対話です。仕事を始めて、強くそう思うようになりました。

 一足先に妻の友人宅に来ていた家族とミラノで会い、友人家族に本当に親切にして貰いました。今から1人でスペインに向かい、翌朝にはバルセロナに入ります。

 あと4泊でこの旅も終わり。続きは、日本に戻ってからUPします。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
■■■『大改造!!劇的ビフォーアフター』■■■ 7月8日(日)「匠」として出演しました

メディア掲載情報

一級建築士事務所 アトリエ m
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

ヴェネティアより愛を込めて

 8月9日(木)の夜、ローマに着きました。

 翌日は朝から、パンテオン、ナヴォーナ広場、システィーナ礼拝堂等を回りました。翌朝、電車でフィレンツェへ。今朝はヴェネティアに移動してきました。子供たちにとって、私にとって、全ての風景が刺激的です。

 中でも、ヴェネティアの街並みには感動すら覚えました。

 ROMAをさかさまに読めばAMOR。「愛してる」です。しかし、愛をささやくなら、ヴェネティアのゴンドラの上に勝る所は無いかもしれません。

 明日からは妻、子供達と別行動です。少々心配ではありますが、1人スカルパの作品を見て回ります。

 これはこの旅のテーマのひとつ。

 次の木曜日は、ミラノからUPの予定です。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
■■■『大改造!!劇的ビフォーアフター』■■■ 7月8日(日)「匠」として出演しました

メディア掲載情報

一級建築士事務所 アトリエ m
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

ローマへ


 関空に来ました。

 今回は家族4人、皆で搭乗ゲートをくぐりました。

 目指すはローマ、フィウミチーノ空港。長男が2年生になり、娘が4歳になりました。

 娘がもう少し大きくなってからという気持ちもありましたが、果たして来年の夏にこの休みが取れるか。事務所の休みは明後日からですが、今日9日(木)から20(月)まで、休ませて貰う事にしました。

 ローマからイタリアを少しずつ北上し、まずはミラノを目指します。そこから私はバルセロナへ向かいます。

 旅の目的はいつも同じ。知らない街を歩いてみたい。

 子供と歩くローマ、フィレンチェ、ミラノとはどんなものなのか。今までとは違った期待もあります。

 この日記も現地で2度UPする予定。良ければまたのぞいて下さい。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
■■■『大改造!!劇的ビフォーアフター』■■■ 7月8日(日)「匠」として出演しました

メディア掲載情報

一級建築士事務所 アトリエ m
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

ある中2の女の子

 昨日、事務所を出ると物々しいヘコプターの騒音。

 見上げると、かなり低いところに5、6機は見えます。

 かなりの台数のパトカー、救急車、消防車が小学校の前に止まっています。
 
 校門の前には人だかりができ、レスキュー隊の姿も見えてただならぬ雰囲気。

 近くに居た警官に聞くと、食中毒があったとの事。

 騒然とした雰囲気でしたが、そこまでの被害ではかったようです。

 その程度と言えば当事者に失礼ですが、色々なことを想像したのでややほっとしたのです。

 小学生というのは社会的には弱者と言えます。よって、地域の住民も何かしら気にはなっているのです。

 ところが、中学校になるとがらっと雰囲気が変わると感じるのは私だけでしょうか。

 自宅の近くには地域の中学校があります。自転車通学は禁止されていますが、付近まで乗って来て乗り捨てていく学生もいます。

 新学期も落ち着き、この時期になると急に増えてくるのですが、もし現場を見たら呼び止め、注意します。反省をしていると感じたらそのまま帰します。そうでなければ中学校に連絡し、先生に引き渡します。

 数日前にこんな事がありました。

 ここのところ、数台の自転車が止まっているなと思っていました。夕方自宅に寄った際、数人の女子生徒が、その自転車に分乗して帰ろうとしていました。
 その場で呼び止め「ここに自転車を止めて、学校に行くのが、いい事か悪い事か分かっているね?」と聞きました。

 
 すると3台のうち1台の自転車は逃げて行ったので、他の1台のハンドルをつかみ、再度同じ質問をしました。名札には中学2年△組○○と書いてあります。見た目は2人とも普通の女の子。

