カテゴリー別アーカイブ: 04 建築

生きてこそ‐1264‐

 神戸市役所、三宮駅を貫くのがフラワーロード。

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 ネーミングの理由は聞いてみたい気もしますが、文字通り神戸の目貫通りです。

 新緑がまぶしい季節になりました。

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 南東にある、貿易センター駅で降りると、目の前にあるのが神戸サンボーホール。

 1995年の震災の際、神戸市役所は、ワンフロアが完全に崩壊するなどの被害を受けました。

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 震災直後、仮の庁舎となったのがこの神戸サンボーホールでした。

 現在は民間でも受付可能ですが、当時は市役所でのみ建築確認が可能でした。

 市役所の人がいたら申し訳ありませんが、神戸市に限らず、建築確認申請を受け持つ部署は、一様に愛想がわるかったものです。

 こちらの知識がおぼつかなかった事もありますが、若い頃はいじめられた記憶しかありません。

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 しかし、震災後は全く違う雰囲気でした。

 官民とも「どんどん建物を供給しなければならない」という雰囲気が充満し、初めて役所と一体感を感じて仕事をしていました。

 熱に満ちたサンボーホール2階の景色を、今でも覚えています。初めて、仕事で人の役に立ったと実感できた時だったかもしれません。

 2軒目の設計事務所に勤め、ハウスメーカーの孫請け仕事をしていた、25歳の頃のことです。

 当時は建物を見る余裕もありませんでしたが、ピロティーによって持ち上げられたプランは、コルビュジエ、前川國男の影響が感じられます。

 1969年、日建設計の仕事ですが、震度7に無傷で耐えた強者だったのです。

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 海岸通りを西に向かうと旧居留地街。

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 更に西へ行くと、巨匠フランク・O・ゲーリー設計のフィッシュダンスがあります。

 右にある建物も彼の設計です。

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 外膜はチェーンリンクメッシュで製作されています。

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 先日、新国立競技場のコンペで話題になった、ザハ・ハディドが亡くなったというニュースがありました。

 そのデザインが奇抜過ぎるが故、という話ばかり出てきますが、フランク・O・ゲーリーこそ、自由な形態の先駆者と言って良いでしょう。

 ゲーリー、ザハ、とも3Dコンピューター技術の発達によって、その表現を手に入れて行ったのです。

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 南西には神戸ポートタワー。

 こちらも日建設計のデザインで、1963年の完成とありました。

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 50年前に、この形態を実現していたことを考えると、日本の技術、美意識をもっと誇って良いかもしれません。

 当初は銀色のイメージだったという記述もあり、シルバーバージョンも是非見てみたいもの。

 細く、軽く、本当に美しい建築です。

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 阪神高速京橋出口あたりに、崩壊した橋脚が保存されていました。

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 同じく橋を支える部材はせん断破壊されていました。

 6千人もの命を奪った自然の力が形として残っているのです。

 「一番大切なものは命」だと、子供には繰り返し、繰り返し伝えています。この優先順位は誰にとっても変わることはありません。

 人生の夏を謳歌していただろうザハが亡くなったと聞き、より思います。生きてこそだと。

  ただ生き ただ死す

  ただの二文字に

  一切が輝き

  ただの二文字に

  万有が光る

  坂村真民

 命の始まりも、命の終わりも、自分で決めることは出来ません。

 ただというひたむきが、輝き、光るのです。

さよならだけが人生さ‐1263‐

 関西の桜もほぼ終わり。

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 先週木曜日は雨風が強く、一気に散ってしまった感があります。

 唐の詩人、于武陵の五言絶句を、井伏鱒二はこう訳しました。

 花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生さ

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 その日、 同業の友人と、梅田で飲んでいました。時々声を掛けてくれる有り難い仲間です。

 店は、概ね東通り商店街のミュンヘン。

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 時々行くビアホールは楽しみでしたが、さよならすることにしました。

