司馬遼太郎を訪ねて

 昨日、東大阪市にある司馬遼太郎記念館に行ってきました。

 司馬作品は中学生の頃からよく読んでいました。確か一番初めに読んだのは「国盗り物語」だったと思います。またあんな小説に出会ってみたいと願うのです。

 司馬遼太郎氏は1996年に72歳で逝去されました。記念館は生前暮らした自宅に隣接して建っており、自宅の玄関が記念館の入口を兼ねています。表札は直筆だそうです。

 書斎は亡くなった当時のままにされています。庭に面しており、これ言った趣味の無い司馬さんは執筆以外の時も、庭を眺めながらここで読書をしていたそうです。


 
 書斎の前を通りすぎ記念館へ。安藤忠雄氏の設計ですが、内部は撮影禁止でした。

 司馬遼太郎、本名、福田定一少年は幼少期を奈良県の當麻町で過ごします。ここには大阪と奈良を結ぶため古くから残る、竹内街道が通っていました。

 庭からは、石器時代の矢尻がごろごろと出てくるような所で、収集するのが楽しみだったそうです。そういった体験が福田少年に自然や歴史にたいする憧憬を抱かせるのです。

 青年期には第二次世界大戦が勃発します。18歳で学徒動員されますが、終戦を栃木県の地で迎えます。この戦争での経験が作家としての人生を決定付けるのです。

 召集を受け、一旦は死さえ覚悟した福田青年は、戦争が劣勢になってくると理不尽な場面に出くわします。本土決戦を前にした日本の軍部は、命をかけて国民を守るどころか、最終的に自らの保身を優先するような命令を下すのです。

 その時に彼は「日本人というのは、こんな国民だったのか。いやそうではかったはずだ。戦国時代は、江戸時代は、せめて明治時代以前はそうではなかった・・・・・・」と憤ります。

 それから日本が少しでも良くなればと、戦国時代、江戸、幕末の志士を描くことになるのです。坂本竜馬に思いを込めて・・・・・・

 映像資料の中で、亡くなる9日前のインタビューが流れました。そこでも彼は、日本の未来を憂いています。「このままでは、日本という国はなくなってしまう」と。

 風貌から穏やかな好々爺を想像していましたが、映像の中の姿は全く違いました。日本を代表する叡智は、日本をなんとかしたいと・・・・・・という気持ちで創作を続けていたのです。

 書斎から眺めた雑木林のような庭では、氏の愛した菜の花が満開でした。

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