 背の高い方の女の子は開き直った感じで「足に大けがをしているから、お母さんが乗って行きなさいと言った」と言います。

 もう1人の小さい方の女の子は「ところであなた誰ですか」と食ってかかってきました。その時は、すでに名札を胸ポケットに隠していました。

 「2人とも間違ってないと言うなら、自分の口で先生に説明してみなさい。その上で、もし僕が間違っていたなら、必ず謝るから」と言い、中学校に連絡しました。

 先生が来るまでの間「自分がしている事がかっこ良いと思うなら、その行動を貫いたらいい。ただ、名札を隠さないと、人に何か言えないなんて、かっこ悪くないか」と伝えました。

 大きい方の女の子は、体を斜に構えて、更に私を睨みつけてきます。こんなのを見ると、法治国家って、本当に良いもんなんだろうか、とも思いますが。

 小さいほうの女の子はやや反省している様子だったので「もし間違っていると分るなら、謝るべきじゃない。犯罪を犯した訳じゃないから、反省してくれればそれでいい。今やってる事はかっこ悪い。もし目立ちたいなら、もっとほかの事で頑張れば」と言いました。

 少し経って、小さい方の女の子は「すいませんでした」と謝ってくれました。

 先生達が数人で来たので、ありのまま話しました。背の高いほうの女の子は、最後まで斜に構えたままでしたが。

 自分が褒められた中学生だった訳でもありません。また、小さい子は良くて、大きな子は駄目だったという問題でもありません。

 今、間違っていると思った事を言わない、見ていないふりをするのは、性に合わないのです。

 子供だけでなく、人は自分の意思と環境によって成長していきます。環境には、街に住む人々の態度も含まれていると思うのです。

 正義漢振るつもりはありませんが、こちらが真剣であれば、必ず分かってくれると思います。勿時々中学生と接し、実感としてそう思います。

 「人生って、総懺悔でしょ」と言っている人がいました。感覚的にはそんな感じです。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
■■■『大改造!!劇的ビフォーアフター』■■■ 
7月8日(日) 7:58pmから8:54pm
「匠」として出演します

名は体を表す

 昨日は、ASJの建築家展に参加していました。
 

 会場は、和泉佐野市役所すぐ南にある泉の森ホール。

 泉佐野市は、今朝の新聞でもネーミングライツ問題で取り上げられていました。

 「時の市」とも言えるでしょうか。

 土地の名前、読み方、漢字などは、その変遷やストーリーに意味があるもの。

 今、財政難だから名前を売ります等、あり得ない話です。

 ヨーロッパのサッカーチームや、メジャーリーグのように、日本の野球やサッカーのチーム名から、企業名を外してはという論議まである中、完全に倫理観が逆行していると感じます。

 話題だけでも注目度が上がったという評価が、正しい経営をしている市町村の評価がを上回るなら、誰が真面目に仕事をするのでしょう。

 この件は賛否のレベルではない気がするのです。

 さて。建築家展は今回で4回目。

 大分慣れてきました。

 しかし慣れた時が何とかで、この日はあまり当事務所のブースに人が止まりませんでした。

 やや課題が残りました。

 森の泉ホールでも、キンシバイが咲き始めていました。

 この花は公共建築物にもよく植わっています。

 公共建築物に植わっているという事は、比較的タフで、手間がかからず、金額もそこそこという事です。

 そういった花は総じて葉が分厚く、風にそよぐというタイプではありません。

 好みと言ってしまえばそれまでですが、その中で、キンシバイは一際目をひきます。花弁の色が鮮やかで、初夏の訪れを伝えてくれる花。

 ただし、見ごろが過ぎれば、次は梅雨がやってきます。

 キンシバイはおしべが金の糸のように見えることと、梅ににている事からその名がつきました。

 名は体を表す、です。

 京都が財政難になったとして、ニンテインドウ京都市を名乗ったら、古都めぐり気分は台無しです。

 関空が、世界とつながる窓口だという事も含めて、泉佐野の市長はよく考えたほうが良いと思うのです。