 私は、酒癖が悪いほうではありません。概ね楽しい酒だと思っています。自称ですが。

 しかし、上手く合わせるというのは極めて苦手です。納得できないことに「うん」と言う事はありません。

 人はそれぞれとも言えますが、それを理解した上で、進歩なり、発展の方向を向き、何らかの合意を探さなければ、酒を酌み交わす理由はないと思っています。

 若い頃は、我慢して(つもりで)、その席に留まっていましたが、ある時気づきました。帰れば良いのだと。

 お代だけ置いておけば、我慢してまで、私に居て欲しい人など居るはずもありません。40歳になるまで、それが分からなかったのです。

 その日も、どうも空気が違うなと思い、中座しようと思ったのです「まあ、そう言わんと」に、甘えたのが悪かった。

 一度帰るという意思表示をしたら、必ず帰らなければなりません。そこから、空気が変わることは無いのです。

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 SEIUNDOのオープニングレセプションの3日前、セブン・ドリーマーズの社長、阪根がNew Officeにやってきました。

 商談で来阪中でしたが、その日は、パナソニックと大和ハウスと共同出資した「セブン・ドリーマーズ・ランドロイド社」設立の報道があったばかり。

 昨秋発表した、自動洗濯物折り畳み機を製作する会社です。

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 土佐堀川をのぞむイタリアンで遅くまで飲んでいました。

 彼も間違いなく結果を出し続けている友人の一人です。勿論、誰よりも努力をしているからこその結果です。

 ソチオリンピックの銀メダリスト・葛西紀明は「僕は誰より負けず嫌いだから、良いと思ったことはすぐ取り入れる。相手が若いとか、そんなことは関係ありません」と。

 40歳を過ぎ、レジェンドと呼ばれ、10代、20代のトップアスリートと互角に戦える秘訣がここあるのです。

 折角働くなら最高の仕事をしたい。クライアントもそれを求めているのですから。

 私達に残された時間は、間違いなく有限です。上手くやっている時間は正直ないのです。

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 人生には、得るものも、失うものもあって当たり前。

 不愉快な思いをさせたなら、そこは詫びなけらばなりません。

 しかし、 さよならだけが人生なのです。

航海への約束‐1261‐

 4月2日(土)はSEIUNDOのオープニングレセプションでした。

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 アクアライナーを貸し切ってのお花見クルーズとミニ内覧会ですが、出港は大阪城前。

 大川沿いの桜はまさに満開でした。

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 当社のスタッフもこれに便乗。

 マルコの彼女とは1年以上会っておらず、その怠慢も反省します。

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 周りの支えがあってこそ、現在がある訳ですから。

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 水面に近い窓からの景色は、見慣れた大阪とは全く違うもの。

 池のほとりにある家を設計させて貰ったことがありますが、水面というものは、全く飽きないのです。

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 土佐堀川を通過する際、New Officeの入る「北浜一丁目平和ビル」を水上から見上げるという趣向。

 粋な、お花見クルーズでした。

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 その後はミニ内覧会。

 設計のコンセプトを説明する時間も貰いました。

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 しかし、一番の目的は、社員さんのご家族に、この空間を体感して頂くこと。

