太子が眠る王陵の谷‐1174‐ 

 久し振りに友人の墓参りに行って来ました。

 墓石を見ると亡くなったのは17年前。私の記憶は3年ずれていました。なかなか友達が出来ない訳です。

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 霊園は羽曳野の山手にありますが、園内には古墳があります。

 古代からこの地域は、墓地として最高の場所だったようです。

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 カーナビを見ると、少し南に推古天皇陵、小野妹子の墓がありました。

 推古天皇は、聖徳太子の母だったか。このあたりは太子町になるようです。

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 行ってみると、推古天皇陵は宮内庁管轄とありました。

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 小野妹子廟は科長神社の中に。

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 質素と言えばよいのか、巨大と言えば良いのか。

 木々と共に墓となるのが、日本の民族性でしょう。

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 近くに、竹内街道歴史資料館があると知り、寄ってみました。

 元、社会の教師だったという副館長が、このあたりの歴史をレクチャーしてくれました。これがなかなか面白かった。

 この時代の基礎知識としては、以下の3つ。

・603年 初の女性天皇、推古天皇は初の官位制を取り入れた。
・604年 甥の聖徳太子を摂政とし、初の憲法をつくった。
・607年、小野妹子が遣隋使として派遣された。

 更にその前後、また、国の起こりにまで話を広げてくれました。

・8世紀に編纂された古事記、日本書紀には、初代神武天皇(前660–前585)から9代までの記述があるが、10代崇神天皇(前97–前29)からは、史実の裏づけもある。

 知識として知っているつもりでしたが、皇室が2700年も紡がれていたことが、もうひとつ分って居なかったのです。

 聖徳太子が皇族であるということも。

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 近くの叡福寺に聖徳太子廟があると聞き、日が暮れる前にと寄ってきました。

 明治には石室にまで入れたらしく、富岡鉄斎のスケッチもあるそうです。

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 冠位十二制度は、確か色で区分けされていたはずです。

 紫が最上位だったでしょうか。菖蒲の姿がそのきっかけになったのかもしれません。

 推古天皇によって整備された大道(のちの竹内街道)が置かれました。

 遣隋使として知られる小野妹子はこの道を通って遠く大陸をめざし、また大陸からはるばるやって来た使者たちは逆にこの道を通って都のあった飛鳥へ向かったのでしょう。

 この頃、大和の飛鳥が“遠つ飛鳥”と呼ばれたのに対し、太子町周辺は“近つ飛鳥”と呼ばれ、町内には数多くの天皇・皇族クラスの古墳が築造されました。

 太子町一帯が「王陵の谷」と呼ばれる由縁です。

 大阪府南河内郡太子町のwebサイトより

 政治は斑鳩の里で行われたのですが、廟はここにと、生前から太子が決めていたそうです。

 何より、太子町の太子は聖徳太子を指すことがまったく分っていませんでしした。

 もう少し言えば、太子の墓があるが故、太子町なのです。改めてその偉大さを知りました。

 全てが事実かは別にしても、フェアを日本に持ち込んだ、推古天皇と聖徳太子。国際化の扉を開いた小野妹子。

 彼らが居なければ、また違った日本になっていたかもしれません。

 石器時代から、古墳時代まで、なぜこの地が日本の中心だったのか。この話がとても面白かったのですが、また回を改めます。

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