 お父さんの職場で、子供さんと遊ぶ姿は、なんとも微笑ましいものでした。

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 内覧会後、社内の懇親会にも参加させて貰いました。

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 更に、私達に花束まで。

 申し訳ない程ですが、普段、私を支えてくれるスタッフに感謝します。

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 北浜の夕暮れ。この日のイベントが全て終了しました。

 現在も、素晴らしい業績を残すSEIUNDOですが、5年先、10年先の景色を描き、この空間を設計したつもりです。

 本田宗一郎は「機械は人の上に立ってはいけない」と言います。勿論、建築も同じ。

 建築は、誰かを幸せにする為だけにあるもの。活かし、育てて貰えたらと思うのです。

 会社を船に例えるなら、日々の仕事は航海です。航海には凪の日もあれば、嵐の日もあります。

 船長の役割は、どんなことが起こっても、クルーの命を守り、その航海を成功させることです。

 社長の田畑さんとは、この後3軒ほど周りました。

 共に肝に銘じ、祝杯をあげたのです。

朝焼けの中で‐1259‐

 日曜日の日の出は5:52am。

 5:00amに、カメラマンとSEIUNDO のnew offceで待ち合わせていました。竣工写真の撮影だったのです。

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 中央がクリスタルタワー。

 OBPのビル群から朝日が昇ってきました。

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 セブンドリーマーズの3店舗に続き、カメラマンは、ナカサ&パートナーズの安田さん

 今回も東京からの来阪です。

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 土曜日の日中は東京での撮影で、飛行機、レンタカーと乗り継ぎ、8:00pmに現場到着。

 そのまま深夜0:00amまで夜景の撮影をしました。

 大阪は折からの観光ブーム。ホテルが取れずネットカフェで2時間仮眠をしただけでの早朝出勤でした。

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 建築写真は、明るい外部と、暗い内部を一緒に撮る為、光の入り方が大きく影響を与えます。

 薄暮や、明け方しか撮れない写真があるのです。

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 太陽が昇りだすと、朝日独特の黄色い光が、室内に入り始めます。

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 そうなると撮影は一旦待機。

太陽が昇り切る8:00am頃まで待たなければなりません。

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 これだけ片付いた状態で撮影が出来るのは、このタイミングだけ。

 よって失敗は許されません。

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 私達も、全ての撮影に立ち会いましたが、本当に大変な仕事です。

 しかし、それ故プロの仕事。

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 8:00amには、SEIUNDOの社員さんにも入って貰い、人物ありカットの撮影がスタート。

 立ち位置にもこまやかな指示が出ます。

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 10:00amまで5時間撮影しました。2日間に渡り、14時間中9時間一緒に仕事をしました。

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 3月27日(日)はSEIUNDOの引っ越しの日。それを10:00amまで待って貰い、ぎりぎりの撮影でした。

 撮影が終わると同時に、引っ越しが開始されました。

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 私も家に帰ると、そのまま泥のように眠りました。そして、夜はささやかな焼肉パーティー。

 大変だけが充実を生むというこの真理。またささやかな幸せがあれば満たされるというのもまた事実。

 このハードスケジュールにも関わらず、日曜日6:00pmに安田さんから仮画像が送られてきました。

 素晴らしい内容で全カット購入。納品が楽しみです。

 自分が一番頑張っていると思いたいのもまた真理。しかし、頑張っている人は、本当に沢山居るものです。

曲がったことが大嫌い‐1258‐

 昨日、フジテレビの『みんなのニュース』「灘の高台の家」が紹介されました。

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 今回も、放送後の報告ですが、こちらの住宅は、神戸の高台にある一戸建て。

 築24年の中古物件をフルリノベーションしました。

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 ディレクターから、「高断熱」「お得感のあるリノベーション」の情報が欲しいと連絡がありました。

 そしてピックアップしたのがこの住宅。

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 こちらのクライアントは、共に30代前半。

 22日(火)の夕方「工事費用も出るのですが、写真をテレビに出しても大丈夫ですか」と問うと、その日の内に快くOKの返事を貰いました。

 残念ながら関東ローカル枠での放送で、関西圏では見ることが出来ません。

 しかし、丁度一ヵ月前に2月23日「松虫の長屋」を紹介して貰ったので、2ケ月連続です。

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 また、3月22日発売の『関西ウォーカー別冊付録<大阪ライフウォーカー>』に「住之江の元長屋」が紹介されました。
 
 大阪の暮らしを再発見!とある通り、大阪をアピールする別冊です。その中の「仕事・住まい」のページで取り上げて貰いました。 

 こちらは、写真1枚のみですが、2013年、大阪住まいのリフォーム・リノベーションコンクールで戸建て部門、最優秀賞を貰った縁で、大阪府庁の方から連絡を貰いました。

 テレビや雑誌というメディアも、結局判断するのは人なのです。

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 初めて作品をテレビで紹介して貰ったのは、2004年の「平野西の家」です。

 また、初めてテレビに出演させて貰ったのは2008年。フジテレビの夕方の帯番組、安藤優子がメインキャスターを務める「スーパーニュース」内の特集でした。

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 「境内の中の家」を建てる過程を200日に渡って、密着取材して貰ったのです。

 そのディレクターが、現在「みんなのニュース」のディレククターをしており、その縁でのオファーなのです。

 作品を発表し、メディアに取り上げて貰うのは、1つの目標ですが、それには大きな理由があります。
 
 2013年の年末、2年程登録していた建築家プロデュース会社から脱退しました。

 「建築家との家づくりは、こんなに楽しい」ということを、色々な会場で説明するのが私達の役割です。

 家を建てたいという人と出会い、お互いが求め合えば計画は進んで行きます。

 しかし、その会場は準備して貰ったもの。この世にただはないので、その対価を支払う必要があります。それは、互いが納得すれば問題ありません。

 所属していた期間は、オファーがあれば何とか都合をつけて出来る限り参加し、全力を尽くしたつもりです。

 色々な地域で、そのような催しに参加させて貰い、また、他の建築家と話す機会もあり、とても勉強になりました。

 しかし、中には「仕事を与えてやっている」感が前面に出ている人もいて、違和感を感じ始めていた頃でした。
 
 そんな中、どうしても納得できないことがあり、辞めることにしたのですが、その経緯はここでは書きません。

 後日、その会社の営業が当社にやってきました。

 あまりにも上からものを言うので「ここは神聖な仕事場だ。これ以上好き勝手な事を言うなら、出て行って貰う」と言いました。

 すると「人を汚い物みたいに。一個人事業主に、そんな事は言われたくない」と彼は私に言いました。

 2週間くらい頭に来ていました。この時ほど、早く法人化しておくべきだったと悔やんだことはありません。

 未だに、そんな扱いをされるステージに居る自分が悪いと言い聞かせ、その怒りをねじふせたのです。

 それまでも、直接のオファーを貰っ仕事だけでやって来ました。いくらかでも、敬意を持ってくれる人とのみ仕事をしてきた私からすれば、あり得ない扱いでした。

 私達の仕事は、安定感の無い仕事です。1年くらい先までの仕事は決まっていますが、ずっとオファーがある保証はありません。それ故、少しでも間口を広げるべきという考えも正です。

 しかし、毎回の仕事を、一期一会の精神で取り組み、そのストーリーを世に伝えることこそが、私の生きる道だと確信しました。

 今、心の中で思っている事を、そのまま発言できないような生き方は辞めようと思ったのです。

 この高度情報化社会では、機会(情報)を多く持っている人が勝ちという側面があります。更に、額に汗して働いている人より、マージン商売をしている人のほうが、優秀という風潮さえあります。

 しかし、そんな世の中で、誰が真面目に努力を続けられるでしょうか。

 自由に生き、正しいと思う道を進みたい。それには、誰にも頼らない生き方をしなければなりません。

 納得できなきことは絶対やりたくない。曲がったことが大嫌いなのです。

テラスにワン友が集まる、帰りたくなる家‐1257‐

 3月19日(土)発売、「住まいの設計05・06月号」に「滋賀の家」が掲載されました。

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 左下にある「イヌと暮らす家&ネコと暮らす家」の特集内です。

 撮影については一度UPしましたが、ここへの掲載を控えていた写真が結構あります。

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 掲載写真と被るのは勿論NG。誌面を構成する為に東京から3人も来るのですから。

 カメラマンも、何度もアングルをチェックします。

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 誌面には、愛犬チロルが地窓から外を見る写真があります。

 目線の先は写っていませんが、種を明かせば、寒い中をご主人が呼んでくれていました。

 良い写真を撮るには、色々苦労があるのです。

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 2階のセカンドバルコニーから見る土塁の景色こそが、この家ならでは写真。

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 そこから見下ろす写真は、誌面にありませんでした。

 よって、ここに掲載します。

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 「テラスにワン友が集まる、ドッグカフェのような家」がこの家のタイトル。初めは「イヌ友」となっていました。

 しかし、奥さんから愛犬家はペットを家族だと思っているので「イヌ友」とは呼ばず「ワン友」というと教えてもらい、こうなったのです。

 その奥さんから「守谷さんって、ペットに興味ないですよね」と言われました。理由を聞くと「チロちゃんが、足元に来てかまって欲しいと言っても、気付いてないもの」と。

 なるほど。

 嫌いでも、興味がない訳でもなく、クライアントの方意識が行っていただけなのですが。言い訳か……

 愛犬家の人ほど、ペットの気持ちが分かることはありません。しかし、どんな暮らしを求めているかを教えて貰えば、答えを見つけることは出来ると思っています。

 建築設計とは、人間学だと思っていましたが、生物学だったのです。

 春には、もう一人のワンちゃんがやってくるよう。

 ペットを飼っている人も、そうでない人も良ければ手にとってみて下さい。

 いくらワン友が集っても、帰りたくない家では意味がありません。仕事において、最も大切なことが、意外に繰り返されないことは良くあることです。

例えるなら‐1256‐

 昨日、生駒山から太陽が頭を出したのは6時22分。

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 歳と共に早起きになると言いますが、今のところ私は6時で目一杯です。

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 生駒つながりで、北浜にある生駒ビルヂングです。

 火曜日、SEIUNDOの現場へ行った際、前を通りました。

 昭和5年、1930年の完成で、北浜界隈に残る、近代建築の一つ。詳しくは生駒時計店のwebサイトを。

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 スクラッチタイルで覆われた鉄筋コンクリート造の建物ですが「生」の字が、遊び心を感じさせます。

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 丸窓や、鷲の彫刻が施されており、多くの手、お金が掛かった建築なのです。

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 南よりにある縦長の開口部は、振り子をイメージしたものだそう。直喩の表現です。

 2月中旬、写真家に撮りなおして貰った「宝塚の家」の写真が上がってきました。

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 生駒ビルヂングを絵画に例えると、王宮絵画の流れを引く、古典主義といった所でしょうか。

 一方、宝塚の家は抽象画。

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 料理で言うなら、日本料理の刺身のイメージ。最小の手数で、素材を引き出したいと思っているのです。

 対して、生駒ビルヂングはフレンチのフルコースか。

 例えとは、互いが理解できる共通項を見つけ出し、そのジャンルに置き換えることです。食べない人は居ないので「料理」はとても重宝するのです。

 先日、レンタルDVD店へ行くと、キャッシャーでいきなり「磨きますか?」と尋ねられました。あまりに唐突だったので「何故磨くの?」と聞いてみました。

 25歳くらい若者は、慌てる風もなく、「キズが付いているのが嫌な人も居るので」と言います。私は、「キズが付いていても、観れれば嫌じゃないよ」と答えたのです。

 アルバイト(社員?)の若者に問う必要があったのかは分かりませんが、この応対に何の指導もなく、彼は報酬を得ます。

 日本の未来に、多少の杞憂を感じのは、ある程度の歳になったからでしょうか。

 「何故?」がなければ、全ては暗記するだけになります。そして間違います。ましてや、伝えたいといく気持ちが無ければ、比喩など全く不要です。

 トーマス・エジソンは小さい頃「何故?」を連発し、大人を大変困らせたそうです。立派なプロになるのに、難しいロジックなど要らないと思っているのです。

ワイリー・コヨーテも取材仕様‐1253‐

 虫も這いだす啓蟄も過ぎ。大阪は20℃を超えました。

 昨日は 、朝から「住まいの設計」の取材でした。

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 1月にも取材して貰った、同じチームが東京から来阪してくれました。

 「阿倍野の長屋」と「滋賀の家」は、環境で言えば、対極にあるような家です。まずは、外観から撮影スタート。

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 四軒長屋の中央二軒をフルリノベーションしたこの住宅。

 延べ面積は約113㎡(34坪)。決して小さな家ではありません。

 しかし、ご家族5名、取材チーム3名、当社から3名となると、なかなかの人口密度です。

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 ロフトで、弟に紙芝居をする7歳のお兄ちゃん。

 少し見ない間に、随分大きくなっていました。

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 4歳の次男君。まだまだ甘えたい盛りです。

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 2人とも、一日協力してくれました。

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 家の歴史を、最も知っているのはご主人のお母さんです。

 ライターからのインタビュー中。

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 撮影が終わり、写真をチェックする様子を見ていると、上手くいったのだと想像できます。

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 リビングの飾り棚にあるワイリーコヨーテは、ご主人お気に入りのフィギアです。

 設計段階から寸法をとり、ここに収まると決まっていました。この日は、ハンマーを持つ取材バージョンです。

 奥さんに内緒で購入し、撮影が始まる前、こっそり右手に持たせたそうです。

 撮影が終わってから、それを明かすご主人。結構な値段と聞き、怒り、笑う奥さん。

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 帰り際、自転車の練習を始めた次男君。

 この日、初めて補助なしで、町内を一周出来ました。

 取材や撮影が、家族の時別な一コマになってくれたら、尚嬉しいと思っています。
 
 明石家さんまも、ワイリーコヨーテの収集家だそうです。

 内弟子時代、師の笑福亭松之助から「どや、さんま。掃除はオモロイか」と問われ「面白くないです」と答えました。

 すると「そやろ。それをどうやったらオモロク出来るか、考えるのがお前の仕事や」と言われたそうです。

 明石家さんまは、この事を18歳の時に教えて貰えて良かったと語っていました。

 ありふれた日常を、特別なものにするのは、やはり楽しむ姿勢以外にありません。

1970年のこんにちは‐1252‐

梅が終わり、桃が咲き始めたら春の足音は更に大きく。

3月3日、今日は桃の節句です。

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日曜日は、万博公園にも寄りました。

過去、現在、未来を貫き、吹き上げるエネルギーを表現したのが太陽の塔。上部の顔が「未来」、中央が「現代」を表します。

この「現代」の顔は、セブンドリーマーズのグループ会社、スーパーレジン工業が、岡本太郎と共同で制作したものです。

岡本太郎はコンクリートで作ることを希望しましたが、技術的に難しいことが分かりました。

スーパーレジン工業が協力し、樹脂で作られることになったのです。レジンとは樹脂という意味。

太陽の塔は、アートと技術の結晶でした。

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開催時、丹下健三設計の大屋根の中に塔はありました。

しかし、その記憶の無い私には今の姿がしっくりきます。

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公園内に唯一現存するパビリオンは「鉄鋼館」。「EXPO’70パビリオン」として2010年にリニューアルオープンしています。

設計は、京都文化会館などで知られる前川國男。

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エントランス前には、エキスポタワーのパーツが展示されていました。

こちらは、メタボリズムの体現者、菊竹清訓の設計です。

1990年まで、登ることが出来たようで、行っていないことに悔いが残ります。

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「EXPO’70パビリオン」のホワイエは、前川らしい広い階段と、レンガで構成されています。

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当時、館内のスペースシアターでは、音楽と照明によるスペクタクルショーが繰り広げられていたそう。

この日は、小澤征爾の楽曲が流れていました。

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1970年頃と言えば、サイケ(サイケデリック)ブーム。

これが当時の最先端ファッションでした。

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館内のデザインも、当時の気分を反映するようリニューアルしたのでしょうか。

これは前川のデザインではないのは明らかですが。

万博は、芸術家、技術者、建築家、音楽家、そして来場者にとっても、華やかな表現の場だったのです。

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初めての著書を年末に出版するため、執筆も進めています。

自らの生い立ちに触れる際、1970年に生まれた事は、自分の人生に様々な影響を与えていると感じます。

70年代の高度経済成長期に幼少時代を過ごし、80年代後半のバブル経済とその破たんを体感。そして90年代に創業と、様々な時代の気分を見てきました。

1970年と言えば、戦後25年。この歳になり、ようやくその時間軸が理解できるようになりました。

敗戦後、1964年東京オリンピック、1970年万博と、先人の頑張りのお陰で、豊かな時代を過ごさせて貰っていたのです。

自分の意思や能力を片輪とするなら、もう片輪は環境、言い換えれば時代の気分です。この両輪がかみ合った時、初めて前に進めます。

いくらカーレーサーになりたくても、車がなければなれないからです。

万博のテーマ曲にある「1970年のこんにちは」という歌詞。作詞は島田陽子さんでした。

自分の為に時代があるはずもなく、「こんにちは」と私達がお邪魔している。人も時代の産物なのだと思います。

時代の気分を凍らせたものが建築なら、更に、遣り甲斐と責任を感じるのです。

メディアにのる‐1250‐

 昨秋、全自動洗濯物折り畳み機を発表したセブンドリーマーズ

 先週土曜日には、ジャンボこと尾崎将司選手との契約を発表。 社長、阪根との2ショットもYahooニュースに掲載されました。

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 芝公園ラボで試打させて貰いましたが、久し振りの私で270ヤード。尾崎選手なら370ヤードは飛ぶはずです。

 「宇宙工学だよ。飛ばないわけがない」のコメントが全て。

 69歳にして、レギュラーツアーを目標にしている、ジャンボ尾崎選手に注目せざる得ません。

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 23日(火)の夕方、テレビ大阪のニュースでは、梅田ラボも紹介されていたよう。

 すでに、メディアが放っておかない存在になっていると言う事です。

 負けていられないと、同じく23日(火)、フジテレビ『みんなのニュース』で「阿倍野の長屋」が紹介されました。

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 「リノベーションの特集があるので」と、ディレクターから連絡を貰ったのが22日の月曜日。

 翌23日に「阿倍野の長屋」で行きたいと再度連絡がありました。金額の露出もあるので、クライアントに相談すると快くOK。

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 本家・ビフォーアフターのテーマに乗せて、3枚の画像を紹介して貰いました。

 コメンテーターが、「この作品を手掛けた、守谷(もりや)さんによると、リノベーションは新築の8割程の価格」と私のコメントも紹介して貰いました。

 名前の読み違いはご愛敬ですが、ディレクターも「ばっちりでした」と喜んでくれました。

 資料を送ってから放送までは3時間。テレビはいつも時間がタイトなのです。

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 また、2月20日発売の『月刊ハウジング4月号』には「滋賀の家」が掲載されました。

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 「好きな間取り」という特集記事の、第1位が「対面式キッチン」。その実例として紹介です。

 このコーナーの中では、一番大きな扱いでした。

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 私が撮った、奥さんが料理をするカットとパントリーのカットも一緒に掲載。

 家を建てたいと思っている人が、どんな風景を見たいのか。それはいつも考えています。

 クライアントで、メディアに載ることが好きな人は極僅かです。

 それでも、出てくれるのは、アトリエmの役に立つのならという気持ち以外にないはず。

 そう考えると、私が最も誇れる商品は、クライアントとの関係なのです。

 「滋賀の家」に続いて「阿倍野の長屋」の取材も決まりました。

 お世辞を言う訳でもない私と、長い時間を掛けて建築を創り上げる。そして、最後はメディアにまで出て貰う。

 本当に有り難いことだと、つくづく思います。

 多く選択肢から選ばれるには、常に全力の総力戦です。その中に、クライアントが入っているのが味噌なのです。